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2009年3月

2009年3月30日 (月)

◆ポスト・モダン思想家としての谷川雁
http://lp21coe.law.kyoto-u.ac.jp/occasional/pdf_occa/02_otake.pdf

もう眠いから読むのは明日にしよう…。

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◆Peacocke, Anscombe
・Christopher Peacocke, "Intention and Akrasia" (1985)
・G. E. M. Anscombe, "Thought and Action in Aristotle: What is ‘Practical Truth’?" (1965)

実践的推論と意図との関係をめぐって、いずれも非常に興味深い内容が盛り込まれた二論文で、先週からぐるぐる何度も読み返しているものの、さすがにもういいか。無理やりに一つの教訓を引き出すとすれば、デイヴィドソンが「実践的推論」と呼んでいるものは実はちっとも実践的ではないんではないか、というような話にもなりそうではあるけれども、アンスコムによれば、その点ではアリストテレスの立場もかなり問題含みである(アリストテレスは実践的推論を理論的推論に同化することで、結論(=行為)へと心を動かすことを、論証的な必然性の力によって説明しようとしたがゆえに、意図の概念を適切に捉え損なってしまった)のだ、と。

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◆トゥールミン
牛島信明『ドン・キホーテの旅―神に抗う遍歴の騎士』(中公新書、2002)から抜書き:

卓越した思想史家スティーヴン・トゥールミンは名著『コスモポリス―近代の隠れた問題』(邦題『近代とは何か』)においてヨーロッパの近代を論じ、三十年戦争(1618-48年)を境に、その前後で、近代の性格が一変していることを強調している。すなわち、十六世紀の「ルネサンス=人文主義的近代」(エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、モンテーニュ、ベーコンら)と十七世紀の「合理主義的近代」(ガリレオ・ガリレイ、デカルト、ニュートン、ライプニッツら)の相違である。
 トゥールミンによれば、三十年戦争という宗教的対立がもたらした政治的、社会的カオスに直面することによって安定と確実性が追求され、その結果生み出されたのが「合理主義的近代」であるという。したがって、十七世紀の合理主義者が体系的論述、普遍的な論理、超時代的な原理を求めたのにたいして、十六世紀の人文主義者は寛容の精神を旨として、個別的なもの、ローカルな多様性、その場限りのもの、そして柔軟な適応能力を重視し、尊重していたというわけである。
 かくして、ヨーロッパの近代は明らかに異なる二つの出発点を持つことになる。ひとつは古典文献に基づく人文主義的な出発点であり、いまひとつは十七世紀の自然科学・哲学に基づくそれである。そして後者から出た合理主義的な価値観、あるいは普遍的な理性がその後の西欧を支配しつづけることになったが、やっと1970年前後になって人びとは、「確実性の追求」を断念して「ルネサンス=人文主義」に立ち返りはじめたと考えるトゥールミンは、十七世紀以来三○○年にわたって軽視されてきた個別的なもの、ローカルなもの、その場限りのものの再評価を求め、そうすることによって「合理主義的コスモポリス」に代わる「エコロジカルなコスモポリス」の構築をめざすべきであると唱える。(pp. 197-199)

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2009年3月29日 (日)

◆「****+結婚」
みたいな検索ワード(「****」の部分に個人名が入る)で来る人がいたりすると、ちょっとドキっとする。

また無為に齢を一つ重ねてしまったことが関係あるのかどうか、朝から快晴の天候でもあるしぐずぐずしていないで何かをしなければいけないような気持ちにせかされつつも、でも何をしたらいいのかよく分からないまま夕暮れまでぼんやり過ごしてしまうというグタグダな展開。
小泉義之『兵士デカルト―戦いから祈りへ』(勁草書房、1995)を読む。『方法序説』に描かれた「炉部屋の思想」(フラネケルの形而上学や永遠真理創造説の水準、言い換えれば「規則論」的方法に基づく世界の制覇の試み)への批判・超克として『省察』を読む、という筋立ては大変面白い(し、また特に、永遠真理創造説をどう位置付けるかという点で説得的な構図が打ち出されていると感じる)けれども、この本の中ではどうも、『方法序説』という「戦いの書」および『省察』という「祈りの書」という二冊の偉大な著作に比べて『哲学原理』という本は随分と影の薄い扱いになっているというか、むしろまるで忌み嫌われているかのような様子でもある。(ちょっと不思議なことに、冒頭(p. xi)に掲げられている「デカルト略年譜」の中にも『哲学原理』への言及はない。――林達夫的「ポリティーク」へのあてつけ?) しかしテンションの高い文章についてゆくのは若干疲れるな。。。

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2009年3月27日 (金)

◆せっかく
の好天なので夕方から、両側をお寺に挟まれた緑道を抜けて(久しぶりに通ったらここでテント生活をしている人もいるらしい)、公園に梅の見物に。しかしここは白梅限定なので、あんまりテンション上がらず。帰り道で、沈丁花の花が咲いているのに今頃になって気がついた。

「行為・理由・原因」(1963)で実践的推論について採られていた演繹的モデル(通俗的な意味でアリストテレス的とも呼べるような?)がやがて放棄され、「意志の弱さはいかにして可能か」(1970)および「意図すること」(1978)ではそれに代わって(統計的説明についてのヘンペルの考察を援用しつつ)帰納的・統計的モデルが採られることになる、――といったデイヴィドソンの変貌というのは、アリストテレス研究者にとっては果たしてどういう具合に受け止められているのだろうかなあ、というのがちょっと気になりつつも、何から読んだらいいかよく分からないというのが門外漢の悲しさか。
とりあえず、この前押入れを整理して見つけた井上忠・山本巍(編訳)『ギリシア哲学の最前線Ⅱ』(東京大学出版会、1986)所収のJ・バーンズ「アリストテレスの心の概念」とM・F・バーニェト「アリストテレスと善き人への学び」、それに高橋久一郎『アリストテレス―何が人間の行為を説明するのか?』(NHK出版、2005)を読んでみる。『アリストテレス』の方は再読してみて話の大まかな組み立てがようやく呑み込めてはきたけれど、この本はかなり難しいな(少なくとも自分にとっては)。。。でもまあある意味では「哲学のエッセンス」というシリーズ名を体現しているとも言えるわけか。

ちょっと意外だったのは、アリストテレスの行為論研究の動向について。これについてはバーンズ論文への「解題」(高橋久一郎)に次のような指摘がある。

行為論の動向を特徴づけているのは、これまでやや個々独立に論じられてきた、動物運動の基礎づけ(一般的説明)(『霊魂論』『動物運動論』)、実践的三段論法(『倫理学』『動物運動論』)、アクラシア(『倫理学』)、いわゆる目的論の問題、また人間にとっての善(必ずしも倫理的な善に限らず)といった様々の論点が互いに関連しあうものとして考察されているところにある。それゆえ、基礎づけの問題だけを取りあげることは問題を単純化してしまいかねないが、行為の問題を考えていく出発点としていくつかの文献を指摘しておきたい。ある意味では驚くべきことに、この問題を主題とした独立の論考は、第七回のSymposium Aristotelicum報告[1978年]に収められたD・J・フューレイ、J・B・スキンプ以前には見当たらない。アリストテレスの説明は、ある意味では自明視され、ある意味では単純にすぎると思われたようである。行為の説明は、より洗練された、実践的三段論法と思案の分析から始まるとでもいうように。しかし、「善きもの」の欲求と「可能なもの」の認識、そして、究極的には「善きもの」の欲求が動物を動かすという基本構想の意味は改めて考えられるべきであろう。・・・(pp. 83-84)
何となく、もう少し古くから研究の蓄積がきっと沢山あるのだろうと思い込んでいたので、意外な新しさに「へぇー」と思ったというだけですが。こうした行為論への関心の高まりがやはりデイヴィドソンのインパクト抜きには理解困難だとすれば、それに対して今日、「ギリシア哲学研究の“最前線”が存在した時代」がすっかり過去のものとなりつつある状況(これについては『アリストテレス』の「あとがき」を参照)というのは、結局のところ行為者の合理性をめぐってデイヴィドソンを悩ませたような問題を解く鍵をアリストテレスの著作に見出すことはできそうにないという共通理解を映し出しているんであろうか(――まあ単なる素人考えですが)。

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2009年3月25日 (水)

◆メモ:P. Suppes
http://suppes-corpus.stanford.edu/browse.html?c=mpm&d=1950
http://suppes-corpus.stanford.edu/imsss.html#1

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◆Bratman, Grice&Baker, Peacocke
・Michael Bratman, "Davidson's Theory of Intention," in Bruce Vermazen & Merrill B. Hintikka (eds.), Essays on Davidson: Actions and Events, (OUP, 1985)
・Paul Grice & Judith Bennett, "Davidson on ‘Weakness of the Will’," ibid.
・Christopher Peacocke, "Intention and Akrasia," ibid.

「意図すること」という論文はデイヴィドソンについて考える上でたいへん重要な意味を持っているのだなあ、というような初歩的なところから勉強し直し中。
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ブラットマンによれば、意図(未来の行為に関する事前の意図)についてのデイヴィドソンの説明は――典型的にはビュリダンのロバ状況におけるようなジレンマの扱いにおいて――大きな困難を抱えているが、これはそもそも、実践的推論において意図が果たす役割についてデイヴィドソンが非常に貧しい見方しか持ち合わせていないことに起因している。すなわち、意図が担うべき重要な役割は、単に実践的推論から得られる結論であるのみならず、(信念や欲求と並んで)それ自体が前提として実践的推論の内に組み込まれ、それによってまた包括的なプラン――様々な活動を協調させ一つに統合可能とするような――の形成に寄与することにあるが、デイヴィドソンの視点からはこの重要な役割がすっぽり抜け落ちているのである、と。
こうした批判が正しいかどうかはともかくとしても(デイヴィドソン自身はこれに異議を唱え、意図についての自らの説明は決して、ブラットマンの言うようなプラン形成への役割を排除するものではないと主張する:D. Davidson, "Replies to Essays I-IX," p. 200)、デイヴィドソンの意図論がそうした困難に陥った原因についてブラットマンが与えている診断はやや興味深い。

This is an attenuated conception of the role of intention in practical thinking. It receives support from Davidson's strategy of extention: the attempt to extend the materials present in his account of intentional action to an account of future intention. In intentional action, there is no temporal interval between all-out evaluation and action. So there is no room for further practical reasoning in which that all-out evaluation can play a significant role as an input. When we extend the notion of an all-out evaluation to the future-directed case, it will then be easy to overlook the possibility that future intentions will, at least typically, play such a role. ("Davidson's Theory of Intention," pp. 24-25)
しかしながら、もしこうしたブラットマンの診断が、(大まかに言えば)「それ自体として本来的には個々バラバラであるような諸々の行為が、事前のプラニングを通じて初めて相互に調整可能となる」といったような形でイメージ化されるような行為観に支えられたものだとすれば、これは行為の実際のあり方には全くそぐわないと思われるし、その点でブラットマンはむしろ意図的行為と意図との間の違いを過度に強調しているようにも見える。というのも、意図がそれ自体として実践的推論の前提として寄与する(「私は~しようとしているのだから…」)のと同様に、意図的行為もまた同様の役割を果たすことができるし、また実際――多少とも長期的なスパンに渡る場面では――現にそうした役割を果たしていると思われるからである(「私は今~している/~したのだから…」)。もちろん、行為の最中におけるそうした熟慮はどれも――これから何をなすべきかという選択に関わっている以上――事前の意図形成という問題圏に取り込むことができるのだと言うこともできるだろうが(実際ブラットマンは、「行為から抽象された意図」についてのデイヴィドソンの説明を、もっぱら「未来に関する意図」についての説明として受け止めている)、そうした見方はむしろ、意図的行為の内実を実際以上に貧しいものに見せることにしかならないように思われるし、またそうした見方自体が行為についてのきわめて貧しい捉え方に立つものであるようにも思われる。(さらに言えば、諸行為の協調やプラニングの原初的な形はむしろ、多少とも長期的・包括的な一個の行為を成功裡にやりおおせることそれ自体に内在しているとさえ考えられる。)

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◆先日の強風
に吹き飛ばされて色んなものが家の周囲に漂着している(機関車トーマスのお風呂マットとか)のを何とかせねば、と思いつつも悪天候のため順延。ようやく『クレア』を読み終える。

世界の偉大な都市はみなそうだが、アレキサンドリアもそこに住むすべての人の町だった。「五つの人種、五つの言語、十にあまる宗教」が共存し、「港の砂州の後ろで、油ぎった影を映しながら方向転換する五つの艦隊。しかし、セックスは五つ以上ある」とロレンス・ダレルは、愛と官能、陰謀と裏切りを描いた小説『アレキサンドリア四重奏』の第一部『ジュスティーヌ』で書いた。それはまた、ナミビアの奴隷、子供の売春宿、秘密結社で華麗に彩られ、カスバではほとんどいつも、誰かが髄膜炎にやられたような悲痛な声をあげていた。それでも、この都市のコスモポリタン性はもちこたえた。みんなが一員だった。第二部『バルタザール』ではこの主題がさらに増幅され、「さまざまなコミュニティはまだ存続し、意思をかよわせている――トルコ人はユダヤ人と、アラブ人やコプト人やシリア人はアルメニア人、イタリア人、ギリシャ人と……儀式や結婚や契約が彼らを結びつけ、また仲を裂く」さまが語られている。さらに「その時代の信仰や人種。宗教や民間伝承がつくりだす幾多の小さな領域が細胞のようにゆるやかに結合し、大きなクラゲのようにのたうっている、それが今日のアレキサンドリアだ」。
 いや、それは昨日のアレキサンドリアだ。今日のアレキサンドリアは、一つの人種に一つの言語、アラビア語をしゃべるアラブ人の町になっている。宗教も一つ、イスラムだけ。そしてセックスはない。外国人はいなくなってしまった――最後の外国人が追放されたのは、1960年、ナセル大佐によってだった。そして金もなくなった。もちろん、その二つには関係があったのだ。…(ポール・セロー『ポール・セローの地中海大旅行』(NTT出版、1998)、pp. 492-493)
古い時代に地中海の偉大なる多民族都市として栄えた町はどこでも、地理的には大きくなったものの、精神的には小さくなっていた。かつてのアレキサンドリアで、民族的な違いは決して圧倒的なものではなかった。要するに、自力で運命を切り開いていく人間がいるだけだった。それも多くの場合、同じ場所で……。[…]オスマン-トルコ帝国の支配化ですら、スミルナ(イズミール)にはアルメニア人やギリシャ人、ユダヤ人、チェルケス人、クルド人、アラブ人、ジプシー、その他の人種があふれていたのに、今やトルコ人だけになった。イスタンブールにしても、アドリア海のかつての重要都市トリエステにしても同じことだ。トリエステは、南部からの分離を主張する陰気なイタリア人の町になってしまった。ドゥブロヴニクは戦争で疲れたクロアチア人が、セルビア人とボスニア人の滅亡を祈っている町になった。ギリシャは偏執的単一民族主義の要塞となり、移民はいなかった。アルバニアのドゥラスは、哀れなシュキプリツァ人〔アルバニア人〕の地獄となっていた。コルシカの氏族組織がやりたい放題をやれば、バスティアやボニファシオからフランス人が一人もいなくなるだろう。現在のヴェネツィアに、オテロという名の黒人の将軍が住んでいる図は想像しにくかった。もっとも、ヴェネツィアの路上で安物のアクセサリーを売っているセネガル人はけっこう多かったけれど。(p. 494)
ダレルの頽廃的イメージと熱病のような想像力を考えれば、彼のアレキサンドリアに出会えるなどと期待しないほうがいい。彼自身、自分のアレキサンドリアは「半分は想像上のもの(とはいえ全体的には現実のもの)で、われわれのなかで始まって、われわれのなかで終わり、われわれの記憶にしっかりと根をおろす」と書いている。たしかに、そのとおり。[…]…そんな架空の都市は、たとえ本当に存在しているとしても、すでに消えてなくなった。そしてまた、フローベールのアレキサンドリアも、E・M・フォスターのアレキサンドリアも、今はない。(pp. 494-495)

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2009年3月19日 (木)

◆昨日今日
と突然の陽気で生温い空気の中、なんだか出所のよく分からない疲労感に襲われてグテっとした状態が続く。気温が上昇するとその分、疲労物質も多めに出るんじゃあるまいか。

某古本屋に寄ったら和辻哲郎全集をバラ売りしているので、ぼーっと見てたらだんだんと欲しくなってきてついつい二冊ほど購入。

某所でおっぱい事件が勃発。って、なんですかそれは。

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2009年3月18日 (水)

◆非合理・不合理もの
つながりということで、ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』(春秋社、2007)の第3部「不合理性」と、柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲―非合理性の哲学入門』(勁草書房、2007)の第1部「自己欺瞞」。

デイヴィドソンについては、アクラシア(をはじめとする非合理な現象)に関する「意志の弱さはいかにして可能か」(1969)以降のアプローチ――そうした現象の扱いを倫理学的関心からは切り離して行為論あるいは心の哲学の枠内で処理するというアプローチ――というのは非常に洗練されたものだとは思うけれども、しかしやっぱり(全く素朴な感想でしかないけれど)、「そうすべきでないと分かっていながら、ついつい悪事を犯してしまった」というケースと全く対称的に、「そうすべきでないと分かって(?)いながら、ついつい善い行ないをしてしまった」というケースをも非合理なアクラシアとして括ってしまうというのは、ちょっとどうなんだろうか。(そうした問題には、解釈主義に立つ哲学者が解くべきパズルという以上の意味があるんだろうか。)

『自己欺瞞と自己犠牲』の方は難しくてまだよく理解できずにいるのですが、自分にとっての躓きはどうもこの本での基本的なアプローチにあるらしい。これについては、同書の中では例えば次のようにも述べられている。

…常識的な理解にできるだけ沿った「モデル」を想定し、そこにおいて自己欺瞞が可能であるかどうか、もしくはいかに可能であるかを考えるという方向が、思うに、少なくとも現時点では最も見込みのある自己欺瞞解明のアプローチなのである。(pp. 20-21)
問題はどうも、こうしたアプローチの中で、次のような箇所で言われているような「因果的な観点」というのがどのような役割を果たしているのか、という点にあるのではないかと思う。
デイヴィドソンは、信念主体が矛盾する二つの信念を分け隔てていた仕切りを取り払い、それらを併置したときには、一方の信念が「破壊」され「消滅」する、と語る。主体の論理的整合性を前提にして言えばそれは正しいであろう。だが、自己欺瞞についての因果的な観点からすれば、実情に即した言い方ではない。矛盾する信念の片方を放棄することによって自己欺瞞的な状態を解消してしまうのは、自己欺瞞的な信念主体にはまったくふさわしくない。自己欺瞞的な信念主体は、計算間違いを指摘された素直な小学生とは異なるのである。(p. 39)
デイヴィドソンにとっては、「いかにして思考や衝動がそれとは合理的関係にはない他の思考や衝動を引き起こすことができるのかは、心を分割することによってはじめて説明できる」のであり、「理由関係の断絶するところが、[心を構成する]下位部分の境界となる」(『合理性の諸問題』、p. 301)。とすると、そうした境界を跨ぎ超えていく因果というのは何だろうということで、上のように述べられる背景には、(フロイト-)デイヴィドソン的な“局所論”モデル――合理的連関によって区分けされた複数のコンパートメントからなるものとしての心――とは根本的に色合いを異にするような、心についてのあるモデルが考えられているのだと思うのだけれど(例えばpp. 218-219(注8)では「私の立場は、信念の変化を徹底して因果的かつ偶然的な過程として捉えるというものである」と述べられている)、そうした舞台裏の事情がまだよく見えてこない。
ちなみにこの本の中で(といってもまだ第1部しか読んでないけど)個人的に一番面白かったのは、「モンテーニュ=ヒンティッカ型の自己欺瞞」と呼ばれる状態を維持するためには、さらに高階の自己欺瞞状態――自分の欺瞞に気付くことを認めるのを拒むという欺瞞――が「おそらく因果的に必要とされる」(p. 36)がゆえに、問題はヒンティッカが予想していた以上にはるかに深刻なのだと論じた部分(pp. 35-36)なのだが、この箇所で持ち込まれるような「因果的」な考察というのが何なのかというと、やはりどうもよく分からないところがある。(ある意味では、ヒンティッカの認識論理的考察にそうした因果的視点が欠けているのは全く当然とも言えるだろうし、その意味ではこの第2章が「信念の論理と高階の自己欺瞞」と題されているのはかなりミスリーディングにも感じられる。)
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『自己欺瞞と自己犠牲』第1部についての思いつき的メモ――
うだうだ考えてみるに、この本での議論に関して感じる抵抗感の根は、結局のところ、自己欺瞞という現象の中核にあくまでも「信念の矛盾」を見て取るという本書のスタンスにあるように思えてきた。というのも、それはなぜ、「信念どうしの矛盾」ではなく「相反する欲求どうしの間の葛藤」をモデルとするような形で捉えてはならないのだろうか。(こうした見方は基本的にはA・メレの立場に近いものとなるようだが、メレの本は未読なのでその点については言えることはない。)
われわれ一人一人の持つ信念体系の内に、それと気付かれないままに何らかの矛盾が潜んでいるということは十分にあり得ることである。しかし、一対の信念間に矛盾があることがいったん明らかとなったならば、その矛盾をしかるべき形で解消する――典型的には一方の信念を放棄するといった仕方で――ことが求められる(と、少なくとも通常は考えられている)。これに対して、われわれの持つ欲求の体系の内に相反する欲求が同時に存在することはむしろ状態でもあり、「一つの心」の中での欲求どうしの葛藤(例えば「食べたい、けど痩せたい」)には、信念の矛盾のような謎めいたところは特にない。
とすると、自己欺瞞と呼ばれる現象の基本的な構造もまた、一方での「pであると信じたい」という欲求(なぜなら全ての証拠がpの真理を支持しているし、私は帰納の法則に忠実でありたいから)と、他方での「pではないと信じたい」という欲求(というのも、実際にpが偽だということには、私にとって決定的に重要なものが懸かっているのだから)という相反する欲求どうしの葛藤として見てはどうか。
なおこの場合、(実際にはpが真である場面であるにもかかわらず)pではないと信じようと欲するということは、必ずしも、自分自身を欺こうと欲することではない。むしろ自己欺瞞的な主体は、「pであると信じたい」という欲求と、「pではないと信じたい」という欲求との双方を持ちながらも、それに加えて「pの真偽に関して自分を欺きたくはない」という欲求を持つことさえできるだろうし、そうした場合、この第三の欲求の存在は、(ちょうど本書の第2章で自己欺瞞的な信念について述べられているのと同型的な)高階の自己欺瞞状態を引き起こすことにもなり得る。
こうした見方には幾つかの利点がある。
第一に、こうした見方からすれば、もっぱら「pが真であって欲しい」という願望によって支えられただけの認知的(?)状態を、真正の信念と見なす必要はない。
第二に、「信念の矛盾」と見た上で自己欺瞞を説明しようとする試みに比べて、上のような見方は何か新たな要素(新たな心的状態や、フロイト-デイヴィドソン的な心的障壁のようなもの)を付け加えるわけではない。
第三に、互いに矛盾する信念間の因果(「pだと信ずる」ことが原因となって「pではないと信ずる」という結果が引き起こされる)というものに比べて、相反する欲求間の因果の方がはるかに容易に理解可能である。(少なくとも、それを理解不可能とするハードルははるかに低い。)

これに対して、本書の中では自己欺瞞が信念の真正の矛盾を含むとする立場をあくまで支持する理由として、二つのものが挙げられている(pp. 12-13)。一つは、信念の矛盾という事態を考えることが、われわれの合理性概念にどのような光を投じるかに関する「理論的関心」の存在であり、もう一つの理由は、次のようなケースに関する説明能力である。

…ある男がふられたことに気づくが、そのことを受けいれられず、そのため彼女の冷たい態度は自分の愛を確かめるためのものだ、あるいは彼女の意志に反してのものだ、と思うようになったとする。このようになってしまった男にもはや愛していないことをあらためて告げることは、多くの場合逆の効果しかもたらさない。以上の事態の説明として、次のようなものがシンプルかつもっともに思われる。すなわち、男は愛されていないとやはりどこかで信じつづけており、それゆえにいまも愛されていると信じているのだから、愛していないと念を押すことは、自己欺瞞のいわば動力源に新鮮な燃料を追加することにほかならない。(pp. 12-13[強調は原文])
自己欺瞞に「信念の矛盾」を見る立場が上のようなケースについて適切な説明を与えるできるかどうかは、この「それゆえに」(自分はもう愛されていないと信ずる、それゆえに、自分はいまも愛されていると信ずる)をいかにして理解可能なものとすることができるかに懸かっている。しかし問題はまさに、この点で本書の試み(デイヴィドソン的な「心の分割」に訴えることなく、問題の「それゆえに」を理解可能とする野心的な試み)が最終的にどれほどの成功を収めているかということなのである。(そしてまたこの点が、第一の理由――「理論的関心」からする理由――の説得力をも左右することになる。)これに対して――先にも述べたように――「自分はもう愛されていないのだと信じたい」と欲することが、それゆえに、「自分はいまも愛されているのだと信じたい」という欲求を生み出し、それを強化しさえするということは、はるかに容易に理解可能であるように思われる。

――けれども、自己欺瞞という現象を、信念とは違って欲求という、そもそも合理性の要求に服さないような諸状態の織り成す構造として解釈するならば、自己欺瞞の持つ非合理性を全く取り逃がすことになる(か、そこに、たかだか願望的思考一般と同程度の非合理性しか認めることができなくなる)のではないか? (そもそも、「自分を欺きたくはない」という欲求の存在も、同時に「自分を欺きたい」という欲求を持つことを排除するわけではない。)あるいは、そうした帰結を避けようとして、欲求の内容――「pだと信じる」や「pでないと信ずる」――に目を向けることで、欲求同士の葛藤に合理性からの逸脱を見て取るというのであれば、これは結局、自己欺瞞を信念同士の矛盾によって理解しようとする立場に再び立ち返るだけではないか?

うーん、その二つの間の狭間は無いものだろうか、ということなのですが、まだよく分かりません…。

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◆Lovibond, EF
前にちょこっとだけ読んであったのを思い出してその続き。第2部まで終えるも、ジャーゴンや仄めかしを満載した優等生的なスタイルの前に、すでに挫折気味。

三部からなる本書の中で、第1部では倫理学に関するロヴィボンド自身の基本的な立場("the practical reason view"と呼ばれている)が――かなり圧縮された形で――述べられている。大まかに言えばそれは、ウィギンズ-マクダウェルの導きのもとで古代的な徳倫理学の洞察に立ち戻りつつも、(いかにして人は徳ある者となりうるかに関する)目的論的な形而上学――「人間本性」の目的論――は斥けて、その点ではむしろウィトゲンシュタイン的なキエティズムの精神を貫こう、といったものであるように見える。

The "nothing-is-hidden," antipsychologistic tendency of our updated conception of practical reason also promotes a different understanding of the teleological theme in virtue ethics. Instead of assuming the telos of formation, or upbringing, to be determined by a timelessly fixed human nature, it leads us to recognize as part of the distinctive "natural history" of our species the fact that, as humans, we possess a "second" nature as well as a "first," and hence (at the risk of paradox --- but this particular nettle is one we must go ahead and grasp) that it is natural to us to participate in a history that is more than merely natural. With this dual nature in view, we can acknowledge that the work of formation is governed by social teleology in which one generation sets itself the goal of initiating the nextinto a common repository of wisdom about "what is a reason for what." And the point of view from which that goal is visible can now be recognized, in turn, as a construct of upbringing --- which means that it is no more of a "natural" given than is the already determinate "second nature" of the parents and teachers who direct us toward it. No more, and no less: but the first of these thoughts is the one that brings out the contrast between ancient and modern. For by historicizing our conception of practical wisdom, it prepares us for a return to the characteristically modern idea of morality as a zone of contention. (p. 63)

続く第2部では、こうした「社会的目的論」の内実を、オースティンの言語行為論に示唆を受けたコミュニケーション的倫理(?)――なぜわれわれは真面目seriousな発話者(自らの発話を自らのものとしてauthorizeできるような発話の真のauthor)でなければならないのか――をベースとして捉えようとするアイディアが展開される。こうしたアイディアは、例えばゲーム理論的なアプローチを導入するなどしてより綿密に組み立てなおすことも可能であるかもしれないが、とするとむしろ、キエティズムということでロヴィボンドがどのようなことで言わんとしているのかがやや疑問にも思えてくる。ダイアモンドからの批判に対するロヴィボンドの応答(第2章)がごく表面的なものにとどまっているのも、こうした問題と無関係ではないようにも見えるが、この点はまだよく分からない。

そうした点はともかくとして、個人的には、同じく"authorship"――道徳的判断のauthorであること――の概念に訴えることでアクラシア問題をときほぐそうとする第5章での議論が興味深かった。そこでのロヴィボンドの狙いは、「道徳的判断(信念)と行為との間には内在的で阻却不可能な結び付きがある」というソクラテス的テーゼを擁護することであり、こうした見地から、そうすべきではないと分かって(信じて)いながらも悪事をはたらいてしまうといったアクラシア現象にどう対処するかが問われることになる。そして、この問題に対するロヴィボンドの解決策は、簡単に言えば、道徳的信念のauthorとなること(道徳的信念を真に自らのものとすること)に関する発達段階に目を向けることで、言ってみれば信念の側に圧力をかける、というものである。徳ある者は道徳的判断を真に自らのものとしているがゆえにアクラシアを免れている。それに対して徳への途上にある者がアクラシアに見舞われるのは、道徳的信念へのauthorshipをいまだ確立していないためである。

... if someone fails to act on one of their supposed moral beliefs --- as in acrasia --- then that belief could not strictly speaking, or at the relevant moment, have been "one of theirs." (p. 94)
As a paradigm of really holding the belief, it offers us the "virtuous person," the complete embodiment of the (local) rationalist character ideal; imperfectly virtuous people only approximate, in varying degree, toward this paradigm. (p. 95)
ただし、ロヴィボンド自身の関心は、ポスト構造主義的な懐疑――「作者(author)の死」――に対する応答へとただちに向かってしまうので、こうした解決策が説得的な形で肉付けされているわけではない。(結局のところ、道徳的信念を自らのものとするというのはどのようなことか。あるいは逆に、われわれ――多少とも徳なき者――はどのような意味で道徳的信念を「持ち」うるのか。それともわれわれはそもそも道徳的信念など持っておらず、それは他の誰かの信念にすぎないのか。とすれば、そうした信念に動機付けられてわれわれが行為する場合、われわれはその「他の誰か」の意のままに、非意図的に行為しているというべきなのか。/あるいはまた、こうしたロヴィボンドのアプローチにおいて、道徳的信念と道徳的知識との間のギャップ、あるいは単なる信念と真なる信念との間のギャップは、どのような役割を果たすことになるのか。)しかし少なくともこうした問題にはじめて関心を持てるようになったという点では得るところがあったかな、と。

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2009年3月16日 (月)

◆Bernard Suits, The Grasshopper: Games, Life and Utopia (1978)
http://methodsofprojection.blogspot.com/2008/01/wittgenstein-and-grasshopper.html

「ゲームの概念は定義可能なので、ウィトゲンシュタインは論破されちゃいました」という話をめぐってちょっとした盛り上がりを見せていたらしい、ということに遅まきながら気が付いた。

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2009年3月14日 (土)

◆こういうのは
まさしく自業自得と言うしかないけど調子悪い。ほぼ寝て過ごす。

ようやく『動物からの倫理学入門』読了。『ナニナニ入門』と銘打った日本語の本の中ではあまり例がないくらい豊富な内容――実のところ、メタ倫理、規範倫理、応用倫理にまたがる倫理学の動きが広く一望できるような具合になっている――が盛り込まれていて、基本的にものを知らない人間にとっては教えられることばかりである(個人的には、「道徳の理由」問題を糸口にして進化心理学やゲーム理論的アプローチについてまとめた第4章と、福利論の動向を整理した第5章が特に)。ただ、説明が簡略すぎて十分理解できなかった箇所も若干。例えば、「繰り返し囚人のジレンマ」をめぐるアクセルロッドのアプローチとゴーチエのアプローチとの違いについて(p. 175)、など。(あとこれは単純な疑問なのだが、165頁以下でE・O・ウィルソンの社会生物学について解説した流れの中で、「ウィルソンも道徳の発達に関する研究を哲学者のエリオット・ソーバーと共同で行ったりして」(p. 168)云々と言われているのはD・S・ウィルソンの方ではないんだろうか?)
しかし晩御飯の献立に悩むなあ…。

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◆メモ
・Richard Kraut, What Is Good and Why: The Ethics of Well-Being (HUP, 2007)

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2009年3月13日 (金)

◆Dennett, Bennett & Hacker
・Daniel Dennett, "Philosophy as Naive Anthropology: Comment on Bennett and Hacker" (2005) [pdf]
・M. R. Bennett & P. M. S. Hacker, "Reply to Professor Dennett and Professor Searle" [pdf]

ハッカーらによるNeuroscience and Philosophy: Brain, Mind, and Language (2007)に所収論文のドラフトが公開されているので、一先ずそれらを見ておくことに。しかし正直な感想としては、どうもちょっとイマイチな感じなのである。
これによると、Philosophical Foundations of Neuroscienceという本でのベネット&ハッカーの認知科学批判のポイントというのは、(大まかに言うと)「本来は全体としての人に帰属すべきもの――思考、知覚、記憶、感覚、…――をその一部分(とりわけ脳)に帰す」という“メレオロジカルな誤謬”の問題に集約されるとのことで、そうした誤謬から生じる混乱を解消して、「人に帰すべきものは人に」というアリストテレス-ウィトゲンシュタイン的見地を再確認しよう、というような話であるらしい。そうした論点自体は分からないこともないし、そうした批判が適切に当てはまるような部分もないわけではないのだろうけれども、今日の認知科学研究への全体的な診断ということでは、デネットも言うように、1960年代のオックスフォードで盛んに言われていたような事柄をこの時代にそっくりそのまま繰り返すことが果たして本質的な"clarification"になり得るんだろうかなあ、という気がしてならない。(メレオロジカルな誤謬をあえて犯すこと――例えばデネット自身のhomunculi functionalismがそうであるように――も時にはむしろ生産的な研究プログラムを進展させる契機となり得るのだから寛容に見るべきだ、というデネットの見方に与するかどうかは別にしても。)そういうことからすると、「哲学は科学とは違うのだから、進歩しなくていーのだ」というウィトゲンシュタイン的なメタ哲学というのはまるで、ウィトゲンシュタイニアンにかけられた呪縛のようにも思えてくる。

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2009年3月10日 (火)

◆Conant & Diamond, Hacker
・James Conant & Cora Diamond, "On Reading the Tractatus Resolutely: Reply to Meredith Williams and Peter Sullivan," in Max Kölbel and Bernhard Weiss (eds.), The Lasting Significance of Wittgenstein's Philosophy, (Routledge, 2004)
・P. M. S. Hacker, "Was He Trying to Whistle it?," in A. Crary & R. Read (eds.), The New Wittgenstein (Routledge, 2000)
・P. M. S. Hacker, "Wittgenstein, Carnap and the New American Wittgensteinians," Philosophical Quarterly 53 (2003)

ポレミックなの三本立て。まあ哲学的な論争というのは概して、表面的に派手であればあるほど、その内容はあんまり面白味のないものではありますが。
あくまで個人的な印象というか予想としては、どちらかというとコナントらの"resolute reading"寄りの方向で「大きな論争」はほぼ収束に向かって(あとはテキスト細部の解釈をめぐる実質的な議論に引き継がれて)ゆくことになるのではないかという気が(少なくとも今のところは)しているのですが、どうでしょう。もっともその根拠というのは、自分のごく乏しいウィトゲンシュタイン体験を通じての感触からする限り、やはりコナントやダイアモンドの読みの方がはるかにしっくりくる、といった程度のきわめてアヤフヤなものにすぎないですが。いずれにせよ、コナント&ダイアモンド論文の最後の節で取り上げられている、いわゆる前期・後期のウィトゲンシュタインの連続性/非連続性に関する彼らの議論を見ることで、そうした印象はますます強くなる。

The fundamental continuity in question lies in Wittgenstein's seeking, early and late, to find a way to do philosophy that does not consist in putting forward philosophical theses, and yet which (through the practice of methods of clarification that he, early and late, sought in his writing to exemplify) would genuinely enable his reader to pass from a state of philosophical perplexity to a state of complete clarity in which the philosophical problems completely disappear. The fundamental discontinuity in question lies in his later thinking that there was an entire metaphysics of language embodied in his earlier method of clarification, thereby illustrating that the most crucial moments in the philosophical conjuring trick are the ones that are apt to strike one as most innocent; so that it turns out to be much more difficult to avoid laying down requirements in philosophy than his earlier self had imagined. Hence it turns out that an entirely different approach to philosophical problems from that practiced in the early work was required and had to be developed in the later work. (Conant & Diamond, "On Reading the Tractatus Resolutely," p. 84)
It is interesting in this connection to note how many of the doctrines of the sort that standard readers ascribe to the Tractatus and that the resolute readers are committed to rejecting ---- such as "the doctrine of showing", the commitment to the existence of ineffable truths, and various optional subsidiary doctrines (such as realism, mentalism, solipsism, etc.) and optional subsidiary commitments (such as a distinction between grasping and "grasping", saying and "conveying", etc.) ---- never figure in any of the passages in Wittgenstein's later writing where he is explicitly concerned to criticize something he identifies as a questionable philosophical commitment actually held by the author of the Tractatus. What figure in such passages instead are the sort of metaphysical commitments […] that later Wittgenstein came to think do indeed presuppose a theory but that early Wittgenstein was able to think merely fell out of the activity of clarification itself. He thought that they could be exhibited through the practice of that activity, and were not commitments to any substantive theory. (ibid, pp. 85-86)

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◆Epistemic Goodness
http://www.ou.edu/spring08conf/

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2009年3月 8日 (日)

◆穏やかな
夕暮れ。いつのまにか日も長くなったなあと思いながらぶらぶら歩いていると、小さな子供の笑い声があちこちで聞こえる。

伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会、2008)の前半。考えてみたらこのところ、コーラ・ダイアモンドの「動物解放論」批判のような変格的なものばかり見ていたこともあって、こういう風に王道をドーンと見事に突き進んでゆくような本を読むとちょっと複雑な気持ちになる。

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◆メモ
・Maria Antonaccio & William Schweiker (eds.), Iris Murdoch and the Search for Human Goodness (University of Chicago Press, 1996)

・Jane Adamson, Richard Freadman, David Parker (eds.), Renegotiating Ethics in Literature, Philosophy and Theory (Cambridge University Press, 1998)

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2009年3月 6日 (金)

◆Conant, Donatelli
・James Conant, "What 'Ethics' in the Tractatus is Not," in D. Z. Phillips & Mario von der Ruhr (eds.), Religion and Wittgenstein’s Legacy (Ashgate, 2005)
・Piergiorgio Donatelli, "The Problem of 'The Higher' in Wittgenstein's Tractatus," ibid.

たんへん刺激的な二論文。
特にコナントの論文は、自身のとる"resolute"な『論考』解釈の大枠的プログラムを、目の覚めるような鮮やかな筆致で描き出したものだが、とりわけ『論考』において「意味の理論」――有意味な命題が一般に満たすべき基準を与えるような理論――の演じる役割について多くを教えられる。コナントによれば、『論考』の「意味の理論」がこの著作全体の意図する哲学的elucidationに寄与するのは、「意味の限界」を画定してナンセンスを排除するという仕方によってではなく(というのも、ナンセンスがナンセンスであることに気付くためには、われわれがすでに有している日常的な言語使用能力の行使で十分であり、有意味性の一般理論などというものは不要なのだから)、むしろ、最終的に乗り越えられるべき「意味の錯覚」――意味の限界が画定可能だという幻想を含めて――をあらかじめ読者の内に積極的に掻き立てることによって、である。そして、『論考』についての実証主義的解釈(『論考』の倫理についての情動主義的な理解を含めて)と、(語り得ないineffableな真理の存在をあくまで主張する)神秘主義的解釈は、elucidationへと向けられた『論考』のこうした基本的な構造を完全に読み違えるところから生じたジレンマの二つの角にすぎない、云々。

コナントが言及しているハッカーのインタビューというのはこちらで公開されているようですが、見ると何やら不吉な点々があちらこちらに、ってドイツ語ですか・・・。(ひさしぶりにウムラウトとか目にしたら、ちょっと軽い頭痛が。。。)
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コナント論文が、『論考』全体を支える方法論の見直しを通じて『論考』における倫理の独特なあり方(端的に言えばそれは「どこにでもありどこにもない」、――というのも、命題を倫理的な命題たらしめるのは、「価値」や「善」等の倫理的な語彙が含まれるか否かといった内的な特徴ではなく、その使用の仕方なのだから)を探ろうと試みているのに対して、ドナテッロの論文は(『論考』解釈としては基本的に同様の視座に立ちながら)、ムーアからヘアへの倫理学の流れを補助線に据えて、特にダイアモンドの立場について検討を加えたもの。
ドナテッロがダイアモンドの倫理学的スタンスについて指摘するのは、「超越論的なものとしての倫理」(倫理は世界の内にはないがゆえに、ナンセンスを語る者の視点を通じて理解される以外にはない、――この意味で倫理的“概念”は不可能である)という主張と、「倫理の偏在性」(倫理は世界あるいは生を満たしている)という主張との緊張関係で、こうした診断はそれとして分かるのだけれど、それにもかかわらずダイアモンドがそうした立場を引き受けようとする根底には何があるのだろうか、というとやはりよく分からない。

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2009年3月 5日 (木)

◆Jennet Conant
http://www1.doshisha.ac.jp/~yonozuka/Review2005/050905review.htm#Manhattan

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◆Σ( ̄□ ̄ まじっすか!
と思わず絶句させられる連絡一件。この先どうなることやら。

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◆メモ
・Piergiorgio Donatelli, "Alle origini del concetto di linguaggio morale" (2005)

Etica & Politica

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2009年3月 4日 (水)

◆Hacker
http://info.sjc.ox.ac.uk/scr/hacker/PublicationsBooks.html

ハッカーに代表されるような守旧派と、ダイアモンドやコナントら改革派との間のウィトゲンシュタイン解釈新旧論争はさておき、ダイアモンドのような人にしても「経験的心理学」に関してはひどく貧困なイメージしか持っていないらしい様子に少しばかり引っ掛かりを感じるわけですが、そうした関連で、最近のハッカーが精力的にやっているらしいニューロサイエンス批判というのをちょっと覗いてみたくもあるけど、例によってこうした多産な著者の場合、何から読んだらいいのかわからない罠。
とりあえずは一番薄いこれ(↓)だろうか。

・Maxwell Bennett, Daniel Dennett, Peter Hacker, and John Searle, Neuroscience and Philosophy: Brain, Mind, and Language (Columbia University Press, 2007)

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2009年3月 2日 (月)

◆Thompson, LA
書評が出てたけど、あまり大したことは書いてなかったのだった。

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◆Conant
・James Conant, "Throwing Away the Top of the Ladder," The Yale Review, Vol. 79, No. 3 (1991)
・James Conant, "Must We Show What We Cannot Say?," in R. Fleming and M. Payne (eds.), The Senses of Stanley Cavell, (Bucknell University Press, 1989)

コナントさんのホームページで公開されているものをざっと。
二番目のものはキルケゴール風というか、相当ヘンテコなスタイルではあるけれど(というのも何しろこれは、本来書くはずであった論文がいかにして流産したかという次第を述べた「死亡記事」だというのだから)、言わんとする所はよく分かる。(もっとも、「お前のような人間に分かってもらっても仕方がないから困っているのだ」というのがこの論文のヘンテコさの根にはあるのだけど。)

ナンセンスについての"austere view"をウィトゲンシュタイン解釈の基盤に据え、『論考』(およびそれ以降の著作)におけるキエティズム的姿勢の一貫性を強調する点では足並みを揃えながらも、ダイアモンド(とりわけ"Ethics, Imagination and the Method of Wittgenstein's Tractatus"での)が『論考』における倫理をめぐる諸言明を、「総体としての世界あるいは生に対する超越論的態度」に関わるものとして――言わばカント的な視角から――捉えようとするのに対して、コナントはむしろ『論理』における倫理――『論考』という著作に賭けられた倫理的姿勢――を、読者との間のキルケゴール的な関係性(間接的伝達のパラドックス)を軸として読み解こうとする。自分としてはダイアモンドのロマン派的(?)な解釈よりもコナントの読みの方がはるかにしっくりくるし、しかもまたそうした読みをThe Realistic Spiritの著者(少なくともそこに収められた幾つかの論文の著者)に帰すこともそれほど不自然ではないと思われるにもかかわらず、ダイアモンド自身はそれには飽き足らないものを感じているとすれば、それは果たして何なのか。

ちょっと引用:

The Kantian reading of Wittgenstein that proposes that he wishes to draw "limits" to what we can say ---- both in order to demarcate what we cannot say and in order to make room for the Tractatus's analogue of faith ---- seems to me to offer as misguided an angle of entry into the early Wittgenstein as it does into his later work. On the reading I would like to propose, one of the primary targets of the Tractatus is Schopenhauer's Kantian picture of "the limits of the world" with its corollary picture of a noumenal realm beyond those limits. From this vantage point, the echoing of Kantian themes in the work is in part a function of the intentionally anti-Kantian strain of its teaching. ("Must We Show What We Cannot Say?," p. 277, n. 24)
(ただしこうした指摘がダイアモンドのカント的解釈にそのまま当てはまるわけではない。)

ちなみに、キルケゴールか/カントか、という問題との関連では、コナントがヘンリー・アリソンのキルケゴール研究を――キャベルのキルケゴール論と並べて――高く評価しているというのは、ちょっと興味深い。

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