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2009年7月 8日 (水)

◆ううぅ
あっつい…。
家でじっと作業をしているだけでドロドロになるので、日が暮れるまであちこち外を徘徊。日差しは雲で遮られてはいるものの、湿度をたっぷり含んだ空気が熱気を帯びているので、どこに行っても汗だくになる。
方々で梔子の花が咲いているのを発見。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書、2007)と河野哲也『暴走する脳科学―哲学・倫理学からの批判的検討』(光文社新書、2008)を(今ごろ)読み終える。
『暴走する脳科学』の方は、「拡張した心 extended mind」というテーマを基調に現代の脳科学研究あるいは脳言説を斬るというような内容。しかし「拡張した心」の話が所々で「可塑的な脳スゴイ」と言わんばかりの語り口に滑り込んでしまうように見受けられるのはちょっとどうかなあ、とも感じる。例えば次のような箇所――

脳が可塑的であるということは、それが社会的な環境にも適応する臓器であることを意味している。心臓や胃腸とは異なり、脳は社会的な臓器なのである。(p. 34)
肺や心臓は臓器である。それらの機能は呼吸や血液循環に限定され、まったく社会性と関係のない自然的な環境のなかで、純粋に身体的な機能をはたしている。/それとは異なり、脳は臓器のひとつでありながら、その機能が社会化・歴史化されている点に特徴がある。脳は来歴をもつ。それは個人的な来歴であるとともに、社会的な来歴である。(pp. 135-6)
脳が、他の臓器よりもはるかに可塑的なシステムであることに力点を置いて理解するならば、これまでの研究方法と成果をふまえながらも、新しい脳のイメージが生まれるのではないだろうか。/それは、固定的な機能(モジュール)の集積としての脳ではなく、環境に適応的に自己を変化させ、自己を再組織化し、それにより固有の歴史をもつ臓器としての脳というイメージである。(p. 139)
「イメージ」として語られている部分を取り上げてとやかく言うのは単なる揚げ足取りになるかもしれないけれども、様々な「神経神話」の流通への警戒を呼びかけた本にしてはちょっと不用意ではないのだろうかということで。(実のところ、上のような箇所で語られているような脳の「社会性」というのは、一人一人の個人が社会的な存在だということ以上の実質的な意味を持つようには思えないし、こうしたマラブー風(?)の語り方がさほど実りのある議論につながるとも思えない。)
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そういえば、『自由とは何か』で取り上げられているような「人格」無用論(p. 199ff.)というのも、「快苦の経験主体」=意識に定位する代わりに、extended mindとかそういった話と接続し直すことでもう少し説得的に展開できそうではあるけれども(それが古典的な功利主義にどの程度まで忠実であり得るかはともかくとして)、でもまあそういうのはきっともう誰かがやってるんだろな。

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