◆Themes from the Ethics of Bernard Williams
・http://williamsconference.googlepages.com/programme
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◆メモ
・Ezio Di Nucci, "Mind Out of Action: The Intentionality of Automatic Actions" (2008)
・Andreas Elpidorou, "The Epistemological Role of the Body: A Lesson from Neuropsychology" (2009) [pdf]
・Micah Newman, "Comments on Elpidorou" (2009) [doc]
・Anne Newstead, "Knowledge by Intention?: On the Possibility of Agent's Knowledge" [pdf]
・鄭會穎, "Self in Action" [pdf]
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◆Taylor, HAL
ひとまず読了。
個人的には、「なぜ行為が哲学の問題となるのか」という問いをめぐる懐の深い考察、またその中でも、行為者性に関するテイラー独特の解釈学的視点に立った感情の捉え方(人間的な価値を開示するものとしての感情の役割)、といった点が特に興味深く感じたし、多くを教えられたとも思う。(とはいえ、テイラーのスタンスでは「いかにして動物(人間以外の、言語を持たない動物)は感情を持ち得るのか」という問いをめぐって、かなり苦しい選択を迫られることにもなる。)
行為の哲学や心の哲学の主流的な動向の中では恐らく、The Explanation of Behaviorでのメルロ=ポンティ的なアプローチについて時折思い出されたように言及されるのを別にすれば、テイラーの仕事にきちんと目を向けるということはこれまでほとんど為されてこなかったと思われるけれども(またそれはある意味では何ら不思議ではないのだけれど)、やはりアンスコムからテイラーへという系譜は行為論の一つの太い軸としてしっかりと押えておかなければまずいんではなかろうか、と改めて感じさせられる。しかしまた、何よりもヘーゲル論においてこそアンスコムからの影響を最も色濃く感じさせるあたりが、テイラーという人の複雑なところであり、厄介なところでもある。
締め括りとなる第三部での、ヘルダー、フンボルト、ハーマンを源流とする表現主義的な“the HHH theory”――「超エッチな意味理論」――をめぐる議論を読むと、大学一年の時の授業では某先生がフンボルトの言語論の重要性を力説されていたっけなあ、といった懐かしい想い出が甦ってきたりもして、ちょっと心動かされる。しかしそこでのデイヴィドソン的な意味理論の切り捨て方は随分強引というか拙速というか、あまりテイラーには似つかわしくない気もするけれど、当時の「デイヴィドソン」ブームにはよっぽど腹に据えかねるような苦々しい思いをしていたのだろうか。(そういえば、われこそは元祖デイヴィドソニアンといった調子のウィギンズの自伝的な文章――ウィギンズへの献呈論集に収められているもの――のことを思い出した。)
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But if we follow the insight of the HHH view, and see the importance of expression, and also its intrication into our depictive use of language, this narrow corcumscription will be more difficult to sustain. We then get a much broader view of the phenomena of language, the phenomena which a general theory of meaning must cast light on. Language, in the sense of prose speech, is not seen on its own, or together only with other media of depiction. It is part of a wide gamut, along with expressive gesture, and different media of art: the whole gamut of what Cassirer called the "symbolic forms". This wider circumscription is typical of the Romantic view, the family of theories descended from the HHH. (p. 269)「真理」や「表象」といった概念を基底に据えて言語的意味を解明しようとする"designative"な意味理論(科学革命期の哲学からフレーゲ、デイヴィドソンへと受け継がれてきたもの)の見方には反して、表現主義的な理論においては、言語の表現的機能を理解することこそが表象的な機能(世界を正しく描出し記述すること)の理解に先立つのであって、その逆ではない。
テイラーは言語の基礎的な表現的機能を、三重の意味での「開示(disclosure, Erschlossenheit)」として整理している。
(1)非明示的なものを明示化する(make it explicit)こと、分節化する(articulate)こと。
(2)公的な空間、「われわれ」の空間を切り開き、創出すること。
(3)事物の持つ価値=重要性(significance)を露わにする媒体となること。
恐らく、中でも決定的に重要な意味を持つのが(1)の論点である。これについてテイラーは例えば次のようにも説明している。
... coming to articulate our sense of some matter is inseparable from coming to identify its features. It is these that our description pick out; and having an articulated view of something is grasping how the different features or aspects are related. We use "articulate" both as an adjective and a verb, but the first is derivative from the second. We speak of someone who can express himself as "articulate", because he can articulate and lay out the contours of what he has a sense of. (p. 257)しかし、こうした多分にfigurativeな説明――「輪郭を際立たせること」――が依然として十分に明らかにしていないと思われるのは、そうした働きがいかにして単なる表象的な機能とは決定的に異なるのか、という点である。
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◆薄曇
で、時々晴れ間が見えるかと思えば、また突然雨が落ちてくる。桜の季節が終わって以来、肌寒い日が続く。
あまり外を出歩く気分にもならないので、近所の古道具屋を覗いてみる。ロシア人(?)の家族連れ(?)が大声で呼び交わしながら食器を選んでいる。G・ルカーチ『ゲーテ研究』(青木文庫、1954)とJ・ホッグ『悪の誘惑』(国書刊行会、1980)を買って帰る。ホッグの本はそういえばイアン・ハッキングがどこかで激賞していたらしい。
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『憂い顔の童子』をようやく読み終える。(ある時期の作品におけるような)大きな脈動に生気付けられてリズミックにうねるような文体でもなく、(またある時期の作品におけるような)喚起的なイメージ同士が軽やかに乱反射を重ねるようなスタイルでもなく、(またまたある時期の作品におけるような)いかにも物語的な造形を施されたキャラクターの力によって物語の進行が滑らかに押し進められていくというのでもなく、ある意味ではひどく平板で読みにくい文章なのだけれど、その底に何か得体の知れない不穏なものが蠢いているような不気味さがある。年寄りは怖い。
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◆Danto, BBP
もはや大分記憶がおぼろげになりつつある中で、ちょっとメモ。
自分にとってダントという人は、幾つか短い論文を読んでも「結局何をやろうとしているのかよく分からない人」という印象がずっとあって、その点ではこの本(に収められた諸論文)ではダント自身の積極的なスタンスというか哲学的な「人となり」がかなり明確に示されていて成る程と納得する所は少なからずあったのだけれど、しかし残念なことに、そうしたダント自身の積極的な主張というのはおよそ魅力的とは言いがたい、というのが素直な感想。いずれにしても、ダントという人は自分にとっては「ほとんど何から何まで考えを異にする哲学者」ということになりそうである。
行為というテーマに関しては、本書には“Basic Actions and Basic Concepts”(1978)および“Action, Knowledge, and Representation”(1976)という二論文が収められている。アンスコムの行為論が何を目指し、その哲学的なインパクトは何に存するのか、といった点について――メルロ=ポンティの身体論との並行性も視野に入れつつ――ダントが述べる所は概ね的確だと思うが、それだけに、とりわけアンスコムに対する批判を通じてダント自身が展開する考察の道筋は(こう言ってよければ)首尾一貫して体系的に――範例的とも言える仕方で――誤っているように思われる。
いずれも行為の認識論を主題とするこれら二論文でのダントの狙いは、次の二点にまとめられる。
(1)われわれが自分自身の身体や自分の行為について持つ独特の知識――実践的知識――に着目することで、デカルト的な認識論的構図(直接的に知られるものとしての心と、“外界”の一部としての身体や行為)を打ち破ろうとする反デカルト的・「反表象主義」的な試みに異議を唱えること。アンスコム(やメルロ=ポンティ)によれば、われわれは自分の身体や行為について、他の事物やそのあり方について持つような(思弁的な)知識――世界を正確に映し出すことを目指した表象としての知識――とは異なる、独特の実践的な知識、非表象的な知識を持つ。これに対してダントはこうした反表象主義的な提案を斥け、むしろ古典的な表象主義の構図(行為においては意図という心的表象が原因となって、身体的運動という結果が生じる)を守り抜こうとする。
(2)ダント自身が導入した「基礎的行為 basic action」の概念を解体すること。とりわけ、(1)で問題とされるような反デカルト的な試みの観点から基礎的行為の概念に寄せられるであろう認識論的な期待をきっぱりと拭い去ること。
・ダントの提唱した基礎的行為の概念とは大まかに言えば次のようなものであった。Xのある行為aが基礎的行為であるのは、(ⅰ)aがXの行なう行為であり、かつ(ⅱ)aを因果的に引き起こすようなXの別の行為bが存在しない(つまり、aをもたらす原因はもはや、Xの行なう行為ではない)、という場合であり、この場合に限る。
・こうした基礎的行為の存在は、「もしそうした何らかの基礎的行為が存在するのでなければ、非基礎的行為の原因をめぐって無限後退が生じることになってしまう」という“超越論的演繹”によって確立される。
・ところで、こうした基礎的行為の概念を提案した当初の論文(“What We Can Do”(1963)および“Basic Actions”(1965))では、こうした存在証明(何らかの基礎的行為は存在しなければならない)に加えて、実際にいかなる行為が基礎的行為であるのか、またある行為が基礎的行為だということはどのようにして認識されるのか、という問題についてもダント自身の推測が示されていた。
・その段階でのダントの考えによれば、基礎的行為は一定の認識的な要件を満たさなければならないとされていた。すなわち、自分の行なうどの行為が基礎的行為であるかを行為者自身は直接的に認識しているのでなければならないし、さらには、ある行為が基礎的行為だと直接的に知られること自体が、正にその行為が基礎的行為であるための条件なのである、と。
・だが今やダントは、こうした見方を斥ける。たしかに何らかの基礎的行為は存在しなければならない(というのもその“超越論的演繹”は依然として妥当だから)、が、自分のどの行為が基礎的行為なのかをわれわれは必ずしも知っているわけではない。行為者にとって基礎的行為が因果的な意味で最も近接的だということは、決してその認識論的な近さ――直接的・無媒介的な認識可能性――を意味するわけではない。
・そして、基礎的行為の概念をめぐるダントのこうした態度変更は、行為の認識論一般に関するダント自身の見解の明確化――とりわけ、メルロ=ポンティやアンスコムらによる反表象主義的な提案に対する否定的な態度の明確化――と連動している。
・そうしたダントの考察は特にアンスコムの言う「実践的知識」あるいは「非観察的知識」の概念に対する批判を通じてなされるが、ただしダントの提起する批判が正確にはいかなるものであるかはやや分かりにくい所がある。彼は少なくとも三つの論点を示しているように見える(が、間違っているかもしれない)。
(ⅰ)アンスコムの主張には反して、行為において実際に何が為されているかは非観察的には知り得ない、という(よくあるタイプの)批判。――これについては取りあえずパス。
(ⅱ)「一般に行為者はみな自分が何をしているかを知っているはずだ」という常識的直観を揺るがすような様々な心理学的実験成果がある、という批判。――これについても取りあえずパス。(そうした実験の解釈にはかなり問題がありそうに感じる。)
(ⅲ)誤謬の存在が提起する問題に適切に対処するためには、「自分の行為についての行為者の知識」を説明するにあたって結局のところ表象の概念を持ち込む以外にはない、という批判。――これについては、まず第一に、行為の認識論においてダントの言う「誤謬の問題」というものが正確にはどのような形で提起されることになるのかがはっきりしない。そして第二に、もしダントの狙いが、例えば知覚に基づく経験的知識(実践的知識とは異なる思弁的な知識)のケースについて、「錯覚や幻覚のような事例が提起する誤謬の問題に対処するためには、何か心的表象を持ち込む形で知覚の成り立ちを説明する以外にない」と論じられるのと同様のやり方を、行為についての実践的知識のケースにも持ち込もうとすることにあるのだとすれば、こうしたアプローチは(知覚のケースにおいてさえ)問題の本性を見誤ったものだと思う。
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◆M・メルロ=ポンティ『心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける』(朝日出版社、1981)
押入れから発掘されたので、思い立って第十講、ビランの部分まで読んでみる。ずっと以前に読んだ時にはどうもマールブランシュの部分で挫折したらしいのだけど、改めてみると、マールブランシュからビランへと話が移るとにわかに語り口が精彩を帯びてくる、という印象。(それ自体が乗り越えられるべき様々な対立――観念論と実在論、超越論的反省と経験的観察、デカルトとコンディヤック、…――を前にして、その対立を形作る両項の間でいかにビランが不安定な揺れ動きを示しているかを丹念に辿る、といったようないかにもメルロ=ポンティらしい話。)
幾つか抜書き:
立てられうる本当の問題はこうなる。――ビランは哲学者たることに成功したのか、それとも単に心理学の諸要求を哲学に突きつけただけなのか。彼がデカルト主義に対置したのは、哲学、つまり存在についての或る考え方なのか、それとも単に存在の一領域の単なる主題化としての心理学なのか、と。ビランは、たとえば視角ではなく触覚の哲学を作るのだと宣言するときなど、しばしば心理[学?]主義に傾いているような印象を与える。確かに、その宣言は軽率な言い方ではある。というのも、存在全体を触覚的なものと考えることは問題にもならないし、視角の意識も原始的事実によって忌避されるわけではないからである。ビランがしばしば哲学の下方にとどまっていたとすれば、それは観念の明証性に問いかけたためではなく(そうした問いかけこそが哲学そのものなのだから)、存在そのものに問いかけなかったためなのだ。(p. 76)
ビランが心理学から離れるのは、存在の一部だけを主題化する代わりに、身体性と生きられる世界と他者たちとをかの新しい次元において再発見したときだけであった。大抵の場合、彼は領分に領分を、存在論に心理学を対置するであろう。マールブランシュについて語りながら、彼は、マールブランシュが存在論の観点に身を置いていたことを非難するだろうが、このことは、彼が自分を単なる心理学者と考え、哲学には携わらないと告白していることを暗に意味しているのである。(p. 94)
…今日、ゲシュタルト心理学は、「知覚の領分」と「運動の領分」を同じ一つの包括的体制の要素とみなしている。知覚するとは、物へと向かい、それを目指すということである。行動するとは、運動の中に意味を付与された思考を置き入れるということである。このことは、認識が「…に対して振舞う仕方」であり、行動が知覚する自我に統合されていることを要求する。ビランは、同じ精神で、個人がもはや存在感をもたないような完全な麻痺の症例について語っている。彼がわれわれに理解させようとしているのは、自分の身体を動かすこととそれを知覚することとの間には差異がないということである。ビランは、意識を罷免しようというのではなく、それを定義しなおそうとしているのだ。
自由の経験についての一頁が示しているのは、まさにこのことである。彼は次のように書いている。「以上のことから結論されるのは、ちょうど私の存在の内的感情がわれわれに私の存在の実在性を証明してくれるのと同じように、行使中の或る能力の感情とみなされる自由がこの能力の実在を予想する、ということである。私は自分が存在していると感ずる(すなわち私は考える)、故に私は実在的に存在する、とデカルトが言ったのと同じように、またそれと同じ程度のすぐれた明証性をもって、私は自分が自由だと感じる、故に私は自由である、と言いうるであろう。もしこの能力の感情が私を欺くとすれば、すなわち私がみずからを決定し、努力しているその瞬間に、私の決定の原因をなし、私の努力を行使し、私の能力を実行に移すのは、実は別な存在、別の目に見えない力ではないかどうか、をなお疑うことができるとすれば、私は同じように、私が自分の個体的存在を感じたり統覚したりするとき、私の代わりに別な存在者が存在しているのではないかどうか、を疑うことができるだろう」[Essai sur les fondements de la psychologie, 1re partie, section 2, ch IV]。この頁が示しているように、ビランは、「我思う」の代わりに、彼が「我思う」の全き意味と考えるものを復権させようとしたのにほかならない。彼はここで、あたかもデカルトが機会原因論的観念を留保なしに認めていたかのような言い方[?]をし、デカルトが自我の存在を肯定する際に使っていたのとその同じ言葉で、身体の運動能力を肯定している。「我思う」は排斥されたのではなく、拡張されたのだ。(pp. 83-84)
ビランは、空間[=「視角や触覚の対象となる無限に分割可能な外的空間」]以前のこの空間性[=「直接的統覚の対象としての身体という内的延長」]と相関的に、内部と外部との同時的分析の方法を導入する。「四肢に対するわれわれの本原的な能力ないし意志の主権は、明証的に認識されているのであるが、しかしそれは、ただその能力が感じられているという点においてのみであって、例えば或る疎遠なメカニズムがそうであるかもしれないように、外部で表象されるという点においてではない。このような表象のみを考慮に入れ、外的運動を意志がその原因であると想定されるような結果とみなすならば、そのような意味では、能力は結果において認識されるのではないし、その逆でもないというのは、いかにもその通りである。というのも、これら二つの考え方は、一方はもっぱら内感に依拠し、他方は外感に依拠するといったふうに、異質なものだからである。…これら二種類の認識の間に生じている対立、つまり意志が肢体を動かそうとするときに、もし運動性の諸器官が内的に感じられたり統覚されたりする代わりに表象されるようなことがありうるとすれば、意志は決して生じないであろうといった対立を、どうして見過ごすことができようか。同様に、もしわれわれが網膜の神経と発光体とを表象するのdとすれば、われわれはもはや色を見ないであろう。自分自身の内側で見るように組織された眼が、外側にあるものをどのようにして見ることができようか。まさにこんなわけなので、自分自身の意志の働きの隠れたバネを客観的に認識するためには、自己であると同時に他者でなければならぬということになるのだ」[Essai sur les fondements de la psychologie, 1re partie, section 2, ch IV, §II]。(pp. 86-87)
"maine+de+biran"で検索してみると日本語のページがずいぶん沢山引っかかるというのは西田幾多郎以来のビラン好きの伝統ゆえなのだろうか。
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◆Clark's reply to Fodor
・http://manwithoutqualities.com/2009/03/25/clarks-reply-to-fodor/
It is that non-biological resources, if hooked appropriately into processes running in the human brain, can form parts of larger circuits that count as genuinely cognitive in their own right.
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◆よーしパパ書評しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。書評ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
――と誰が言ったか知らないが、最近の某書評のことが某ブログで取り上げられているのを目にして、そういえば前に「ヒドイ書評ランキング」みたいのがどっかにあったよなあと探してみたらこちら(↓)なのでした。
・http://ideasofimperfection.blogspot.com/2006/04/economy-of-prestige.html
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えーと、ちょっとばかり前に少なからず物議をかもした某書評をめぐっては、このように素晴らしく殺伐としたサイトというのも作られているわけですか。。。
正直ちょっとこわいです(>_<)
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◆Danto, BBP
・Arthur C. Danto, The Body/Body Problem: Selected Essays (University of California Press, 1999)
心(表象)、行為、歴史、芸術といった御得意のテーマに関する諸論文が収められていて、さながら『ポータブル・ダント』といった感じの本らしい。「イントロダクション」によれば、これら多様な分野にわたる考察を貫いているのは、人間の本質を「表象する存在 ens representans」として捉える視点なのである、と。
For some considerable while I have viewed representation as the central concept in philosophy, with differences among philosophers arising in the ways they account for how representations connect to the world, connect to the individuals who possess them, and connect with one another to form systems of beliefs, feelings, and attitudes. The main connections to the world are causation and truth, each of which figures in philosophical accounts of knowledge and of action: a representation is knowledge when caused by what makes it true […]; something is an action when caused by a representation it makes true. There is doubtless more to knowledge and to action than this exiguous catalog of components and connections, but I mean to stress that only to a representational being ---- a res representans ---- can knowledge or action be ascribed, as well as error and misperformance, which are after all failure of fit between representations and the world. […] Representation is the common element in the philosophy of knowledge and the philosophy of action, as well as in the analytical philosophy of history. In this collection of linked essays, however, I advance a philosophy of human beings as systems of representations, some of which represent portions of that system, and so constitute the kind of self-consciousness Hegel supposed he had attained to when he wrote the Phenomenology, relating earlier and later representations under narrative descriptions. (pp. 12-13)こうした見方には自分としてはほとんど魅力を感じないのだけれど、さしあたって、心の哲学・行為の哲学に関連する章を拾い読み。
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◆Hegel's Concept of Action
・Michael Quante, Hegel's Concept of Action (CUP, 2004)
・NDPR (Reviewed by Paul Redding)
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◆Danto and His Critics (History and Theory, 37 (December, 1998))
・http://www.historyandtheory.org/archives/dec98.html
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◆やばい
ビンボーすぎることに気がついた。
ご近所をぐるっと一回りするとあちらこちらで花海棠がちょうど盛りを迎えているのだけれど、ぎゅっと色濃く凝縮された蕾をちりばめた姿がワクワク感を抱かせて期待の地平のハードルを押し上げているせいか、いざ花開いてみると案外拍子抜けするような思いもしたり。それにしても家の鈴蘭は葉っぱばかりが茂って一向に花が咲かないのはどうしたもんだろう。
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◆Universities & Left Review 1957-59
・http://www.amielandmelburn.org.uk/collections/ulr/index_frame.htm
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◆メモ
・リン・チュン『イギリスのニューレフト―カルチュラル・スタディーズの源流』(彩流社、1999) ¥ 4,725
・Lin Chun, The British New Left (Edinburgh Univ Pr, 1993)
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◆Taylor, HAL
・Charles Taylor, Human Agency and Language: Philosophical Papers 1 (CUP, 1985)
今頃になって初めて手にとっているというのは相当に情けないものがあるなあ、と忸怩たる思いに苛まれつつも、本には読むべき時というのがあるのだからまぁいーのだ(と合理化する)。
とりあえず第一部の諸論文に目を通したところ。
Ⅰ. Agency and Self
1. "What is Human Agency?" (1977)
2. "Self-Interpreting Animals" (1977)
3. "Hegel's Philosophy of Mind" (1983)
4. "The Concept of a Person" (1983)
いずれも読みごたえのある重量級の論文で、テイラーという人の巨大さというか懐の深さを今更ながらに思い知らされるわけですが、中でも特に第3論文「ヘーゲルの心の哲学」――行為の本性をめぐる近代以降の哲学的動向を巧みに整理しつつ、そうした背景に照らしてヘーゲルの心の哲学の核心を行為論として読み解こうという鮮やかな試み――には、鈍器で頭をボカっと殴られたような衝撃を受ける。
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◆Taylor, Müller
・Charles Taylor, "Action as Expression," in Cora Diamond & Jenny Teichman (eds.), Intention and Intentionality: Essays in Honour of G. E. M. Anscombe (Cornell University Press, 1979)
・Anselm Winfried Müller, "How Theoretical is Practical Reason?," ibid.
テイラー論文は、「行為は欲求の自然な表現だ」という主張を哲学的にきちんと練り上げようという話。
This kind of case [i.e., "deviant causal chain" case] has been much discussed in the literature. And of course there is no agreement on what to make of it. My claim is that it shows that the relation of action and desire cannot be analyzed with some general category of cause which is also applicable to inanimate beings. Rather we can see that just what is missing in the deviant case is that relation between desire and action that I want to call "expression". […] We can see from the deviant case that this stronger, more intimate relation of expression is essential to what we consider in normal action. What is this relation? It is that desire and action are in a certain sense inseparable. (p. 84)行為と欲求の間にあるべき表現関係を正しく見て取るには、行為者が強制されずに自らすすんで(unreluctantly and unconstrainedly)行為するような「正常な」あるいは「基礎的な」状況に目を向けなければならない。
For in the case where I act unconstrainedly and unreluctantly, my awareness of my desire must always include, and can just consist in, my awareness that I am so acting. But since my awareness of my desire is not some separable symptom, but is essential to my desire, is part of what it is to have this desire, then so is my awareness of my unconstrained action. Awareness of what I want is inseparable here from awareness of what I am doing. Desire and action are not separable components in the basic situation. (p. 86)
... the desire is inseparable from the action in that the awareness which it essentially involves just is the awareness of unconstrained action. So that in the case of happy action, we can say that the form the desire takes is that of unconstrained action. The locus of desiring in this case, as an essentially intentional state, is just in the action. The action doesn't just enable us to see the desire; it is the desire, embodied in public space. (p. 87)
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◆Pippin
・Robert Pippin, "Bourgeois Philosophy?: On the Problem of Leading a Free Life" (2004 Ryerson Lecture)
・Robert B. Pippin, The Persistence of Subjectivity: On the Kantian Aftermath, Reviewed by Richard Rorty (NDPR)
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◆Lee Marvin’s “Gas Tank” Theory of Love
・http://profzeki.blogspot.com/2009/04/gas-tank-theory-of-love.html
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◆Anscombe, Falvey
・G. E. M. Anscombe, "On Sensations of Position" (1962)
・G. E. M. Anscombe, "Intention" (1957)
・Kevin Falvey, "Knowledge in Intention" (2000)
ファルヴィー論文はアンスコムの言う非観察的知識、特に自分が現に行なっている行為についての非観察的知識という概念を擁護しようとするものだが、その議論の主要なポイントは二つある。
(1)行為のアスペクトに関するトンプソンの考察を引き継ぎながら、行為と意図との連続性を明らかにすること。
(2)アプリオリな知識を支える知覚的観察の役割(いかにして数学や論理学についての知識は――知覚的観察の働きに支えられているにもかかわらず――アプリオリであり得るのか)に関するバージの議論を援用することで、非観察的知識を支える知覚の役割(いかにして自分の行為についての知識は――様々な知覚的観察に支えられているにもかかわらず――非観察的であり得るのか)を説明すること。
(1)について言えば、自分の行為についての非観察的知識を考察するに当たってファルヴィーが特に注目するのは次のようなケースである。私は今じっと椅子に腰掛け、オーブンの中でパンが焼けるのを待っている。「行なう」という表現の狭い意味では、今の私は何も行なっていないのだが、またもう一つの広い意味では、現に「パンを焼く」ということを意図的に行なっている。
こうした場合、外部の観察者(例えば今この場に入ってきた観察者)が私の様子を目にして、私が何をしているかを観察によって知ることは不可能ではないにせよ(もしかすると彼は、私が珍しくこうしてじっとしている時はいつもパンが焼けるのを待っている時だと知っているかもしれない)、一般にはきわめて困難である。今のケースで私が行なっているのはパン作りだということを窺わせるような観察的な手掛かりは殆どない(少なくともそのように想定することも許される)からである。にもかかわらず私は自分が何をしているかを観察によらずに知っている。
こうしたケースに着目しつつファルヴィーは、自分が現にφしているという場面において、「自分はφしている」という非観察的知識の実質を、"intention-to-be-φing"という意図についての知識に見出すことになる。
こうしたファルヴィーの考察は、前にここで記したような方向性――つまり、「自分が現に行なっている行為についての知識」と「身体的なproprioceptiveな知識」との連続性に着目しようとする方向性――とは逆に、「自分が現に行なっている行為についての知識」を「未来の行為に関する事前の意図についての知識」との連続性の相で捉えようとする方向性に立つものだと言える。これら二つの方向性は必ずしも矛盾するわけでも、両立不可能というわけでもないだろうが、しかしファルヴィーのアプローチにはやはり幾つかの点で疑問を感じる。
何よりもまず第一に、自分が実際にφしているという場面についてファルヴィーが言うような"intention to be φing"――「φしてい(ることにし)ようという意図」?――というのは何だろうか? φしようとする意図(intention to φ)に加えて、私はそうした意図をも持っているのだろうか?
(・ファルヴィーの言う"intention to be φing"は恐らく、サールが"prior intention"と区別して立てる"intention-in-action"(≒"trying")とも異なる。先のケースに関して、恐らくサールの言うような意味では、パン作りに関する"intention-in-action"は作動していないと言うべきだろう。)
(・さらにまた、行為が現に行なわれている最中にそうした特殊な意図を措定するというやり方は、行為のアスペクト的性格に目を向けることで意図の概念の発生に光を投じようというトンプソンの戦略――ファルヴィーによれば「一種のセラーズ風の神話語り」(p. 42, n. 11)――とも基本的な姿勢を異にしていると思う。)
(※抹消線部分に関しては自分の方に誤解があったようなので、ちょっと訂正。ファルビーによれば、"intention to be φing"とは、「φしようとする意図」つまり事前の意図が、現にφしているという局面において――エヴァンズの言う意味で――追跡(keep track)されたものなのであり、「φしようとする意図」に加えて"intention to be φing"を持つわけではない(p. 41, n. 5)。これによって、「自分が現に行なっている行為についての知識」の基本的性格を「未来の行為に関する事前の意図についての知識」のそれに引きつけて捉えようとするファルヴィーの狙いはいっそう明らかとなる。――しかし、事前に意図を形成して行為に臨むケースについては、そうした意図の追跡に訴えることで"intention to be φing"に説明を与えることができるとしても、そうではないケースについてはどうなるのか。事前にφしようとする意図を持ってはいなかったにもかかわらず現に意図的にφしているという場合、"intention to be φing"という行為中の意図については「現にφしている最中に行為者が非観察的に知っているもの」という以外にどのような特徴付けを与えることができるのだろうか?)
私がφしようと意図しているとして、現にφすることに取りかかる以前の段階では、φしようという意図が、自分のその行為について私が行為者として(非観察的に)知るべきことの全てである。だが、いったんφし始めたならば、事情は大きく変貌することになる。今や私が自分の行為について知るべきことは、"intention to be φing"という意図に尽きるわけではない。私はその上また、実際に自分がφしていること(現にφが為されていること)をも知っていなければならない。"intention to be φing"という意図についての知識は、非観察的な性格を保ったままで、いかにして、自分がφしているという知識をも包摂したものとなり得るのか。(あるいはファルヴィーの言い方では、「あなたは何をしているのか」という問いに対して私が与える「私はφしている」という答えは、"intention to be φing"という意図の単なる表明であることを超えて、いかにして「自分はφしている」という事実の記述となり得るのか。)というのも、"intention to be φing"という意図は持ち、自分は現にφしているものと思い込んでいながらも、実際には全くφしそこなっている(自分は今パンを焼いているものと思い込んでいたが、実際にはオーブンに点火していなかった、あるいはオーブンに何も入れていなかった、等々)、ということもあり得るではないか。もしそうならば、私は自分が何をしているのかを知ってはいなかったことになる。こうした問題への対処としてファルヴィーが訴えるのが(2)の論点、すなわちバージ的な認識論の援用というアイディアである。
ファルヴィーはまず第一に、自分が現にφしている場面で、自分が実際にそう行動しているということを知るには、一般に様々な知覚的観察(見たり聞いたりといった“外的”な知覚であれ、身体感覚のような“内的”知覚であれ)の働きに依存せざるを得ないと認める。またこの点で、そうした知識がいかなる観察も介さずに知られると主張しているかに見えるアンスコムの立場を批判する。
しかし彼はまた第二に、そのように知覚的観察の介在を余儀なくされるということからは、そうした介在によって得られる知識が「観察的」性格のものだということが必ずしも帰結しない、と主張する。例えば、数学的論証の結論についてわれわれが持つ知識は、(その論証を構成する様々な数式や記号の知覚をはじめとする)様々な知覚的観察に支えられていながらも、アプリオリなwarrantを持ち得るのと同様に、自分の行為について行為者が持つ知識も、様々な知覚的観察の介在にもかかわらず、非観察的なwarrantを持ち得るのだ、と。
こうしたバージ的なentitlement論の導入という論点について、私には特に積極的な異論はないのだけれど、しかしこの(2)の論点にせよ、先の(1)の論点にせよ、結局のところそのような方策に訴えて非観察的知識という概念を擁護しようとするファルヴィーの狙いが今一つよく分からない。
第一に、ファルヴィーがこの論文で直接的に標的としている"two-factor thesis"との関連において。この"two-factor thesis"によれば、自分の行為について行為者が持つ知識は二つの部分からなるのであり、自分が何を意図しているかは非観察的に知られるにせよ、自分が実際に何を行なっているかは観察に基づいて知る以外にはない、とされる。そして、こうしたテーゼへの批判にもかかわらず、自分の行為についての非観察的知識に関するファルヴィーの最終的な立場は、むしろこの"two-factor thesis"をマイナー・チェンジした修正案とでも言うべきものではないのだろうか。
第二に、アンスコムとの関連において。これはどちらかというと(1)の論点に関わる問題なのだろうが、行為と意図との連続性という主張について、その主張自体には特に異論はないのだけれども、しかしそうした見地(のみ)から非観察的知識という概念の立て直しを図ろうとする場合、アンスコムがわざわざこの概念を導入して担わせようとしていたものの相当部分が取り逃がされてしまうのではないか、という疑問が残る。(この論文の終盤での議論を見ると、複数の行為者が関わるような共同的な行為の場面などで個々の行為者が自分の意図を知りそれを伝えることがどういった役割を果たすかといった問題を念頭に置きながら、自分自身の意図的行為について行為者が持つ特殊な一人称的権限を支えているメカニズムを明らかにしよう、というのがファルヴィーの中心的な関心事であるようにも思われるけれども、いずれにしてもそうした考察はアンスコムの当初の問題意識からはかなり隔たったものにならざるを得ないんじゃなかろうか。)
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◆昨日
は半日掛りであちこちを回って方々の桜を見物に出かけた反動か、今朝からすっかりダメ人間モードに突入。そういえば、この一週間ほど家の庭を縄張りにして早朝からうるさいほど鳴いていたヒヨドリも、今日に限ってはぱったり姿を見せない。『活火山の下』の続きを読んだりウトウトしたりと、かなりダメな感じで一日が終了。
・http://home.istar.ca/~stewart/Preface.htm
In the Jewish Cabbala the abuse of magic powers is compared to drunkenness or the abuse of wine, and is expressed, if I remember rightly, by the Hebrew word sod. Another attribution of the word sod signifies garden, or neglected garden, and the Cabbala itself is sometimes considered as a garden (naturally similar to that where grew the tree of forbidden fruit which gave us the Knowledge of Good and Evil), with the Tree of Life planted in the middle. In one way or another these matters are at the base of many of our legends regarding the origins of man, and William James, if not Freud, might be in agreement with me when I affirm that the agonies of the drunkard find a very close parallel in the agonies of the mystic who has abused his powers.
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◆Rawls's religion
・Joshua Cohen & Thomas Nagel, "John Rawls: On My Religion" (TLS)
問題の本というのはもう出とるわけですね。
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◆もう
桜咲いちゃってるよ、ということなので、折角だから帰りに放送局の脇の細道を通って見物に。ここは以前は個人のお宅だったはずで、去年までは家が取り壊された跡の空き地に大きな桜が一本だけ立っていたのが、今では小さな公園になっている。相変わらず桜は真直ぐに立った幹からたっぷり降り注いでくるように見事に花を咲かせているのだけれど、他にあっためぼしい木は公園作りのために相当切り倒されてしまったようで、季節が過ぎたらかなり寂しい景色になりそうでもある。
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◆Velleman
・J. David Velleman, Practical Reflection (CSLI, 2007)
ちょっとパラパラ読み返してみただけ。すっかり忘れていたが、この新版で付け加えられている新しい序文の中では、アンスコムの非観察的知識の概念の解釈をめぐってかなり卓袱台返し的な話(pp. xxi-xxv)が添えられていて、結果的にはそのおかげで少し勇気付けられる。
ヴェルマンによれば、かつてこの本(Princeton U.P., 1989)を書いたときには、アンスコムの非観察的知識という概念の背景にはreliabilismが控えていることを見落としていた。つまり、自分の手足の位置についての知識(proprioceptive knowledge)が、しかるべきreliableな身体メカニズムによってもたらされるがゆえに、観察的証拠によらずとも知識としての身分を保証されるのと同様に、自分の行為についての実践的知識もまた、単なる偶然やまぐれ当たりを排除するようなreliableな基盤に支えられているがゆえに非観察的でありうる、――これがアンスコムの考え方なのである、と。(もっともヴェルマンは最終的に、意図的行為の知識に関する自分自身のevidentialなアプローチの方が、アンスコムのreliabilismアプローチよりも優れていると主張するのではあるが。)
行為の認識論に関するアンスコムの立場を単純なreliabilismとして特徴付けるというのは、まちがいなく相当に問題含みではあるけれども、それはともかくとして、ここで注目したいのは次の二つの点。
(1)ヴェルマンのこの解釈によれば、proprioceptiveな知識と、意図的行為についての実践的知識は双方とも、同質の性格を持つ何かに言及することによって同形のスタイルで説明されるべきものだということ。
(2)そうした説明においては、自分の意図的行為について実践的知識を持つというのはどういうことかという問題の解明は、(そうした実践的知識を伴いつつ行為し得るような)行為者であるというのはどういうことかという問題の解明に本質的に依存したものとなる、ということ。(この点では、行為者性の解明を前提しない仕方で実践的知識を解明しようとするモランのアプローチ(cf. "Anscombe on ‘Practical Knowledge’," p. 68, n. 14)とは対照的に。)
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◆Hursthouse, Moran
承前。頭が悪いのでまだグズグズ考えている。
多少はまとまってきたので、ちょっと走り書き的メモ。(ただし、独創性や目新しさはあまり無い。)
(1)ハーストハウス論文について
この論文でのハーストハウスの基本的な狙いは、デイヴィドソン以降の因果説の深刻な難点を衝くような幾つかの代表的な論拠を確認し、それとの対比によってアンスコムの反因果説的構想の健全さを示すことにある。そして実践的知識の取り扱いという問題もそうした論拠の一つとして提起される。自分の身体的状態についての非観察的知識を本来の実践的知識からは除外し、もっぱら「自分の意図的行為についての非観察的知識」のみを実践的知識として捉えるべきだとするハーストハウスの主張の背景には、あるいは、因果説との間の争点を際立たせようとするそこでの姿勢が大きく関わっているのかもしれない。というのも、自分の身体的状態についての非観察的知識をどのように説明するかという点では、因果説と反因果説とで特に大きな相違が生ずるとは思われないからである。
しかしその点はどうであれ、実践的知識についての彼女のそうした見方は、この論文末尾でハーストハウス自身がアンスコムの意図論の大きな美点として賞賛する「反デカルト的」な方向性にはむしろ逆行するものであるように私には思われる。
In this post-Cartesian age, we are still looking for a satisfactory account of first person knowledge. I know a lot of things about myself ---- what I'm intending or trying to do, what I'm going to do (intend to do), that I believe that such and such, want to do so and so, remember hearing such and such, hope to do so and so, seem to see such and such ... and I know all these things in a way that no-one else does or could. On any Cartesian or neo-Cartesian picture it will be natural to give a uniform account of this self-knowledge, in terms of my knowledge of how things are with me "considered by myself." It is the beauty of Anscombe's description of practical knowledge that, entirely abandoning this picture, it makes my so-called self-knowledge of my intention in acting extend beyond my head into the world, without undercutting its essentially first person nature. Although, of course, there is nothing in her to suggest that a general, uniform, account of self-knowledge should or could be given, she shows us the possibility of giving a non-Cartesian account of each of the other case. (p. 105)自己知についてのそうした反デカルト的説明の試みの端緒として、ハーストハウスはエヴァンズの『指示の諸相』7.4節の参照を求めているが(p. 105, n. 12)、なぜ彼女は併せて7.3節の参照をも求めなかったのだろうか? 自分の手足の位置についての非観察的知識が実践的知識ではなく思弁的知識と見なされるべきことは明らかだとハーストハウスが考えているとすれば(なぜそう見なすべきなのか明白な理由は示されていない――cf. p. 103)、それは何よりも、ハーストハウスにとって「自分の身体」というものが、他の様々な物体と並ぶ単なる一個の物体としてしか考えられていないためではなかろうか?
(2)モラン論文について
モランは非観察的知識を、(a)自分の手足の位置や身体的運動について知識、(b)自分が現に為している意図的行為についての知識、(c)自分がやがて行おうと意図している未来の行為についての知識、という三種に分類した上で、(b)の取り扱いに議論を集中する。というのも、(b)のタイプの知識(例えば、自分は壁に黄色のペンキを塗っているという知識)は、(c)とは違って、現に世界の内で生じている出来事(自分自身によって壁に黄色のペンキが塗られているという現実の出来事)についての知識であり、またそうした出来事は行為者の身体の外部で生じているがゆえに(a)のようなモデルによって説明することはできないという、独特の難しさを抱えているからである。われわれが(a)のような仕方で自分の身体内部の事柄を非観察的に知り得ることには何の疑問もないとしても、いかにして身体外部の世界に関わる事柄が非観察的な仕方で知られ得るというのか。実践的知識とはいかなるものであるかを改めて検討しつつ、どのようにしてわれわれは(b)のような知識を持ち得るのかを説得的な形で示そうとするのがモランの狙いである。こうしたモランの試みについては、二つの点が問題となると思う。
第一に、(b)のタイプの知識をめぐるモランのそもそもの問題設定の背景には、「自分の手足の位置についての非観察的知識をもたらすような知り方は、身体という境界線によって限界付けられており、その境界線の外までは及ばない」という見方がある。しかしこうした見方はきわめて問題含みである、と私は思う。この点を検討してみることで見えてくるのは、(a)のタイプの知識と(b)のタイプの知識との間の滑らかな連続性である。
第二に、実践的知識の本性についてのモランが(主としてヴェルマンに依拠して)与えている説明の大筋には私も同意するが、しかしその説明は必ずしも、(a)のタイプの知識を実践的知識から除外するものとはならないとも考える。そこでの説明においてモランが着目するのは、意図的行為の記述が持つ独特の内包的な性格であり、そうした記述を介して意図的行為とその理由とが取り結ぶ特有の関係である。だが、(a)タイプの仕方で知られるような身体的運動についても、やはりその記述はこれと類比的な内包的性格を帯びることになるし、意図的行為-記述-行為理由という三項の織り成す構造に類比的なものが身体的運動のレベルでも成立すると思われるのである。(少なくとも、アンスコムの用いる「記述」の概念は、そうした類比的な拡張を十分に許すものだと思われる。cf. Anscombe, "Under a Description" (1979).)それゆえ、モランがハーストハウスの主張を踏襲して(a)のタイプの知識を実践的知識から排除するのは、実践的知識に関する彼自身の見地からしても、十分に説得的とは言いがたいと思う。
(2-1)
われわれは自分の手足がどのような位置にあり、どのような動きをしているかを、独特の非観察的な仕方で知ることができる。ではそうした知り方はどこまで及ぶのか。われわれはそうした知り方によって、自分の身体の外の何事かを知り得るだろうか。
第一に、「身体」ということで、通常の皮膚によって画されるような生理学的(?)身体のこととして理解するならば、この非観察的な知り方がその外にまで及ぶことは明らかだと私は考える。例えば私が右足を失い、義足を装着して生活し始めるとしてみよう。そうした場合私は、以前に自分の右足の位置や動きについて知り得たのと多少とも類似した仕方で、自分の装着した義足の位置や動きを非観察的に知り得る(おそらくは時間が経つにつれてますます正確な仕方で)ようになるだろう。義足という身体外部の物体について、私は非観察的な知識を持ち得るのである。
しかしこれについては次のように言われるかもしれない。「そうした場合にあなたが義足の位置等についてそもそも知識を持ち得るのは、自分がその義足を装着していることをあらかじめ知覚的観察を通じて知っていたからこそではないのか? さもなければ、自分の装着した義足の位置を知っているつもりでいながらも、実際にはそれを装着していなかった(がゆえに、そうした知識など持ってはいなかった)、ということもあり得るのではないか?」
しかしこうした反論は決して、今のような「義足」ケースにまで非観察的知識という概念を拡張する妨げにはならないと思う。というのも、これと同様の反論は、通常の非観察的知識のケースについても当てはまるだろうからである。(五体満足であることに何の疑いも抱いていない)私が眠りから覚めて、自分の右足が布団の中でどのような位置にあるかを非観察的に知る(と自分では思っている)。しかし実は、誰かが夜中こっそりと見事な手際で――痛み一つ感じさせることなく――私の右足を切断していたとすればどうだろうか。とすれば、私は自分の足がどのような位置にあるかを非観察的に知るために、それに先だって、自分にはまだ足があることを知覚的観察によって確かめておかなければならないのではないか。しかしこれはまるで、自分が本当に頭痛を感じていることを知るには、自分にはまだ頭があるかどうかをあらかじめ確かめておかなければならない、というようなものではなかろうか。上のような反論が示しているのは結局のところ、「義足」ケースでの非観察的知識は、通常のケースでの非観察的知識と同様に決して不可謬でも訂正不可能でもない、ということだけである。
第二に、このようにして非観察的知識が身体(皮膚)という境界を容易に跨ぎ超えることがいったん理解されるならば、それが義肢のような「身体状」の部分のみならず、はるかに広範にわたる多種多様な対象にまで及び得ることもまた明らかだと思われる。真っ先に挙げられるのは恐らく各種の道具類――われわれにとっての拡張された身体とも言うべきもの――であろう。…
――ここでの趣旨はあくまでも、(a)タイプの知識と(b)タイプの知識との間には滑らかな連続性がある、あるいはいずれとも明確に分類しがたいボーダーライン的ケースがあるということであって、(b)タイプの知識をみな(a)タイプの知識に帰着させることができるということではない。例えば次のようなケースを考えてみよう。(この例はM・トンプソンからの借用である。)私は料理の材料の下拵えを済ませて鍋に放り込み、あとは煮込むだけである。面倒な作業は一段落し、今はソファーに腰掛けてゆっくりしている。この場合、私は同時に二つのことを意図的に行なっている。第一に、ソファーで寛いでおり、第二に、料理をしている(まだ煮込み途中で料理は終わっていないのだ)。こうしたケースで、自分は今料理をしているという非観察的な知識((b)タイプの知識)を(a)タイプの身体的な非観察的知識に帰着させることは困難だろう。何しろ、「料理している」と言えるような特徴的な動作を、今の段階の私は何一つ行なっていないのだから。しかし、自分はソファーで寛いでいるという非観察的知識については、また事情が大きく異なるはずである。
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◆Danto
・Arthur Danto, The Body/Body Problem: Selected Essays, Review by Adrian Haddock (2001)
The keynote essay of the collection is 'Action, Knowledge and Representation', in which Danto attempts to show that the 'Wittgensteinian' programme in the philosophy of mind has "failed, and failed definitively". His target is Anscombe's account of 'practical knowledge', and he contends that he can establish its "wrongness" and thus reveal "the need for their being intentions, whatever may be the problem of their vehicle and location, and whatever may be the philosophical price of countenancing them". And the price, it transpires, is Cartesianism, for their vehicle is the mental representation. However, this is a price we do not have to pay, for Danto's criticisms do not make contact with Anscombe's account.
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◆"The End of Philosophy"
・http://www.nytimes.com/2009/04/07/opinion/07Brooks.html?_r=2
哲学オワタ\(^o^)/的な表題には反して、道徳への進化論的アプローチをピックアップした話。新聞って大げさだな。
The first nice thing about this evolutionary approach to morality is that it emphasizes the social nature of moral intuition. People are not discrete units coolly formulating moral arguments. They link themselves together into communities and networks of mutual influence.(そんなことでは終わらんだろ常識的に考えて、というツッコミはこちら。てゆうよりジッケン哲学はじまた、という方々がこちら。関係ないけど、existential philosophy(実存哲学)とexperimental philosophy(実験哲学)って、字面がなんか微妙に似てますね。)
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◆メモ
・Constantine Sandis (ed), New Essays on the Explanation of Action (Palgrave Macmillan, 2008)
→"Introduction" [pdf]
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◆Fischer
・John Martin Fischer, Our Stories: Essays on Life, Death, and Free Will (OUP, 2009)
これはちょっと読んでみたいかも。
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◆Hursthouse, Moran
・Rosalind Hursthouse, "Intention" (2000)
・Richard Moran, "Anscombe on ‘Practical Knowledge’" (2004)
ハーストハウス論文の最終節で取り上げられている「実践的知識」の問題で引っかかったまま、うだうだ考え中。
ハーストハウスとモランは共に、(1)アンスコムの挙げる「観察に基づかない知識、非観察的知識」の事例には基本的に性格を異にする多様な種類のものが含まれており、(2)とりわけ「自分の手足の位置・態勢等についての知識」(ここでは仮に「体勢感覚的知識」と呼ぶことにする)は非観察的知識ではあれ、いかなる意味でも実践的知識ではない、と主張する。こうして、本来の実践的知識と体勢感覚的知識が双方ともに非観察的知識と呼ばれるのは、言ってみればあくまで「同名異義的」な意味にすぎない、ということになる。しかしこうした見方はむしろ、実践的知識の概念を痩せ細らせ、行為者の輪郭を不分明にしてしまう(またさらには、アンスコムが倫理学のやり直しを行為論の刷新から始めたことの意味を見失わせてしまう)ことにはならないだろうか。
ハーストハウスは非観察的知識を体勢感覚的知識と「自分の意図的行為についての知識」の二種に分け、モランは後者をさらに「現に自分が行っている行為についての知識」と「自分が未来に行おうと意図している行為についての実践的予知」とに分類するが、いずれにせよ、体勢感覚的知識は実践的知識ではなく通常の「思弁的」知識の例にすぎないと見なされる。実践的知識と思弁的知識とを明確に分かつのは「適合方向」の違いである。すなわち、思弁的知識は、その対象の側のあり方に合致しなければならないが、これに対して実践的知識においては、その対象の側のあり方が実践的知識に適合しなければならない。そして、自分の意図的行為についての知識が実践的知識に相応しい適合方向を持つ(実際に為される行為の方がその知識に合致しなければならない)のに対して、体勢感覚的知識に相応しいのは「対象から知識へ」という思弁的知識の適合方向だということは明白である。
Whatever is non-observational in the awareness of one's bodily position must on Anscombe's own account have a thoroughly different basis from, for instance, the practical foreknowledge of one's immediate plans, for the basic reason that such bodily awareness, however immediate or independent of particular sensation, remains an instance of speculative knowledge. What is known here is still "derived from object known," and the "direction of fit"is still that of fitting the judgment to the independent facts. Even if immediate, and not grounded in observational evidence, the claim that one's knee is bent is still something corrected by the fact of one's straightened leg. Hence the immediate knowledge of one's bodily position cannot be an example of what Anscombe means by "practical knowledge," despite the intimate relation of such awareness to ordinary physical action, and despite the fact that both may be said to have a basis that is in some sense "non-observational." (Moran, p. 48)
ハーストハウスもモランも口を揃えて指摘するように、行為が私が意図的に行う正にその行為であるためには、当の行為について私の持つ実践的知識に合致しなければならない。この特殊な意味で、実践的知識は行為をもたらす“原因”なのであり、世界の中で生ずるしかじかの出来事に一つの行為としての「かたち」を与えることになる。これによって彼らが言わんとしているのは、知識がその対象をもたらすというこうしたconstitutiveな関係が、体勢感覚的な非観察的知識(と、その対象である身体)のケースには全く欠けているのだ、ということである。
It is important to note that it is its non-speculative which makes the agent's knowledge [of his own intentional action] non-observational. It is not non-observational in virtue of how it feels to the agent ---- that I know "straight off" or "directly" or "have a special awareness of" what I am doing, in a way (perhaps) similar to the way in which I know the position of my limbs. Maybe the knowledge does feel the same, but it wouldn't matter if it doesn't. For my knowledge of, e.g., the position of my limbs is still speculative, i.e., derived from (determined as knowledge by) the position of my limbs and hence the fact that it is non-observational is incidental. It might not have been. But practical knowledge, not being derived from the object known, could not possibly be observational. (Hursthouse, p. 103)しかしこうした主張には反して、意図的行為についての実践的知識に関して言われるのと似た意味で、ある一個の身体が正に私の身体であるためには、やはり、その身体は、少なくとも私が非観察的・体勢感覚的に知り得るようなものでなければならないし、そのあり方も、当の身体について私の持つ非観察的な知識と(しかるべき正確さで)符合していなければならないのではなかろうか。私がそれについていかなる知識(観察的であれ非観察的であれ)も持たない身体が誰か他人の身体であっても何の不思議もないのとは対照的に、私の非観察的知識が全く及ばないような身体が、そもそもいかにして私の身体であり得るだろうか(――とはいえ、私の身体であるために、私はそれについてどの程度の非観察的知識を持たなければならないのか?)。とすると、私の持つ体勢感覚的知識もまた、世界の内にあるしかじかの事物に私の身体としての「かたち」を付与し、そうすることによって私の身体をもたらすのではないか。
――といったような事柄が引っかかって、ハーストハウスやモランとは違った形でアンスコムの洞察を汲み取ることはできないもんだろうかとモヤモヤ考えつつも、もう少し文献を見ないことには現状では単なる電波垂れ流しなので、以下自粛。
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◆Hursthouse
・Rosalind Hursthouse, "Arational Actions" (1991)
・Rosalind Hursthouse, "Intention" (2000)
"Arational Actions"で論じられるのは、強い感情に囚われたが故に、意図的に、しかし理由もなしに(「理由」ということで、当の行為をしかるべく合理化するような信念-欲求のペアを考えるのだとすれば)行われるような行為の取り扱い。(例えば、車のエンジンがなかなか掛からないのにむかっ腹を立ててハンドルを殴りつける、といったような。)これに対して、"intention"の方はアンスコムの『インテンション』のための丁寧な道案内と言うべき論文。
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◆近所のスーパー
の裏手の丘にはこれまで足を踏み入れたことがなかったけど、急に思い立ってためしに上ってみる。入り組んだ道があちこちで行き止まりになっていて、ちょっとした迷宮みたいになっている。斜面の林に続く入り口のようになった原っぱでふきのとうがあちこちに顔を覗かせているのを見つけて、食料用に採集しようかとも思ったけど、調理法をあまり知らないことを思い出して、とりあえずじっと観察するだけにとどめる。
小林道夫『科学の世界と心の哲学―心は科学で解明できるか』(中公新書、2009)を読み終える。
本書で示したいのは、一言でいえば、近現代の科学とは、ある「目的と規範」を前提にしたものであり、そのことを踏まえれば、科学的真理の客観性や科学の進歩をはっきりと肯定しながら、科学的探求とは異質な次元のこととして「心」や「心的活動」があると考えられる、ということである。(pp. iv-v)――とある通り、前半の第Ⅰ部では、ガリレオ、デカルトによる科学革命に発する近現代の科学のあり方を振り返った上で、後半第Ⅱ部では、心の哲学の原点としてやはりデカルトに目を向けつつ、現代の心の哲学における物理主義的・自然主義的な傾向に対する批判が加えられる。が、前半の叙述が教科書風にコンパクトにまとまっているのに対して、後半は全体に議論があまり整理されていない印象が強い。また特に二つの点で疑問を感じた。
デイヴィドソンのように、心的性質は物理的性質には還元されないとしておきながらも、存在論上は物理主義をとるならば、「心的性質」や「心的因果」は結局のところ、せいぜい因果的説明において登場するのみで、存在論上の実効性が与えられない。それらに存在論上の実効性を与えるためには、「物理的性質」や「物理的出来事」とは独立の存在身分を与えなければならない。そのうえで、その「心」が「身体」に働かせる「因果性」を、「物理的因果性」とは異質な独自なものと理解しなければならない。それは、つまりは、デカルトによる心的因果の見解を踏襲し、発展させるということにほかならない。デカルトが、一方で、二元論を設定しながら、心身問題については、心的因果を、実践によってのみ明瞭に知られる「原始的概念」としたことには、以上のような意味があるのである。(p. 165)ここで述べられているのは、一方で、(デイヴィドソンの非還元的一元論は、心的なものから因果的効力を奪い取ってしまうことになる、というキムの批判を受けて)心的なものの因果的効力を救うためには、心的なものと物理的なものという独立した二つの存在領域を認める二元論(実体の二元論であれ性質や出来事の二元論であれ)を取らざるを得ないということであり、他方で、そうした二元論的に分かたれた心/身間の因果については、デカルトが合一的一元論に立って説くように、通常の物理的因果とは全く性格を異にするものとして理解すべきだということである。とすると本書の狙いは、二元論と一元論との双方に立脚するようなデカルトの独特なスタンスを取り戻すことにあると言うべきかもしれない。しかしその二つは、上のような一節で述べられたような仕方で容易に両立可能なものなのだろうか。(心身合一の事実において「われわれが実際に身体を動かすことによって体得される「実感」」(p. 156)は、原因たるべき心というものの存在をむしろ見えなくして――素通りして――しまう。心的因果が通常の物理的因果とは全く異質なものだということは、何よりも、心という原因と、身体的な結果という二つの項を――したがってまたその二つの間に因果作用を――考えることの難しさにおいて「実感」されるのではなかろうか。)そして――この点で第一の疑問点に再び戻ることにもなるが――デカルトが心身合一の事実について記述するにあたってはアリストテレス的な質料形相論モデルにさえ訴えていたことからすれば、第Ⅰ部で描き出されたようなアリストテレス的な自然学からガリレオ、デカルトらによる科学革命へという輝かしい流れは、心をめぐる探求においてはまた別の顔を見せることにもならないだろうか。
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◆Antonio Negri, The Savage Anomaly: The Power of Spinoza's Metaphysics and Politics
・http://www.generation-online.org/p/fpnegri17.htm
根性さえあればタダで読めるみたいですが、出だしからして何言ってるのかいきなりよく分からないんだよな。。。
・@ www.generation-online.org
フーコーのカント論(『人間学』序論)なんてのもオンライン化されてますね。
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◆SEP
・The Logic of Action (Krister Segerberg, John-Jules Meyer, Marcus Kracht)
ブラットマンの「意図」論がコンピュータ・サイエンス分野においていかに大きな影響を及ぼしているか、ということなど。
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