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2009年7月

2009年7月31日 (金)

◆臓器移植法改定:まとめサイト風まとめ
http://d.hatena.ne.jp/KAYUKAWA/20090731/1249014768

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◆Williams, SP
・Bernard Williams, The Sense of the Past: Essays in the History of Philosophy (Princeton University Press, 2006)

まだ初めの方をちょろっと。
ウィリアムズというと自分にとってはデカルト論の印象が強いせいか、何となく「近代な人」というイメージで見てしまうのだけれども、バーニェトのイントロダクションによれば、ウィリアムズという人は若い頃から講義ではプラトンやアリストテレスをかなり重点的に取り上げていたとのことで(そうしたテーマでの発表論文こそ少ないものの)、はぁー成る程なあ、と。(1964年の『テアイテトス』に関する講義については、バーニェトはこれが自分の生涯における転機であったとさえ述べている。)
――Penguinから出ていたデカルト論の第2章だったか第3章だったか、ほとんどデカルトのテキストはほったらかしという調子で知識の概念について突っ込んだ議論を展開していた箇所なんかは、いわゆる正統的な「近代哲学研究」的な文脈からはなかなか出てきにくいものではないかという異質な感じが昔からあって、ああいう議論というのは――その当時の知識論における外在主義的アイディアの流行といった文脈との関係以上に――やはり『テアイテトス』とか古代懐疑論への深い関心に根差したものなのかなあとも思う。(←昔読んだっきりのあやふやな印象で書いているので、間違っていたらすいません。)

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◆梅雨明け
はまだですか。。。
洗濯ができないと元気も出ないから困ってしまうよ。

岡部勉『合理的とはどういうことか―愚かさと弱さの哲学』(講談社選書メチエ、2007)を再読。
合理性の能力について、(1)生物が自然発生的に持つ自然的な推論能力(食料や安全の確保といった自然的目的実現に寄与する限りでの能力)、(2)われわれ人間の持つ基本的・不変的な能力、(3)われわれ人間の軌範的・可変的能力、という三つのレベルを区別するグライスの見解をベースに、感情・欲求システムや言語能力の進化、社会集団の複雑化をめぐる生物学、人類学の知見も取り入れ、また非認知主義的な実在論に立つ価値論の構想も重ね合わせつつ、(1)のレベルから(2)、そして(3)のレベルへという、われわれ人間における合理性の成熟のあり方を辿る、といったような内容になるんでしょうか。しかしやっぱりグライスの本をきちんと読んでみないことには、こうした試みがどの程度までグライス自身の目論見に沿うものなのかがまだよく掴めない。

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2009年7月29日 (水)

◆Gen Matsumoto Memorial
http://www.brainvision.co.jp/genspage/index_jp.htm

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◆本
・松森奈津子『野蛮から秩序へ―インディアス問題とサラマンカ学派』(名古屋大学出版会、2009)

これはちょっと読んでみたい気がする(けど値段がかなりネック)。
内容についてはこちらに紹介がありますね。

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◆Blackburn, RP
どうにかお終いまで。
ホッブズ的な合理主義(自己利益の合理主義)に続いて、終盤の第8章、第9章で槍玉にあげられるのはカント的な合理主義(こちらはむしろ「理性主義」と呼ぶべきか)。すなわち、第8章ではカントやヘアの「普遍的な義務論的原理の合理主義」が、また第9章ではコースガードやネーゲルが主張するような理性主義的な実践的推論モデルが俎上に載せられる。そして、ヒューム(およびアダム・スミス)のsentimentalismの伝統に立ち帰ろうというのが、これらの議論を通じてのブラックバーンの一貫したテーマということになる。
というわけで、ブラックバーンがヒュームに何を負っているのかがかなり良く見えてきて得るところが多くあったし、(以前にネーゲルのThe Last Wordを読んだ時に強烈に抵抗感を感じたのとはうらはらに)ブラックバーンのsentimentalismに共感を覚える部分も少なからずあるのだけれども、全体を振り返ってみるとギバードの本について感じたのと似たような疑問も感じる。というのはつまり、結局のところ、一方での倫理や実践的熟慮に関するヒューム的なsentimentalismは、もう一方での投影主義的な存在論(メタ倫理的なヒューム主義)とそれほどうまく折り合いをつけることができるものなのか、という点について。ブラックバーンにおいてこの二つの側面は、(非常に単純化していえば)「表象的なインプットを取り入れ、情動的なアウトプットを返すもの」というようなヒューム的な心のモデルを介して繋げられることになるけれども、果たしてそうした考え方は妥当なのか。
こうした疑問が浮かんでくるのは単純にウィギンズのヒューム解釈(特に“A Sensible Subjectivism?”での)に引きずられているせいかもしれないのだけれども、もう少し内在的にブラックバーン自身の議論に寄り添った形で肉付けできそうな感触もある。例えばカント的な実践的推論モデル――欲求や情念を召還する審判の場としての理性――について、ブラックバーンはこのモデルの誤りを丁度、知覚の哲学におけるセンス・データ説の誤りと同種のものと見る。つまり、知覚の対象となるのは通常の「外的」対象よりもいっそう直接的な何かであるのではないのと同様に、熟慮の対象となるのも欲求ではなく、(むしろ欲求が向けられている)世界の側面、状況なのである、と(cf. esp. p. 253ff.)。しかしカント的な内的審判モデル(を一例とするデカルト主義的な「内的劇場」モデル)に代えてこうした「直接的実在論」モデル――それによれば、言ってみればわれわれは欲求を通じて世界そのものを直接的に知覚する――を採ることで、ヒューム的な知覚理論の内の何がしかの部分は放棄せざるを得ないのだとすれば(*)、上で触れたような「インプット/アウトプット」モデルをなおも維持し続けることはできるのだろうか。(moral supervenienceをめぐるブラックバーンの議論がもし成功していないとすれば、代わりに何がその支えとなりうるのか。)

(*) この点に関しては例えば p. 259, n. 37を参照。――"It may reasonably be urged that Hume is not free of the mistake of "objectifying" desires and passions, as indeed he objectified all the contents of the mind. I think this is true."

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2009年7月26日 (日)

◆メモ
・Stephen L. White, "Phenomenology and the Normativity of Practical Reason," in Mario De Caro and David Macarthur (eds.), Naturalism and Normativity (Columbia University Press, forthcoming) [doc]

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◆Blackburn, RP
このところ大分さぼったせいで、まだモソモソ読書中。ようやく終盤に入る。

前半は、倫理学全般に関する概説的な二つの章に続いて、第3章ではブラックバーン自身の表出主義的なアプローチを素描した上で、次の第4章ではこれと競合する代表的なメタ倫理的立場((i) マクダウェル、ウィギンズのsensibility説、(ii) response-dependence説とジャクソン、ペティット、スミスら「キャンベラ計画」派、(iii) コーネル実在論)に批判を加える、という流れ。
全体的に、テクニカルな詳細に立ち入るのを避けた平明な論述スタイルが貫かれていて、古き良きイギリス哲学の伝統に連なる矜持といったようなものも感じさせられるけれども、しかし案外何気ない調子で重要な論点が述べられていたりもするので、理解しやすいかとなるとちょっと微妙でもある。特に第3章に関して言えば、ここでの簡略な説明だけでブラックバーンのメタ倫理的立場を理解しろというのはかなり無理がありそうに感じる(表出主義的意味理論のプログラムについては、モデル論的な枠組みに即して比較的かっちりと書かれたギバードの本の方がはるかに理解しやすいように思う)。それからまた、機能主義的なアイディアを使うことで心的内容の規範性を自然主義的に説明しようという話(p. 55ff.)についても、もう少し詳しい議論を期待していたのだけれども、多分この本の主眼はそういう所にはないのだろう。

後半に入って、まず第5章と第6章は、「人は期待効用を最大化するように行動する」という主張の検討にあてられている。
第5章は、この主張の経験的バージョン(人は現にそのように行動している、という心理的エゴイズムの主張)に対するジョゼフ・バトラーの批判を軸に、社会生物学的研究なども視野に入れつつ議論が進められる。また第6章は、この主張を分析的・定義的に真と見ることから出発するラムジー的な決定理論、ゲーム理論の検討。まあこの辺はざっと。(ブラックバーンによれば、ニューカムのパズルにおいて箱の中身が見えているかどうかは本質的な問題ではないので、このパズルの骨組みは基本的にG・カフカのtoxin puzzleと同型なのだということらしいけれども、本当にそうなのか?)

いかにして協調に至ること(=囚人のジレンマから脱出すること)が可能であるのか、いかにして社会の設立が可能であるのか、というホッブズ的な問題系をめぐって、ゴティエらに代表されるような「ホッブズ的契約論」の合理主義的アプローチへの代案として、むしろラムジー的な形式理論にヒューム的な視点を取り込むようなアプローチを打ち出す、――というようなことが第6章のポイントになるらしい。

What is shown by Hume's and Ramsey's approach is the motivational progress whereby trust can be extended, perhaps slowly and inch by inch, into the territory of the war of all against all. Parties who need to coordinate can bring to their dilemmas a history of being motivated by trust, and then their signals that they are to be trusted will not be inert. […] There is no "inevitability" theorem, showing that trust must evolve, but there is no "impossibility" theorem, showing that it cannot evolve, either. What cannot be done is to contract into its evolution, for in the state of nature no such contract can be made by agents whose motivational states exclude respect for contracts. Hume thus improves on Hobbes in two respects: first by introducing the dimension of time, and second by presenting an organic growth model in place of a rationality design model./ So Hobbes's problem is solved not by rationality, but organically, by the growth of habits of reliance. (p. 196)

ついでなので、アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳―心と脳と身体の神秘』(講談社、2000)[原題はDescartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain――邦題適当杉]も覗いてみることに。(この本に関しては第5章でかなり好意的に取り上げられている。)

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◆連日
蒸し暑い。どうにかならんもんですか。

鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書、2009)を読み終える。本の帯には

「永遠の吉本主義者」が、60年代の情況的テキストを通して、その思想的核心を捉えた渾身の書。
とあるものの、どちらかというとこの本で大きく取り上げられているのは「転向論」とか『高村光太郎』といった、主に50年代の著作なので、そうしたズレをどう見るべきなのか。50年代の著作群に見られたような切れ味鋭い批評性が、1968年における吉本隆明の威信を支えていたとしても不思議はないようにも思う一方で、現在から振り返ってみて、やはりそこには何か「任意な感じ」が拭えないような気もするのだけれども、まあそうした逡巡をすうっと乗り越えてしまうのが信者(主義者)の信者たる所以なんだろうか。
この本で特に50年代のテキストが大きくフィーチャーされている背景には、そうした論考の基本的な問題意識を形作った戦前期の社会的状況(故郷喪失によるアノミー状況と、「想像の共同体」への回収)を現在のそれに重ね合わせることで、特に若い読者層に向けて、今日における吉本隆明の思想的アクチュアリティーをなんたらかんたら、という狙いがあろうかとは思うけれども、1968年(かその辺り)に生じたと思われる決定的な変化というもの――これについては「少し長めのあとがき」の中で人口動態学研究等にも触れつつ若干述べられてはいるが――をむしろ中心に据えて論じないことには余り意味がないんじゃないのかなあ、とも感じる。実際、80年代に入ってからの吉本隆明自身の変貌というものも、そうした変化がもたらした遠い余波の一つと見るべきなのだろうし。

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2009年7月22日 (水)

◆SEP: Anscombe
Gertrude Elizabeth Margaret Anscombe (Julia Driver)

“Modern Moral Philosophy”でのアンスコムの議論を、アリストテレス的な徳倫理の再興を目指したものとして読もうとする通説は、アンスコム自身の狙いを根本的に見誤っているだろう、――というようなことなど。やはりそうなんだろうな。

Thus, according to the alternative reading, one can conclude that Anscombe is arguing that the only suitable and really viable alternative is the religiously based moral theory that keeps the legalistic framework and the associated concepts of ‘obligation.’ This interpretation is more in keeping with Anscombe's religious views and with her other ethical views regarding absolute prohibitions. There were plenty of actions she took to be morally wrong, so it seems clear—as Simon Blackburn noted—that she herself was not out to jettison these terms. But one can defend an even stronger claim. MMP is a carefully crafted argument intended to show the absurdity of rejecting the religious framework—along with it's metaphysical underpinnings—when it comes to moral authority.
つまり、そこでのアンスコムの基本的な趣旨は、
神懸り的倫理が誤っているならば、徳倫理こそが道徳哲学のとるべき道だ。
神懸り的倫理は誤っている。
ゆえに、徳倫理こそが道徳哲学のとるべき道だ。
というモードゥス・ポネンスではなくて、むしろ、
神懸り的倫理が誤っているならば、徳倫理こそが道徳哲学のとるべき道だ。
徳倫理は道徳哲学がとるべき道ではない。
ゆえに、神懸り的倫理は誤ってはいない。
というモードゥス・トレンスなのだ、と。(結局のところ“Modern Moral Philosophy”での論述というのは、この第一の仮言的な前提を明確に打ち出しながらも、それに続く第二の前提としてアンスコムの意中にあるのはどちらなのか――要するにダメなのは徳倫理なのか神懸り的倫理なのか――を非常に曖昧模糊とした分かりづらいままにしている、ということなんですよね。)
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ブラックバーンの曰く:倫理学者は自分の甲羅に似せて理論的な穴を掘る。(だから、人間本性に絶望し、神なくして倫理はないと身に沁みて思う人たちは、人間本性という堅固な基盤に支えられた、神なしの倫理学を受け入れることができない。)

In fact, I suspect that people get the theory of ethics that is true of them, and if they cannot respect human sentiments, including such sentiments as benevolence, or respect for conventions and contract, then they cannot be brought to accept a theory that puts them at the foundations of ethics. If they are disgusted at human nature, they will want to keep the good and the right free of it. If they feel in themselves that people would be apt to behave badly if it were not for the dictates of God, or Reason, or some other independent authority, then they will not believe that ethics can be given secure foundations without such bricks. (Simon Blackburn, Ruling Passions, p. vi.)

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2009年7月21日 (火)

◆考えてみたら
このところずっと雨男と化しているような気もするけれど、梅雨時だからまあこんなものなのか。寝不足のせいか気候のせいか、朝から平衡感覚が怪しい状態の中、フラフラしつつどうにか終了。ちかれたびー(というのがその昔流行った)。
帰りに駅前の古本市で高橋義孝『獨逸浪漫派』(青木書店、1943)を購入。400円也。

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◆neurophenomenology
Phenomenology and the Cognitive Sciences

neurophenomenology.com

  精神現象学
     ↓
  現象学と認知科学でウィンウィン
     ↓
  神経現象学キター ←いまここ

みたいな。(注:適当です。すいません。)

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◆Philosophy of Habit
http://www.phil.mq.edu.au/staff/jsutton/PhilosophyofHabit.html

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◆Philosophisches Seminar: The nature of practical intelligence
Program [pdf]

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2009年7月18日 (土)

◆Darwin among the Machines
Wikipedia - Darwin among the Machines

Wikipedia - Erewhon

Butler was the first to write about the possibility that machines might develop consciousness by Darwinian Selection. Many dismissed this as a joke; but, in his preface to the second edition, Butler wrote:
I regret that reviewers have in some cases been inclined to treat the chapters on Machines as an attempt to reduce Mr. Darwin's theory to an absurdity. Nothing could be further from my intention, and few things would be more distasteful to me than any attempt to laugh at Mr. Darwin....
この記事ではドゥルーズ=ガタリの「欲望機械」概念への影響などについても述べられてますが、そういえば天才バカボンでお馴染みのバカ田大学というのも『エレホン』に出てくる"the colleges of unreason"が元ネタでありましょうか。

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◆Peter Singer, "Why Must We Ration Health Care"
http://www.nytimes.com/2009/07/19/magazine/19healthcare-t.html?pagewanted=all

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◆expert action
http://spontaneityreceptivity.blogspot.com/2009/07/just-doing-what-i-do-expert-action.html

Dreyfus argues that the phenomenology of expert action — what he calls “absorbed bodily coping”— shows that such actions are “non-mental... non-conceptual, non-propositional, non-rational and non-linguistic” (2007b: 352). McDowell argues that even expert actions, if they are to count as agentive experience, must be minded, conceptual and rational. He cites a version of the Kantian dictum: “intentions without overt activity are idle, and movements of limbs without concepts are mere happenings, not expressions of agency” (1994: 89). / In this paper, I intervene in the debate between McDowell and Dreyfus and defend the position that expert action is reflective in a way that is not as problematic as Dreyfus contends.

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◆「で」っていう
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20080220/p1

「他者に危害を加えない限りで自由」と「他者に危害を加えない限り自由」はまったく違うことを述べている。「で」があるかないかで大違いである。
んー、正直よくわからんであります。。。(というのは、他者危害原理をどう解釈するかという高尚なお話についてではなく、単純に日本語の「で」という表現には意味の上で何かそうした大きな相違をもたらすような働きがあるかどうかという点についてなのですが。)
日本語はむずかしい(´・ω・`)

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2009年7月16日 (木)

◆Blackburn, RP
・Simon Blackburn, Ruling Passions: A Theory of Practical Reasoning (OUP, 1998)

シリーズ第三弾。ゆっくり読み進め中。
前に読んだ時には、三分の一くらいまで進んだところでほったらかした形跡がある。

ブラックバーンもtwitterとかやってるんですか。

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◆今日も
暑かったです。あっちいたけお(「地井武男」とかけてみました)。
梔子の花はもう、溶けかけの砂糖菓子のように崩壊しつつある。
喫茶店に入って岩波文庫の『フォースター評論集』を拾い読み。日も暮れてもう涼しくなったかと店を出てみれば、息苦しくなるほどの熱気がまだ濃密に残っているのに脱力する。

最近思うこと。
1.バナナ以外のものが食べたい。

2.思い起こしてみると自分の場合どうも、中学・高校あたりの期間を通じて香りの類いに関する記憶――強い情動を喚起するような――がすっぽり抜け落ちているらしいことに気がついた。幼児期の頃に関しては、例えば周囲の老人たちの独特の香りであったり、あるいは花の香り(その頃は総じて花の香りが不快以外の何物でもなかった)であったりと、色々と記憶が甦ってくるにもかかわらず、この時期に関して記憶がすっぽり脱落しているというのはどういうことか。「中学・高校の時期を通じてずっと鼻詰まりのままだった」というのもありうる仮設ではあるけれども、もしかすると「まだ意識を獲得していなかった」というジュリアン・ジェインズ的仮説の方が正しいのかもしれない。

3.このところ昼下りになると猛烈に眠気に襲われるのは電解質の欠乏が原因なのではないかということで、食卓塩の瓶でも常時携帯しているのがいいのかなあとも思うけれど、塩を抱えてウロウロするというのもまるで、灼熱のフィリピン山中を行軍しているかのような『野火』気分に陥りそうでもあって、ちょっとどうなのかと。

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2009年7月14日 (火)

◆Blackburn, EQR
・Simon Blackburn, Essays in Quasi-Realism (OUP, 1993)

しょぼしょぼ読み進めて、倫理学関連の第Ⅱ部はひとまず終了。
ブラックバーンという人はそんなに複雑怪奇な議論を繰り広げる人だとは思えないのだけれど、“Moral Realism”(1973)と“Supervenience Revisited”(1985)――「自然的性質への道徳的性質の付随性」というテーゼをめぐって実在論批判を展開した二論文――に関して相変わらずさっぱり理解できないのはかなり異常。差し当たってはN・ザングウィル("Moral Supervenience" (1995))の解釈に即して押えておけばいいのかなあと思いつつも、まだ釈然としないものがある。

(ザングウィルによれば、“Supervenience Revisited”(およびSpreading the Word)での議論――"the ban on mixed worlds"論法――は、ブラックバーンの狙いには反して、実在論に対する反実在論的投影主義の優位を示すことには決して成功していない。というのも、この議論を説得的な仕方で理解するならば、それが突き付けている挑戦は、実在論者のみならず投影主義者にとってもきわめて解決困難なものとなるからである。この点ではむしろ、初期の“Moral Realism”での議論の方に見込みがある。しかしザングウィルによれば、この議論が正しく理解されるならば、そこで真の争点となっているのは、実在論者/反実在論者の間の存在論的な対立ではなく、「自然的性質への道徳的性質の付随性」というテーゼの持つアプリオリ綜合的な性格をめぐるヒュームとカントとの認識論的対立であるという。)

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◆メモ
・Bart Streumer, "Practical Reasoning," in Timothy O'Connor and Constantine Sandis (eds.), The Blackwell Companion to the Philosophy of Action (forthcoming) [pdf]

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◆眠すぎる
ぞ私は。
ほぼ半目状態でどうにか午後を乗り切る(-_-)

と思ったら致命的なミス一件が発覚。
ぜんぜん乗り切れてませんでした(__ __)

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2009年7月11日 (土)

◆クリッチリー
といえば、これはたまたま思い出しただけで他意は無いのですが、こちらで訳出されているインタヴューについてはブライアン・ライターが怒り心頭のコメントを加えてましたね。「クリッチリーみたいな奴らの方こそ『大陸的ゲットー』の中に引きこもって、比較文学科の外の知的フィールドには一切目を向けとらんやないかい」とか、「だいたいクリッチリー程度の中古車セールスマン野郎[?]が非英語圏の哲学的伝統のスポークスマン面でのさばってるのってw」とか、「とにかく出版社はこのインタヴューをソッコー削除せんかい」とか、かなり言いたい放題。(口の悪さもニーチェゆずりですか…。)
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わざわざ訳して頂いたのをクサしているように受け取られた(方もいた)としたら、まことに申し訳ないこってす。(いつも拝読して、(こちらが勝手に)お世話になっているもので。。。) どうか誤解のありませんよう。

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◆長期脳死
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090711/1247243563

「長期脳死」の問題というのは、移植A案推進者にとって、なにがなんでもどんな醜い手を使っても握りつぶしたい急所だということが、今回はっきりと分かりました。
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http://d.hatena.ne.jp/KAYUKAWA/20090711

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2009年7月10日 (金)

◆出先
で徹夜明けの朝からいきなり俺オワタ的なお話を承ったりと、人生いろいろのディープな一日。どっと疲れる。これじゃあ平岡正明も死ぬわけだよ、って特に関係ないけど。

依然としてブラックバーンわけわからん。というか、分かっている人間がほとんど存在しないらしいというのがせめてもの救いなのだろうか。

くたびれたからもう寝るのだ。
――と言いたいところだが『メイド刑事』が…。

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2009年7月 9日 (木)

◆「プリンス、宗教上の理由で手術を拒否」
http://lx03.www.tsutaya.co.jp/tol/news/index.pl?c=entertain&c2=music&artid=10486

「でん部痛」というのがどういうもんかよく分かりませんが、やはり長年ハイヒールを履き続けた影響なんでしょうか。
でもマイルス・デイビスも同じ病気なんだったけか。

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2009年7月 8日 (水)

◆ううぅ
あっつい…。
家でじっと作業をしているだけでドロドロになるので、日が暮れるまであちこち外を徘徊。日差しは雲で遮られてはいるものの、湿度をたっぷり含んだ空気が熱気を帯びているので、どこに行っても汗だくになる。
方々で梔子の花が咲いているのを発見。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007)と河野哲也『暴走する脳科学―哲学・倫理学からの批判的検討』(光文社新書、2008)を(今ごろ)読み終える。
『暴走する脳科学』の方は、「拡張した心 extended mind」というテーマを基調に現代の脳科学研究あるいは脳言説を斬るというような内容。しかし「拡張した心」の話が所々で「可塑的な脳スゴイ」と言わんばかりの語り口に滑り込んでしまうように見受けられるのはちょっとどうかなあ、とも感じる。例えば次のような箇所――

脳が可塑的であるということは、それが社会的な環境にも適応する臓器であることを意味している。心臓や胃腸とは異なり、脳は社会的な臓器なのである。(p. 34)
肺や心臓は臓器である。それらの機能は呼吸や血液循環に限定され、まったく社会性と関係のない自然的な環境のなかで、純粋に身体的な機能をはたしている。/それとは異なり、脳は臓器のひとつでありながら、その機能が社会化・歴史化されている点に特徴がある。脳は来歴をもつ。それは個人的な来歴であるとともに、社会的な来歴である。(pp. 135-6)
脳が、他の臓器よりもはるかに可塑的なシステムであることに力点を置いて理解するならば、これまでの研究方法と成果をふまえながらも、新しい脳のイメージが生まれるのではないだろうか。/それは、固定的な機能(モジュール)の集積としての脳ではなく、環境に適応的に自己を変化させ、自己を再組織化し、それにより固有の歴史をもつ臓器としての脳というイメージである。(p. 139)
「イメージ」として語られている部分を取り上げてとやかく言うのは単なる揚げ足取りになるかもしれないけれども、様々な「神経神話」の流通への警戒を呼びかけた本にしてはちょっと不用意ではないのだろうかということで。(実のところ、上のような箇所で語られているような脳の「社会性」というのは、一人一人の個人が社会的な存在だということ以上の実質的な意味を持つようには思えないし、こうしたマラブー風(?)の語り方がさほど実りのある議論につながるとも思えない。)
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そういえば、『自由とは何か』で取り上げられているような「人格」無用論(p. 199ff.)というのも、「快苦の経験主体」=意識に定位する代わりに、extended mindとかそういった話と接続し直すことでもう少し説得的に展開できそうではあるけれども(それが古典的な功利主義にどの程度まで忠実であり得るかはともかくとして)、でもまあそういうのはきっともう誰かがやってるんだろな。

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◆J. J. Thomson
・Judith Jarvis Thomson, "Abortion," Boston Review Vol. XX, No. 3, (Summer 1995)

・Daniel Stoljar, "Judith Jarvis Thomson"

Her starting point is an observation due to Peter Geach [Geach, P. ‘Good and Evil’, Analysis, 17, (1956)] about the logic of the word ‘good’. Geach observed that ‘good’ is in a many ways like ‘big’: you aren’t plain good or big, you are a good pianist or a big land mammal. Indeed – and this point is Thomson’s rather than Geach’s – the situation with ‘good’ is more extreme than the situation with ‘big’. In the latter case, a statement of the form ‘X is big’ uniformly permits expansion into a statement of the form ‘X is a big F’. Not so for ‘good’. Sometimes a statement of the form ‘X is good’ permits this sort of expansion. But sometimes it doesn’t, permitting instead expansion to ‘X is good at doing F’ or ‘X is good for F-ing’ or ‘X is good to Fs’ or ‘X is good with Fs’ and perhaps others. Thomson summarizes these points in the slogan: all goodness is goodness in a way, and goes on to develop them in two directions...

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◆Blackburn, SW
・Simon Blackburn, Spreading the Word: Groundings in the Philosophy of Language (OUP, 1984)

つい軽い気持ちでEssays in Quasi-Realismを読み始めてはみたものの中々手強いぞということで、仕切り直しに一先ずこちらを再読。第5章と第6章。
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・James Dreier, "The Supervenience Argument against Moral Realism" (1992)
・Nick Zangwill, "Moral Supervenience" (1995)

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2009年7月 6日 (月)

◆Gibbard
・Allan Gibbard, "Thinking How to Live with Each Other" (Tanner Lectures, 2006)

・Allan Gibbard, "The Reasons of a Living Being" (2002)

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◆Gibbard, THL
ひとまず読了。
こうした方面の研究に関してほとんど何も知らないような人間が言うのも何ですが、大変に刺激的な内容で、まず第一に読まれるべき本と言えるのではないでしょうか。
前著のWise Choices, Apt Feelingsは、心理学的モデルやその進化論的基盤等々といった話にも踏み込んで、話題が盛り沢山な分、かなり見通しが得にくかったのに比べると(というか、半分くらい読んで挫折したわけですが…)、こちらの本はギバードの構想の哲学的なコアの部分に考察が限定されていることで、その輪郭がかなり明瞭に見て取れるようになっております。
大まかな内容としては、序論的な第Ⅰ部に続いて第Ⅱ部では表出主義的意味理論のモデルを与えた上で、第Ⅲ部では通常の規範的な語彙がいかにしてそうした表出主義的モデルによって捉えられるかを(言いかえれば、表出主義的な意味理論は現にわれわれが用いている言語のための意味理論と見なすに相応しいということを)示し、最後の第Ⅳ部ではそうした表出主義的リソースによって、規範的な知識(何をすべきかに関する知識)という概念がどのように再構成されるかを論ずる、というような流れ。知識の帰属(「誰某は~ということを知っている」)の持つ意味を、認知的な委託・丸投げ(deference)(「~に関しては誰某に聞けばよい」)の適切さによって捉えようという基本的なアイディアに立つ第4部の認識論的議論は中でも非常に面白い、が、この部分は特にまだ「試験的」な性格が強いようで論述がかなり入り組んでいる。(それを除けば、全体としてかなりすっきりとした論述。)
全体を通じて、実践的なものに固有のリアリティに関するギバードの独特の視点には大きな刺激を受けつつも、しかし自分としては、「プラン」や「心の状態」といったギバードの用いる鍵概念について、もう少し本格的に心の哲学に踏み込むような詳しい議論を望みたかったなあという不満感も残るわけではありますが。

D・ブリンクの書評(pdf)とペティットの書評(pdf)はともに認知主義の見地から、ギバードの依拠するようなプランの概念はむしろ(高次の)信念という概念に帰着させることができる(したがってプランの意味論は信念の意味論と同様に真理条件的なものとなる)し、またそうすべきではないか、という趣旨のもの。これに対比していえば、自分の関心はむしろ、ギバードの戦略にしたがってプランの合理性を信念の合理性とは独立に解明しようとした場合にその帰結はどのようなものとなるか(果たしてそれは、準実在論的・投射主義的な存在論とそれほど相性のよいものなのか)、といったようなことになる(のか?)。

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2009年7月 3日 (金)

◆Gibbard
http://www.nyu.edu/gsas/dept/philo/courses/content/
http://philosophy.fas.nyu.edu/object/philo.courses.ml08.html

心的内容の規範性に関連する(らしい)幾つかのドラフトが公開されていて、これらを見ればギバードの見解についてもう少し手掛かりが得られそうな様子ではあるけれども、いかんせん時間がない。。。

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2009年7月 2日 (木)

◆Gibbard, THL
どうにか最後の第Ⅳ部に入ったところ。
どうもこの本の中では、思考や意味の規範性をどのように処理するかという点に関して立ち入った議論を与えるつもりはないようで、規範的な語彙を含む言語についてギバードが提案する表出主義的な意味論のプログラムがどのようにして「非規範的な基盤」(p. 194)に到達することになるのか(――ギバードは例えばブランダムの表出主義的理論について、そこには正にそうした基盤が欠いているがゆえに悪しき意味でregressiveたらざるをえないと批判する)、その見通しがまだよく分からないまま。
ギバードの理論にとって鍵となるのは、「プラン」あるいは「プランニング」の概念であり、われわれが――信念の主体であるのみならず――実践的なプランナーだという事実であるけれども、プランニングという活動を本質的に支えているかに見えるその規範的性格は、「われわれはプランニングを自然主義的に理解することができる、というのも実質的にプランニングを行なっているロボットをそう理解することもできるのだから」(p. 195)というような方向から片付けられるようなものなのだろうか。

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◆R. Dworkin, "Objectivity and Truth: You'd Better Believe It"
Bears: Symposium on Dworkin

・Sharon Street, "Objectivity and Truth: You’d Better Rethink It" [pdf]

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