◆E・ミルグラム「マードック『実存主義者と神秘主義者』書評」
・http://bostonreview.net/BR23.1/millgram.html
マードックの小説を読んだ経験は皆無なので、ここでの論評の是非についても自分では判断を保留するしかないのだが(しかしなぜか自分の中では、マードックの小説というのは「丸谷才一的なもの」と二重写しになっている)、たぶんそうなんじゃないのかなーと感じさせられる所はある。
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◆E・ミルグラム「マードック『実存主義者と神秘主義者』書評」
・http://bostonreview.net/BR23.1/millgram.html
マードックの小説を読んだ経験は皆無なので、ここでの論評の是非についても自分では判断を保留するしかないのだが(しかしなぜか自分の中では、マードックの小説というのは「丸谷才一的なもの」と二重写しになっている)、たぶんそうなんじゃないのかなーと感じさせられる所はある。
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◆Crary
・Alice Crary, Beyond Moral Judgment (HUP, 2007)
全三部のうち、第1部と第3部をざっと一読しただけ。
『道徳的判断を超えて』という表題には、倫理学の対象である道徳的思考をもっぱら道徳的判断(道徳的と呼ばれる特殊な主題に関する判断、道徳的と称される特殊な概念を含んだ判断)の形成という枠内でしか考えない伝統的アプローチへの批判が込められている。そうした判断中心の倫理学観は哲学的にも倫理的にも問題含みであり、むしろ倫理学は「道徳的判断」の枠を超えて、言語的な存在者としての人々の生の形を支えているsensibilitiesの総体――それは特に「道徳的」と見なされることのない様々な言明を通じて表現される――を視野に入れるべきである、と。
メインストリームの倫理学とはかなり肌合いを異にするこうした考え方の源泉として、クレーリーはアイリス・マードック、カヴェル、コーラ・ダイアモンドという三人の哲学者の名を挙げている。
以下は第1部についてのみ、ちょっとメモ。
“Argument”と題された第1部は、本書全体を支える原理論的な位置付けを与えられていると思われるけれども、実のところこの部分での議論は(この第1部での三つの章の内で)第1章にほぼ集約されているように見える。(言い換えれば、後続の章で議論の深化はあまり見られない。)
第1章“Wider Possibilities for Moral Thought"は、二つの論点を中心に展開されている。
(1)客観性概念についての「狭い見方」を斥けること。
ここで言う「狭い見方」とは、「認識における客観性に到達するためには、われわれに偶然的に与えられた主観的な偏差や逸脱の一切を捨象した絶対的な視点――どこからでもない視点――に立つ必要がある」という要請(クレーリーは「捨象要請 Abstraction requirement」と呼んでいる)に即して客観性を捉えようとする見方である。これは大まかに言えば、客観性についてネーゲルやウィリアムズがとっている考え方と言える。こうした見方からすれば、感覚的性質のように純粋に主観的な性質のみならず、色のような知覚的性質もまた(われわれのとっての知覚的・主観的現れに対してresponse-dependentな関係を持たざるを得ないがゆえに)客観性の領域から一切排除されることになる。
このような「狭い見方」はまた、道徳的判断についてのわれわれの常識的な理解にも深刻なジレンマをもたらすことになる。というのも、もし道徳的判断には、それを把握するわれわれに対して主観的な動機付けをもたらす力が内在的に備わっているのだとすれば、そうした道徳的判断について――この「狭い見方」に即して――客観性を主張することは困難となるからである。
ここでクレーリーのとる戦略は、客観性についての「狭い見方」を(したがってまた「捨象要請」を)斥け、むしろ知覚的性質をも客観性の領域に収容できるような「広い見方」に立つことで、道徳的判断についての常識的な理解(道徳的判断の客観性、動機付けに関する内在主義)を救い出そうというものである。ここまでの議論運びは基本的に、ウィギンズやマクダウェルらの感受性理論とも合致する。
(2)「判断中心」の見方から脱却すること。
先の(1)の論点を打ち出すに当たってクレーリーが依拠するのは、われわれが言語を理解しているというのはどのようなことかという問題をめぐるウィトゲンシュタインの考察である。ごく大まかにまとめれば、われわれの言語理解は総じて、われわれの持つ様々な実践的sensibilitiesに支えられており、客観性の追及もこうした言語理解の中ではじめて成り立つものである以上、「捨象要請」は(したがってまた「狭い見方」は)結局のところ意味をなさない、というのがその基本的な論点である。
クレーリーによれば、こうしたウィトゲンシュタイン的な視点からは、道徳的判断の客観性という論点よりもさらにラディカルな帰結が引き出される。なぜならば――
… within the context of the pragmatic account of language at issue here, learning to speak is inseparable from the adoption of a practical orientation toward the world ---- specifically, one that bears the imprint of the speaker's individuality. And since such a practical orientation to the world cannot help but encode a view of what matters most in life or of how best to live, it follows that here there is a significant respect in which learning to speak is inseparable from the development of an ---- individual ---- moral outlook. (p. 43)ここから導かれる結論は、次のようにも言い換えられる。
… if we represent language as having moral character that is thus independent of the presence of moral concepts, we at the same time make room for the possibility ---- of central concern to me in this section and, indeed, in the book as a whole ---- that a stretch of discourse that does not make even implicit use of moral concepts may nonetheless contribute to the expression of an individual's moral outlook in a way that establishes it as genuine moral thought. (p. 43)
… ethics is conceived as distinguished by a preoccupation not with judgments in one region of language but with a dimension of all of language. Alternatively, it might be described as a view that expands the concerns of ethics so that, far from being limited to a person's moral judgments, they encompass her entire personality ---- her interests, fears and ambitions, her characteristic gestures and attitudes and her sense of what is humorous, what is offensive and what is profound. (p. 47)
続く第2章“Objectivity Revisited: A Lesson from the Work of J. L. Austin”は、ウィトゲンシュタイン的な言語論に代えて、言語行為に関するオースティンの議論に目を向けることで、上のような議論にさらに側面から支援を与えようとするもの。ここでの狙いは、オースティンの言語行為論の基本的な課題を、「文の字義的意味」(具体的な使用文脈とは独立に――いかなる発話内の力も帯びることなく――文がそれ自体として持つとされる意味)という概念への根本的な批判に見定めることで、そこから先の(1)の論点への繋がり(「字義的意味」に対する攻撃を「捨象要請」に対する攻撃へと繋げる筋道)を跡付けることにある。
しかし、こうした議論がその限りで成功しているとしても、これがさらに(2)の論点にどのように関連するかという点については、第1章以上に明確な議論は見られないのが残念なところ。
ただしこの第2章は、本書の流れの中で捉えるよりも、独立したオースティン論として読んだ方がむしろ面白いかもしれない。というか、少なくとも自分にとっては、そもそもなぜオースティンの言語行為論においては発話内行為の分析が中心的な位置を占めるのかといった問題からはじまって、教えられるところが多く面白かった。サール流のオースティン解釈とは異なりオースティン自身にとっては、そもそも発話内行為なくして発話行為もない(したがって字義的意味を持つ文を――いかなる発話内行為も為さずに――端的に発話する行為などというものはない)、というのがクレーリーの強調するポイント。
また最終節ではこうしたオースティンの言語論のもつ倫理学的含みについて二つの点が指摘されている。第一に、オースティン的な言語行為論を倫理的問題に適用しようとする幾つかの試み(ハーバマスやジュディス・バトラー)は、「文の字義的意味」という概念を温存しているために、オースティンの洞察を活かしきれず満足のゆくものではない、ということ。第二に、倫理学的考察にとっての言語行為論の関わりを考えるためには、オースティンの言う「発話媒介行為」の概念を再考する必要があるということ。
… Austin, despite attacking an abstract requirement and making room for a pragmatic account of language, does not include in his inventory of linguistic effects emotional responses with the relevant intellectual powers. Such responses would qualify as what Austin calls perlocutionary effects. They would belong to the class of consequential effects that saying something may produce on the "feelings, thoughts or actions of the audience" (How to Do Things with Words, 101). But they would not be consequential in a simple effects in that a capacity to (at least imaginatively) register them would be internal to a person's ability to grasp what the bit of language that produces them can teach. And they would thus represent a philosophically distinct subdivision within Austin's category of the perlocutionary./ This observation underlines a respect in which Austin's linguistic apparatus obstructs efforts to investigate moral thinking in a manner respectful of the logic of his own pragmatic account of language. It suggests the need to criticize Austin for failing adequately "to articulate the perlocutionary" [S. Cavell, "Counter-Philosophy and the Pawn of Voice," A Pitch of Philosophy, p. 82] and, more specifically, for failing to isolate a set of perlocutionary effects that are capable of contributing directly to moral understanding. (p. 94)要するにオースティンは、ある種の発言にとっては、それが喚起する感情的反応がいかに重要であるかを看過しているし、その点で一種の「モラリズム」に陥っている、ということなのだけれども、こうした批判について詳しくは、S. Cavell, "Performative and Passionate Utterance," in Philosophy and the Day After Tomorrowを参照せよとのこと。
第3章“Ethics, Inheriting from Wittgenstein”。
前章までの流れを受けてのこの章の狙いが今一つよく分からないのだけれども、ともかくここでの主題は、いわゆる世界像命題/蝶番命題に関するウィトゲンシュタインの議論(『確実性について』)から、倫理に関する相対主義的な結論(「世界像を異にする人々の間ではもはや合理的な形での問題解決は望めない」といったような)を引き出そうとする根強い傾向を批判しようということ。
ここでの批判的議論の根底には、『確実性について』でのウィトゲンシュタインの狙いは(前章で取り上げられたオースティンと同じく)「字義的な文意味」という概念を斥けることにあったのだとする文脈主義的な解釈が置かれている。
こうした解釈をベースとしたクレーリーの(上のような傾向に対する批判的な)論点は大きく二つにまとめられる。
第一に、ウィトゲンシュタインの文脈主義的な言語観からすれば、「私はしかじかということ(例えば、木には自動車は実らないということ)を知っている」という発言が無意味になってしまうということは、当の「しかじか」という文が単独で用いられた場合にも、その字義的な意味を同定できるということを何ら含意してはいない。(ここでの「しかじか」に該当するのが、いわゆる世界像命題を表す文ということになる。)したがって、世界像命題に関する『確実性について』での議論から、いかなる批判も免れた判断の存在を導き出そうとするのは誤っている。
第二に、字義的な文意味に対するウィトゲンシュタインの攻撃は、同時に「捨象要請」への攻撃であるし、したがってまたこの要請に即して合理性の概念を捉えようとする「狭い見方」への攻撃である。ここからはむしろ、捨象要請に立脚せずに、合理性の概念を幅広く捉えようとする「広い見方」が開けてくる。こうした広い合理性概念に立てば、大きく懸け離れた文化的背景を持つ集団間にも、合理的な対話の可能性を否定すべき理由はない。
(この章の末尾では、いわゆる前期・後期を通じてウィトゲンシュタインが一貫して唱える「倫理は超越論的だ」という主張についても触れられている。クレーリーによればこの主張は、倫理をわれわれの経験的世界から隔絶した領域に位置付けようとするものではなく、むしろ逆に、(本書の基本的な方向性とも合致する仕方で)われわれのあらゆる思考、あらゆる言語活動に――その可能性の条件として――倫理的なものが浸透していることを言わんとするものとして理解すべきだという。これはつまり、言ってみればあらゆる思考が「倫理的」思考と見なされる、ということであるけれども、ただしクレーリー自身はこれほど強い主張に与することは避け、決して倫理的判断の枠内には収まらない道徳的思考の多様な広がりを確認することで満足しようとのこと。)
以上がこの章での大まかな流れではあるけれども、実のところこの章でもまた議論がかなり駆け足で展開されているので、文脈主義的な意味理解から上のような二つの論点がそれほど簡単に導き出されるのか、自分としてはかなり疑問の残るところがある。議論の方向性自体は理解できないではないものの、あちらこちらに落とし穴がありそうな感じ、とでも言ったらいいか。(例えば、上の第二の論点で言われているような相対主義批判は、道徳的な対立一般に関する問題をかえって先鋭な形で突き付けることになるのではないか、といったような。)そうしたポイントをきちんと拾い上げてゆこうとするとかなり綿密な作業が必要になってきそうに思われるし、上のような形での論点の「まとめ」方もその意味ではかなり適当なもの。
本書全体を振り返っての印象としては、カヴェルやダイアモンドといった今日主流の倫理学とはかなり懸け離れた所に位置する人たちの仕事が持つ意味を考える上では、色々と面白い視点・視角が示されていると思う一方で、全体に議論が駆け足で簡略に済まされている部分が多くて、充実した手ごたえに欠けるような気も。とはいえ恐らくクレーリー自身の中では、「客観性や合理性について、あるいは意味の概念について、倫理学のあるべき姿について、哲学的な一般的テーゼとして積極的に言えるような事柄はそもそも然程多くはないのだ」というような考え方があるのではないかと思われるので、そうした見方からすれば、自分が感じているような不満感の方にこそむしろ問題は潜んでいるということになるのかもしれない。
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・Alice Crary, “Response to Grau and Pippin”
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◆Jonathan Lear, Radical Hope
・The Philosopher's Zone
・Hubert L. Dreyfus, "Comments on Jonathan Lear’s Radical Hope" [pdf]
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◆The American Style in Philosophy
・http://www.american-voice.org/index.php/events/american-style
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◆NDPR
・Andrew Sneddon, Like-Minded: Externalism and Moral Psychology, reviewed by Jada Twedt Strabbing
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◆マードック
・I・マードック『善の至高性―プラトニズムの視点から』(九州大学出版会、1992)
ひとまず読了。しかしイデアの話はむずかしいぽよ。前に読んだ時に比べても、ほとんど理解が前進してない気がする。
「善き生の出発点」としてプラトンが美(芸術)およびテクネーの二つを挙げている点について、マードックが(プラトンにとっての数学に代えて)言語習得に着目しているのはちょっと面白いところ。
プラトンがもっとも重要と考えたテクネーは数学であった。それはもっとも厳密で抽象的だからである。しかし、ここで私は自分の性分に合ったテクネーの事例を取り挙げたいと思う。それは言語の学習である。たとえばロシア語を学習している場合、有無を言わせぬ絶対的な言語構造に私は直面する。課題は困難で、ゴール点は遠く、おそらく私はそこへ到達することはできないだろう。私の課題は、私から独立的に存在するものを次第に明らかにしてゆくことである。注意深い努力は、実在の認識によって報われる。ロシア語への愛は私を駆りたて、私に未知であったもの、すなわち私の意識が管理したり、吸収したり、否認したりできないものへと私を導くのである。学習者には誠実さと謙虚さ――知った振りをしないこと――が要求されるが、それは自分の理論を破滅させるような事実が現れても、それをそのまま認める学者としての誠実さと謙虚さの準備をなすものである。もちろんテクネーが誤って使用されるということはある。自分の発見が破滅的な使い方をされると知った科学者は、かれの研究の一部を放棄すべきだと感じるかも知れない。しかし特別な場合を除いて、学習は、才能の訓練と同様、徳の訓練なのであり、得と実在世界との基本的なかかわり方を示すのである。(pp. 139-40)マードックが「ヴィジョン」と呼んでいるものも、こうした言語能力を中核に据えて(言語能力の獲得を通じて開示されるものとして)捉えられるものだとすれば、まだ取り付く島もあろうかと思われるけれども、しかしマードックにとってはやはりそうではないのだろうな。第一に、マードックにとって道徳的な価値概念の理解は単なる日常言語の習得を越えた「深み」を要求するものであるのだから(pp. 44f.)、道徳の言語の習得が道徳的ヴィジョンの形成によって説明されるべきなのであって、その逆ではないだろう。また第二に、マードックが「視角のメタファー」に担わせている決定的な重要性は否定できそうにはない(cf. pp. 121f.)。
でもまあ、マードックについて論じている人たちはテキストの読みにいろいろ苦労しているのだなあと分かっただけでも一先ずよしとしよう。
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◆レカナティ『ことばの意味とは何か―字義主義からコンテクスト主義へ』
・http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0975-X.htm
Literal Meaningの翻訳が前に出てたのをすっかり忘れてた。
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◆昨日
の疲れで昼近くまで爆睡。日食を余裕で見逃したのは言うまでもない。べ、べつに見たかったわけじゃないんだからねっ!
藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書、1998)。
プラトン研究史上でどういう具合に位置付けられているのか全く分からないけど、『パルメニデス』と『テアイテトス』について論じたⅤ章がやはり独特なんかな。特に『テアイテトス』についてはもう少し詳しい議論を拝読したかった気がする。
プラトンの哲学とは何といってもイデア論なので、プラトンが著作活動の中途でイデア論を放棄したなどとは㌧でもない話である、というのが全体を通じて強く訴えられているテーマ。「第三人間」論がイデア論にとっての致命的なアポリアであるかのように受け取られてしまうのは、帰するところ、個物(x)とそれが持つ性質(F)、その性質に対応するイデア(Φ)という三つの項の関係に関する「常識的思考」の歪みに起因している。すなわち、「アリストテレスが創始した「主語(x)・述語(F)」=「個物・普遍」=「実体・属性」といった概念装置」(p. 158)によって後に補強されることにもなるこの常識的思考――およびそれに即した個物中心の記述方式――からすれば、(一方での)xと(他方での)FおよびΦとの区別が前景化されざるを得ず、イデア論にとって本来重要であるべきFとΦとの区別が不明確となることは避けられない(p. 159)。(通常の個物にその性質を帰属させる述べ方が述定の典型として考えられるがゆえに、「〈大〉そのものは大である」のようなイデアへの自己述定は初めからパラドクシカルなものとして受け止められてしまう。)そして、イデア論の精神に即した記述方式を探るとすれば、それは――ストローソンの言う「特徴配置型 feature-placing」言語に類した――「場(コーラー)の描写」的記述方式となる(pp. 194f.)。そこでは、例えば「これ(x)は菊(F)である」として述べられる事態、すなわち「これ(x)は〈菊〉のイデア(Φ)を分有することによって菊(F)である」という事態は、「場のここに〈菊〉のイデアがうつし出されている」という場の描写として記述されるべきものである、と。
一見したところでは、こうした記述方式を採用することで記述能力の大幅な低下は避けられないように思われるけれども(例えば、「哲学者としては無能だが、料理人としては有能な人物」と「料理人としては無能だが、哲学者としては有能な人物」とは「場の描写」記述の上ではどのように区別されるのか)、そうした問題についてはどのように対処されることになるのか、あるいは個物の消去と共にそのような問題自体も単なる見かけの問題として消え去ってしまうのか。
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◆Murdoch
・Iris Murdoch (Edited by Peter Conradi), Existentialists and Mystics (Penguin Books, 1999)
『善の至高性』も丸ごと収めたお手頃なアンソロジーではあるけれども、1956年の論文“Vision and Choice of Morality”は所々を端折っての抄録なので議論の流れが若干辿りにくい。
とりあえず50年代の論文を拾い読み。
「行為と選択の倫理」(マードックによれば、ヘア流の指令主義とサルトル的実存主義はその二つの典型的な現れだとされる)に「ヴィジョンの倫理」を対置するという話は分かるのだが、「ヴィジョン」という表現に込められた少しばかり過度にプラトン主義的な含み(?)にはちょっと引っ掛かりを覚える。あるいはむしろ、「行為」と「ヴィジョン」とを直に対置させることの(一面にある)危うさに対して、と言うべきか。
(この点との関連では、たぶんマードックの美学関連の論考も見ておくべきなのだろう。)
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◆Murdoch
・Justin Broackes, "Introduction," in Justin Broackes (ed.), Iris Murdoch, Philosopher [pdf]
・Julia Driver, "‘For every Foot its own Shoe’: Method and Moral Theory in the Philosophy of Iris Murdoch" [pdf]
・Carla Bagnoli, "The Exploration of Moral Life"
・Elijah Millgram, Review of Iris Murdoch, Existentialists and Mystics
・Martha C. Nussbaum, Review of Peter J. Conradi, Iris Murdoch: A Life
とりあえずブロークスさんのイントロダクションを読んだだけ。
二十世紀の倫理学に残した足跡という点ではマードックの業績は例えばフィリッパ・フットに比しても優るとも劣らないとの視点から、倫理学者としてのマードックの横顔が鮮明に描き出されている。教えられる所が多々ある。
マードックはレイモン・クノーと仲がよかったので、コジェーヴのヘーゲル講義録なんかも早くから読んでいたらしいとか(p. 5, n. 7)、どうもローティはセラーズ(のScience and Metaphysics)を、マードックの仕事と重ね合わせる形で読んでいたんではないかとか(p. 9, n. 18)、マードックの「道徳的知覚」の概念はシモーヌ・ヴェイユの「注意 attention」概念に負うところが大きいんではないかとか(p. 14, n. 28)(*)、その他いろいろ興味深いエピソードも数多く紹介されているけれども、全体を通じて特に強調されているのは、マードックがマクダウェルに及ぼした圧倒的な影響力について。
(Peter J. Conradi, Iris Murdoch: A Lifeという本では、マードックのSovereignty of Goodから蒙った影響について、マクダウェル自身の口から語られているとのこと(p. 15)。)
(*)その一方では、マードックの仕事がアカデミズムの(メインストリームの)倫理学からこれほど黙殺され続けてきた一つの大きな要因として、ヴェイユへの深い傾倒が考えられるのではないか、とも指摘されている。
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読み終わってから気付いたのだけど、ブロークスさんの所で公開されているファイルというのは、イントロダクション全体の中のほんの冒頭部分だけなのだな。ほんとは90ページもある…。
しかしこの論文集はなかなか面白そうだから買ってみるべきか。
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◆花桃
の様子を見に球場近くのお庭へ。本当はこの前の日曜日にと思っていたのだが、昼過ぎから雷は降るわ雹は降るわという大荒れの空模様(気持ち悪いほど黒い雲に覆われて、まだ昼だというのに夕暮れ時みたいに真っ暗に変わった)ためにあえなく順延したのだった。二本あった木のうち、一本は震災で切り倒されてしまって、今は一本だけが残る。すっかり花が開ききっているので、艶やかさに欠けるのは致し方ないところではあるけど、紅白の花が一面に散らばる様子をまた目にすることができてよかった。
F・A・ハイエク、今西錦司『自然・人類・文明』(NHKブックス、1979)。ブックオフで100円で買ったもの。1978年のハイエク来日時の対談とのこと。こんな本が出てたのは知らなかった。桑原武夫の司会で三回分の対談が収められているけれども、中身はかなり退屈というか、京都というのは嫌なところだなあという感想しか浮かばない。
ネットを見ると、この対談をセッティングしたのは田中清玄だとかいった話が流れているのに、ほんまかいなと思っていたら、これって有名な話なのか。恥ずかしながら存じませんですた。
あとこんな本もある。と思ったら、中身はこちら(↓)ですかね。
吉野裕介「文明論としてのハイエク進化思想―今西錦司との対談を手がかりに―」[pdf]
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◆連休
もそろそろ飽きてきたんだけどなあ…。
グッとくる小説にはなかなか当たらないせいか。『シューマンの指』はどうだろな。
そういえば、近所の丘に立つ大島桜の大木は、もともと根元近くから三つに枝分かれして「ψ」のような形をしていたのが、しばらく前の強風で両側の枝が幹から左右に裂けてしまったまま、僅か樹皮一枚で繋がったように地面に横たわっていたのだけれども、そんなこんなで今年は花をつけることはないものと思っていたら、他の桜がもうすっかり散り終えた今頃になって、ひっそり満開を迎えていたのだった。執念というより妄執と言うべきか。とはいえ、満開の花をつけた大きな枝が、地面にのたうつように拡がっているのはちょっと新鮮な感じ。
しかし遅い時間になってから散歩に出かけたら、途中で腹ペコになりすぎて帰りは死ぬかと思ったよ。
ブーツィー・コリンズのインタビュー番組をぼーっと見てたら、全盛期のJBの圧倒的な存在感の方に度肝を抜かれた。この人はいったい何食ってるんだろ、みたいな。
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