◆O'Shaughnessy
・David Pears: The Will and the Body
・Michael Martin: Bodily Sensations
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◆オショネシーの『意志』
ネーゲルによる書評。
初出はThe Times Literary Supplement, March 27, 1981。Thomas Nagel, Other Minds: Critical Essays 1969-1994 (OUP, 1995) に再録。
しかしオショネシーという人は用語法が独特だからいろいろ悩ましい。
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◆ゼロ年代
とかいうのもあとちょっとでお終いかあと思っていたら、もう「葬送」というのも始まってるわけなんすか。
手回しのいい葬儀屋みたい。てゆうか、「ゼロ年代」って一度言ってみたかっただけですすいません。
溜まりに溜まった皿洗いを片付けて、大掃除に代えさせていただくことに。わざわざ冬の最中に大掃除をするという感覚は、雪国で生まれ育った人間にはあまり無いような気がするけど、どうなんだろな。
このところ、少しずつ日が長くなっていくのが微かな開放感。
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◆ネーゲル
何だかセカセカと気忙しい日々が続いて、解読作業も中々進まず。年内に読み終えられるかどうかも怪しくなってきたな。。。
ネーゲルのこの本については色々と読み方はあるのだろうけど、自分の関心からするとやはり、行為について論じた第7章と、価値や行為理由の客観性(行為者中立性)を擁護しようとする第8章が山場という感じで、特にこの二つの章に関しては、疑問を感じる箇所も多い。
ちょっとメモ。
第8章について言えば、中でも、快や苦といった感覚がもたらす行為理由(例えば、痛みを――それが誰の痛みであるかに関わらず――消滅・軽減させる行為をとるべきだとする理由)の行為者中立性について論じた5節の議論は、恐ろしく奇妙なものとしか思えない。そこでのネーゲルの狙いは、苦痛やそれがもたらす悪についての客観的な把握の可能性に訴えることで、そうした苦痛を軽減するよう行為すべきだとする理由の客観性(行為者中立性)を擁護しようとすることにある。(快苦の持つ価値の客観性、あるいは快苦の増減に関わる行為理由の行為者中立性という論点は、ネーゲルの価値論において、行為者の欲求の存在には依存しない形でいかにして客観的な価値の存在が確保されるのかを考える上での一つの範例的なモデルとも見なされる。こうして言ってみれば、志向的態度としての欲求ではなく、快苦という感覚的クオリアが、正にその純粋な主観性のゆえに、そしてまたその客観的な把握の可能性ゆえに、ネーゲルの倫理学の基盤に据えられることになる。)
このような議論が持ち出される背景には、行為者相対的な行為理由から直ちに行為者中立的な行為理由の存在を導き出そうとしたThe Possibility of Altruismでのアプローチが、スタージョンやダーウォルらの批判するような理由からしてうまくいきそうにはない、というネーゲル自身の反省がある。しかしここでのネーゲルの議論自体は、単純に論点を先取してしまっているというのでなければ、問題の批判(いかにして客観的な、あるいは行為者中立的な行為理由は、行為への心理的な動機付けをもたらすことができるのか)を全く素通りしてしまっているのではないのだろうか。
この第8章でのネーゲルの立場については、そういえばスキャンロンのWhat We Owe to Each Other (ch. 2) でも――帰結主義に特徴的な〈価値についてのテレオロジー〉にネーゲルもまた与していることに疑問を呈するという角度から――取り上げられていて、しかしそこでのスキャンロンの議論には何か中途半端な印象を感じたのだけれども、それはやはり、ネーゲルの価値論や倫理学において「感覚的なもの」がどのような役割を演じているかという点での踏み込みの甘さから来ているのではなかろうか。もっとも、ネーゲルについてそこまで立ち入って論ずることは、そこでのスキャンロンの主眼からはやや外れるだろうけれども。
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ネーゲルのOther Mindsのイントロダクションというのは、オックスフォード留学時代のことやウィトゲンシュタインとの関係を含めて、ネーゲルという人のバックグラウンドを知る上で大変興味深い文章ですが、デネットの書評を見ると、同じオックスフォード留学組でも微妙なジェネレーションの違いがあるのだなあ、と。(でもしかし、もともとの哲学的な気質の違いの方が大きいような気もするけれども。)
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◆メモ
・Matthew Nudds & Casey O'Callaghan (eds.), Sounds and Perception: New Philosophical Essays (OUP, 2010)
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◆ネーゲル
『どこでもないところからの眺め』の訳書を先日からちびちび読んではいるものの、全体に訳文がかなり謎で、原文と突き合わせないことには理解が覚束ないので遅々として進まず。
(ちなみにこの本では“mind”や“mental”は基本的には「頭のなかの出来事」や「頭のなかの」という風に訳されていて、こうした方針は、「心的」といったような言い方が日本語として熟さないという判断に基づいているのかもしれないけれども、とはいえこれでは、「(頭の)なか」という表現に、通常の空間的な意味と並んで、特殊な“心的”な意味を――何の説明も抜きで――付け加えただけにしかならないんではなかろうか。)
ネーゲルの文章自体も決して易しいとは言えないし、謎訳と見比べることで理解が深まるということもあるのだろう(あえて無茶な負荷を加えるという大リーグボール養成ギプス方式)と思ってはみても、自分に理解不能な文章を読み続ける作業というのは精神的にかなりしんどいな。
第7章「自由」では、「行為あるいは行為者はいかにして可能なのか」という懐疑論的挑戦(経験的知識に関する懐疑論の実践理性ヴァージョン)について論じられる。行為を「内側から」捉える時、われわれには行為の責任を担うことのできる自律的な行為者としての感覚がまぎれもなく感じられる。ところで、責任や自律性といった観念は、それ自体が、客観的な理解へ向かおうとする自己超出の運動によって支えられている。(というのも、そもそも自分の行為について「外側から」客観的に捉える能力を欠いた生物には、行為者としての自律性や責任も欠落しているのだから。)しかし、自分という行為者についての「外側から」の客観的な見方への移行は、われわれが行為者としての自律性や責任について抱いていたそもそもの感覚を徐々に蝕んでゆく。そうした客観的な見方においては、最終的に、この世界の中の一部分として存在するわれわれがいかにして責任を担い得る自律的な行為者たり得るのかは全く理解不可能となってしまう。――こうした懐疑論的挑戦に答える術は無いのではないか、というのがここでのネーゲルの悲観的な結論であるけれども、やはりこの章は、客観性をめぐる本書でのネーゲルのアプローチ全体について考える上できわめて重要な問題を提起した部分だと思うし、本書の中では「アキレス腱」ともなり得る部分なのではないかとも思う。(またそれとも関連して、オショネシーの行為論に対してネーゲルが表明している共感には、かなり根拠がはっきりしない所があるように感じて仕方がないのだけれども、この本でのオショネシーへの言及は簡潔すぎてまだよく分からない。いずれにしてもオショネシーの本をきちんと読まないことにはしょうがないか。)
しかしこの訳書の中でも、この第7章は謎度が格段に濃厚であるわけだ。
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◆Thomas Schelling
・http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20091223/p3
面白いのは,シェリングはたいていじぶんの考えを物語りのかたちで示していたことだ.そういうことは,数学と形式的モデルづくりにとりつかれている分野ではめったにない.彼にどんなことを語っても,トムはまずするどく本質をいぬく応答をするのにふさわしそうな物語りはどんなものか考えることから手をつける.そして,ひとたび物語りをはじめると,彼は夢見るようなまなざしになり,もう誰も彼の話の腰を折ろうなんて思わなくなる.その物語りにはさまれるふとした思いつきや保留条件がまた,本筋と同じくらいすぐれていたりする.シェリングというのは面白い人だなあ。
「消費器官としての精神」というのは、これに収められているやつなんですかね。
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◆プラトン―今話題のネオコン哲学者
例のブラックバーンのインタビュー記事を日本語化してみたものの(但し記事のリード部分は除く)、インタビューというのは基本、多かれ少なかれ話がとっちらかっているので、こういうのを日本語に移すのは英語弱者にはやっぱ難しいな。というわけで、間違いがあったらすいません。(二年も前の記事なので、「今話題」というのはもはや看板に佯り大有り。むしろ、「ジョージ・ブッシュ―DQNすぎる哲人王」とでもした方がよかったか。)
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◆ようやく
一段落がついてほっと安堵できるかというと、くよくよと思い返すところも多くて困ったもんだ。とか言いつつ、先のことを考えずにのんびり昼寝ができるのはやっぱり楽ちんなり。
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』(ポプラ社、2007)をざっと通読。
最近は翻訳書というと内外価格差がついつい気になってしまうのだけれども(貧乏なので)、その点ではこの本はなかなかお買い得。本文中での様々な仄めかしについても、親切な訳注が添えられているし。(しかしアイリス・マードックの「若いツバメ」には注は無し。やはり慎みからなのだろうか。)
一般向けの内容ということで、全体としてブラックバーン自身の哲学的なスタンスがそれほど強く打ち出されているわけではないけれども、例えば次のような一節が本書を通じての基本的なトーンをよく示していると言えそうな感じ。(これは、洞窟の比喩に関する代表的な三つの解釈――宗教的解釈(ネオプラトニズム)、詩的解釈(例えばマードック)、科学的解釈(自然についての数学的モデル)――の内で最も理に適っているとされる科学的解釈について、その批判的なコメントとして述べられた部分。)
第七巻 519Aが私たちに思い出させるように、たいていの知識は善のためにも悪のためにも使われるであろうし、それはたしかに科学的知識にも当てはまる。最後の照明は、どういうわけかこの限界を超え出るのだ。その照明がなにか至福のものでなければならないということを感じとるのは容易である。つまり、視力のように、自然の秩序の理解と自然との「一体性」とを生み出す以上、それは一つの洞察(ヴィジョン)なのであり、ひとたび達成されるや、手に入れた主体の善を保証するという点で、それは至福のものなのである。だが、私たちは、それがどのようにしてかを告げ知らされてはいない。もしヒュームが正しければ、私たちはどうしてかを告げ知らされることはけっしてありえない。というのも、事態のある種の理解とみなされもすれば、また同様に、そして同時に必然的に主体を善へ向かわせ悪から離れるように差し向けるものともみなされる魂の状態という観念は、一つの妄想である。ひょっとすると高貴ではあるが、それでもやはり妄想なのだ。不幸なことに、ひどく危険な妄想でもあり、それは、この妄想が、いわばもっとありきたりのなにかの代わりに、エリート層にのみ開かれ、庶民には分け与えられることのない照明を置くからである。そうすることによってこの妄想は、伝達したり、恐怖や不信を減少させたり、人間性を増大させたり、共感を拡大したりするといった、人間的で民主的で広く共有されている諸過程――道徳の向上がおこなわれる現実的な道筋――の価値を下げているのだ。(pp. 184-185)そして、こうしたエリーティズム批判がさらに向かう先は、レオ・シュトラウスのプラトン解釈と、その政治的帰結。
この地点で私たちは、いくらか失望を覚えながら、アメリカの学者レオ・シュトラウスによっておこなわれた思想の道筋を辿りなおしてみたくなるであろう。彼は、現代のネオ・コンサーヴァティヴの政治思想に大きな影響を及ぼした人である。彼は『国家』におけるソクラテスの明白なメッセージにひそむ弱点を見ぬくに十分な鋭い目をもっていた。それゆえレオ・シュトラウスは、プラトンの劇作家としての技量には、プラトン自身の教えを、時には明らかにそれと反対の教えの陰に隠す技量もふくまれていると確信している。私たちが正義や政治や魂について学びうることを学ぶのは、明白な議論にふくまれる誤りを通じてなのである。こうして、結局のところ『国家』が私たちに告げているのは、国家と魂との有効な類比(アナロジー)などないということ、トラシュマコスは依然として勝利をおさめていること、詩人たちは追放されるべきではないということなのである[Leo Strauss, The City and Man, University of Chicago Press, 1964, Part II, "Plato's Republic"]。してみれば、ソクラテスの口から出て、そのまま残っている唯一の教説は、統治者たちは国家の利益のために高貴な嘘をつくことを奨励されているということ――これは好都合な例外で、ここからシュトラウスの追随者たちは、トラシュマコスの名誉回復や、独裁者と金権政治家両者の卓越性などとともに、たっぷり利益を引き出したように見える――である。私たちとしては、この種の見なおし的な解釈についての議論は専門家たちにまかせておこう。だが、シュトラウス版のプラトンは、アリストテレスをふくむほかのすべての人が捉えていた人物像からは遥かに遠い。アリストテレスは長いあいだプラトンのそばにいた人なのだから、これは疑ってみる方が賢明であろう。(pp. 221-222)
シュトラウスという人は、複雑な屈折や陰影を抱え込んでいるようでいながら、しかし実際に書かれた物を見るとひどくニュアンスに欠けた平板さが目につくというか、むしろそうしたギャップにおいてどこか不気味。
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・http://www.salon.com/news/feature/2007/06/25/plato_neocons/
これはシュトラウスとネオコンをめぐって、ブラックバーンへのインタビュー記事。
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