◆朝方
までかかってカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んで年末気分に浸っていたら、掃除する気持ちも失せてしまってけっきょく来年へと持ち越し。(この小説の破綻のない、どちらかといえば平板な語りからすると、「浸る」というよりはむしろ、安定した速度でどこまでもズブズブと沈み込んでゆくような感じだけれど、どこに沈み込んでゆくかは判然としない。)
まあそんなこんなで、それではさよーなら。
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◆朝方
までかかってカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んで年末気分に浸っていたら、掃除する気持ちも失せてしまってけっきょく来年へと持ち越し。(この小説の破綻のない、どちらかといえば平板な語りからすると、「浸る」というよりはむしろ、安定した速度でどこまでもズブズブと沈み込んでゆくような感じだけれど、どこに沈み込んでゆくかは判然としない。)
まあそんなこんなで、それではさよーなら。
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◆Husrthouse, VE
ようやく終盤。どうにか年内に読み切れるか。
道徳的理由から行為するというのはどのようなことか、ある行為者が道徳的理由から(そうするのが正しいと考えて)行為したと言われ得るのはいかなる場合か、――こういった問題は総じて行為者のキャラ(character)に懸かってるし、キャラって大事だよね、というのが第2部でのお話。でもオレらってそもそもキャラ薄いんだよね、という思いもついつい頭をよぎってしまうのはやはり不徳の致す所だろうか。
功利主義や義務論に伍しうるような規範倫理的構想としての徳倫理の独特の輪郭を際立たせながらも、特にカント的な義務論との接近を改めて図っていこうとする、本書でのハーストハウスの基本的な姿勢が最も良く出ているのがこの第2部なのだろうけれども、この部分は全体的に何だか議論のトーンが固い感じがするのはともかくとして、“Modern Moral Philosophy”でのアンスコムの毒気を一生懸命中和しようとするかのようなハーストハウスの試みは、何かを取り逃がしているんじゃないかという不安感も残る。
その上で最後の第3部では、何をもって徳と見るかがいかにして客観性を持ち得るかという挑戦をめぐって、マクダウェルのような「ノイラートの船」戦略に大枠を借りつつ、フット風の自然主義で肉付けすることで、それなりの対応ができるだろう、というようなことらしい。
今北産業的に一読しただけとはいえ、この本でのハーストハウスの狙いがそれなりに見えてきた所で、ハーストハウスとヴォグラーが、それぞれにアンスコムを強く意識しながらも、倫理学と行為論とをどのように結び付けるかという基本的な方向性に関して、全く相反するような立場に辿り着いていることを考え合わせると、倫理学と行為論とのはざ間でアンスコムが「十全な心理学の哲学 an adequate philosophy of psychology」に付託していたものがますます謎めいてくる。
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◆Hursthouse, VE
まだ前半途中。
本書の内容についてはこちらで簡潔に紹介されていて、一言で言えばアリストテレス的な徳倫理を体系的に提示した著作ということになるみたいですが、(体系的著作にありがちな、同業者相手に口角泡を飛ばしてまくし立てるといったようなスタイルとは異なって)何というか孫を相手におばあさんが諄諄と説き聞かせるかのような柔らかいトーンが印象的。
恐らくそれは単なる語り口の問題というだけではなくて、“子どものための倫理学”というアジェンダ、つまり道徳教育について何を語り得るかこそが倫理的理論の成否を決する一つの重要な因子たりうる(し、またその点で、功利主義や義務論を相手どって、アリストテレス的徳理論にこそ大きな期待が見込めるはずだ)とするハーストハウス自身の確固たる確信に立って選び取られた方法論とも言えるのでしょうが。(またさらに言えば、結局のところ一般の成人も――徳ある人との対比で言えば――多少とも成長した子どもにすぎないのだ、と。)
… an important aspect of our moral life, namely the fact that we do not always act as "autonomous", utterly self-determining agents, but quite often seek moral guidance from people we think are morally better than ourselves. (p. 35)
To anyone sympathetic to the writing of the later Wittgenstein, such rejections of clear-cut distinctions [i.e., belief/desire and rational/irrational] in philosophical psychology are as natural and necessary as breathing. […] I have found when teaching virtue ethics to graduate students, or discussing papers by, in particular, Anscombe, Foot, and McDowell with fellow philosophers, that what often blocks understanding is the unconscious assumption that everyone shares the view that, for example, beliefs and desires are natural kinds, or that a reason is a belief/desire pair that causes an action, or that all mental states are brain states --- or, more generally, that philosophy is supposed to uncover or construct the foundations of our thought. Struggling to square these assumptions with what is said, the audience finds what is said deliberately obscure or wilfully incomplete, or inconsistent, or open to such blindingly obvious objections that they think they cannot have understood. Sometimes --- not always, of course --- the cloud lifts if one says, "But you don't believe that so-and-so if you're a Wittgensteinian." (p. 16)
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◆Hursthouse, VE
・Rosalind Hursthouse, On Virtue Ethics (OUP, 1999)
まだ序盤。
考えてみたらこの所ずっと「自然化されたトミズム」みたいな話ばかりを追っていたような具合なので、もうちょっと近代なのを読んでみたい気もそろそろしてきたけれども、ヴォグラーの本に比べてもう少しオーソドックスなアンスコム像を見ておきたいというのもあるから、まあいいかと。
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◆Dancy, Raz, Vogler
・Jonathan Dancy, "Practical Reason and Inference"
・Joseph Raz, "Comment on Dancy's Practical Reasoning"
・Candace Vogler, "Practical Thought"
こちらで公開されているものをざっと一読しただけ。
practical reasoningは行為を結論とするものなのだから、それを推論(inference)――つまり命題間の関係――として捉えようとするのはそもそも間違いなのだ、というのがここでのダンシーの趣旨であるらしい。そうした議論のベースになっているのは、Practical Realityでも述べられていたような命題と事態(state of affair)との区別ということで、ここでのダンシーの議論をきちんと評価するにはそちらも併せて見直しておく必要があるのだけれども、そうした面倒ははしょって大まかな印象としては、ダンシーがこうした区別の導入に至ったそもそもの(一つの大きな)契機というのが、
(A)ピンクの象が空を飛んで行くのが見えたので、私は思わずそれに触れようと手を伸ばしたというような二種類の「理由」の間のギャップをどう考えるかという点にあったとすれば、命題と事態の区別に訴えるというやり方は徒に問題を複雑にしただけであんまり意味がなかったんではなかろうか、と改めて感じる。
(B)ピンクの象が空を飛んで行くのが見えたので(=自分の精神状態を不安に思って)、私は精神科のもとを訪れた
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◆NDPR: Geach
・Peter Geach, Truth and Hope: The Furst Franz Josef und Furstin Gina Lectures Delivered at the International Academy of Philosophy, 1998 (Univ. of Notre Dame Press, 2001), Reviewed by Michael J. Murray
この書評だけを見る限りではかなり逝っちゃってる観も無くはないわけですが、まあ良くも悪くも頑固一徹というべきなのか、うーん…。
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◆Geach, Hare, Foot
・P. T. Geach, "Good and Evil" (1956)
・R. M. Hare, "Geach: Good and Evil" (1957)
・Philippa Foot "Moral Beliefs" (1958-9)
三本ともPhilippa Foot (ed.), Theories of Ethics (OUP, 1967)に収められているもの。
We can indeed say simpliciter "A is good" or "A is bad," where "A"is a proper name; but this is an exception that proves the rule. For Locke was certainly wrong in holding that there is no nominal essence of individuals; the continued use of a proper name "A" always presupposes a continued reference to an individual as being the same X, where "X" is some common noun; and the "X" expresses the nominal essence of the individual called "A". … Well, then, if the common noun "X" expresses the nominal essence of the individual called "A"; if being the same X is a condition whose fulfilment is presupposed by our still calling an individual "A"; then the meaning of "A is good/bad" said simpliciter, will be "A is a good/bad X". (Geach, "Good and Evil," pp. 65-66)こうした点では「良い/悪い」の文法は「同じ」の文法とおんなじだ(だって、どっちもtranscendentaliaなんだから)という所見を議論の出発点として、「良い」は(記述的意味を持つがただし)非自然的性質を表すのだとする"Objectivist"と、「良い」はそもそも記述的意味を持たないとする"Oxford Moralist"の双方を叩こうというのがギーチ論文の趣旨。フットによればこのギーチの論文は"a sadly neglected article"なのだそうで(P. Foot, Natural Goodness, p. 2)、「同じ」に関して相対的同一性の問題が巻き起こした議論を考えればちょっと不思議な感じもするけれども、「良い人間」とか「良い行為」に関するギーチの議論の目指す所はやっぱり神がかり的としか言いようがなさそうに見えるせいか。
Geach is the latest of a famous succession of thinkers who have systematically confused "what a thing can (or, alternatively, can typically, or does typically) do," with the quite different notion "what a thing ought to do (or, alternatively, what it is specifically good for it to do)". Plato was of course the principal culprit. The word "function" has perhaps been used to cover all these notions. The assimilation between them is only justified if we accept the assumed premise Natura (sive Deus) nihil facit inane. Anyone who feels attracted by Geach's use of this kind of reasoning should first read Aristotle, Politics 1252a35, where a similar premise is used in order to justify slavery and the subjection of women (cf. also 1253a9) (Hare, "Geach: Good and Evil," p. 81, n. 2)ヘアによれば、一般に「良いX」という表現が記述的意味を持つのは、Xにあたるのが、その機能によって定義されるような機能語――例えば「ナイフ」や「兵士」――である場合に限られる。そうした機能語については、例えば良いナイフであるためにはどのような性質を持たなければならないかを理解することが、語「ナイフ」の意味を理解することの一部であるし、しかもまた、「良い」に形容されて機能語が登場するのは、一般には道徳的文脈以外の文脈においてである。これに対して、(とりわけ道徳的文脈における)「行為」や「人間」については同様の説明は当てはまらない。
One may know the meaning of "action" without knowing anything which determines, even to the smallest degree, what actions are to be called good or bad. And if "human", like "man", is a non-functional word, the same will be true of "human action". (Hare, pp. 80-81)
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◆アニマル系
・Matthew Calarco, Zoographies: The Question of the Animal from Heidegger to Derrida (Columbia Univ. Pr., 2008)
・Matthew Calarco & Peter Atterton (eds.), Animal Philosophy: Essential Readings in Continental Thought (Continuum, 2004)
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◆無駄
に早起きをしたら、一日じゅう頭の芯のあたりがフラフラして頼りないことこの上ない。
アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』(平凡社ライブラリー、2006)を読んで無駄に過ごしたら、なんだかまるで、全世界を失って、ついでに自分自身の魂も失ってしまったみたいな一日。
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◆Anscombe, HAE
・Mary Geach & Luke Gormally (eds.), Human Life, Action and Ethics: Essays by G. E. M. Anscombe (Imprint Academic, 2005)
"The Causation of Action"(1983)と"Practical Inference"(1989)。
後者(まだ全部読み終えてないけど)はいかにもアンスコムらしい才気に満ちた論文だなあと感じる。(が、前者についてはあんまり感じない。)
実践的推論というネタについては、大学時代に某先生の講義を聞いて以来ずっと、「何だかよく分からん得体の知れない代物」という印象しか実はなかったのだけれども、やはりもう少し勉強しておくべきかと反省する。
・ケニーの"logic of satisfactoriness"について
通常の論理で「pならばq」が成り立つ場合、ケニーのこの“論理”では、「q!」という命令文を前提として「p!」という命令文を推論することが妥当となる。
Kenny's system allows many natural moves, but does not allow the inference from "Kill everyone" to "Kill Jones!" It has been blamed for having an inference from "Kill Jones!" to "Kill everyone!" but this is not so absurd as it may seem. It may be decided to kill everyone in a certain place in order to get the particular people that one wants. The British, for example, wanted to destroy some German soldiers on a Dutch island in the Second World War, and chose to accomplish this by bombing the dykes and drowning everybody. (The Dutch were their allies.) ("Practical Inference," p. 122)--------------------
アンスコムによれば、実践的推論と理論的推論は言わば同一の構成要素によって形作られるものとして相互に他方の形へと容易に転換できるし(例えば、「p;pならばq;ゆえに」という理論的推論と、「qたらしめん;pならばq;ゆえにpたらしめん」という実践的推論との関係のように)、ユークリッドによる幾何学的証明こそは「実践的推論の純粋な例」(p. 117)とさえ評価される。そして、
(1)このような実践的推論と理論的推論との一種の形式的な同質性を確認した上で、
(2)これら二種類のタイプの推論の基本的な相違を、理論的推論において前提は真なるものとの想定の下で与えられるのに対して、実践的推論における前提は、実現されるべき目標(欲求の対象)を設定するもの――したがってまた結論として実行されるべき行為が何のためになるかを示すもの――として与えられる点に存するのだ、とする所見を梃子として、
(3)理論的推論において真理の概念が果たしている役割と類比的に、実践的推論において「良さ・善(goodness)」の概念が果たしている独特の役割に論じ進める("in the sphere of practical reasoning, goodness of the end has the same role as truth of the premises has in theoretical reasoning" (p. 146))、
――というのが"Practical Inference"でのアンスコムの議論のポイントになるらしい。(←注:要約にあらず。)
そしてアンスコムによれば、理論的推論がその形式的妥当性とは別に前提・結論の真偽という観点から査定できるのと同様に、“妥当”な実践的推論もその前提(=目標)・結論(=目標実現のための行為)の良し悪しという観点から――抽象的な「べき」を問うような“道徳的”視点を持ち込まずとも――評価することが可能である。(例えば、邪悪な人間による邪悪な目的実現のための実践的推論が、その推論としての妥当性にもかかわらず批判され得るように。)ただし――
This can be made out only if man has a last end which governs all. Only on this condition can that illusory "moral ought" be exorcised, while leaving open the possibility of criticizing a piece of practical reasoning, valid in the strict and narrow sense in which in theoretical contexts validity contrasts with truth. The criticism will be of the practical reasoning as not leading to the doing of good action. An action of course is good if it is not bad, but being inimical to the last architectonic end would prove that it was not good. (p. 147)こうした「最終的目標」の想定の下で、言わば欲求一般を「良さ」に従属させようとするアンスコムのスタンスに照らしてみると、むしろ「良さ」の成り立つ根拠を何よりも欲求(calculativeな欲求)に求めるというヴォグラーのアプローチは、アンスコムの読みとしてはかなり異端的なものにならざるを得ないのだろうけれども、その問題はともかくとしても、(「あれが欲しい、これが欲しい」的な“単なる心理的”状態であってはならず、しかしまた神懸かり的な至高の目的を要請するものであってもならず、――というヴォグラー自身の問題意識の下で)実のところ「calculativeな欲求」というのは一体なんだろう、というのがますます謎めいた問題に感じられてもくるわけだ。
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◆デイヴィッド・ヒューム
・http://ja.wikipedia.org/wiki/デイヴィッド・ヒューム
1711年にエディンバラで出生し、11歳でエディンバラ大学に入学した。しかし哲学以外のことへの興味を持てずに学位を取ることなく大学を中退し、自宅でニート生活を行いながら哲学の研究に没頭した。それ言っちゃダメ…(´・ω・`)
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◆Vogler, RV
本文はひとまず読み終える。(この後さらに五つの補論が続く。)
特に面白かったのは終盤部分(第6~8章)。第6章ではアンスコムの行為論の基本的性格について啓発的な説明が与えられており、第7章での実践的推論をめぐる議論にも教えられるところが多い。(ヴォグラーによれば、実践的推論を正に実践的推論として特徴付けるのはその目的なのであって、内容ではない。したがって、実践的推論の主題は、行為の向かうべき目的を見定めることにあるのか、それとも与えられた目的に相応しい手段を算定することにあるかを問うのは本質的に無益である。)
しかしその一方で、ヴォグラーの引き受けようとしている理論的課題の全貌がまだよく見えてこないようなもどかしさも感じる。
大まかに言えば、目的-手段あるいは部分-全体というcalculativeな構造に即して行為の理由づけや実践理性を捉えようというのがヴォグラーの擁護する"calculative view"の基本的スタンスであり、これは行為の問題に関するM・トンプソンのアプローチとも共通する部分が大きい。ただしトンプソンが、意図や欲求の目的論的構造を直ちに行為自体の目的論に帰着させることで反心理主義な行為論へと向かうのに対して、ヴォグラーの方はむしろそこから逆に欲求の偏在性――意図的行為があるところには欲求(ただし、あくまでもcalculativeな構造を備えた欲求)がある――を導き出すことで、ヒューム的な心理主義とは一線を画しながらも、行為の理由づけの中心に欲求を据えるinstrumentalismの伝統の立て直しを図るという、幾分トリッキーな戦略がとられることになる。
… the baggage of an instrumentalist picture of motivation --- one in which desire is at once unruly and a core component in reasons for acting such that, say, desire sets ends of action and reasons finds means to attaining those ends. I have treated such pictures of motivation as the clunking, weak progeny of a genuine, deep insight into the rational structure of (representations of) intentional action as such, which has a means-end, part-whole calculative articulation. I have denied throughout that this insight derives us toward bifurcationist moral psychology. (pp. 197-198)その上で最後の第8章は、行為の理由(とりわけ道徳的理由)に関する内在主義を擁護しようという話。外在主義者が思い描くような理由の空間に過不足無く収まるには人間は余りにも卑小だ(したがって人間にとっての実践的合理性の解明は倫理的に中立的なものとならざるを得ない)、――というのがヴォグラーの言う"godless variant of Thomism"(p. 193)の基本的メッセージということになるんだろうか。
The modern philosophical interest in providing a noncalculative theory of practical reason has centered on the need to find rational support for morality, or for some other department of the ethical. If this is what we seek, then, as I have mentioned, my doubts about noncalculative theories of practical reason are not lessened by the fact that we have ignored medieval Christian moral philosophy. The medieval patristic and scholastic philosophers had it in their favor that they needed to make sense of the idea that people could be held accountable for their sins. Under the assumption that you are only held accountable for what you do when you have your wits about you (…), this means that the Christian philosophers needed to understand the rational structure of unethical action and the reasoning behind it. We have tended to ignore accounts of the rational order in wrongdoing in comtemporary, secular work on practical reason. (pp. 178-179)
One obstacle contemporary secular Anglo-North American practical philosophers face in arguing that externalist statements express reasons for acting is partly that we have inherited an ethical tradition grounded in systems of thought and practice that crucially concern themselves with divine providence, but we have lost the license to employ the foundational theological context in making sense of the kind of "ought" that is bound up in that context. … We also have inherited volumes and volumes of work on the rational structure of human evil, produced partly in the service of extending the ancient insights about practical reason. It is true that we neglecte this work almost entirely in our discussions of the reasons to be moral. But disabused of this ignorance, it becomes for us a pressing question just in what sense a mortal being who, say, has a couple of capital vices to her credit has a reason to change her way. (pp. 192-193)
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◆Daniel Dennett: Autobiography
・http://www.philosophynow.org/issue68/68dennett.htm (Part 1)
・http://www.philosophynow.org/issue70/70dennett.htm (Part 3)
残念なことに、Part 2の部分(一番おいしい部分?)は無料では読めないみたいですが…。
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◆松嶋敦茂『功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて』(勁草書房、2005)
気分転換に読んでみた本。ゴティエを取り巻く大まかな議論状況については多少は見えてきたものの、でもやっぱり難しい。
限界革命前後の経済学者たちにおける経済学と功利主義との交錯に光を投じた前半部に関しては、経済学史についてロクに知らないのだからよく分からんのもしょうがないかとも思うのだけど、功利主義とリバタリアニズム(ハイエク)や契約主義(ロールズ、ゴティエ、スキャンロン)との競合状況を主題とする後半部分に関しても、そこでの様々な対立が作り出す大きな編み目模様――そこではロールズやスキャンロンの契約主義とヘアやシンガーの功利主義が緩やかに連携して一つの図柄を形作ったりもする――以上のものが素人目にはあんまりよく見えてこないような。いやむしろ、この先生きのこり戦略からいったらそれでいいのだ、ということなのかな。
_,,...,_
/_~,,..::: ~"'ヽ
(,,"ヾ ii /^',)
:i i"
| (,,゚Д゚)
|(ノ |)
| |
ヽ _ノ
U"U
・http://www.shiozawa.net/koen/koenkiroku/MRKenkyukai2007.html
『現代経済学史 1870-1970』というのも暇があったら読んでみるか。
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◆Dumb Ox Books
・http://www.staugustine.net/dumboxbooks.html
こういうのはクリスマス・プレゼントにちょっと欲しいかも。
でもどうせ置く所がないからありがた迷惑か。。。
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◆Vogler, RV
半ば惰性でショボショボ読み進めてようやく折り返し地点まで。しかしこれは基本的に面白い本なのだと思う。
・行為の理由や説明について考えるにあたって、言ってみれば行為の水準に踏みとどまって、行為の領域に内在する目的論的な――ヴォグラー自身の好む言い方では"calculative"な――分節構造に着目しようという点ではM・トンプソンと基本的な立場を等しくしているものの、トンプソンの考察があくまでも、行為の“概念記法”的な形式構造(一般には完了/未完了という二種類のアスペクト表現の間のギャップとして表れるような)に向けられているのに対して、ヴォグラーの方はトマス・アクイナスの行為論を参照することで、より実質的な形で行為の目的論の分節化へと切り込もうと試みている、――といったようなことでいいのかな。(前半部を見ただけでは、その成果はまだよく分からず。)
・で、この本全体を通じてのヴォグラーの狙いとしては、(1)実践理性についてのinstrumentalism(道徳的反実在論・非認知主義や、ヒューム的道徳心理学とも緩やかに結び付きつつ、新古典派経済学やベイズ的決定理論のような社会科学的研究のための哲学的基礎を形作っているオーソドクシー)には一応の説得力を認めながらも、(2)それをヒューム的な道徳心理学に基づける形で擁護するのは見込みが無さそうだから、(3)むしろ上述のような、行為のcalculativeな構造に関する主張をinstrumentalismの中心的主張として理解することで、その説得力を説明しよう、ということなのだそうだ。
・んでもってトマス。トマスにとって人間の行為の目的論は最終的に、神による救済を至上の目的とする神学的構図に繋ぎ止められていたわけだから、神なき時代の世俗的倫理学者としてはそこんところ(悪の合理性――全く邪悪な人間へと自らを訓育し、邪悪な目的へと向けて行為を組織化する、という可能性)をどうするかが思案のしどころなのだ、と。
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◆ひとまず
一個終了。人から誉められても罪悪感しか感じられないというのは、自分がいかに手抜きばかりしていたかという証拠に違いない。それにしても、物事をきちんと終わらせるというのはやっぱり異常に苦手。哲学は終わらないから好きだ。
近くの山はまだ晩秋のくすんだ色合いを留めているのに、その向こうの山並みはもうすっかり雪で覆われて山稜の輪郭をひときわ際立たせているのがどこか非現実的な光景。
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◆Ad Corinthios 1, 13. 10
"cum autem venerit quod perfectum est evacuabitur quod ex parte est"
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◆睡眠時間
が徐々にずれ込みつつあるせいで、一人時差ボケ状態となりつつある昨今ですが、今日はついに眠さマックス。あまりの眠気でハイになっているのに勢いをかりて、大澤真幸『〈自由〉の条件』を読み終える。ずっと読んでると何だかまるで、この世に唯一「否定」以外には論理的操作は存在しないかのような錯覚に陥ってしまいそうになるのだった。
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◆Vogler, RV
・Candace Vogler, Reasonably Vicious (HUP, 2002)
トンプソンの本の第3部はいきなり社会的実践の問題に話がとんで、ゴティエとロールズが議論の中心になるらしいので、その前にこちらを見ておくかという作戦。
アンスコムの導きにしたがって、トマスにまで立ち帰ってみましょう、ということなのだそうだ。
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◆Thompson, LA
第2部後半(第8章「行為と時間」)について、ちょっとメモ。
前にドラフトを読んだ時には、これがケニーらの議論とどう関係しているのか理解が不確かなままだったのが、再読してみてようやく話が見えてきた。
ここでのトンプソンの狙いは、行為に内在するetiologicalな秩序を、われわれの「日常的な出来事意識」――行為表現のアスペクト的性格に映し出されているような――に照らして解明することにある。
・言語的アスペクトの哲学的解釈を与えるにあたって、ケニー-ヴェンドラー-ムレラトスが議論のベースとしていたのは出来事/過程/状態という存在論的三分類であった。大まかに言えば、この三分類は、完了アスペクト、未完了(進行)アスペクト、無アスペクトという区別に対応している。(しかもそこでは、いずれも完了的なアスペクトが欠如しているという理由で、過程を状態に同化しようとする強い傾向が見られる。)
これに対して、トンプソンの考察を輪郭付けているのは、出来事‐過程(つまり、アスペクト的二極性を呈するもの)と状態(アスペクトを欠くもの)という二分法である。
・その背景には、トンプソンの独特な行為観がある。彼によれば、従来の行為の哲学は、いわば瞬間的に為し遂げられるような点的・アトム的な行為に議論を集中してきたが、われわれが目を向けるべきなのはむしろ、時間的な流れの中で進行してゆく行為のプロセス――"events-in-progress"――なのである。
… the tendency of students of practical philosophy to view individual human actions as discrete or atomic or pointlike or eye-blink-like units that might as well be instantaneous for all that it matters to the theory. Part of the present effort, then, is to break up such conceptions. (…) The nature of intentional action, or of the kind of being-subject-of-an-event that characterizes a rational agent and a person, resides in the peculiar "synthesis" that unites the various parts and phases of something like house building, for example, mixing mortar, laying bricks, hammering nails, etc. (p. 91)それゆえ、
… the object of the philosophy of action is legitimately restricted, in the first instance, to a category of intentional action that excludes acts of mind, starting-to-act and other such non-durative actions-by-courtesy --- to intentional action proper, as we call it. (pp. 111-112)
The unity that pervades our table of forms of straightforward rationalization resides on the present view in this, that the sort of rationalization registered in it is in general a form of explanation by the imperfective, or by the "incomplete" --- though a specifically self-conscious and reason-involving one. In particular, the type of explanation of action at stake in action theory, whether naive of sophisticated, is uniformly a matter of locating the action explained in what might be called a developing process; it is just that this progress, development or "imperfection" must be understood to exhibit various types or grades. (p. 132)
以上のような一般的な視点に立ちつつ、最後の二つの節では、「…を意図している」や「…を欲している」といった心的な語法に付随する内包的で非実在的な性格を、「…している/していた」といった未完了アスペクトの表現が一般に持つ同様の性格によって説明することが試みられる。すなわち、トンプソンによれば、「私はパンを焼いた」という完了アスペクトの文は「あるパンxが存在し、私はxを焼いた」を伴立し、また同様に「私はパンを焼くという行為を行なった」は「パンを焼くというある行為xが存在し、私はxを行なった」を伴立するが、これに対して、「私はパンを焼いていた」という未完了アスペクトの文は「あるパンxが存在し、私はxを焼いていた」を伴立せず、また「私はパンを焼くという行為を行なっていた」も「パンを焼くというある行為xが存在し、私はxを行なっていた」を伴立しない。このように、未完了・進行アスペクトの語法は一般に内包的文脈を形作り、独特の非実在的性格を帯びることになる。しかもそれは、未来に関わる不確定性とは全く別個なのである。
ここからさらにトンプソンは、ダメットがしばしば取り上げる「X is going to V」と「X will V」とのペアについても、これら双方をダメットのように未来形(ダメットによれば前者は「現在の傾向性を表す未来形」であり、後者は「真正の未来形」だとされる)として理解するのは誤りだとする。トンプソンによれば、未来時制を表すのは後者だけであり、前者は一種の未完了アスペクトの表現なのである(p. 141, n. 25)。
これらの指摘にはなるほどと感じる部分もあるのだけれども、意図や欲求の表現に伴う内包性が本当にこうした形でうまく処理できるかという点については、まだ十分に納得し切れない部分も残る。(またいずれにせよ、これらの語法に関するトンプソンの考察はかなり駆け足のものである。)
説明項として行為者の意図や欲求に訴えるような“洗練された説明”の説明能力を、説明項のアスペクト的性格に帰着させるというトンプソンの見解を支えているのは、意図や欲求を表現する文中で目的語として働くのは、アスペクト的二極性を備えた表現であるはずだという言語的所見である。
… we can only join a subject and a verb phrase by means of one of our practical-psychical verbs if the subject and verb phrase thus joined exhibit the basic aspectual duality in their own "unvarnished" combination. It is, that is, only because the representations "she" and "walk to school" can be joined perfectively, as in "she walked to school," or imperfectively, as in "she was walking to school," that they can be joined by "wants", "intends" or "tries" --- as in "she intended to walk to school." (p. 131)しかしこうしたトンプソンの主張にもかかわらず、われわれは実現不可能な――したがってまた完了アスペクトでの表現が(字義通りの意味では常に偽とならざるを得ない、というイミで)原理的に不可能であるような――行為を欲求の対象とすることはないだろうか?(例えば、永久機関の制作のように物理的に実現不可能な行為や、最大の素数の発見といった論理的に不可能な行為、明けの明星と宵の明星との非同一性を発見するといった形而上学的に不可能な行為、等々。)
あるいはまた、行為を説明するものとしての“洗練された”心的な文と“素朴な”進行形の文との間には、次のような相違もあるのではないだろうか。「人物SはVすることを意図している」と「Vすること=V*すること」が真だということからは、「SはV*することを意図している」は必ずしも帰結しないが、これに対して、「SはVしている」と「Vすること=V*すること」が真だということから「SはV*している」が帰結するように思われる。
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◆Williamson, PP
・Timothy Williamson, The Philosophy of Philosophy (Blackwell, 2007)
トンプソンがやっているアームチェア(アプリオリ)生物学みたいなのはどうなのよ、という関心からちょろっと見ただけ。思い出してみると、もともと自分自身にとっていわゆる分析哲学との出会い――というほど大げさではないけど――を与えてくれたのはアームストロング(の特に最初期)とかチザムの著作だったこともあって、linguistic turnとかconceptual turnとかいった「転回」史観をめぐるお話はそもそもの初めからしてあんまりピンと来ない感もあるわけですが、こんな私でも読み通せるのだろうか。
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