◆Rödl
・Sebastian Rödl, Self-Consciousness (HUP, 2007)
・NDPR (reviewed by Béatrice Longuenesse)
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◆Rödl
・Sebastian Rödl, Self-Consciousness (HUP, 2007)
・NDPR (reviewed by Béatrice Longuenesse)
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◆Thompson, LA
第2部の“Naive Action Theory”。早くから公開されていたドラフトと比べてみると、所々で若干加筆されているみたい。
第1部の成果に関してはかなり懐疑的な印象しか残らなかったのに対して、この第2部の行為論というのは実に面白いなあと改めて感じた。
例えばPractical Realityで行為の理由に関してダンシーが打ち出していたような反心理主義的な立場は、行為の理由となるような事実の存在性格に関して最終的にはかなり奇妙な立場に追い込まれていたし、また行為とその理由(事実)との間の内的・規範的な連関を確かなものとするためには何か特殊な直観的能力を必要としているようにも見える。
これに対して、トンプソンが提案するような「素朴な行為理論」の視点からすれば、こうしたダンシーの反心理主義はいまだに、行為を欲求や意図によって説明しようとする心理主義的伝統と同様、「行為は基本的にそれとカテゴリーを異にする何か(欲求や意図のように心的な何かであれ、事実のような非心理的存在者であれ)によって一方的に説明されるべきもの(explanandum)だ」とする前提に立っている。しかし行為の説明に関するわれわれの実践に目を向けるならば、こうした前提は単なる哲学的な予断にすぎないことが分かる。というのも、一方で行為は説明されるべきもの(被説明項)であるばかりではなく、またそれ自体が説明項ともなり得るからである。実際、ある行為は別の行為に言及することによって説明される(「私はAをしているのでBをしている」)というばかりではなく、時には欲求や意図もまた行為に言及することによって説明される(「私はAしているので、Bしようと意図している」、「私はAしているので、Bしたい」のように)。
トンプソンによれば、行為がこうした説明能力を持ち得るのは、一般に、一定の時間的なプロセスとしての行為に備わっている内的な秩序(etiologicalな構造)のためである。すなわち、そうした内的秩序に即した部分-全体関係(例えば、卵を割ることやフライパンを温めることがオムレツを作ることの一部であるような)に着目することによって、部分的行為(B)はそれを包摂する全体的行為(A)によって説明される(「私はAをしているのでBをしている」)。あるいはむしろ、そうした内的な部分-全体関係の存在こそが、一般に行為(意図的行為)を定義付けるものに他ならないとさえ言える。
X's doing A is an intentional action (proper) under that description just in case the agent can be said, truly, to have done something else because he or she was doing A. The intended sense of "because" is, as usual, the one deployed in rationalization. If we may be permitted free appeal to the notion of a part, then our thought might also be expressed, a bit more metaphysically, as follows: an event, the building of a house, for example, is an intentional action just in case it is the "cause" of its own parts --- where, again, the intended notion of "cause" is not pre-conceived, but is that captured by the "because" of rationalization, whatever it may be. (p. 112)しかしこうした「素朴な行為理論」が行為の一般理論となりうるためには、結局のところ、任意の行為について、それを一部分として包摂するような、より大きな目的論的プロセスの存在が求められるということになりそうであるけれども、果たしてトンプソンの試みは全体として、そうした強い目的論を説得的な形で示すことに成功しているのか。(とりわけ、第1部での生命論の試み――もしそれがうまくいくのであれば、行為の目的論を最終的に、行為者=生物がその属する種に応じて営む「生の形」に帰着させることもできるかもしれないけれども――がうまくいかないとすれば。)
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◆Thompson, LA
ようやく第1部“The Representation of Life”を読み終える。しかし内容は既発表の同名論文(1995)とほぼ同じ。というわけで、以前にこの論文を読んだ際の疑問は相変わらず解消されないままなのだった。うーん。
ここでのトンプソンの狙いは、「猫は肉食だ」や「人間には32本の歯がある」といったような“アリストテレス的定言文”(あるいはそれによって表現される“自然誌判断”)の持つ判断形式の特殊性を確認することで、そうした独特の判断形式に支えられたアプリオリな概念として「生命」の概念を解明することにあるけれども、そもそもトンプソンの考察が訴えるような形の自然誌判断は、生命もしくは生物の種に固有のものと言えるかどうかという点からしてやはりよく分からないまま。(猫や人間といった生物種についてと同様に、山や川のような地形学的な種、水のような物質種、さらにはテレビやテーブルのような人工物の種についても、自然誌判断を形成することは可能である――というばかりではなくまた実際、例えば「テレビって何?」と訊かれた場合には通常そうした自然誌判断を提示することで答えている――のではなかろうか。)この点をはじめとして、結局のところ論理的-言語的"representation"を焦点にしたトンプソンの考察が生命のリアルな生態(?)を捉えることにどの程度まで成功しているかに関してはあれこれ疑問が残る。こうした点についてはNatural Goodnessでのフットの批判もあるけれども、そうした問題への対応がほとんど全く示されていないのはちょっとどうなのだろうか、というのが今のところの正直な感想。
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◆連休後半
は結局、恐ろしくどうでもいいような問題をめぐる考察に費やされてしまったのだった。嗚呼。
今は反省している。
どうも最近、「フィ■ッパ・フット」といった検索ワードで来る人が多い気がするなあと思っていたら、ト□ッコ問題をネタにしたテレビ番組なんかをやってたわけなんすか。
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◆Thompson, LA
・Michael Thompson, Life and Action: Elementary Structures of Practice and Practical Thought (HUP, 2008)
トンプソンさんという人はまた随分と壮大なことを考えているのだなあと改めて感嘆しつつ、でもイントロダクションを見ただけですが。
対象一般-個別実体-生命-行為者というアリストテレス的な存在の階梯を踏破し直すことで、(アンスコムやフット、ハーストハウスらの目指しているような)アリストテレス的倫理理論の再構築を企てよう、ということだそうです。
My effort might better be characterized as aiming to bring my own thoughts about the matters at hand --- however unworthy these thoughts may be --- into what we might call the Aristotelian tradition in philosophy and practical thought. And here there is after all a genuine tradition: the antecedents to whom we must "look up with grateful awe," as Frege said of Kant, would include not just Aristotle but also St. Thomas, Hegel, Marx, and even indeed Kant in certain respects. Kant's third critique and the pure "psychology" that pervades his work clearly bring him under this heading. […] The other thinkers I mentioned all worked with a deep knowledge of the actual Aristotle, and, I think, it is only by seeing this that we can make a beginning of understanding them or making use of them. The project of an "analytic" or "analytical" Hegelianism or of an "analytical Marxism" (however well- or ill-advised such a thing might be) must see itself as aiming at a form of analytical Aristotelianism, and thus at a form of what Anscombe was first to attempt and is also here attempted. (pp. 11-12)でもって、こうした目的論的な形而上学の復興の試みは、また他方で、(アリストテレス-)カント-フレーゲの伝統に連なるような、「生命」や「行為」、「実践」といった形式的で言わばアプリオリな概念――ちょうどフレーゲにとっての「対象」や「概念」がそうであるように――に関わる判断形式一般の分析という方法論と結び合わせられることによって、「分析的アリストテレス主義」の名に値するものになるのだ、と。
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◆というわけで
ストーブはじめました。
幸いなことに今日、私の心は一切の憂いから放たれ平穏な閑暇を得たので、炉部屋にこもって省察でもしてみようかとも思ったが、せっかくの小春日和の好天なので寒椿の見物。
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◆Steward, OM
ひとまず読み終える。
心的因果に関する問題解決の目途をつけるために因果性の理解の方を調整する(そして存在論を極端に内包化する)、というようなスチュワードの基本的なアプローチに対して個人的にはあまり共感を覚えないせいか、いろいろ疑問を感じる部分が多い。これはつまり、羹(=心的状態)に懲りて膾(=状態一般)を吹く、の類いではないのだろうか?
第2部は結局、ジャクソン&ペティットの"program explanation"というアイディアを転用する形で、個物(出来事)としての原因ではなく、事実としての原因に依拠した命題的説明の権利付けを図ろうという話。
そして最後の第3部では、因果性に関するそうした見直しに立って、トークン同一説、消去主義、随伴現象説がいかに問題含みの因果観に立脚しているかという観点から批判される。そして、「心の存在論」は個物の存在論(出来事や状態の織り成す因果的ネットワークとしての心)ではなく、むしろ事実の存在論をベースとして理解されるべきであり、併せてまた、事実を原因として捉えるような因果理解に立つことによって、心的因果の問題解決への基本的な筋道はつけられるのだ、という提案で締め括られる。
"program explanation"というアイディアを打ち出す際のジャクソン&ペティットの狙いは、低次の物理・化学的な性質(カテゴリカルな性質)を引き合いに出すタイプの説明("process explanation")とは違って、高次の(生物学的、心理学的、社会的、歴史的、等々の)ディスポジショナルな性質に訴えた説明を真正の因果的説明として権利付けることにあるが、スチュワードはこうした性質の区別を軸とした問題構図をむしろ、単称因果言明と命題的な因果的説明との区別に適用することで、因果的説明についての二元論的な見方を提案する。
すなわち、何かある結果が生じた場合、その結果は一つには、それを実際に引き起こした個別的な(諸)存在者(典型的には個別的な出来事)――因果的efficacyを備えた存在者――を特定することによって説明される。「…は…を引き起こした」という単称因果言明が述べているのは、個物としての原因-結果間のこうした"causing"関係である。
また結果は他方では、それと因果的な反事実的共変関係にあるような事実(もしその事実がなかったらその結果は生じなかったような)を特定することによっても説明される。そうした事実は、その結果に対する因果的efficacyを持たないにもかかわらず、因果的relevanceを持つ。そうした事実を表す文を用いた命題的説明が述べているのは、そうした因果的relevanceに支えられた関係に他ならない。
(また、因果に関するわれわれの実際的関心にむしろ適切に応えてくれるのは、一般には前者のタイプの説明よりも後者のタイプの説明である。)
因果性についてのわれわれの通常の理解からすれば、因果連関は一般に、因果的efficacyを備えた諸個物(出来事や状態)が複雑なネットワークを介して結果を産出するに至るプロセスとして描き出される(因果性についての「ネットワーク・モデル」)。そこでは、個別的な出来事と並んで、そうした出来事が当の結果を生み出すために必要とされる諸条件もまた個物(=状態トークン)として原因の地位につけられることになる。心の哲学の諸理論が暗黙の内に採用しているのもこうしたネットワーク・モデルであり、かくしてそれらは、信念や欲求といった心的状態を個物――"causally efficacious entity"――として立てるような"particularist"アプローチを採ることになる。
しかし上述のようなスチュワードの因果観の提案が示しているのは、こうした心的状態の個物化が因果に関する全くの誤解の産物だということである。
Of course, the idea that we might try to represent the aetiology of some particular action by means of a diagram detailing the beliefs, desires, thoughts, intentions, emotions, whatever, that are thought to be involved in its provenance is not in itself objectionable; what is mistaken is the thought that such a diagram represents the causal interactions of a set of separate, particular entities. What it actually represents is a collection of the nominalized explanates of the various sentential explanations which we deem appropriate in the particular case --- a picture of the relevant facts, not the structure of a physically realized web of causal interactions amongst particulars. The causal character of belief-desire explanation need not be threatened by this realization, provided we recognize the causal relevance relation --- one need not find beliefs to be causally efficacious particulars in order to think that one does things, in part, because of what one believes. (p. 245)
こうして視点からスチュワードが狙っているのは、トークン物理主義とは違った形で心的なものの因果的実在性を擁護することにあるが、残念ながら本書の中ではそうした方向へ向けての積極的な提案は詳述されてはいない。(例えば、心的なものの領域の中で何が真の出来事と見なされるべきかも明確にされていない。)
またそうした試みへの下支えとしてスチュワードが打ち出す因果観についても疑問を感じる点が多くある。事実を原因の座に据えることに伴う存在論的な費用対効果の算出結果はそれほどはかばかしいものになるとは思えないし(状態と並んで過程――これについてはスチュワードは第2部以降ではほとんど語ることがない――の取り扱いも考慮に入れた場合には特に)、幾つもの問題がただちに待ち受けているようにも見える。
因果的relevanceに関するスチュワードの議論によれば、ある結果に対してある事実が因果的relevanceを持つ(またその限りで原因と呼ばれ得る)ためには、その事実と結果との間に、「その事実がもしなかったら、その結果は生じていなかった」というような反事実的な依存関係が成立していなければならない。そしてこれは、次のような――因果性の反事実的分析にはおなじみの――奇妙な帰結をもたらすように思われる。
人物AはXに向けてピストルを発射し、Xを首尾よく殺すことに成功する。だがその状況では、AがXの殺害に成功しなかった場合には別の人物BがXの命を確実に仕留めるよう手はずが整えられていた。こうした場合、Xが死亡した原因は、直観的に見てAがピストルを発射したことであると思われるし、また実際、因果的efficacyと単称因果言明に関するスチュワード自身の見方からしても、Aによるピストルの発射という個別的出来事はXの死亡の原因と見なすことが許される。にもかかわらず、Aがピストルを発射したという事実は、Xの死亡という結果に対して因果的relevanceを持たず、したがってその原因ではない。というのも、Aがピストルを発射するという事実がもしなかったとしても、Xは(Bの手によって)命を奪われていただろうからである。
こうした一見したところのパズルを解くべく、スチュワードは「個別的結果」と「命題的結果」との区別を導入すべきだと提案する(p. 195f.)。すなわち、Aによるピストルの発射という個別的出来事は、Xの死という個別的結果をもたらした(「Aのピストル発射はXの死を引き起こした」は真である)が、Aがピストルを発射したという事実は、Xが死んだという命題的結果をもたらしたわけではない(「Aがピストルを発射したので、Xは死んだ」は偽である)、と。
しかしこうした提案は(少なくとも個人的には)きわめて受け入れがたいものだと思われる。またもしこうした提案が、出来事と事実という二重体制の存在論を取ることで生じると思われる様々な因果的多重決定の問題に対するスチュワードの解決の雛型として考えられているのだとすれば、それはむしろスチュワードの側にとってあまり有利に働くようには思われない。
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◆いろいろ
整理中。にもかかわらず実家方面から鍋が送られてくるのはなんでなのかと。
村岡晋一『対話の哲学―ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』(講談社選書メチエ、2008)を読み終える。前半はドイツ・ユダヤ人の歴史の概観に続いて、ヘルマン・コーヘンとその弟子ローゼンツヴァイクの仕事が紹介され、後半では主としてフンボルト、シェリング、ローゼンツヴァイクに依拠しつつ「対話の哲学」の構想が述べられる。なんとなく、近現代におけるユダヤ思想の系譜や様々な動向(例えば、カッシーラー/ハイデガーとローゼンツヴァイクとの間の捩れ)をもっとふくらみのある形で描き出してくれるような本なのではないかと勝手に思い込んでいたので、その点ではかなり予想が外れた格好になる。
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ローゼンツヴァイクの「新しい思考」というのは『思想』のシュトラウス特集号(2008年第10号)に訳出されているのだそうだから後で見ておくか。
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◆Putnam
・Hilary Putnam, Jewish Philosophy as a Guide to Life: Rosenzweig, Buber, Levinas, Wittgenstein (Indiana University Press, 2008)
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◆Steward, OM
第5章「個物、事実、因果的説明」。
因果性と因果的説明をめぐる標準的な見解を批判的に検討することを通じて、一方では、因果関係に立つ存在者(因果的な力の担い手)として状態トークンを導き入れようとする誘惑を斥け、また他方では、事実というカテゴリーに因果的力を帰す(つまり事実にも原因としての地位を認める)という戦略――この点ではD. H. Mellor, The Facts of Causationに近い――を打ち出す、というようなことになるらしい。
It will be my eventual conclusion that there is no hope whatever of ridding ourselves of commitments to causal relationships in which one or more of the relata is a fact; and that none of the arguments proffered by Campbell, Fales, and others show, either, that continuant things cannot be causes. In short, I shall be trying to argue against the common suggestion that we ought to try to reduce the rich and varied assortment of causal idioms found in ordinary causal explanations to a single paradigmatic form, and correspondingly, to suggest that there is not really any sensible question of the form ‘What are the "true" or "real" relata of the causal relation?’ (p. 138)この引用に見られるように、因果性の問題に関するスチュワードの基本的な態度は(出来事の概念についてそうであるのと同様に)寛容で多元的とも言えるものであるけれども、そのせいでかえって議論の焦点が見えづらくなるというか、そもそもなぜ状態(トークン)の概念だけが眼の敵にされるのかが不明瞭になってしまうようにも感じる。というのも、状態の因果的地位に関するスチュワードの議論(状態を原因と見なすことへの批判)は、それと並行する形で過程のカテゴリーについても当てはまるように思われるから。
なお、上で因果性に関する「標準的な見解」と呼んだものの内容は、大よそ次のようにまとめられる。
(A)因果的な力の担い手に関する標準的見解: 因果的な力を持つもの(したがってまた真に因果関係の項となり得るもの)は、純粋に抽象的・普遍的なもの(例えば事実や命題)であってはならないし、またあまりに個別的すぎるもの(個物)であってもならない。原因・結果となるに相応しいのは、適度の普遍的(質的)性格と適度の個別的性格とを兼ね備えたもの――出来事、状態、過程、個別的特性(トロープ)、…――でなければならない。
(B)因果性と因果的説明に関するデイヴィドソン的見解: 「 は を引き起こす( causes )」という外延的関係表現を用いた単称因果言明(典型的には、CとEが或る個別的出来事を指すとして「CはEを引き起こした」といった言明)は、自然界の内で成り立つリアルな因果関係を表している。これに対して、「~なので~(~ because ~)」という内包的な文結合子を用いた命題的な因果的説明が表しているのは、文によって表現される事実どうしの間の説明関係(リアルな因果関係とは区別された、われわれにとって理解可能な因果的ストーリー)である。
(C)単称言明と命題的説明との関係に関する「存在汎化説」: 「~なので~」という命題的な因果的説明が真である場合、それが真であるのはしかるべき単称因果言明が真であるためである。この意味で、「pなのでq」というような命題的な因果的説明は、(典型的には原因・結果という出来事間の関係を述べた)単称因果言明の存在汎化――「(∃e)(∃e')(eはe'を引き起こした)」――と見なすことができる。
さて、これら三つの基本的主張の内で、この第5章でスチュワードが特に議論を集中するのは(C)の存在汎化説である。彼女は二種類の反例を挙げて、存在汎化説は維持できないと主張する。すなわち、(1)否定的な説明項を持つ因果的説明のケース、および(2)状態に言及した説明項を持つ因果的説明のケース、である。
(1)に関して問題になるのは、「マッチをすらなかったので火はつかなかった」、「その人は抗生物質を投与されなかったので亡くなった」、「列車は警笛を鳴らさなかったので衝突した」といったような説明である。
スチュワードによれば、これらの命題的説明を単称因果言明のフォーマットに合わせようとすれば「マッチをすらないという出来事」といったような否定的な“出来事”を持ち込むというグロテスクな帰結を招くことになる(これは出来事の不在・欠如それ自体を一個の出来事と見なすようなものである)し、またそうした帰結を避けようとして、問題のタイプの説明を因果的説明から排除することは説得力に欠ける。
また(2)に関連するのは、「橋は弱体だったので崩落した」、「私はニュースを見たかったのでテレビをつけた」といったようなタイプの説明である。
こうした説明のケースでは、それに対応する単称因果言明を定式化しようとすれば状態トークン(弱体であること、テレビを見たいという欲求)に訴える必要性が出てくるが、しかしそもそも状態には出来事のような明確な可算性・個体性が欠けている以上("As Mourelatos notes, stative nominalization transciptions are almost always mass-quantified; generally speaking, they do not accept the indefinite article and do not have pural forms." (p. 160))、そうしたやり方では最終的にうまくいかない、というのがスチュワードの主張である。
しかし(1)について言えば(「~しないという出来事」のような否定的な出来事に言及する以外には手がないかのように見えるケースに話を限ったとしても)、存在汎化説の基本的な精神に即する形で、一方では、問題のタイプの説明に一定の因果的な性格を認めながらも、他方では、それを出来事(「マッチをすること」、「火がつくこと」のような通常の肯定的な出来事)間の因果関係について述べたものとして解釈することは可能であるように思われる。
(――といった線で半日ほど考えてみたけれども、初歩的な所で間違っていると恥ずかしいのでここには書かない。)
また(2)については、状態を説明項とするようなタイプの説明に関するスチュワードの議論が正しいものと認めるとして、その上で直ちに問題となるのは、それと基本的に同様の議論が「雨が降っていたので地面は濡れていた」、「彼は運動中だったので心拍数が上昇した」といったように説明項として過程に言及するタイプの説明にも当てはまるだろうということである。
(これについては、デイヴィドソンに関するムレラトスのコメント("Events, Processes, and States," p. 434, n. 48)も参照。―― "At any rate, it is significant that of all the examples Davidson uses in his article ["The Logical Forms of Action Sentences"] none are cases of process predication.")
こうした問題はともかく、存在汎化説のような仕方で命題的説明と単称言明とを繋ぐのでなければ、それら二種類の因果言明はどのように繋がるのか(つまり、いかにして命題的説明は――単なる「良くできたお話」であることを越えて――実在の内に根拠を持ち得るのか)、というのが次章の中心問題になるらしい。
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◆モテフィジックス
・http://d.hatena.ne.jp/contractio/20081115#1226737745
みんなで『プリンキピア・モテマティカ』を読んだりするそうです。(うそ)
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◆メモ
・Paul Boghossian, Content and Justification: Philosophical Papers (OUP, 2008)
買おうかどうしようか考え中。
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◆Steward, OM
第2部からいよいよ話題は状態へ。
はじめの第4章はそのイントロダクションといった様子。「状態」をめぐる様々な語り口に関する文法的な考察を通じて、「心的状態」という概念、またそこにタイプ/トークンの区別を重ね合わせることで得られる「(心的)状態トークン」という概念がいかに奇妙で問題含みであるかを浮かび上がらせよう、ということらしい。個々の文法的所見には「なるほど」と思わされる所も少なくないのだけれども(例えば、「…の状態」という表現の濫用が引き起こしかねない混乱について、あるいは心的状態を表す表現が持つ――状態表現としては――例外的な可算性について、等々)、それらが全体としてどういった構図に収まることになるかがまだ明らかではないこともあって、どのような哲学的重要性を持つかについては判断に迷うところもある。
そういえば、以前に金杉武司『心の哲学入門』を読ませて頂いた際に、全体を通じて基本的概念について初心者向けの丁寧な解説が加えられた本であるにもかかわらず、タイプとトークンとの違いについてはかなりぶっきらぼうな扱いがされていたのが少し気になった記憶があるのだけれども、あれはどういうことだったんだろうか。(問題の区別があまりに自明すぎるからか、それとも泥沼にはまりかねないのを見越しての賢明な配慮か。)
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◆夕方
になるとすぐさま日も暮れちゃうしなあ、ということで朝から紅葉見物に出かけて(といっても遠出する気力はないので近くの公園)、明るいオレンジ色に一変して光り輝く桜の木立をぼーっと眺めたりと呑気な調子で始まったものの、こういう時に限って午後にはあれこれ予期せぬ知らせが飛び込んだりと、なぜか激動に見舞われる一日。なんと新しい生命までついに誕生するではないですか。おめでとう。まあ自分自身の身には相変わらず大した変化もないわけなので、こういうのは「ケンブリッジ」的な激動とでも言うべきなのか。しかしあちこち連れ回されて疲れたな。古い生命はもう寝よう。。。
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◆50 Years of Events: An Annotated Bibliography 1947 to 1997 (Roberto Casati & Achille C. Varzi)
・http://www.pdcnet.org/eventsbib.htm
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◆久野 暲「日本語研究と言語理論研究」
・http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~molihua/2006Qinghua/kityouhoukoku.pdf
田窪は大修館『日本の言語学』(全八巻)に言及して、「このアンソロジーに収録された文献を見れば、日本語の言語学研究がいかに非常に広範囲に渡るものであるか、またその成果があるべき形で現代に継承されず、いかに正当に評価されていないかが認識できる」と述べている。田窪によれば、例えば金田一春彦のアスペクトの研究「国語動詞の一分類」(1950)は、アスペクト形式とイベント構造との相関を動詞の分類という形で指摘したもので、同様の内容を持つ Zeno Vendler の “Verbs and Times” (1967) より10年早いし、南不二男の動詞句の構造についての論文「述語文の構造」(1964) は、文の階層構造と意味的な階層の相関を指摘したもので、例えば Foley & van Valin (1984) などよりも20年以上早いと述べている。この評価については異論はない。日本語で書かれた日本語に関する論文がいかに優れたものであっても、世界の言語学の土俵で、正当に評価されることが少ないということは、日本語が学問研究の上での国際語となっていない、という現実から言って止むを得ない。
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◆Vendler, Mourelatos
・Zeno Vendler, "Verbs and Times" (1957)
・Alexander P. D. Mourelatos, "Events, Processes, and States" (1978)
ついでなので、この機会にアスペクトの問題について勉強しておくか、ということで、ケニーの本は前に見てあったのでその続編。これらを見ると取りあえずは「アスペクトをめぐる哲学史」の大要が分かってしまうというのは、嬉しいような、悲しいような。
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半世紀を経てヴェンドラー論文を振り返ってみると、その日常言語哲学チックな論述スタイルや、ライル的な行動主義への共感があらわに見えるあたりがやはり、その後の哲学の流れ中でヴェンドラー(やケニー)の切り開いた問題領域への関心を閉ざす要因となったんではなかろうか、――と勝手に想像してみる。
それはともかくとして、ムラレトス論文の方は、言語学的知見を大幅に動員しての体系志向のスタイルや、(心の哲学や行為の哲学への関心に方向付けられたケニーやヴェンドラーの試みとは対照的に)より基礎的な存在論的区別への関心によって特徴付けられる。
後者の点については、ケニー=ヴェンドラーによる activity - performance (accomplish/achievement) - state という三分法(行為者性の概念を予想した分類)は、ムレラトスによれば、より広範な存在論的射程を持つ process - event (development/punctual occurrence) - state という「話題中立的」な三分類の特殊ケースにすぎない。
そして、こうしたムレラトスの考察の背景にはやはり、キネーシス(=performance)とエネルゲイア(=activity, state)というアリストテレスの区別(Met. 1048b18-36)への関心が潜んでいるものと思われるし("Events, Processes, and States," p. 431, n. 7; cf. Kenny, Action, Emotion and Will, p. 173, n. 2)、また彼がprocessとeventとの関係をmass termとcount termとの関係になぞらえる背景にも、そうしたアリストテレス的な区別に即した見方(そこではprocessはむしろstateに同化される)が大きく関わっている。
Process, a term ready to hand, is the topic-neutral counterpart of activity. (We need, however, to be on guard against possible confusion since some authors, especially philosophers in the context of discussion of mind-body identity, have used "process" as the counterpart of "accomplishment.") (p. 423)「過程 process」についてのムレラトスのこうした捉え方は、少なくとも日常的な理解に照らし合わせてみる限りでは、かなり人工的な部分を含んでいるようにも見えるけれども(というのもそこでは、過程に内在すると通常思われている統一性は失われて、不定形な持続だけが残ることになるのだから)、それはひとまず措くとしても、こうしたムレラトス流の枠組みを引き継いだスチュワードにとって、過程というカテゴリーは結局のところどういった意味を持つことになるのか、やはり疑問に思えてくる。(出来事のカテゴリーとは違って状態のカテゴリーには個物性・個体性を否定するスチュワードにとって、結局のところ過程の概念はどのように位置付けられることになるのか。)
こうした問題をめぐっては、アリストテレス研究の文脈でムレラトスの議論がどういったインパクトをもたらしているのかを見るのがよさげではあるけれども、これは激しく自分の手に余るのでペンディング。
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◆Steward, OM
手強そうな本かと思いきや、回りくどい語り口が所々で目につくものの、議論の内容は案外あっさりしているのだった。
存在者の基本的なカテゴリーとして、(1)個物、(2)普遍者、に加えて、(3)事実状(fact-like)の存在者、という三分法を据え、心の哲学においてしばしば曖昧なままに留め置かれている出来事と状態との区別を明確化した上で(出来事が個物であるのに対して、状態は事実状の存在者である)、心の哲学にとってのその帰結を辿ってみよう、――といった所が狙い目になるらしい。(が、まだよく分からない。)
まず第1部は出来事をめぐって。
第1章は、特性の事例化として出来事を捉えようとするキムやベネットのアプローチへの批判。その批判のポイントは、こうしたアプローチでは、心の哲学における代表的なオプションたるトークン同一説(トークン物理主義)を有意味なものとして定式化することすらできなくなってしまう、という点。(こうした角度からの批判はキムにとってはかなり不本意なのではないかという気もするけれども、トークン同一説に対するスチュワード自身の態度がまだはっきり見えてこない段階では、なんとも言いがたい。)
続いて第2章では、変化の概念に基づいて出来事の概念を輪郭づけようとするロンバードの「力動的」アプローチが取り上げられるが、これは最終的に、出来事と状態との区別を適切に捉えることができないという理由で斥けられる。(一方では、何の変化も伴わないような出来事も存在するし、また他方では、変化の概念と密接に結び付いた状態も存在する。)
最後に第3章では、出来事と状態とを適切に区別し得るようなアプローチとして、スチュワード自身の「時間的」アプローチが提案される。その基本的なアイディアは、時間との間で取り持つ関係――「時間的形状」――の相違に着目することで、出来事と状態との区別を明らかにしようというもの。
ただしこの章では、状態を主題とする議論への前段として、出来事と過程との区別をめぐって、アスペクトの概念を軸とした検討が中心となる。
スチュワードは、出来事と過程が、その出来/持続する時空的領域を完全に等しくするような可能性を認めつつも(例えば、「私がゴールまで走った」という出来事と「私が走っ(てい)た」という過程)、そこにカテゴリーを異にする二つの存在者の存在を立てるべく、出来事と過程との関係を、個別実体とその質料(素材)との関係になぞらえるような見方を提案する。(これは、出来事の述定と過程の述定との区別を、count nounとmass nounの区別になぞらえようとするMourelatosのアイディアに由来している。)
こうした見方については個人的には非常に不満を感じるのだけれども、もう少し話の展開――出来事/過程の区別をどのように使おうとしているのか――を見てみないことにはやはりまだ何とも…。しかし、スチュワードの念頭にあるような心の哲学(脳内で何が生じているかを見やりつつ、心的なものの存在論的身分を確定しようとする試み)の枠内では、結局のところ出来事と過程との区別はさしたる重要性を持ちそうにはないんではないか、――というような予感が濃厚に漂っているのが、(今のところ)不満の最大の原因かもしれない。
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◆Wash. voters approve assisted suicide initiative
・http://seattletimes.nwsource.com/html/localnews/2008352565_apwaassistedsuicide2ndldwritethru.html
Voters approved Initiative 1000 on Tuesday, making Washington the second state to give terminally ill people the option of medically assisted suicide.
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◆Sinnott-Armstrong & Timmons
・Walter Sinnott-Armstrong & Mark Timmons (eds.), Moral Knowledge?: New Readings in Moral Epistemology (OUP, 1996)
ちょっと見てみる。
とりあえずは序論的な、W. Sinnott-Armstrong, "Moral Skepticism and Justification"。
・信念のevidentialな正当化とinstrumentalな正当化(pp. 18f.)
もしも私が火星にはツチブタが存在していると信ずるのであれば、どこかの慈善家が私に百万ドルを与えてくれることになっている。そこで私は、そのように信ずる状態へと自分を変化させてくれるある特殊な薬品を服用し、その力を借りて実際にそう信ずるようになる。私がそうした信念状態へと変化したのは純粋に薬品の影響によるものであって、何か新たな証拠を獲得したからではない。
シノット-アームストロングによれば、今の場合に私が火星にはツチブタが存在すると信ずることは、instrumentalには正当化されるが、しかしevidentialに正当化されるわけではない。私がそのように信ずることが正当化されるというのは、あくまでも、私が問題の薬品を服用することが正当化され、そうした仕方でしかるべく自分を変化させることが正当化されるというのと同じ意味でのことでしかない。
というのも、信念がevidentialに正当化されるためには、当の信念を支える証拠と真理との間にしかるべき結び付きが存在することが必要とされるが、今のケースでの私が信念を持つことにとっては、その内容が真であるかどうかは何ら重要ではないからである。
... In fact, evidential justification could be defined as adequate positive support that is tied to truth./ In contrast, instrumental justification depends only on the beneficial effects of the mental state of belief. (p. 18 ――強調は原文)
In general, instrumental justification depends on the effects of a belief state, and the effects of a belief state do not affect the truth or probability of the belief's content, so instrumental justification is not tied to truth even probabilistically. (p. 19)(evidentialな正当化とinstrumentalな正当化という区別に立脚してシノット-アームストロングは最終的に次のように論ずる。倫理的ニヒリズムに立つ懐疑論的挑戦を前にしては、道徳的認識論の代表的な立場――直観主義、整合主義、契約主義――はいずれも、道徳的信念のevidentialな正当化を確保することにほぼ失敗しており、それらの立場にできるのはたかだか、道徳的信念のinstrumentalな正当化を守り抜くことでしかない、と。)
上のようなケースで私が――はじめからevidentialな正当化の可能性からは切り離された仕方で――獲得することになるものを「信念」と呼ぶことには本質的にいかがわしいものが伴っているように見えるけれども、「(信念)状態」への言及というのはそうしたいかがわしさをどのように覆い隠しているのか。
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◆Jackendoff
Language, Consciousness, Culture: Essays on Mental Structureの第8章(Intending and Volitional Action)がこちらで翻訳されているのを読ませていただく。しかし言語学系の話は慣れないせいか難しいな…。
(代名詞の照応に関する言語的事実を引き合いに出すことで「文の指示」について問われるべきなのは、(1)単称名辞に意味論的な値としてその指示対象が割り当てられるのと同様の仕方で、全体としての文に割り当てられるべきものは何であるか(真理値、出来事、状況、…)、という問題なのか、それとも、(2)文(行為を表現する文)は一般に何かある出来事への量化を含んだものとして分析されるべきかいなか、という問題なのか。しかしどっちにしても、出来事をどういった存在者として考えるかという問題抜きには、あんまり意味がないわけか。)
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◆Steward, OM
・Helen Steward, The Ontology of Mind: Events, Processes, and States (OUP, 1997)
読み始め。
出来事については多くの議論が集中しているのに比べ、状態についてはなんでこんなに議論が乏しいのだ?、というのは言われてみればたしかにまあそうか。
コリンズの本とは対照的に、こちらはがっちり重厚な構成で、ちょっと手強そうだな。。。
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◆Collins, NMT
第6章と第7章の主題は行為と因果性。
理由による行為の説明についてのデイヴィドソン以後の「標準的」見解によれば、「彼は明かりをつけようとしてスイッチを押した」といった説明は、その目的(=明かりをつけること)へと向かうような内容を備えた心的状態(明かりをつけようとする欲求や意図)によって当該の行為が因果的に引き起こされることを述べた因果的説明として解釈される。
コリンズは、こうした因果説では行為者の輪郭が見失われてしまうと批判し、理由による行為の説明をむしろ素朴に目的論的説明(原因としての心的状態の措定を不用とするような)と考えるような代案を打ち出す。彼は生物のホメオスタシスについての説明をモデルとして取り上げ、目的論的説明一般の権利付けを図った上で(そこでは、目的論的なものを心的な志向性に帰着させようとするウッドフィールドの試み(Andrew Woodfield, Teleology, 1976)が特に批判される)、生物のホメオスタシスと類比的に行為一般をも「環境の変化に応じた補償作用」として捉えようとする見方を提案する。
Action is a kind of limiting case of compensation. The action compensate for the general failure of the world to produce the objective without intervention from the agent. (p. 141)こうした視点からさらに、「彼は明かりをつけたかった(欲していた)のでスイッチを押した」といったように、行為者の心的状態に明示的に言及しているかに見えるタイプの説明において、そうした言及の演じている役割についても考察が加えられることになるが、そうした展開はひとまず措くとして、コリンズの基本的なアイディアは非常に興味深いものだとは思うのだけれども、残念ながら目的論的説明についてのコリンズの議論は基本的にアーネスト・ネーゲルの水準に留まった旧弊なもので、そのままの形ではあまり説得力が見込めないと思う。そしてまた、その議論をブラッシュアップしようとすると(例えばミリカンのように明示的に進化論的視点を組み込む形で)、今度は、目的論的活動一般と行為との間にコリンズが打ちたてようとするアナロジーが説得力を失うことになりかねない。(そうしたアナロジーを説得的なものとするためには、コリンズが与えている以上に多くの努力を傾ける必要があると思う。)
というわけで、議論の内容にいろいろ不満はあるものの、しかしこれは刺激的なアイディアとヒントに満ちた大変面白い本だと感じた。特に、例えば『指示の諸相』でのエヴァンズの試みの、さらにその先に開かれるような心の哲学の展開を考える上では、多くのヒントを与えてくれるんではなかろうか、と思った。(しかし残念なことに、ここではそれらは往々にしてヒントの域に留まっているようにも感じた。)
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◆Podcast of David Wiggins on Solidarity
・http://ethics-etc.com/2008/10/30/podcast-of-david-wiggins-on-solidarity/
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◆Jacques Rancière and Indisciplinarity
・http://www.artandresearch.org.uk/v2n1/jrinterview.html
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