2009年11月 8日 (日)

◆「口から食べることができなくなったら死」
http://blogs.yahoo.co.jp/mugai1234/22328395.html

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◆外
は穏やかな日差しが出ていたようだけれども、家に篭ってぐずぐずしていたらあっという間に日が暮れてしまう。
長谷川三千子『民主主義とは何なのか』(文春新書、2001)。ロックの『市民政府論』については悪罵のみで、「新書とは何なのか」と感じさせられた以外に特に感想は無し。民主主義のいかがわしさは、新書的なもののいかがわしさと同根だ、みたいな。(そういえば、老舗どころの新書というと、きまって巻末に「刊行のことば」だか「発刊のことば」だかが載っていたものだけれど、文春新書とかちくま新書とかはそういうの無しなのだな。今気がついた。)

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2009年11月 6日 (金)

◆Timmons, MWF
第4章の“Contextual Moral Semantics”。
「自然主義的な世界像をどのように維持してゆくか」という関心に貫かれた存在論的プログラムの一端を見せられると、ティモンズがT・ホーガンのような人とタッグを組んで仕事をしている事情はだいぶ呑み込めてくるけれども、丁度それと反比例して、ティモンズのこうした試みへの興味も段々薄れつつある。

この章でティモンズが打ち出す文脈主義的意味論の基本的なアイディアは次のようにまとめられている。

The leading ideas of contextual semantics are these: (1) The truth of a sentence is a matter of its correct assertability. (2) Correct assertability, at least for ordinary descriptive sentences, is normally a matter of the often complex interaction of two factors: (a) the various normas and practices that govern a certain mode of discourse and (b) the WORLD. (3) Unlike the correspondence view, a mode of discourse often employs assertability normas that do not require, for the truth of sentences constituting that discourse, OBJECTS or PROPERTIES in the WORLD to directly answer to the sentences' singular terms, unnegated quantifier expressions, or predicates; nor need there be any "dedicated" FACTS in the world that correspond to the sentence. (4) Furthermore, the norms and practices for correct assertability are not monolithic within a language; rather, these norms and practices vary from context to context depending on such factors as the sort of discourse in question (scientific, aesthetic, moral, and so forth) and the specific purposes the discourse is serving at the time. (5) Although truth, in this view, is a normative notion, the view is not a form of verificationism (sometimes called, pragmatism): truth is not radically epistemic; correct assertability is not the same as warranted assertability (even "ideal" warranted assertability). (p. 116)

(“OBJECTS”や“PROPERTIES”等の大文字表記は、真理の対応説において言語(単称名辞、述語、…)と対応するものとされているmind-independentな存在者を表している。)

与えられた文脈において文が真であるか偽であるか、つまり「正しく主張可能」であるか否かは、一つには、その文脈で用いられている意味論的規範に依存している。そして意味論的規範は、その文脈で用いられた文の真偽(=主張可能性)が世界(あるいはむしろ世界)との対応にどのように依存するかを定める。こうした文脈的変動を考慮に入れることで、一方で、自然主義的存在論の枠内にうまく収まる存在者について述べた文の場合には、実質的に、その文の真偽を古典的な対応説に即した形で理解可能なものに保っておくことができるだろうし、また他方では、自然主義的見地から問題含みの談話領域に関わる文については、対応説に依存しない形でその真偽を語り得る余地を残しておくことができるだろう(そうすることで、「存在論的インフレか、さもなければ錯誤説か」というジレンマを回避することができる)、――といったところがティモンズの基本的な考え方のようである。
ただしこの本の中では、文脈とその変動についてどう考えるか、また肝心の意味論的規範というのはどういったものであるかについて詳しい議論は棚上げにされているので、実のところティモンズがこうした意味論の展開をどこまで本気で考えているのかよく分からないところもある。(発話の文脈やその変動といった概念を、ティモンズの存在論的スタンスをうまく反映させるような仕方で捉えることはどうやったらできるのか。あるいはまた、ティモンズの言う「意味論的規範」は、かつてセラーズが語っていたような“picturing”がそうであるように、かなり謎めいたものとなってしまうのではないか。)

一般的な意味理論の展開はともかくとして、より狭くmoral semanticsとの関連について言えば、ティモンズの文脈主義の役割としては、道徳的な言明に関して「主張内容 assertoric content」と「記述内容 descriptive content」との区別を置き、ミニマルな真理概念に立つものとして主張内容の概念を理解するという、「ミニマリズム的テーマ」を導入するための露払いという役割が大きなウェイトを占めているように見える。その意味では、moral semanticsに関するここでのティモンズの議論は実質的に、道徳的言明に関する表出主義をミニマリズム的真理論と結び付けようとする試み、と言った方が良さそうである。(文脈主義的なアイディア自体は、むしろ第5章で論じられるmoral epistemologyで大きな役割を果たすことになるのかもしれない。)
ティモンズの擁護しようとする“Assertoric Non-Descriptivism”によれば、道徳的言明はその真偽を問い得る(truth-apt)真正の主張であり、主張内容を持つが、世界内の事態を映し出すような記述内容を持つわけではない。そして、道徳的言明について言われる真理の概念とは、単純に、タルスキのTシェーマを満たすミニマルな真理概念であって、「対応としての真」という形而上学的な概念ではない。
こうした形でミニマリズムを援用することで、(道徳的事実に関する)非実在論あるいは非記述主義と(道徳的事実――ミニマルな意味での事実――に関する)認知主義とを結び付けようという話について差し当たっては異論はないのだけれども、逆に、事新しく教えられた論点もあまり無かった気がする。(そういえば思い出したけれども、この前読んだウェッジウッドの本の表出主義批判にかなり違和感を覚えた理由も、こうしたミニマリズム的な表出主義の展開について一顧だにされていない点にある。)むしろ漠然と感じたのは、こうしたミニマリズム的な展開は結局のところ、ティモンズ自身が堅く奉じているような自然主義(自然的なものに関する実在論/非自然的なものに関する非実在論)と本当に相性がいいものなのかといった疑問で、これはつまり、実在論とか非実在論とかいった話について自分の関心自体がdeflateしつつあるということなのだけれども。

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◆"The Smell of Virtue"
http://www.msnbc.msn.com/id/33522872/ns/health-behavior/

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◆週初め
の冷え込みもかなり和らいだはいいけど、それと一緒に切迫感も薄れてしまうのがかなりやばい。好天に釣られてついあちこち徘徊しちゃうしなあ。

レヴィ=ストロースの訃報を聞いても「長生きしたんだなぁ」といったDQNな感慨しか浮かんでこないのが悲しい熱帯。著作もほとんど読んだことないし。(あ、でも『悲しき熱帯』は読んだっけか。あれはもういっぺんくらいは読み返しておきたい。)お洒落人文系ブログへの道は遠いなあ。。。

でもまあこの機会なので、オクタビオ・パス『クロード・レヴィ=ストロース―あるいはアイソーポスの新たな旅』(法政大学出版局、1988)が買ったままにしてあったのを思い出して読んでみた。しかしレヴィ=ストロースの著作に通じてないと正直よく分からんです。マルクスとフロイトをレフェランに、「自然と文化をめぐる思想家」としてのレヴィ=ストロースの風貌を描き出そうとした長編のエッセーといったところでしょうか。(何を言っているのか自分でもよく分からないけど。)この本の中ではインド的なものや仏教といった話題が大きくフィーチャーされていてちょっと不思議に感じたのだけれど、後から気がついたらパスという人はインドでも大使を務めてたわけか。

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2009年11月 2日 (月)

◆ギバード訳書
・マルク・キルシュ(編)『倫理は自然の中に根拠をもつか』(産業図書、1995)

【内容】
・マイケル・ルーズ「進化論的倫理の擁護」
・アラン・ギバード「道徳性と人間の進化」
・ジェローム・H・バーコウ「行動の規則と進化の行動」
・ルネ・セーヴ「欲求としての倫理」
・アントニオ・R.ダマシオ「社会的慣習と倫理の自然的基盤の理解」
・デイヴィッド・プリマック「幼児における道徳的「知識」」
・ナンシー・ウィルムセン・ソーンヒル「レイプ後の心理的傷の性質と、いくつかの倫理的な意味」
・アン・ファゴ=ラルジョ「生物学的規範性と社会的規範性」
・コリン・アーウィン「自然主義的倫理と集団の対立制御」
・スコット・ブリューワ「理論的推論に関する実践的推論についてのいくつかの理論的推論」
・エリオット・チュリエル「子供における社会的推論の性質と基盤」
・ダン・スペルベル「道徳的相対主義についての人類学的見解」

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◆メモ
・伊藤克彦「価値判断の主体・対象相互依存モデル : メタ倫理学におけるJ.マクダウェルのJ.L.マッキー批判と志向性の概念」、『一橋法学』08巻2号 (2009.7)

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◆Timmons, MWF
Mark Timmons, Morality without Foundations: A Defense of Ethical Contextualism (OUP, 1999)

ウェッジウッドの本は途中で切り上げて、もう少し自分の関心に近そうなこちらの本を読んでみるテスト。第3章まで。難しげな本かと思いきや、配慮の行き届いた丁寧な論述で、自分のように素人同然の人間でも読み通せそうな様子。

(1)哲学的な自然主義へのコミットメントを明確にした上で、(2)そうした自然主義に立つ包括的なメタ倫理学的理論として現在最も説得的な形で提示されているコーネル実在論(「ニューウェーヴの実在論」)を斥け、(3)それに代えて非実在論(irrealism)を擁護する、――というのが本書の基本的な筋立てとのことで、見方によっては話の間口はきわめて狭いのだけれども、ムーア以降の倫理学の展開についての歴史的な考察も豊富に織り込んだ展開で、たいへん勉強になる。
冒頭の第1章は、分析哲学における隣接諸分野(とりわけ言語哲学と心の哲学)の進展にインパクトを受けてムーア以降のメタ倫理学がどのように変貌してきたか(概念分析と“意味論第一”主義をモットーに掲げる「分析的なメタ倫理学」から、「ポスト分析的なメタ倫理学」へ)を振り返りつつ、今日のメタ倫理的考察が踏まえるべき方法論を再確認しようという内容。ところで、この本でのティモンズの試みは、ある意味ではメタ倫理の“意味論化”を指向しているとも言えるのだろうけれども(ニューウェーヴ実在論に対するティモンズの批判も、その意味論的基盤の不健全さに向けられる)、これは今日の「ポスト分析的」状況の中ではどのように評価されることになるのか。

しかしまあ、この後に続く長大な第4章がたぶん本書の山場なので、正念場はここから。

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2009年10月30日 (金)

◆fitting attitude analysis
・Jörg Schroth: Bibliography on the Buck-Passing Account of Value

・Wlodek Rabinowicz: Value and Fitting Attitudes

・PEA Soup: Buck-passing bleg

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◆Wedgwood, NN
第2部に入って第7章まで。ウェッジウッドのスタンスはだいぶ見えてきたような感じはするけど、こういう本の場合はたぶん、きちんと細部まで読み込まずにユルユルの感想を述べてもあんまり意味がないんだよな。――と、予防線を張っておいた上で、(一方での)規範的な判断の持つ動機付けの力を(もう一方での)実在論的な要請とどう組み合せるかという問題をめぐって、綿密な議論に立つ野心的な試みといえる本なのだろうけれども、正直なところ、そこまで実在論に肩入れするその理論的動機がまだ今一つ理解しきれないところがある。(ピーコックが展開してきたような意味論的アプローチを規範的な判断の取り扱いにまでどのように拡張するかという点では、かなり見通しも明快で教えられるところの多い本だとは思うけれども。)

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