2009年11月 6日 (金)

◆Timmons, MWF
第4章の“Contextual Moral Semantics”。
「自然主義的な世界像をどのように維持してゆくか」という関心に貫かれた存在論的プログラムの一端を見せられると、ティモンズがT・ホーガンのような人とタッグを組んで仕事をしている事情はだいぶ呑み込めてくるけれども、丁度それと反比例して、ティモンズのこうした試みへの興味も段々薄れつつある。

この章でティモンズが打ち出す文脈主義的意味論の基本的なアイディアは次のようにまとめられている。

The leading ideas of contextual semantics are these: (1) The truth of a sentence is a matter of its correct assertability. (2) Correct assertability, at least for ordinary descriptive sentences, is normally a matter of the often complex interaction of two factors: (a) the various normas and practices that govern a certain mode of discourse and (b) the WORLD. (3) Unlike the correspondence view, a mode of discourse often employs assertability normas that do not require, for the truth of sentences constituting that discourse, OBJECTS or PROPERTIES in the WORLD to directly answer to the sentences' singular terms, unnegated quantifier expressions, or predicates; nor need there be any "dedicated" FACTS in the world that correspond to the sentence. (4) Furthermore, the norms and practices for correct assertability are not monolithic within a language; rather, these norms and practices vary from context to context depending on such factors as the sort of discourse in question (scientific, aesthetic, moral, and so forth) and the specific purposes the discourse is serving at the time. (5) Although truth, in this view, is a normative notion, the view is not a form of verificationism (sometimes called, pragmatism): truth is not radically epistemic; correct assertability is not the same as warranted assertability (even "ideal" warranted assertability). (p. 116)

(“OBJECTS”や“PROPERTIES”等の大文字表記は、真理の対応説において言語(単称名辞、述語、…)と対応するものとされているmind-independentな存在者を表している。)

与えられた文脈において文が真であるか偽であるか、つまり「正しく主張可能」であるか否かは、一つには、その文脈で用いられている意味論的規範に依存している。そして意味論的規範は、その文脈で用いられた文の真偽(=主張可能性)が世界(あるいはむしろ世界)との対応にどのように依存するかを定める。こうした文脈的変動を考慮に入れることで、一方で、自然主義的存在論の枠内にうまく収まる存在者について述べた文の場合には、実質的に、その文の真偽を古典的な対応説に即した形で理解可能なものに保っておくことができるだろうし、また他方では、自然主義的見地から問題含みの談話領域に関わる文については、対応説に依存しない形でその真偽を語り得る余地を残しておくことができるだろう(そうすることで、「存在論的インフレか、さもなければ錯誤説か」というジレンマを回避することができる)、――といったところがティモンズの基本的な考え方のようである。
ただしこの本の中では、文脈とその変動についてどう考えるか、また肝心の意味論的規範というのはどういったものであるかについて詳しい議論は棚上げにされているので、実のところティモンズがこうした意味論の展開をどこまで本気で考えているのかよく分からないところもある。(発話の文脈やその変動といった概念を、ティモンズの存在論的スタンスをうまく反映させるような仕方で捉えることはどうやったらできるのか。あるいはまた、ティモンズの言う「意味論的規範」は、かつてセラーズが語っていたような“picturing”がそうであるように、かなり謎めいたものとなってしまうのではないか。)

一般的な意味理論の展開はともかくとして、より狭くmoral semanticsとの関連について言えば、ティモンズの文脈主義の役割としては、道徳的な言明に関して「主張内容 assertoric content」と「記述内容 descriptive content」との区別を置き、ミニマルな真理概念に立つものとして主張内容の概念を理解するという、「ミニマリズム的テーマ」を導入するための露払いという役割が大きなウェイトを占めているように見える。その意味では、moral semanticsに関するここでのティモンズの議論は実質的に、道徳的言明に関する表出主義をミニマリズム的真理論と結び付けようとする試み、と言った方が良さそうである。(文脈主義的なアイディア自体は、むしろ第5章で論じられるmoral epistemologyで大きな役割を果たすことになるのかもしれない。)
ティモンズの擁護しようとする“Assertoric Non-Descriptivism”によれば、道徳的言明はその真偽を問い得る(truth-apt)真正の主張であり、主張内容を持つが、世界内の事態を映し出すような記述内容を持つわけではない。そして、道徳的言明について言われる真理の概念とは、単純に、タルスキのTシェーマを満たすミニマルな真理概念であって、「対応としての真」という形而上学的な概念ではない。
こうした形でミニマリズムを援用することで、(道徳的事実に関する)非実在論あるいは非記述主義と(道徳的事実――ミニマルな意味での事実――に関する)認知主義とを結び付けようという話について差し当たっては異論はないのだけれども、逆に、事新しく教えられた論点もあまり無かった気がする。(そういえば思い出したけれども、この前読んだウェッジウッドの本の表出主義批判にかなり違和感を覚えた理由も、こうしたミニマリズム的な表出主義の展開について一顧だにされていない点にある。)むしろ漠然と感じたのは、こうしたミニマリズム的な展開は結局のところ、ティモンズ自身が堅く奉じているような自然主義(自然的なものに関する実在論/非自然的なものに関する非実在論)と本当に相性がいいものなのかといった疑問で、これはつまり、実在論とか非実在論とかいった話について自分の関心自体がdeflateしつつあるということなのだけれども。

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2009年11月 2日 (月)

◆Timmons, MWF
Mark Timmons, Morality without Foundations: A Defense of Ethical Contextualism (OUP, 1999)

ウェッジウッドの本は途中で切り上げて、もう少し自分の関心に近そうなこちらの本を読んでみるテスト。第3章まで。難しげな本かと思いきや、配慮の行き届いた丁寧な論述で、自分のように素人同然の人間でも読み通せそうな様子。

(1)哲学的な自然主義へのコミットメントを明確にした上で、(2)そうした自然主義に立つ包括的なメタ倫理学的理論として現在最も説得的な形で提示されているコーネル実在論(「ニューウェーヴの実在論」)を斥け、(3)それに代えて非実在論(irrealism)を擁護する、――というのが本書の基本的な筋立てとのことで、見方によっては話の間口はきわめて狭いのだけれども、ムーア以降の倫理学の展開についての歴史的な考察も豊富に織り込んだ展開で、たいへん勉強になる。
冒頭の第1章は、分析哲学における隣接諸分野(とりわけ言語哲学と心の哲学)の進展にインパクトを受けてムーア以降のメタ倫理学がどのように変貌してきたか(概念分析と“意味論第一”主義をモットーに掲げる「分析的なメタ倫理学」から、「ポスト分析的なメタ倫理学」へ)を振り返りつつ、今日のメタ倫理的考察が踏まえるべき方法論を再確認しようという内容。ところで、この本でのティモンズの試みは、ある意味ではメタ倫理の“意味論化”を指向しているとも言えるのだろうけれども(ニューウェーヴ実在論に対するティモンズの批判も、その意味論的基盤の不健全さに向けられる)、これは今日の「ポスト分析的」状況の中ではどのように評価されることになるのか。

しかしまあ、この後に続く長大な第4章がたぶん本書の山場なので、正念場はここから。

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2009年10月30日 (金)

◆Wedgwood, NN
第2部に入って第7章まで。ウェッジウッドのスタンスはだいぶ見えてきたような感じはするけど、こういう本の場合はたぶん、きちんと細部まで読み込まずにユルユルの感想を述べてもあんまり意味がないんだよな。――と、予防線を張っておいた上で、(一方での)規範的な判断の持つ動機付けの力を(もう一方での)実在論的な要請とどう組み合せるかという問題をめぐって、綿密な議論に立つ野心的な試みといえる本なのだろうけれども、正直なところ、そこまで実在論に肩入れするその理論的動機がまだ今一つ理解しきれないところがある。(ピーコックが展開してきたような意味論的アプローチを規範的な判断の取り扱いにまでどのように拡張するかという点では、かなり見通しも明快で教えられるところの多い本だとは思うけれども。)

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2009年10月26日 (月)

◆Wedgwood, NN
・Ralph Wedgwood, The Nature of Normativity (OUP, 2007)

第1部途中の第4章まで。
本書での目論見については、イントロダクションの中で次のようにまとめられている。

The theory that I shall defend will accept internalism about the connection between normative judgments and practical reasoning or motivation for action. Semantically, my theory will reject expressivism and non-cognitivism, and embrace a factualist semantics and a cognitivist conception of normative judgments; and it will reject both the approach that relies solely on a causal theory of reference to give an account of the meaning of normative terms, and the attempt to give a conceptual analysis for such terms, in favour of a form of conceptual role semantics for such terms. Metaphysically, my theory will be a form of realism about the normative; it will claim that normative facts, properties and relations exist and are both metaphysically irreducible and causally efficacious; it will be incompatible with the strong form of naturalism according to which normative facts and properties are identical with natural facts and properties, but compatible with the moderate naturalist view that all contingent normative facts are realized in such natural facts. Epistemologically, my theory will reject purely coherentist and empiricist accounts of what it is for our normative beliefs to be justified or rational. Instead, it will be a version of intuitionism ---- albeit a special kind of intuitionism that permits the existence of rationally irresoluble disagreements about normative issues. The whole account is unified around one central idea ---- the idea that is expressed by the slogan "the intentional itself is normative". (p. 8)
というわけで、第1部が意味論、第2部が形而上学、第3部が認識論というのが本書全体の構成。第1部のうち、第1章は、規範的判断と動機付けとの間の内在的な結び付きを主張する判断内在主義の擁護。第2章はギバードの表出主義への批判。第3章は、コーネル派(指示の因果説)とキャンベラ派(機能主義的な概念分析)の意味論的プログラムに対する批判。第4章は、ウェッジウッド自身のとる概念役割意味論の説明。(真理条件的な意味論の枠内に、意味理解あるいはSinnについての実質的説明としての概念役割意味論をどのようにうまく組み込むかという、基本的にはピーコック風の話。実践的推論における概念の推論的役割をも包摂するようconceptual roleの捉え方を拡張しよう、というのがウェッジウッドの考え方のポイントになる。それにより、規範的概念を持つということは、しかるべき実在的特性を「実践的な提示様式」の下で把握する能力を持つことだとする主張を肉付けする道が開かれる、云々。)

自分としては基本的に、ギバードを再読するための予習用に読んでいるだけなので、本書でのウェッジウッドの試みに対しては実のところ、「うまくいくといいですねぇー」といった程度の他人事的な関心しかないのではあるけれど…。(意味論・存在論・認識論にまたがる実在論的パッケージをそれなりにもっともらしい形で提示することはできるにしても、これを行為についてのまともな理論とうまく結び付けることは――動機付けについての第1章での扱いを見ると特に――やはり難しいんではないだろうか、というのが今のところの予感。「規範的なものの実在性」を「心的なものの規範性」にストレートに帰着させればいいのだ、というのがウェッジウッドの基本的な考え方なのだろうけれども、こうした考え方はやはり、行為者性に関する厄介な問題を回避することにしかならないんじゃなかろうか。)
ギバードの表出主義について取り上げた第2章について言えば、ウェッジウッドのギバード批判にとっての中心的な議論は、「一般に言明をなすことや判断を下すことの眼目を理解するには実質的な真理概念が不可欠だ(が、表出主義者はそのように実質的な真理概念に訴えることが禁じられている)」という論点に立つものだけれども、これは「自分がとろうとしている道はギバードとは違うのだ」という態度表明としてはともかく、どうして表出主義への決定的な批判となりうるのかが――少なくともそこ(pp. 51-56)での議論だけでは――自分にはちょっとよく理解できない。

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2009年10月19日 (月)

◆Sober & Wilson, UO
だいぶサボったせいで、ようやく読了。しかしこんなにゆっくりしたペースで読む本ではないな。。。

適応度によって定義される進化論的利他性をテーマにした第1部に続いて、後半の第2部では、他者の福利に関する利他的動機に基づく心理学的利他性が取り上げられる。前半第1部は、ポレミックな調子で歯切れよくぽんぽん話が進められていくといった印象であったのに比べ、第2部の方は、良く言えば慎重で丹念な議論運び、悪く言えばモッサリ鈍重な感じではある。
なお、ソーバーのFrom a Biological Point of Viewに所収の論文“Did evolution make us psychological egoists?”は、本書第2部での議論展開の基本的な骨子を捉える上で良い見通しを与えてくれる。

本書の内容を概略的に振り返っておくと、第1部(第1章~第5章)では、まず冒頭の第1章で集団選択についての基本的な考え方が直観的に捉えやすい形で提示されたのに続いて、第2章および第3章では進化生物学的視点からその理論的整備が加えられ、個体レベルでの選択と集団レベルでの選択を包摂する一般理論としてのマルチレベル選択説が展開されていた。
その上で第4章および第5章では、人類学的知見を参照しつつ、人間における集団選択のあり方が考察された。ここで強調されていたのは、アリやミツバチのような動物では遺伝的な血縁関係が、(選択の単位としての)集団を形成する上で大きな役割を演じているのに対して、人間社会においては社会的規範が主要な役割を担っているという点である。
こうして、第1部での基本的な論点は、(1)集団選択説あるいはマルチレベル選択説をとることによって、進化論的利他行動(結果的に自分の適応度を下げ、他者の適応度を向上させるような行動)がいかにして進化し得るかは無理なく説明できるということ、および(2)そうした進化論的利他行動の進化は、(主として)社会的規範によって形成される人間集団にも等しく当てはまるということ、である。

これに対して後半の第2部(第6章~第10章)では、他者のため、他者の福利を動機とする心理的利他性が主題に据えられる。先の第1部に比べると、この第2部は全体として連なった一つの長大な試論という色合いがより濃厚になる。
第6章はまず、この新たな問題に取り組むにあたって基本的な問題設定から始まる。もっぱら他者の福利への利他的動機に発する行為が、結果として自らの適応度向上につながることもあれば、逆にまた、自分だけの福利に関するエゴイスティックな動機に基づく行為が、結果的には他個体の適応度向上に寄与することもある。それゆえ、行動の動機付けの性格に関わる心理的利他性の問題は、行動の適応的性格に関する進化論的利他性の問題とはまた独立に問われなければならない。以上の点の確認に続いて、この章の後半では、行為の動機を形作る心的な状態(欲求、信念)の本性および機能について基本的な解説が加えられる。(信念および欲求の因果的実在性;その表象的性格;信念-欲求メカニズムの非モジュール性;信念の改訂に伴う欲求の動態、等々。)

次の第7章では、動機付けに関する三つの理論である快楽主義、エゴイズム、利他主義それぞれの定式化が示される。これは幾つかの重要な区別に基づく。(1)究極的な欲求と、媒介的・手段的(instrumental)な欲求との区別。(主体Sが、MおよびEの双方を欲しているとして、SがMを欲するのはもっぱら、「MはEの獲得につながる」と信じているためであるならば、その際のSのMへの欲求は、単なる媒介的な欲求にすぎない。)(2)自己指向的(self-directed)な欲求と、他者指向的(other-directed)な欲求との区別。(自分自身の福利に関わる欲求か、それとも他者の福利に向けられた欲求か。)(3)欲求の種類に関する一元論と多元論。
先の三理論はそれぞれ、次のように特徴付けられる。
・エゴイズム: 行為の動機付けを与える究極的欲求はみな自己指向的な欲求だとする一元論的理論。(他者指向的な欲求はみな、たかだか媒介的な欲求にすぎず、他者の福利それ自体を目的とする究極的欲求は存在しない。)
・利他主義: 行為の動機付けを与える究極的な欲求としては、自己指向的な欲求のみならず他者指向的な欲求もありうるとする多元論的理論。
快楽主義はエゴイズムの一ヴァージョンである。
・快楽主義: 行為の動機付けを与える究極的欲求はみな、自分の快苦に関する自己指向的な欲求である。

(このように、エゴイズムと利他主義に関して本書でとられる分類は、究極的欲求の種類に関する一元論と多元論との対立に帰着する。そして本書が最終的に狙いとしているのは、究極的欲求の多元性を、つまり他者指向的=利他的な欲求の存在を、進化論的な見地から擁護することである。しかしこうした分類は、その実際の行動特性においておよそ利他的とは思われない行為者(例えば、他者指向的な欲求を持ちながらも、それが自己利益的欲求に比べてあまりに弱い欲求であるために、利他的行動の実行にまで至らないような行為者)も真正の「利他的」個体と見なされることになりかねないという点で、かなり問題を含んでいると思う。これについては後で述べる(時間があれば)。)

第8章と第9章はそれぞれ、エゴイズム/利他主義問題をめぐる心理学的研究および哲学的考察についての簡単なサーヴェイ。社会心理学分野で行なわれている様々な実験結果の紹介や、J・バトラーの快楽主義批判やR・ノージックの「経験機械」論の批判的検討など、興味深い論点が含まれているが、ここでは略。ともかく、行為の動機付けの理論として正しいのはエゴイズムなのかそれとも利他主義なのかという問題については、心理学的研究も哲学的考察もいまだ決着をつけるに至ってはおらず、またこうした伝統的アプローチによる問題解決の前途もきわめて暗い、というのがソーバー&ウィルソンの下す診断である。

このような手詰まり状況の中で、進化論的考察を取り入れることで問題解決への光明を見出そうというのが締め括りとなる第10章での試みである。ソーバー&ウィルソンによれば、進化論的見地から考察されるべき基本的な問題は次のようになる。親が自分の子どもに対して行なう育児ケアのような(少なくとも一見したところは利他的な)行動を考えてみるとして、こうした行動をもたらす至近因としての動機付けメカニズムはどのようにデザインされるべきか? このデザイン問題を、進化のプロセスはどのように解決したのか? そうした進化論的解決として説得的なのは、エゴイスティックな動機付けメカニズムなのか、それとも利他主義的な動機付けメカニズムなのか?
こうした問題は、ソーバー&ウィルソンによれば、ドレツキが取り上げたことで良く知られている次のような問題と類比的である。嫌気性の海洋バクテリアは、その生存のために、海水中の酸素濃度を検知し、それに応じて行動をコントロールする必要がある。では、そうした検知メカニズムのデザインに関して、進化のプロセスが与えた解決はどのようなものか? 酸素濃度を直接的に検知するメカニズムか、それとも、酸素濃度と相関した特性を検知する(ことによって酸素濃度を間接的に検知する)メカニズムか?
もちろん、後者のようなバクテリアの検知器問題については最終的に解剖学的な研究に助けを仰ぐことが可能であるのに対して、エゴイズム/利他主義問題にはそうした決定的な手掛かりは得られそうにはない。そうではあっても、進化論的デザイン問題を考えるための幾つかの手掛かりはある。(1)信頼性(問題となるメカニズムはどれだけ信頼できるものか)、(2)入手可能性(問題となるメカニズムは、その祖先からの進化によって入手可能なものか)、(3)実効性(問題となるメカニズムの形成や維持は、エネルギー効率の点で実効的か)。そして、この第10章での中心的議論は、エゴイスティックな動機付けメカニズムに比べて利他主義的なメカニズムがこの(1)~(3)の点で、また中でも特に(1)の点で、むしろ優位にあることを示そうとするものである。こうした考察は必ずしも利他主義の正しさを決定的に結論付けるわけではないにせよ、少なくとも、エゴイズムが人間行動に関するデフォルトの仮設として当然視されている現状に大きな反省を迫るものにはなるだろう、というのが本書の最終的な到達点である。

しかし残念なことに、この第10章での中心的な議論(pp. 312-324)は、かなり深刻な困難を抱えているように見える。
第一に、この議論が成功しているとしても、これが一般に考えられているようなエゴイズム/利他主義問題の行方をどれほど大きく左右することになるかはそれほど明らかではない。これは主として、エゴイズムおよび利他主義について本書でとられている特徴付けの適切さに関わる問題である。
第二に、この議論が成功しているかどうかについても、かなり深刻な疑問が残る。バクテリアの検知器デザイン問題との類比に訴えることは、行為の動機付けを考える上ではかなりミスリーディングな所がある。例えば「信頼性」という点について言えば、エゴイズム/利他主義問題を考える上で決定的に重要なのは、しかるべき特性もしくは事態の検知に関わる信頼性よりもむしろ、適切に行動をコントロールする上での信頼性である。しかしソーバー&ウィルソンの議論が示しているのは、利他主義的な動機付けメカニズムがエゴイスティックなメカニズムに比べて、しかるべき事態――例えば子どもがケアを必要としているという事態――の検知の点でより信頼性が高いということでしかない。
それゆえ第三に、ここでのソーバー&ウィルソンの議論に対しては、ちょうど、ネーゲルの利他主義擁護論に対して彼らが指摘するのと類比的な批判が当てはまるように見える。利他主義を実践的合理性の要請として確立しようとするネーゲルの試みに対して、ソーバー&ウィルソンは、「人々が彼の言う意味で合理的だという論拠を、ネーゲルは全く提示していない」以上、「ネーゲルは、実際に人々が利他的な動機を持ち得ることを何ら示してはいない」と批判する(p. 281)。そして本書でのソーバー&ウィルソンもまた、進化論的適応の要請としての利他主義的な動機付けメカニズムが、実際にわれわれ(あるいはわれわれの祖先)に備わるものだということを何ら示してはいないように思われる。
――これらの点については、また後ほど改めてもう少し詳しく記しておきたい(時間があれば)。

というわけで、心理的利他主義に関する本書での最終的な議論には私自身は全く賛成できないので、ここでのソーバー&ウィルソンの試みが利他主義をめぐる考察を実質的に大きく前進させるものだとも思えないのだけれども、こうした問題をめぐって近年の生物学的な知見がもたらしたインパクトをどのように受け止めるべきなのかをめぐってかなり混乱も見られる中で、うまく交通整理を与えてくれるという点では一読に値する優れた本だと思う。(これは全くの推測だけれども、著者二人の意図としては、特に社会科学系の人たちに読んでもらいたいというのがあるのではないだろうか。)

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2009年10月 4日 (日)

◆Sober & Wilson, UO
どうにか第1部の部分は大方読み終える。理解の程はというと、知ったかぶりして喋ったら確実に火傷をするレベルと言うしかなさそうではあるけれど、たいへん面白かった。20世紀後半における進化生物学の展開を「集団選択」という切り口から捉えた科学史的な読み物としても興味深い(これは特に第2章で取り上げられる話題)。

ついでにちょっとメモ。

・leeswijzer: boeken annex van dagboek:『古生物の形態と解析』/『ダーウィン文化論』/『Unto Others』
Unto Othersの丁寧な内容紹介。ソーバーのThe Nature of Selectionとの連続性についても言及あり。

・shorebird 進化心理学中心の書評など:D. S. ウィルソンによるマルチレベル淘汰理論の整理
D. S. Wilson & E. O. Wilson, "Rethinking the Theoretical Foundation of Sociobiology" (2007) について。マルチレベル淘汰理論か、包括適応度理論か。(ソーバー&ウィルソンによると、「W・D・ハミルトンが集団選択説に立ち返っている事実がほとんど注目されずにきたのは、要するに彼の75年論文が余り読まれていないからではないか」というような話であったけれども、そもそもハミルトンのこの論文をどう読むかということ自体が相当にコントロヴァーシャルな問題だ、といったような。)

・nikki:ドーキンス:ヴィークルを葬る
Wilson, & Sober "Reintroducing group selection to the human behavioral sciences" (1994) に対するドーキンスのコメント。(集団は存在しない。)

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2009年10月 1日 (木)

◆Sober & Wilson, UO
・Elliott Sober & David Sloan Wilson, Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior (HUP, 1998)

読書中。
こういう本は生物学の初心者でも読めるのだろうかと一抹の不安を感じつつ繙いてみたわけですが、説明が全体に平易なのでどうにか後をついて行くことはできそうな模様。といってもまだ序盤だから、これから難所が訪れるのかもしれませんが…。「イントロダクション」によると、本書は「進化生物学、社会心理学、人類学、哲学」のどれか一分野についてそれなりの知識があれば読めるようになっているとのことらしいけれども(p. 9)、それがリップサービスではないことを祈りつつ読み進める。
前半の第1部では進化論的な利他行動(もっぱらその結果の観点から、適応度によって――つまり他個体の適応度を増すのに対して自分自身の適応度を低下させるような行動として――特徴付けられるような行動)が、また後半の第2部では心理学的な利他行動(その利他的な動機付けによって特徴付けられる行動)が取り扱われる。

G・C・ウィリアムズ以降の激しい批判にもかかわらず、集団選択の概念を復活させることで利他行動の進化を説明しましょう、というのが第1部の基本的なテーマ。

Thus, natural selection can operate at more than one level of the biological hierarchy, as Darwin clearly appreciated in his discussion of human morality […]. Individual selection favors traits that maximize relative fitness within single groups. Group selection favors traits that maximize the relative fitness of groups. Altruism is maladaptive with respect to individual selection but adaptive with respect to group selection. Altruism can evolve if the process of group selection is sufficiently strong. (p. 27)
ソーバー&ウィルソンの議論のポイントは次のようなことであるらしい。利他行動への遺伝的傾向を備えた利他的個体と、そうした傾向を持たない利己的個体との双方を含んだ集団が複数存在している(ただし、各集団内部での利他的個体と利己的個体の比率は様々であってよい)場合、
(A)それぞれの集団内部では、利他的個体の適応度は利己的個体の適応度に比べて相対的に低くなる(つまり、集団内部での相対的な適応度の低下をもたらすがゆえに、利他的個体の行動はまぎれもなく利他的と見なされる)、
にもかかわらず、
(B)そうした各集団を総計してその平均値を割り出すならば、利他的個体の適応度の方が利己的個体の適応度よりも高くなる(つまり、利他的行動への遺伝的傾向を持つことは進化の上で適応的である、――なぜならば、利他的個体の比率が高い集団ほど、集団全体としての個体数というパイを大きくすることができるから)。
「でもそれって結局(=(B)の見地からすれば)、自分らのプラスになってるんだから本当は利他的じゃないんじゃないの?」という疑問に対しては、「いやいや問題は、進化のプロセスにおいて集団というユニットの因果的寄与についてどう見るかという“パラダイム”の対立に懸かっておるのじゃ」というような話になるらしい。こうした議論はたいへん面白そうではあるけれども、正直に言ってまだ何か狐につままれたような感じも拭えないのが素人の悲しい所だろうか。
でもまあ、集団選択説の興亡をめぐる科学史的な叙述も豊富で、そうした点でも色々と勉強になります。(これを見ると、リチャード・アレクサンダーのThe Biology of Moral Systemsなんかは、ソーバー&ウィルソンのこうした試みよりも一つ前のフェイズに属する研究ということになるんですかね。)

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2009年9月29日 (火)

◆Appiah, EE
第3章から締め括りの第5章まで。
アッピアの狙いがどうも今一つよく見えてこないなあと思いつつと読み続けて、最終章に至ってようやく、ああそういうことであったかと納得した次第。この本は、倫理学のあるべき姿についてのアッピア自身の見方を描き出した最終章から読み始めるべきだったのかもしれない。
アッピアのこれまでの仕事に関しては(反実在論的な意味論についての著書があったなあということ以外には)ほとんど知らなかったので、この本については、近年の実験哲学的なアプローチをめぐる現状報告のようなものかと思って読み始めたのだけれども、特に最終章の辺りを見ると、アッピアの狙いがそうしたものとは大きく異なるものであることが分かる。ここでの彼の中心的な狙いは明らかに、「幸福(エウダイモニア)の探求としての倫理学」という(アンスコムの指し示した)課題を引き継ぐことであり、実験的なアプローチへの彼の基本的な関心も、生が一個の実験である以上、倫理学もまた実験的たらざるを得ないという視点から導かれたものだと言える。たしかに本書の中では、意思決定における「フレーミング効果」をめぐるトヴェルスキー&カーネマンの研究、「トロッコ問題」への反応に関するジョシュア・グリーンらの脳科学的研究、責任や意図性の帰属に関するフォーク・サイコロジカルな実践についてのジョシュア・ノーブらによる「実験哲学」的調査、ジョナサン・ハイトの「道徳モジュール」研究等の、近年のいわゆる実験的な成果も数多く取り上げられているが(第3章と第4章がこれらの紹介および検討にあてられている)、倫理学への実験的アプローチの導入に関するアッピア自身の受け止め方は、これら「人間本性の科学」あるいは「実験哲学」的アプローチを今日推し進めようとしている人たちのものとは基本的なトーンをかなり異にしている。本書全体を通じて見えてくる倫理学者としてのアッピアの横顔はむしろ、例えばコーラ・ダイヤモンドのような哲学者のそれを思わせるものであり、これは例えば、(いわゆる「トロッコ問題」が典型的にそうであるように)あらかじめ与えられた幾つかの行動オプションを突き付けることで被験者の「倫理的直観」を引き出すという、多くの実験的アプローチで採られている標準的なやり方を批判した次のような一節からも見て取られる。

In the real world, the act of framing --- the act of describing a situation, and thus of determing that there's a decision to be made ---- is itself a moral task. It's often the moral task. Learning how to recognize what is and isn't an option is part of our ethical development. Part of the point of the stringency of the prohibition against murder, Anscombe once observed, was "that you are not to be tempted by fear or hope of consequences." So a proper response to a situation like these would be to look, first, for other options. To understand what's wrong with murder is, in part, to be disinclined to take killing people as an option. If we want to learn about normative life from stories, I suspect the stories that are most helpful are going to be movies and novels and the like, in which characters have to understand and respond to complex situations, not just pick options in an SAT-style multiple-choice problem. In life, the challenge is not so much to figure out how best to play the game; the challenge is to figure out what game you're playing. (pp. 196-197)
(実際にこの文章に先立つ部分では、『若きテルレスの惑い』や『イワン・イリッチの死』からの引用があるが、それ以外にも本書には文学作品からの夥しい引用が含まれている。)
こうした主張にも見られるように、本書でアッピアが示して見せる倫理学的思考の感触は、むしろウィトゲンシュタイン的とでも呼ばれるべきものである("So, what's your philosophy?" ... "My philosophy," I say, "is that everything is more complicated than you thought." (p. 198))。カント的な義務論との整合性を確立することで徳倫理に明確な輪郭を与えようとしたハーストハウスの試みとは逆に、アッピアが目指しているのは徳倫理にその本来の不定形さと方法論的な多元性を取り戻すことである。こうしたアッピアのパースペクティブにおいて、いわゆる実験的アプローチをとる(心理学的、社会学的、脳科学的等の)経験的探求もまた、われわれの道徳的経験が呈する多様な姿を明らかにする様々な方法の内の一つとして位置付けられることになる。それが一つの方法としてわれわれの道徳的経験の解明に寄与し得る限りでは、そうした方法の導入を忌避すべき理由は何もない。ただし、そうした実験的方法の導入に伴いがちな一元論的な野心――われわれの行為をめぐる正当化と理由の探求という規範的な視点を消去して、因果的ストーリーの探求に全てを集約させようとするかのような――は、あくまでも押し止められなければならない。

というわけで、全体としてはアンスコムの影響を色濃く感じさせるスタンスを保ちつつ、近年の実験的な展開が倫理学にとって持つ意義を探ろう(そこから取るべきものは取り、捨てるべきものは捨てる)というのが本書でのアッピアの目論見ということになりそうではあるけれども、いわゆる「実験哲学」派の人たちがこうした受け取り方をどのように見ているかというと、どうなんだろうか。(あまりいい気持ちはしないのではないかという気もするけれど、よく分からない。)

もう一つ、本書の中ではギバードの仕事に関する幾つかのコメントが非常に重要なことを述べているような気がするのだけれども、正確にはどういったことを言わんとしているのかとなると、これまた今のところはよく分からないまま。

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2009年9月22日 (火)

◆Appiah, EE
・Kwame Anthony Appiah, Experiments in Ethics (HUP, 2008)

このところゲーム理論系のものを読んでると、やっぱり実験って楽しそうだなあという気持ちが否応なしに膨らんでくるので、まあちょっと読んでみるかと。前から読んでみたかった本だし。
これは小著の割に内容が豊富ですね。

第1章は、「実験科学」の理念をめぐる哲学史的な考察。
「実験的手法を用いた哲学」というような観念に眉を顰めさせるような哲学的風土は、フレーゲとフッサールの反心理(学)主義によって生み出された、ごく最近の発明物にすぎない。哲学はむしろ心理学(さらにはまた経済学)との連携を取り戻すべきなのであり、そうすることでこれら諸学科を包摂した「道徳科学 moral science」の理念が再興されるべきである、云々。

こうした序論に続いて第2章では、徳という心理学的概念をベースに倫理学を刷新しようとするアンスコム以降のアリストテレス的徳倫理の動向について検討される。
・アリストテレス的な徳倫理を復活させようとする多くの試みは、状況を通じて変わることなく発揮されるような不変の性格特性としての徳、という考え方に基づいている。しかし経験的な道徳心理学研究は、人間の行動がしばしば、行為者自身もそれと意識していない状況的因子に大きく左右されがちだということを明らかにしている。(例えば、困っている他人に対して親切な行動をするかどうかは、その状況でどのような香りが漂っているかにも強く左右される。)こうした研究結果は、われわれ人間が状況を通じて安定した性格特性を持つ(あるいは持ち得る)はずだとする見方に対して深刻な挑戦を突き付けている。
・こうした挑戦に応えるべく、「徳倫理の眼目は、与えられた状況において何を行なうべきかを算出するためのヒューリスティックを与えることだ」というアイディアに訴えてみても、これではうまくいかない。その最大の理由は、こうしたアイディアが徳倫理本来の精神――それは「何をなすべきか」に関する倫理(doingの倫理)であると同時に「どのような人間であるべきか」の倫理(beingの倫理)でもある――を踏みにじってしまうからである。
(徳倫理とカント的義務論とを接合しようとするハーストハウスの試み、あるいはまた、人の倫理的評価に対して行為の倫理的評価を第一次的なものと見なそうとするJ・J・トムソンのアプローチも、こうした欠陥を共有している。)
・徳倫理を、(「何をなすべきか」に関する倫理としての)義務論的倫理や帰結主義的倫理への代案と見るのは適切ではない。この事は何よりも、19世紀最大のアリストテレス主義者たるJ・S・ミルの存在が示している。彼の『自由論』こそは、われわれがいかなる人間であるべきかという「beingの倫理」の探求に他ならない。

といったようなわけで、「倫理学は心理学から再びやり直すべきだ」というアンスコムのアドヴァイスに従おうとするのであれば、徳という心理学的概念の「概念分析」から出発しても無益なので、むしろ経験的な心理学研究にしっかり学ばなければいかんでしょう、というようなことになるらしい。

哲学(倫理学)と心理学とに跨るような横断的な研究の先駆けとして、ギバードの本(Wise Choices, Apt Feelings)なんかも挙げられているけれども(p. 213, n. 34)、しばしばギバードの仕事が、もっぱらフレーゲ(=ギーチ)問題にどう対応するかといった角度からしか取り上げられなかったりするのは、アッピアの史観からすればかなり皮肉な事態とも言えるわけだ。

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2009年8月25日 (火)

◆Williams, SP
拾い読みはひとまず終了。初めて読んだシジウィック論(“The Point of View of the Universe: Sidgwick and the Ambition of Ethics“ 1982)が面白かった。

... whether it is possible or not, the analogy to [the philosophy of science] presents an insoluble problem to ethical theory. For, I agree with Sidgwick, such a theory must aim to be a theory for practice, and to be closely related to reasons for action. It cannot be a reasonable aim, with regard to that purpose, that I or any other particular person should take as the ideal view of the world --- even if one then returns from it to one's self ---- a view from no point of view at all. […] ... my life, my action, is quite irreducibly mine, and to require that it is at best a derivative conclusion that it should be lived from the perspective that happens to be mine is an extraordinary misunderstanding. Yet it is that idea that is implicitly contained in the model of the point of view of the universe. (p. 295)
功利主義的理論の例に違わずシジウィックの理論も理論的視点(「宇宙の視点」)と実践的視点(行為者の「内側」からの視点)とをうまく統合することには成功していないという話を軸に、最後は「倫理学的理論」への絶望で締め括る、――というウィリアムズ節はまあさておき、The Possibility of Altruism以来のネーゲルの基本的な問題設定というのはシジウィックの――三つの基本的原理として体現された――それを(幾つかの点で改変を加えつつ)ある意味ストレートに引き継ぐものとも言えるわけなのだなあ、と今更ながらに教えられる。そこにあるのはリアルな影響関係というよりは、ある種の倫理学的思考がとる形をどれだけ忠実に踏襲しているかに関わる問題であるかもしれないけれども。いずれにしても、こうした事柄はたぶん、ネーゲルを読む上で当然知っておくべきことに属するのだろうと思いながらも、しかしそれにしては、シジウィックとネーゲルとのきちんとした比較研究があまり見当たらなさそうなのが疑問でもある。

・Thomas Nagel, "The View from Here and Now" (2006)

Williams’s objections seem to me more effective against utilitarianism than against theories inspired by Kant, which try to give independent weight to the personal perspective while pursuing a form of harmony among individual lives that can be universally acknowledged. It doesn’t seem so difficult to value fidelity or loyalty for their own sake while at the same time recognising that these values have to be included with others in a coherent system of standards that can apply to everyone. That is not mere dictation to the individual from the standpoint of the universe. And it combines naturally with a historical sense of the gradual expansion of the moral community, which can be expected to continue.
というわけで、ウィリアムズのような批判に対して、ネーゲルからすればむしろ自身のアプローチがどれほどシジウィックから隔たっているかに目を向けろ、ということになるらしい。

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2009年8月19日 (水)

◆Nagel, PA
・Thomas Nagel, The Possibility of Altruism (Princeton University Press, 1970)

たしかこの本を読むのはこれで三度目。今回にしてようやく、ネーゲルがやろうとしていたことの全貌が見えてくる。しかし、話がそれなりに分かってきてみると、ネーゲルの哲学というのはこれまで自分が考えていた以上に、はるかに奇妙なものだという印象もますます強まってくるわけだ。

・全体は三つの部分に分かれる。まず第一部では、行為の理由それ自体に行為への動機付けの力を認める内在主義的立場(自分には何をすべき理由があるかを理解することは、そのように理由づけられた行為へと動機付けられることに他ならない)に立ちつつ、合理主義的な倫理学のための基盤をどのように築き上げるか、という課題をめぐって、これまでの議論状況を踏まえて基本的な問題設定が示される。行為者自身の抱くその時々の欲求――その内容について合理的な評価を容れない心的状態――に動機付けの力の還元不可能な源泉を見出そうとするヒューム的な立場(欲求ベースの「理由」観)が、ネーゲルにとっての主要な標的として据えられる。こうした立場においては、行為の理由が成立するには行為者自身の内にしかるべき欲求が現に存在していることが不可欠であり、この意味ですべての理由は主観的となる。これに対して、その時々の欲求には基づかない客観的な理由の存在を確立することがネーゲルの目標である。

・この本でのネーゲルの狙いは、行為への動機付け一般の源泉とその形式を明らかにする「アプリオリな心理学」の試みである。(したがって彼の考察が取り上げるのは、最終的な意思決定にまで至る実践的推論の全体ではなく、あくまでも、実践的推論のための入力となる一応の理由(prima facie reason)の形成に至る段階である。)そうした試みを実行に移すにあたってネーゲルは、行為者自身が自分自身について把握するその仕方に着目する。ネーゲルの考察は、自己の形而上学的本性についての把握――「人物(person)の形而上学」――が、行為の理由一般に対してどのようなアプリオリな原理を課しているかを明らかにする、“metaphysical ethics”という形をとることになる。

・そうした「人物の形而上学」の二つの柱としてネーゲルが取り上げるのは、(1)時間を通じて存在するものとして自己を把握すること、および(2)客観的に存在する人々の内の一人として自己を把握すること、である。これら二つの論点がそれぞれ、行為の理由に関してどのような含意を持つかを探ることが、本書の第二部および第三部の課題となる。

・第二部では、(単にその時々の現在に存在するのではなく)過去から未来へと時間を通じて存在するものとして自分を把握することが、自分自身の行為に関するprudentialな熟慮をどのように制約しているかが説明される。ネーゲルによれば、自分自身をそのように時間を通じて存在するものとして把握する視点とは、特定の〈今-ここ〉には束縛されない「時間中立的」な視点であり、この時間中立的な視点こそが実践理性の視点に他ならない。そして、こうした時間中立的な視点から捉えられる行為の理由とは、「日付つきの理由 dated reason」(そのように指定された時点が訪れる時にはじめて行為者に動機付けをもたらすような理由)ではなく「無時間的な理由 timeless reason」(行為者自身が過去・現在・未来のどの時点にあるかにかかわらず動機付けの力をもたらすような理由)である。
・この二つの違いを、ネーゲルは次のような事例を挙げて説明している(p. 58)――

私は今から六週間後にローマを訪れることになっているとしよう。六週間経てば、私はイタリア語を話すべき理由を持つことになる。もし私がこれを、日付つきの理由としか見ないならば、たとえ今の私はイタリア語ができないとしても、自分は今イタリア語の学習コースに登録すべき理由があると結論付けることはできない。というのも、私がイタリア語を話すべき理由は、六週間経たなければ生じないからである。むしろ私はその理由が訪れるのを、運命論者のように待ち受けていなければならない。まるで薬が効果を発揮し始めるのを待つように、それが私を行為へと突き動かすのを待ち続けるわけである。
・しかしこのように、prudentialな理由を日付つきの理由として捉えること、つまり時間中立的な視点を放棄してしまうことは、時間的に延長したものとしての自己からの根本的な「解離 dissociation」を余儀なくされるということである。

・こうしたprudentialな行為理由に関する第二部での議論とアナロガスな形で、最後の第三部では客観的理由と利他性について論じられる。すなわち、「時間的に延長した自己」という形而上学的主張から、行為理由の無時間性と時間的中立的な視点(prudentialな熟慮の視点は単なる〈今-ここ〉の視点ではない)が導き出されるのと同様に、「客観的に存在する一人物としての自己」という形而上学的主張からは、行為理由の客観性と反独我論的視点(倫理的な熟慮の視点は単なる私のみの視点ではない)が引き出されるのだ、というのがネーゲルの基本的な見通しである。

   *****

・第二部での議論に関して最も疑問を覚えるのは、ネーゲルの考察が依拠している「時間的に延長した自己」という観念の空虚さに関してである。ネーゲルが打ち出す描像によれば、過去から現在、未来へと続く時間軸上で一連の行為理由は――それぞれの動機付けの内容と共に――無時間的に存在し、行為者を待ち受けており、行為者は時間的な流れの中のその都度の現在に身を置きつつも、無時間的な視点からそれぞれの理由を適切に把握することが求められる。しかし、このようにどの現在においても無時間的な視点を取りうるということ、自分自身を過去・現在・未来にわたって等しく実在するものとして把握しうることは、自分自身の時間的存続という観念の内容の決定的に重要な部分をうまく捉えていないのではないか。ネーゲルにとって「時間的に延長した自己」という観念は、「どこを切っても金太郎」というような空虚な同一性以上の内容を持ち得ないのではないか。(存続の観念からの「解離」についてネーゲルがきわめて乏しい説明しか与えることができずにいるのも、そのためではなかろうか。)
・これに対しては、行為理由と動機付けをめぐるアプリオリな心理学というネーゲル自身の課題からすれば、自己の存続という観念のアプリオリなミニマム部分に考察材料を限定せざるを得ないのだ、と言われるかもしれない。しかしそれほど乏しい材料を用いて、理由の無時間性についてネーゲルが言うようなきわめて強い主張を導き出すことができるとするのは、直観的にみてもにわかには信じがたいことであるし、また実際(これはダーウォルのネーゲル批判と重なり合うことになるが)その試みは――少なくともネーゲル自身が目指しているような仕方では――成功していないと思う。
・しかもまた、アプリオリな心理学というアプローチは、ヒューム的な欲求ベースの動機付け理論の可能性を実際以上に過小に見せてしまう危険がある。上述のような「イタリア語学習」のケースもその一例であると思う。(現にわれわれが持っているような欲求は、こうした事例が思わせるよりもはるかに合理的な構造を備えているのではないか。)
・このイタリア語学習のケースの後日談を、例えば次のように想定してみよう。――語学の学習を怠ったために、私の(一回目の)イタリア訪問は惨憺たる結果に終わってしまった。私はこれを深く後悔することになる。それから一年後にまた、イタリアを訪れる機会が再び訪れる。だが前回の失敗とその反省にも関わらず、今回もまた私はイタリア語の学習を怠ってしまい、再び惨憺たる結果を招く…。
・こうしたケースにおいて明らかに、一度目の怠慢以上に二度目の怠慢は(ある意味で)いっそう非合理であり、イタリア語を学習すべき理由は一度目よりも二度目において(ある意味で)いっそう強く突き付けられている。ここで登場するような理由や合理性の概念は、経験や学習を通じて自らをより良い行為者として形成する過程、自分には何をすべき理由があるかを適切に把握する能力を身につけてゆく過程に目を向けることなしにはほとんど理解できない。そして、「時間的に延長した自己」という観念もまた、こうした自己形成の過程を支える実質的な条件(単なる形式的な同一性の条件ではなく)へと肉付けされることなしには、空虚なままに留まらざるをえないのではなかろうか。

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2009年8月11日 (火)

◆Alan Thomas, Thomas Nagel (McGill-Queen's University Press, 2009)
ネーゲルの政治哲学について取り上げた第7章はとばして一先ず読了。ネーゲルの主張の祖述や解説と、その批判的な検討が入り混じって話が行きつ戻りつしたりと、あまり読みやすくない。

基本的にはThe View from Nowhereの構成に沿う形で、主観的なものと客観的なものをめぐるネーゲルの大枠的な問題設定を見た上で、認識論、心の哲学、行為論、倫理学といった多岐にわたる問題領域でのネーゲルの考察を取り上げてゆく、という内容。著者のトーマスは特に、客観性あるいは「客観化 objectification」に関するネーゲル自身の揺れ動きという主題を、ネーゲル読解の軸に据えている。すなわちトーマスによれば、ネーゲルは客観的な把握について二つの異なるモデル、つまり(1)物理的世界についての物理学的な理解が典型的にそうであるように、主観的な経験の所産を単なる幻影として捨象するような「デカルト的」モデルと、(2)そのように切り捨てられかねない要素を保持しつつ、より広い説明文脈へと置き入れようとする「ヘーゲル的」モデル、という二つのモデルを併用しており、しばしばネーゲルの議論は決定的な点でこの二つの客観性概念の間のequivocationに支えられている、とされる。おそらくトーマス自身の狙いは、「デカルト的」モデルに代えて「ヘーゲル的」な客観性概念に与することでネーゲルにおける最良の部分を救い出すことにあって、そうした試みは本書の中では特に、自由(自律性、責任)をめぐる第5章の部分で説得的に展開されていると思う。
こうした見地からトーマスはネーゲルの倫理学的見解についても、「宇宙の視点」から見られたものとしての客観性というシジウィック=デカルト的な理念に立つThe Possibility of Altruismでのスタンスから、The View from Nowhereでのスタンスへの変貌を、(言ってみれば)「ハードな(デカルト的)合理主義からソフトな(ヘーゲル的)合理主義へ」というような流れによって捉えようとしているが(ただしトーマスによれば、こうした展開は完遂されないがゆえにThe View from Nowhereでの倫理学的立場はハイブリッドな性格を余儀なくされている)、例えばより近年のThe Last Wordに見られるような頑強な合理主義者としての顔を考えると、こうした理解の仕方には疑問を感じる部分も残る。

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2009年8月 7日 (金)

◆Wallace, NW
第3部“Morality and Other Normative Domains"。

・"Virtue, Reason, and Principle" (1991)
・"Scanlon's Contractualism" (2002)
・"The Rightness of Acts and the Goodness of Lives" (2004)
・"Moral Reasons and Moral Fetishes: Rationalists and Anti-Rationalists on Moral Motivation" (2006)

まあこの辺はざっと。
第1部と第3部に収められた諸論文を見た限りでの一先ずの感想としては、行為とその理由との間の軌範的な結び付きへの可感性を、実際に行為への動機付けをもたらす実践的推論のあり方にどのように反応させるかという問題をめぐる近年の様々な論議について、その要所要所のポイントが非常に明快な図式に即して整理されていて、教えられるところが多い。(個人的には特に、「合理的な行為者たらんとする欲求」といったメタ・レベルの欲求に訴える「メタ内在主義的」なアプローチ(ヴェルマンやスキャンロン)の捉え方をめぐって。)何というか、読んでいるとまるで自分の頭が良くなったかと錯覚させられるような鮮やかな論点整理なのだけれども、そうした作業を踏まえてウォレス自身の提案する主意主義的な立場の前途はというと、少なくとも実践理性や実践的推論に関する問題との関わりから見る限りでは、かなり苦し紛れの窮余の策という印象が強い。(行為の理由を支える規範性を――「規範性の源泉」(コースガード)たる意志によって構成されたものとしてではなく――あくまでもリアルな存在性格を持つものとして捉えつつ、そうした個々の規範的理由への言ってみればcognitiveな可感性を併せ持つ能力として、しかもまた行為者自身の直接的なコントロール化にある能動的な能力――本質的に受動的な欲求とはこの点で異なる――として意志を考えることで、理由の規範性と行為への動機付けとの間を滑らかに結び付けようというのがウォレスのアイディアではあるけれども、果たしてそんなにうまくいくものだろうか。)しかしもしかすると、ウォレスの主意主義的スタンスを支える基盤としてはむしろ、第2部で扱われているような道徳的責任をめぐる一連の考察が大きな役割を演じているのかもしれないけれども。

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2009年8月 4日 (火)

◆Wallace, NW
・R. Jay Wallace, Normativity and the Will: Selected Essays on Moral Psychology and Practical Reason (OUP, 2006)

とりあえず第一部。ブラックバーンの本とは対照的に、こちらはゴリゴリのカンティアン(と言っていいんだろうな)。

・"How to Argue about Practical Reason" (1990)
・"Three Conceptions of Rational Agency" (1999)
・"Explanation, Deliberation, and Reasons" (2003)
・"Normativitya and the Will" (2004)
・"Normativity, Commitment, and Instrumental Reason" (2001)

あれこれの論点が複雑に絡まり合った密林地帯のような領域で、これほど鮮やかに問題を捌いてクリアな見通しを切り開いていく手際は見事なものだなあと思うし、moral psychology分野ではこれはひょっとするとフランクフルトの本(The Importance of What We Care About)に匹敵するような名著なのではないかという予感もする。しかしウォレスが最終的に与する主意主義(volitionalism)というのは結局のところ、やはりフランクフルトのアプローチと似たような行き詰まりにぶつかりはしないのだろうか。こういう頭の切れる人はきっと何か打開策を練ってはいるのだろうけれども、まあともかく、動機付けに関する内在主義→行為の理由に関する外在主義(反ヒューム主義的な合理主義)→主意主義(一切の経験主義的な欲求概念の放棄)、というウォレスの議論展開のこの最後のステップは、少なくとも自分にとってはかなり、Ω ΩΩ<な,なんだってー!という感じではある。

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2009年7月31日 (金)

◆Williams, SP
・Bernard Williams, The Sense of the Past: Essays in the History of Philosophy (Princeton University Press, 2006)

まだ初めの方をちょろっと。
ウィリアムズというと自分にとってはデカルト論の印象が強いせいか、何となく「近代な人」というイメージで見てしまうのだけれども、バーニェトのイントロダクションによれば、ウィリアムズという人は若い頃から講義ではプラトンやアリストテレスをかなり重点的に取り上げていたとのことで(そうしたテーマでの発表論文こそ少ないものの)、はぁー成る程なあ、と。(1964年の『テアイテトス』に関する講義については、バーニェトはこれが自分の生涯における転機であったとさえ述べている。)
――Penguinから出ていたデカルト論の第2章だったか第3章だったか、ほとんどデカルトのテキストはほったらかしという調子で知識の概念について突っ込んだ議論を展開していた箇所なんかは、いわゆる正統的な「近代哲学研究」的な文脈からはなかなか出てきにくいものではないかという異質な感じが昔からあって、ああいう議論というのは――その当時の知識論における外在主義的アイディアの流行といった文脈との関係以上に――やはり『テアイテトス』とか古代懐疑論への深い関心に根差したものなのかなあとも思う。(←昔読んだっきりのあやふやな印象で書いているので、間違っていたらすいません。)

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2009年7月29日 (水)

◆Blackburn, RP
どうにかお終いまで。
ホッブズ的な合理主義(自己利益の合理主義)に続いて、終盤の第8章、第9章で槍玉にあげられるのはカント的な合理主義(こちらはむしろ「理性主義」と呼ぶべきか)。すなわち、第8章ではカントやヘアの「普遍的な義務論的原理の合理主義」が、また第9章ではコースガードやネーゲルが主張するような理性主義的な実践的推論モデルが俎上に載せられる。そして、ヒューム(およびアダム・スミス)のsentimentalismの伝統に立ち帰ろうというのが、これらの議論を通じてのブラックバーンの一貫したテーマということになる。
というわけで、ブラックバーンがヒュームに何を負っているのかがかなり良く見えてきて得るところが多くあったし、(以前にネーゲルのThe Last Wordを読んだ時に強烈に抵抗感を感じたのとはうらはらに)ブラックバーンのsentimentalismに共感を覚える部分も少なからずあるのだけれども、全体を振り返ってみるとギバードの本について感じたのと似たような疑問も感じる。というのはつまり、結局のところ、一方での倫理や実践的熟慮に関するヒューム的なsentimentalismは、もう一方での投影主義的な存在論(メタ倫理的なヒューム主義)とそれほどうまく折り合いをつけることができるものなのか、という点について。ブラックバーンにおいてこの二つの側面は、(非常に単純化していえば)「表象的なインプットを取り入れ、情動的なアウトプットを返すもの」というようなヒューム的な心のモデルを介して繋げられることになるけれども、果たしてそうした考え方は妥当なのか。
こうした疑問が浮かんでくるのは単純にウィギンズのヒューム解釈(特に“A Sensible Subjectivism?”での)に引きずられているせいかもしれないのだけれども、もう少し内在的にブラックバーン自身の議論に寄り添った形で肉付けできそうな感触もある。例えばカント的な実践的推論モデル――欲求や情念を召還する審判の場としての理性――について、ブラックバーンはこのモデルの誤りを丁度、知覚の哲学におけるセンス・データ説の誤りと同種のものと見る。つまり、知覚の対象となるのは通常の「外的」対象よりもいっそう直接的な何かであるのではないのと同様に、熟慮の対象となるのも欲求ではなく、(むしろ欲求が向けられている)世界の側面、状況なのである、と(cf. esp. p. 253ff.)。しかしカント的な内的審判モデル(を一例とするデカルト主義的な「内的劇場」モデル)に代えてこうした「直接的実在論」モデル――それによれば、言ってみればわれわれは欲求を通じて世界そのものを直接的に知覚する――を採ることで、ヒューム的な知覚理論の内の何がしかの部分は放棄せざるを得ないのだとすれば(*)、上で触れたような「インプット/アウトプット」モデルをなおも維持し続けることはできるのだろうか。(moral supervenienceをめぐるブラックバーンの議論がもし成功していないとすれば、代わりに何がその支えとなりうるのか。)

(*) この点に関しては例えば p. 259, n. 37を参照。――"It may reasonably be urged that Hume is not free of the mistake of "objectifying" desires and passions, as indeed he objectified all the contents of the mind. I think this is true."

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2009年7月26日 (日)

◆Blackburn, RP
このところ大分さぼったせいで、まだモソモソ読書中。ようやく終盤に入る。

前半は、倫理学全般に関する概説的な二つの章に続いて、第3章ではブラックバーン自身の表出主義的なアプローチを素描した上で、次の第4章ではこれと競合する代表的なメタ倫理的立場((i) マクダウェル、ウィギンズのsensibility説、(ii) response-dependence説とジャクソン、ペティット、スミスら「キャンベラ計画」派、(iii) コーネル実在論)に批判を加える、という流れ。
全体的に、テクニカルな詳細に立ち入るのを避けた平明な論述スタイルが貫かれていて、古き良きイギリス哲学の伝統に連なる矜持といったようなものも感じさせられるけれども、しかし案外何気ない調子で重要な論点が述べられていたりもするので、理解しやすいかとなるとちょっと微妙でもある。特に第3章に関して言えば、ここでの簡略な説明だけでブラックバーンのメタ倫理的立場を理解しろというのはかなり無理がありそうに感じる(表出主義的意味理論のプログラムについては、モデル論的な枠組みに即して比較的かっちりと書かれたギバードの本の方がはるかに理解しやすいように思う)。それからまた、機能主義的なアイディアを使うことで心的内容の規範性を自然主義的に説明しようという話(p. 55ff.)についても、もう少し詳しい議論を期待していたのだけれども、多分この本の主眼はそういう所にはないのだろう。

後半に入って、まず第5章と第6章は、「人は期待効用を最大化するように行動する」という主張の検討にあてられている。
第5章は、この主張の経験的バージョン(人は現にそのように行動している、という心理的エゴイズムの主張)に対するジョゼフ・バトラーの批判を軸に、社会生物学的研究なども視野に入れつつ議論が進められる。また第6章は、この主張を分析的・定義的に真と見ることから出発するラムジー的な決定理論、ゲーム理論の検討。まあこの辺はざっと。(ブラックバーンによれば、ニューカムのパズルにおいて箱の中身が見えているかどうかは本質的な問題ではないので、このパズルの骨組みは基本的にG・カフカのtoxin puzzleと同型なのだということらしいけれども、本当にそうなのか?)

いかにして協調に至ること(=囚人のジレンマから脱出すること)が可能であるのか、いかにして社会の設立が可能であるのか、というホッブズ的な問題系をめぐって、ゴティエらに代表されるような「ホッブズ的契約論」の合理主義的アプローチへの代案として、むしろラムジー的な形式理論にヒューム的な視点を取り込むようなアプローチを打ち出す、――というようなことが第6章のポイントになるらしい。

What is shown by Hume's and Ramsey's approach is the motivational progress whereby trust can be extended, perhaps slowly and inch by inch, into the territory of the war of all against all. Parties who need to coordinate can bring to their dilemmas a history of being motivated by trust, and then their signals that they are to be trusted will not be inert. […] There is no "inevitability" theorem, showing that trust must evolve, but there is no "impossibility" theorem, showing that it cannot evolve, either. What cannot be done is to contract into its evolution, for in the state of nature no such contract can be made by agents whose motivational states exclude respect for contracts. Hume thus improves on Hobbes in two respects: first by introducing the dimension of time, and second by presenting an organic growth model in place of a rationality design model./ So Hobbes's problem is solved not by rationality, but organically, by the growth of habits of reliance. (p. 196)

ついでなので、アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳―心と脳と身体の神秘』(講談社、2000)[原題はDescartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain――邦題適当杉]も覗いてみることに。(この本に関しては第5章でかなり好意的に取り上げられている。)

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2009年7月16日 (木)

◆Blackburn, RP
・Simon Blackburn, Ruling Passions: A Theory of Practical Reasoning (OUP, 1998)

シリーズ第三弾。ゆっくり読み進め中。
前に読んだ時には、三分の一くらいまで進んだところでほったらかした形跡がある。

ブラックバーンもtwitterとかやってるんですか。

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2009年7月14日 (火)

◆Blackburn, EQR
・Simon Blackburn, Essays in Quasi-Realism (OUP, 1993)

しょぼしょぼ読み進めて、倫理学関連の第Ⅱ部はひとまず終了。
ブラックバーンという人はそんなに複雑怪奇な議論を繰り広げる人だとは思えないのだけれど、“Moral Realism”(1973)と“Supervenience Revisited”(1985)――「自然的性質への道徳的性質の付随性」というテーゼをめぐって実在論批判を展開した二論文――に関して相変わらずさっぱり理解できないのはかなり異常。差し当たってはN・ザングウィル("Moral Supervenience" (1995))の解釈に即して押えておけばいいのかなあと思いつつも、まだ釈然としないものがある。

(ザングウィルによれば、“Supervenience Revisited”(およびSpreading the Word)での議論――"the ban on mixed worlds"論法――は、ブラックバーンの狙いには反して、実在論に対する反実在論的投影主義の優位を示すことには決して成功していない。というのも、この議論を説得的な仕方で理解するならば、それが突き付けている挑戦は、実在論者のみならず投影主義者にとってもきわめて解決困難なものとなるからである。この点ではむしろ、初期の“Moral Realism”での議論の方に見込みがある。しかしザングウィルによれば、この議論が正しく理解されるならば、そこで真の争点となっているのは、実在論者/反実在論者の間の存在論的な対立ではなく、「自然的性質への道徳的性質の付随性」というテーゼの持つアプリオリ綜合的な性格をめぐるヒュームとカントとの認識論的対立であるという。)

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2009年7月 8日 (水)

◆Blackburn, SW
・Simon Blackburn, Spreading the Word: Groundings in the Philosophy of Language (OUP, 1984)

つい軽い気持ちでEssays in Quasi-Realismを読み始めてはみたものの中々手強いぞということで、仕切り直しに一先ずこちらを再読。第5章と第6章。
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・James Dreier, "The Supervenience Argument against Moral Realism" (1992)
・Nick Zangwill, "Moral Supervenience" (1995)

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2009年7月 6日 (月)

◆Gibbard, THL
ひとまず読了。
こうした方面の研究に関してほとんど何も知らないような人間が言うのも何ですが、大変に刺激的な内容で、まず第一に読まれるべき本と言えるのではないでしょうか。
前著のWise Choices, Apt Feelingsは、心理学的モデルやその進化論的基盤等々といった話にも踏み込んで、話題が盛り沢山な分、かなり見通しが得にくかったのに比べると(というか、半分くらい読んで挫折したわけですが…)、こちらの本はギバードの構想の哲学的なコアの部分に考察が限定されていることで、その輪郭がかなり明瞭に見て取れるようになっております。
大まかな内容としては、序論的な第Ⅰ部に続いて第Ⅱ部では表出主義的意味理論のモデルを与えた上で、第Ⅲ部では通常の規範的な語彙がいかにしてそうした表出主義的モデルによって捉えられるかを(言いかえれば、表出主義的な意味理論は現にわれわれが用いている言語のための意味理論と見なすに相応しいということを)示し、最後の第Ⅳ部ではそうした表出主義的リソースによって、規範的な知識(何をすべきかに関する知識)という概念がどのように再構成されるかを論ずる、というような流れ。知識の帰属(「誰某は~ということを知っている」)の持つ意味を、認知的な委託・丸投げ(deference)(「~に関しては誰某に聞けばよい」)の適切さによって捉えようという基本的なアイディアに立つ第4部の認識論的議論は中でも非常に面白い、が、この部分は特にまだ「試験的」な性格が強いようで論述がかなり入り組んでいる。(それを除けば、全体としてかなりすっきりとした論述。)
全体を通じて、実践的なものに固有のリアリティに関するギバードの独特の視点には大きな刺激を受けつつも、しかし自分としては、「プラン」や「心の状態」といったギバードの用いる鍵概念について、もう少し本格的に心の哲学に踏み込むような詳しい議論を望みたかったなあという不満感も残るわけではありますが。

D・ブリンクの書評(pdf)とペティットの書評(pdf)はともに認知主義の見地から、ギバードの依拠するようなプランの概念はむしろ(高次の)信念という概念に帰着させることができる(したがってプランの意味論は信念の意味論と同様に真理条件的なものとなる)し、またそうすべきではないか、という趣旨のもの。これに対比していえば、自分の関心はむしろ、ギバードの戦略にしたがってプランの合理性を信念の合理性とは独立に解明しようとした場合にその帰結はどのようなものとなるか(果たしてそれは、準実在論的・投射主義的な存在論とそれほど相性のよいものなのか)、といったようなことになる(のか?)。

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2009年7月 2日 (木)

◆Gibbard, THL
どうにか最後の第Ⅳ部に入ったところ。
どうもこの本の中では、思考や意味の規範性をどのように処理するかという点に関して立ち入った議論を与えるつもりはないようで、規範的な語彙を含む言語についてギバードが提案する表出主義的な意味論のプログラムがどのようにして「非規範的な基盤」(p. 194)に到達することになるのか(――ギバードは例えばブランダムの表出主義的理論について、そこには正にそうした基盤が欠いているがゆえに悪しき意味でregressiveたらざるをえないと批判する)、その見通しがまだよく分からないまま。
ギバードの理論にとって鍵となるのは、「プラン」あるいは「プランニング」の概念であり、われわれが――信念の主体であるのみならず――実践的なプランナーだという事実であるけれども、プランニングという活動を本質的に支えているかに見えるその規範的性格は、「われわれはプランニングを自然主義的に理解することができる、というのも実質的にプランニングを行なっているロボットをそう理解することもできるのだから」(p. 195)というような方向から片付けられるようなものなのだろうか。

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2009年6月27日 (土)

◆Gibbard, THL
・Allan Gibbard, Thinking How to Live (HUP, 2003)

先日から読み始めてようやく半ばまで。
これは非常に面白い。
どうやら表出主義をめぐる研究はかなりすごいことになってるらしい。えらいこっちゃ。

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2009年6月24日 (水)

◆実践的推論
の研究史についてちょっとおさらい、ということで以下のものをざっと一読。

・Anselm Winfried Müller, "How Theoretical is Practical Reason?," in C. Diamond & J. Teichman (eds.), Intention and Intentionality: Essays in Honour of G. E. M. Anscombe (Cornell University Press, 1979)
・A. W. Price, "On the so-called Logic of Practical Inference," in A. O'Hear (ed.), Modern Moral Philosophy (Cambridge University Press, 2004)
・Joseph Raz, "Introduction," in J. Raz (ed.), Practical Reason (Oxford University Press, 1978)
・G. H. von Wright, "On So-Called Practical Inference" (1972), ibid.

ミュラー論文は、実践的推論(あるいはむしろ実践的思考)の基本的性格に関するきわめて興味深い指摘を含む。
実践的推論は、しかるべき目標実現のための行為の遂行を目指しているという意味で、それ自体が目的論的な性格を持つ。こうした実践的推論に内在する目的論は、もっぱら命題的内容に焦点を合わせることで実践的推論に固有の論理を解明しようとする試みによってはうまく捉えることができない。実践的推論はその(命題的)内容に加えて、独特の(目的論的)機能を持つ。
ただし、実践的推論の担っているそうした機能は、例えばもっぱら暇つぶしだけを目的として適当なトピックについて考えるといった場合にその考え事が担っている機能(=暇をつぶすこと)とは明らかに異なる。後者のような考え事においてはその内容と機能とが全く遊離しているの(暇つぶしができるのであればどのような内容について考えても構わない)に対して、実践的推論におけるその目的論的機能は、(実践的行為の結論付けへと至る)その内容と不可分である。

プライス論文は、「実践的推論の論理」に焦点を当てたケニーやヘアらのアプローチに対する批判を通じて、以上のようなミュラーの所見を、実践的推論に関するアンスコムの見解に結び合わせようとする試み。
“satisfactionの論理”(ヘア)においては、目標を述べた前提が与えられた場合、その目標の実現に必要な行為を行なうべきことが結論付けられる。それゆえ、「私はXを行なう」からは(任意のYについて)「私はXもしくはYを行なう」が帰結してしまう。これに対して“satisfactorinessの論理”(ケニー)においては、目標を示す前提が与えられたとして、その目標を実現するのに十分な行為を行なうべきことが導かれる。それゆえ、「私はXを行なう」という前提からは、(任意のY)について「私はXかつYを行なう」が帰結することになる。しかしこれら二つの帰結はいずれも背理的である。
問題は、任意のYに関する「XあるいはY」や「XかつY」には一般に、しかるべき目標(X)の実現を目指した一つの行為としての形が保証されてはいないことにある。この意味で、「実践的推論の論理」をめぐる考察には、「行為の論理」が欠落している。

What we cannot permit as pieces of practical reasoning are inferences from "I will do X" either to "I will do X or Y" or to "I will do X and Y", where "or Y" adds an arbitrary disjunct and "and Y" an arbitrary conjunct. The objections to such inferences are two, one indicated by Anscombe, one by Müller. Where "or Y" is an arbitrary disjunct and "and Y" an arbitrary conjunct, "doing X and/or Y" denotes neither a single act, nor a pair of acts, that constitutes a means to doing X. This is a point about action. And proceeding from "I will do X" either to "I will do X or Y" ot to "I will do X and Y" can get the agent no closer to doing X; so the inference cannot be for the sake of doing X. This is a point about the teleology of deliberation. The two points connect: the practical inference is itself at the service of the end to which it seeks to select a means. (p. 139)
したがって、実践的推論の本性は行為の本性を通じて解明されるのであって、その逆ではない。
The intelligibility of practical reasoning derives from the intelligibility of action for a purpose, and not vice versa; one might say that thinking of this kind is a mental rehearsal of intentional action. There are sensible and less sensible ways of proceeding in thought as in deed; and assessment must attend to the contingencies of the case, and not aspire to apply a special logic. (p. 140)

――といったような議論を経由すると、実践的推論に関するアンスコムの姿勢はかなりクリアーになってくるのだけれども、しかし逆に、『動物運動論』本でのヌスバウムの取り組みはどうもやっぱり頼りないのではないかという疑いもますます濃厚になってくる。

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2009年6月22日 (月)

◆フォン・ウリクト
・G・H・フォン・ウリクト『説明と理解』(産業図書、1984)

第1章「二つの伝統」と第3章「志向性と目的論的説明」。
これは確か、大学の二年生か三年生くらいの時に読んだ本。改めて読むと、所々でうーむよく分からんと躓くので原文を参照してみると、訳文では文意が逆転していたりする箇所もあったりするのがちょっと残念。

第1章は、科学的説明に関するアリストテレス的伝統とガリレオ的伝統という二つの伝統を軸にした1950/60年代(分析)哲学史というべき内容。やはりマージナルな出自の人の歴史意識というのは面白いし、こういう人にこそもっと本格的な哲学史を書いてもらいたかったような。
現象学やマルクス主義がそうであるのと同様に、いわゆる分析哲学もこの二つの伝統の間で引き裂かれている(ヘンペルやE・ネーゲルらによる実証的な哲学の系譜と、アンスコム、ドレイ、ウィンチに代表されるポスト・ウィトゲンシュタインの動向)のだ、というのがウリクトの趣旨ではあるけれども、ブレンターノのように実証主義者でありつつアリストテリアンというような哲学者の扱いはどうなるんだろうか。

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2009年6月20日 (土)

◆Nussbaum, MA
ひとまず終了。
ロールズやテイラー、ウィリアムズ、ウィギンズらからの哲学的な刺激を受け止め、アリストテレスの読解を通じてそれにどう応えてゆくか、という野心的な姿勢を強く印象付けられる本。しかし、機能主義的なアイディアを援用してアリストテレス的目的論を再構成しようとした第一論文にせよ、主としてフォン・ウリクトの論考に指針を仰ぎつつアリストテレスの実践的三段論法を解明しようとする第四論文にせよ、果たしてそうした路線で理論的な詰めはうまくいくのかなあ、という疑問がどうしても残る。

それにしても、実践的推論をめぐる議論の流れの中で、フォン・ウリクトの仕事がもたらしたインパクトがどのようなものであったかというのは、自分としては今一つ実感しにくいところがある。
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第四論文“Practical Sylllogism and Practical Science”は、おそらく、後にThe Fragility of Goodnessにまとめらる一連の仕事への出発点とも言うべきもの。
これについてちょっとメモ。(とりあえず抜書きのみ)

(1)実践的三段論法についての演繹主義的モデルと「道徳の科学」

The deductivist's aim, in constructing his moral system, must be the elimination of conflict. As no two truths accepted into the body of an Aristotelian theoretical science ought to be incompatible, so with practical truth. Niezsche's Socrates could not understand the "incommensurables" that were the stuff of tragedy ([The Birth of Tragedy], sec. 11). The aim of his scientific enterprise was to render everything both commensurable and consistent, to provide us with a system that would eliminate conflict, and tragedy with it. (p. 201)

(2)実践的三段論法-理論的三段論法の並行性が持つ意味
I shall argue that the practical syllogism is a scheme for the teleological explanation of animal activity, designed to show us perspicuously what factors we must mention, what states we must ascribe to the animal, in order to give an adequate explanation of an action. Somethimes the states are conscious, and the explanation corresponds to the agent's actual deliberation; but even when this is not so, the states are supposed to have psychological (and, in most cases, physiological) reality, and to be sufficient conditions for the occurrence of the action. To illustrate the completeness of the explanation (or, putting it another way, to show that if these states are really present, action must follow), Aristotle tells us that it is like the case of theoretical reasoning: the conclusion follows "of necessity." […] The pracitical-theoretical parallel thus does not aim at a deductive system, any more than do the very similar "practical syllogisms" of von Wright, to whose theories I shall often compare Aristotle's. The syllogisms attempt to elucidate the notions involved in the explanation of action and are "scientific" only in that they are in some sense (and we must ask in what sense) conclusive or binding. (pp. 174-175)

・実践的推論についてのフォン・ウリクトのモデル(“仮言的必然性”モデル)
・このモデルによって行為の「完全な説明」を与えることの難しさと、その対処法
・そもそもなぜ「完全な説明」が要求されるのか?(cf. p. 205; p. 206)――行為に関する諸概念を理解する上で、行為の「完全な説明」を与えることは必要か?
・実践的領域において余儀なくされる「説明の不完全さ」(cf. p. 214)

(3)実践的三段論法に関する二つのモデル――『動物運動論』と、『ニコマコス倫理学』(第7巻3)および『デ・アニマ』(第3巻11)

Unlike the MA [De Motu Animalium] model, which is explicitly claimed to offer a general explanation of motion toward a goal, this theory [in EN VII. 3 and DA III. 11] is introduced only in the context of explaining akrasia, and no wider relevance is claimed for. (p. 203)
He may indeed believe that in every case of akrasia, the major premise is rule-like and the minor particular; and this seems plausible. But we must remember that, whatever its internal difficulties, this is not, as the MA account is, and attempt to proffer a generic explanation of action. And it is primarily to the MA, rather than to these chapters, tat we should turn for an understanding of Aristotle's theory of explanation and his use of syllogistic language in developing that theory. / The theory of the practical syllogism is, then, an attempt to provide a model for the adequate explanation of animal actvity and to show us that an explanation of a certain type is adequate, by invoking a parallel with the two-premise structure of the theoretical syllogism. ... (pp. 204-205)

取りあえずの結論としては、この第四論文に関しても、(一方で)実践的推論についての演繹的モデルの誘惑に屈することなく――にもかかわらず理論的三段論法との並行性というアリストテレスが強調する論点を十分に理解可能にする仕方で――実践的三段論法に関するアリストテレスの所論を解釈しなければならないというヌスバウムの問題意識と、(もう一方で)そうした実際の解釈を与えるに当たってヌスバウムが基本的に依拠する道具立て(=フォン・ウリクトの提案する実践的推論モデル)と、この二つの間には根本的なところでミスマッチがあって、ここでのヌスバウムの試みはそうしたギャップをうまく乗り越えることに成功してはいないのではないか、という印象が拭えないわけですが…。
さらに、より倫理的な色合いの濃い考察に関していえば、ヌスバウム自身がシンパシーを隠そうとしないロールズ的な構成主義への方向性と、逆にむしろわれわれ自身の動物的本性に立ち帰ろうとするかのような方向性(――そもそもなぜ「実践的三段論法」の名の下に動物の合目的活動一般が問われなければならないのか)と、こうした相反するその二つの方向性の間の緊張関係というのもここには微妙に見え隠れしているのではないんだろうか、と。

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2009年6月16日 (火)

◆Nussbaum, MA
・Martha Craven Nussbaum, Aristotle's De Motu Animalium, (Princeton University Press, 1978)

読書中。
「動物運動論」の希英対訳テキストとその注解に加えて、五つの“Interpretive Essays”が収められている。いきなりアリストテレスのテキストから読み始めたらほとんど理解不能で泣きたくなったが、論文の方は面白そう。少なくとも、門外漢でも読めそうだということでひとまずほっとする。

第一論文“Aristotle on Teleological Explanation”は、多くの誤解に晒されてきた目的論的説明に関するアリストテレスの所論を救い出し、その権利回復を図ろうというもの。基本的には、セラーズ-パットナム的な機能主義のアイディアに即して質料形相論の意義を捉え直した上で、目的論的機能に関してR・カミンズらが提案するシステム論的な考察を取り入れようというような内容で、心の哲学における機能主義全盛の時代背景を強く感じさせる。
ここでのヌスバウムの狙いは、目的論的説明が与えられるべき領域を基本的に生物の振る舞い一般(意図的な行為を含めた)に限定することによって、アリストテレスが「パングロス的な目的論」――壮大な目的論に貫かれた宇宙観――に荷担しているのではないかという嫌疑を晴らすことにあるが、しかしこの論文でヌスバウムが訴える機能主義的な道具立てというのは果たしてそうした狙いに相応しいものであったかというと、いろいろ疑問を感じる部分もある。

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2009年6月13日 (土)

◆Nussbaum & Sen
・Matha C. Nussbaum & Amartya Sen (eds.), The Quality of Life (OUP, 1993)

色んな論文が収められてますが、第2部「伝統・相対主義・客観性」の諸論文をざっと。

・Thomas Scanlon, "Value, Desire, and Quality of Life"
・Sissela Bok, "Thomas Scanlon: Value, Desire, and Quality of Life"
・Charles Taylor, "Explanation and Practical Reason"
・Martha Nussbaum, "Charles Taylor: Explanation and Practical Reason"
・Martha Nussbaum, "Non-Relative Virtues: An Aristotelian Approach"
・Susan Hurley, "Martha Nussbaum: Non-Relative Virtues: An Aristotelian Approach"

スキャンロン論文は、well-beingに関してグリフィンが打ち出しているようなアイディアは、スキャンロン自身の契約論的な枠組みにうまく取り込むことができるだろう、というような話。グリフィンの本はやっぱりよく分からんのではないかという疑いが(自分の中では)ますます強まる。

テイラー論文は、パラダイム論以降の科学哲学における合理性の概念を視野に入れつつ、倫理的な論争におけるad hominemな論証の適正さを権利付けることを通じて、倫理における合理性の概念の復権を図ろうというような内容。(倫理的主張は科学的主張に劣らず合理的な裏付けを持ちうるし、科学が合理的に進歩するように倫理も合理的に進歩することができる。)これは特にウィリアムズへの応答ということになるのか。

ヌスバウム論文は、なぜヘレニズム期の哲学が問題となるかという点でいろいろ教えられる所が多い。というか、特にこの辺に関しては、いまだに知識が無さ過ぎなんだよな。。。 しかしヌスバウムの言う「相対主義的ではない形の徳倫理」のプログラムというのは、一般に「構成主義」と呼ばれているようなものと実質的にはあんまり変わらないんではなかろうか。(それとも、「いや、そもそもアリストテレス自身のアプローチが構成主義的なのだ」ということになるのだろうか。)

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2009年6月11日 (木)

◆Griffin, WB
ようやく第2部まで。
「がんばってますねえ、功利主義」というようなしょうもない感想しか浮かんでこないのはきっと、しょうもない程度の理解しかできていないせいに違いない。しかし、細かい話は巻末の注(大量)の方にまわして本文はかなり駆け足で進めてゆく、というようなスタイルの本は、馴染みのない分野の場合にはかなり辛いものがある。しかもこの本の場合、どっちかというと面白そうな話がみんな注に置かれているような気がするし。

ウィリアムズやウィギンズ、ロールズやセンらの功利主義批判にどう対応するかというのがこの本の主導的なモチーフとして底流にずっとあるのだろうけれども(――しかしこうした問題意識の根底にあるものが本文の論述からはあまり見えてこないのがこの本の辛い所でもある)、主体が現実に持つ欲求がどの程度充足されるかによってwell-beingを捉えるという古典的功利主義のメンタリズムからは手を切って、むしろ合理的見地から主体が持つべき欲求に定位するというグリフィン自身の立場(informed-desire account)というのは、実際には功利主義とそんなに相性が良いものなんだろうか(むしろinformed-desire accountそれ自体の可能性に対して、功利主義的な枠組はどこか窮屈な縛りをかけているのではないか)、といったような点がやはり気にかかる。

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2009年6月 4日 (木)

◆Griffin, WB
・James Griffin, Well-Being: Its Meaning, Measurement and Moral Importance (OUP, 1986)

まだ冒頭付近を覗いてみた程度。

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2009年6月 2日 (火)

◆Shafer-Landau, MR
どうにか終盤へ。
道徳的実在論の擁護という単一の明確な目標に向けて、あとは存在論(第2部)、道徳心理学(第3部)、実践的合理性(第4部)、認識論(第5部)といった様々な見地から寄せられる種々の批判を総覧的に点検してゆくというある意味非常にシンプルなスタイルで、相手(批判)の出方に応じて哲学者がどのように多様な議論戦略を用いるかを学習するには適した本かもしれない、と思った。しかしヘソ曲がりのせいか、自分の中ではむしろ、表出主義のような立場にはこの本で論じられている以上にかなり可能性があるんじゃないだろうか、という気持ちの方が徐々に膨らんでくるのだった。

内容的には、第3部でのmotivational internalism/externalismをめぐる議論のポイントが全体として今一つよく分からない。反実在論(非認知主義、表出主義)へと容易に繋がりかねないinternalismを叩いておいて、それに代えてexternalismを擁護しようというのがShafer-Landauの目論見であるようなのだが、internalism/externalismそれぞれについての本書での特徴付けからすると、結局のところその二つの間の対立はさほど実質的な意味を持たないことになってしまうのではなかろうか。(まあこれは単に、この問題の本性について――そしてまた多様なタイプのinternalismが生まれてくる事情等についても――自分自身がよく理解できていないせいかもしれないけれども。)
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そういえば思い出したが、予め幾つか書評をざっと見た印象からすると、本書の第5部で打ち出される認識論的立場(道徳的原理については直観主義的――ただしShafer-Landau自身はこうした呼び方をしてはいない――立場をとり、個別的ケースでの道徳的判断についてはreliabilismをとる、という二本立て)が論議を呼んでいる様子で、一体どんな議論がされているものかと期待していた、――のだけれども、実のところこの第5部は残念ながら(その個々の議論内容について特に異を唱えたいという気持ちが強くあるわけではないものの)全体として議論のハードルがかなり低いんじゃないか?、というのが一読した限りでの正直な感想。

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2009年5月29日 (金)

◆Shafer-Landau, MR
・Russ Shafer-Landau, Moral Realism: A Defence (OUP, 2003)

ようやく前半終了。
正直なところこれは(メタ)倫理学の本として面白いのかどうかよく判断がつきかねるのだけれど、道徳的実在論をめぐる様々な論点や議論についてかなり包括的・網羅的に通覧してゆくスタイルは、近年(1990年代以降?)の哲学的アジェンダがどのようなものであり、そうした中で様々な新提案(ミニマリズムの真理論や文脈主義的な認識論など)がどういった役割を担っているかを――倫理学分野を題材として――うまく描き出しているのかな、とも思う。

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2009年5月26日 (火)

◆Blackburn, Pettit, Smith
・Simon Blackburn, "Circles, Finks, Smells and Biconditionals" (1993)
・Philip Pettit, "Realism and Response-Dependence" (1991)
・Michael Smith, "Exploring the Implications of the Dispositional Theory of Value" (2002)

ブラックバーン論文は、response-dependenceに着目した考察には懐疑的な立場からのFAQみたいな内容。結局のところreductiveではない双条件文を持ち出しても、概念の解明につながるどころか、悪循環に陥るだけではないですか?、という話。
(色々と答え方はあるのだろうけど、「xは赤い iff. xはしかじかの条件で誰それに…をもたらす」といったような双条件文の右辺側に関して、"actually"オペレータを使ってどうやってうまくrigidifyするか、というのが一つの(テクニカルな)ポイントにはなるのだろう。)

これに対してペティット論文は、個々のあれこれの概念(例えば価値の概念や因果性の概念)のresponse-dependenceを擁護するというローカルな立場ではなく、われわれの持つ諸概念一般のresponse-dependenceを主張するというグローバルなテーゼを打ち出しつつ、そうした立場が実在論の基本的精神と十分に両立可能なものであると論ずる。

ただし、ペティットの言うresponse-dependenceは、ジョンストンが――"response-dispositional"の概念を経由して――定義するものとはかなり異なる点に注意する必要がある。ジョンストンによれば、水のような自然種概念が、それによってわれわれの側に引き起こされる知覚的反応を述べた記述(「無味、無臭、透明、…」)を使って指示固定されたとすれば、そうした自然種概念も「皮相な意味での人間中心的性格」を帯びることになるが、しかしそれは、response-dependent(あるいはresponse-dispositional)な概念の持つ「深い人間中心的性格」とは根本的に異なる("Objectivity Refigured," p. 107)。これに対してペティットがresponse-dependenceな概念として捉えようとするのは、そうした自然種概念をも包摂するような意味での「人間中心的」な概念である。そうした概念は総じて、われわれの側のある「特権的」な反応の存在と深く結び付いており、そうした概念の外延と、それがもたらす特権的反応との間のしかるべき双条件的な結び付きは、アプリオリに――誤謬や無知を免れた仕方で――知られ得る。response-dependenceな概念ということでペティットが取り上げるのは、そうした"response-privileging"な概念のことである。

response-dependenceに関するこうした独特の捉え方は、この問題に関するペティットの関心がもともと、規則遵守の問題に発していることから来ているらしい。(ペティットは、response-dependentな概念の特徴付けに関するジョンストンと自身との相違について、これは、概念の「適用条件」に目を向ける――ジョンストンの場合――か、それとも「所有条件」に目を向ける――ペティット自身の場合――か、という視点の違いに由来しているのだとも述べているが、これはちょっとよく分からない。)いずれにせよ、ペティットの見方によれば、色のような第二性質の概念として伝統的に考えられてきたもの(単一の感覚モダリティによる、きわめて狭い範囲での感覚刺激的な反応に依存しているがゆえに、species-specificであらざるをえないような概念)は必ずしも、response-dependentな概念の典型とは見なされないことになる。(抽象的対象の実在性云々といった問題を措くならば、例えば加算(+)の概念を――われわれの数学的実践という反応に本質的に依存した――response-dependentな概念として捉える、といったようなことがペティットの念頭には最も強くあるのだと思う。)こうした見方をとることが、この問題(第二性質をめぐる伝統的な困惑を中心とした問題)に関する実質的な前進につながるかどうかは、まだよく分からない。
それにしても、各方面でよくまあ色んな仕事をする人だ。

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2009年5月23日 (土)

◆Johnston
・Mark Johnston, "Objectivity Refigured: Pragmatism Without Verificationism" (1993)
・Mark Johnston, "How to Speak of Colors" (1992)

これまた"response-dependence"つながり。
ジョンストンの論文は、古いものはそれなりに読んだ経験があるものの、ある時期以降の仕事についてはほとんど知らないこともあって、大きな話の文脈がよく分からずに戸惑う部分も若干あったが、やはり面白い人だなあと感じる。

"Objectivity Refigured"の方は、諸概念をresponse-dependentなもの(色のような第二性質の概念が典型的にそうであるように、われわれにしかるべき反応をもたらすディポジションの概念)として捉える見方が客観性や実在性をめぐる包括的な哲学的プログラムの展開にどのように寄与することになるのかという話を中心に、検証主義に訴えることなく――むしろ真理の概念に関する素朴な実在論に立脚して(ミニマムな意味での実在論を守りつつ)――プラグマティズムの刷新を図るための見通しを示そう、というもの。

なおジョンストンによれば、response-dependentな概念は次のように定義される。

(D1)ディスポジショナルな概念
概念Fはディスポジショナルな概念である。=df. 概念Fについて、次のような同一性関係(*)が成り立つ。(ここでのRはそのディスポジションの現れ、Sはその現れの場、Cはその現れの条件、である。)

(*):概念F=Cの下でSにおいてRをもたらすディスポジションの概念
(D2)反応ディスポジショナル(response-dispositional)な概念
概念Fは反応ディスポジショナルな概念である。=df. 概念Fはディスポジショナルな概念であり、かつ次のような条件を満たす。
(1)Rは、何らかの心的プロセスを本質的に伴うような反応である。
(2)Sは、何らかの主体(あるいはそうした複数の主体)である。
(3)Cは、特定の主体が特定の仕方で反応し得るような、特定の条件である。
(4)R、S、Cは、同一性関係(*)の成立をトリヴィアルにするような不特定な仕方(「それが何であれ」)で述べられてはならない。

(D3)response-dependentな概念
概念Fはresponse-dependentな概念である。=df. 概念Fは、(i)それ自体が反応ディスポジショナルな概念であるか、もしくは(ii)少なくとも一つの反応ディスポジショナルな概念を本質的に含む諸概念の真理関数的組み合わせ、もしくは量化形式の組み合わせ、である。

(D4)response-independentな概念
概念Fはresponse-independentな概念である。=df. 概念Fはresponse-dependentではない。

(注:response-dependentな概念をめぐるジョンストンの考察においては、そうした概念を支える(*)形式の同一性がアプリオリに成立するということが――特に"missing explanation argument"との関連で――大きな問題となるのだが、そうしたアプリオリ性が上のような一連の定義のどの段階で要求されているのかが、ジョンストン自身の論述からは明確ではない。)


ここでresponse-dependence/response-independenceという対立軸に沿って簡単に整理すれば、(広い意味での)「検証主義」とは、真理の概念をresponse-dependentな概念(つまり、検証可能性や主張可能性によって特徴付けられるようなわれわれの側の反応に依存した概念)と見なす立場であり、そうした立場を代表するものとしてこの論文では特にパトナムの内部実在論が取り上げられる。これに対して「素朴な実在論」とは、真理の概念がむしろresponse-independentだとする立場である。ただし、こうした素朴な実在論は、「われわれとは独立に、それ自体の構造を備えた実在との対応」という仕方で真理を特徴付けようとする「形而上学的実在論」とは一線を画している。
そして、ジョンストンが擁護しようとする「検証主義なしのプラグマティズム」とは、真理の概念のresponse-independenceを受け入れつつも、〈理論を受け入れることの正しさ〉という概念をresponse-dependentと考える立場、ということになる。またその背景には、〈正しさ〉等の価値一般の概念がresponse-dependentだとする見方がある。

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2009年5月21日 (木)

◆Railton, Wiggins
・Peter Railton, "What the Non-Cognitivist Helps Us to See the Naturalist Must Help Us to Explain"
・David Wiggins, "Cognitivism, Naturalism, and Normativity: A Reply to Peter Railton"
・Peter Railton, "Reply to David Wiggins"
・David Wiggins, "A Neglected Position?"

これらもホールデン&ライト編の論文集に収められているもの。
方法論的・ヒューム的な自然主義と実質的・反ムーア的な自然主義(あるいはscientism)という区別に即して言えば、いずれも方法論的な自然主義から出発しながら、価値性質と「自然的」性質との同一性がアポステリオリに発見可能だとする実質的な自然主義に立つレイルトンと、そうした実質的自然主義にはあくまで反対するウィギンズと、という対立構図。
そうした中で議論のポイントとなるのは、レイルトンの自然主義が価値判断の持つ規範的な力をうまく捉えることに成功しているのか否か、という点。レイルトンの自然主義は、価値経験の現象学を適切に捉え損なっているがゆえに価値判断のsui generisなものを見落としている(つまり、レイルトンが主張するような価値性質と自然的性質との同一性に対しては、ムーアの"open question argument"の基本的精神を引き継ぐ議論を差し向けることができる)、というようなウィギンズの批判に対して、レイルトンは、自らの自然主義的立場は価値判断の規範性の(全てではないにせよ)重要部分をきちんと説明することができるし、そうした説明から零れ落ちてしまう部分は価値の「自然主義的再構成」の成否を左右するような本質的なものではない、と応じる。(レイルトンにとっては、ムーア的な"open question argument"型の批判の効力は、価値性質と自然的性質とのアプリオリな同一性を主張するような定義的自然主義、分析的自然主義にしか及ばない。)

単純に勝ち負けが判定できるような性格の争いではもちろんないけれども、ここでの議論を見る限りではレイルトンの側に軍配を上げる人(*)も多いのかなあ、という印象を持った。しかし心情的にウィギンズの側を応援したくもなる。レイルトンの立場は非常に巧妙なものだとは思うけれども、もしそれが正しいとすると、自分にとって興味を引かれるようなものは倫理学の世界にはあまり残らないことになってしまいそうなので。(もちろん、「それで一体何が悪いのだ?」という話になるのだろうが。)
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(*)例えば、Alexander Miller, An Introduction to Contemporary Metaethics, pp. 202-8。
ミラーによれば、しかるべき価値性質Vと自然的性質Nについて、「V=N」という同一性がアポステリオリに真となるというレイルトンの主張に対してウィギンズ("A Neglected Position?")が提起している批判は、(1)実質的に「V=N」のアプリオリな論証を要求することで、そもそもレイルトンに対して論点を先取しており、また(2)単なる"scientism"批判の域を越えて、蒙昧な反科学的態度に帰着することにもなる(というのも、ウィギンズの議論に並行的な議論を組み立てるならば、「水=H2O」というアポステリオリな科学的真理も否定されてしまうから)。

興味深いことに(ここでの議論と直接関わるわけではないかもしれないが)、マーク・ジョンストンは「水=H2O」という同一性を否定する議論を展開しているそうであり、それに対してはさらにスコット・ソームズが(Beyond Rigidityで)反論を加えているのだそうである。(どちらも読んでないので、内容の詳細は分からないけれども。)

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2009年5月19日 (火)

◆Dancy, Smith, Campbell
・Jonathan Dancy, "Two Conceptions of Moral Realism" (1986)
・Michael Smith, "Objectivity and Moral Realism: On the Significance of the Phenomenology of Moral Experience" (1993)
・John Campbell, "A Simple View of Colour" (1993)
・Michael Smith, "Colour, Transparency, Mind-Independence" (1993)

ちょっと寄り道をして、"response-dependence"関連のものを見ておくか、ということで。下の三本は、John Haldane & Crispin Wright (eds.), Reality, Representation & Projection (OUP, 1993)に収められているもの。

キャンベル論文は、色に関する主観説(色とは、われわれの色経験をもたらすディポジションであり、したがってmind-dependentなものである)と客観説(色とは、そうしたディスポジションを支えるカテゴリカルな基盤――恐らくはミクロ物理的な性質――であり、したがってmind-independentである)に代わる第三の選択肢として、もっとシンプルな立場を擁護しようとするもの。この立場は、(1)色とは色経験をもたらすディポジションを支えるカテゴリカルな基盤であり、したがってmind-independentな性質だとする点では客観説の側に与しつつも、(2)そうしたカテゴリカルな性質としての色は、通常の視覚経験において「透明」に現れ出ている通りのものだとする点では、むしろ主観説に近い性格を持つ。(これに対して客観説においては、カテゴリカルな性質としての色がどのようなものであるかは、経験科学的研究による解明をまたなければならない。それは恐らく、われわれが現に通常の知覚経験を通じて見知っているような姿とは大きく異なるものであろう。)

これに対するスミスのコメント("Colour, Transparency, Mind-Independence")は、全否定といっていいような態度を示したものだが、これは一つには、キャンベルの言う「色の透明性」というテーゼへの誤解に基づいているように見える。スミスは問題の透明性を、痛みの経験に典型的に見られるような主観的(あるいは非表象的で感覚的)な透明性と同種のものとして捉えようとしている。しかしキャンベルが言わんとしているのは、(一方での)個体に関する単称的な思考や知覚と(他方での)その個体との間の関係に並行的なものが、色経験(色知覚)と色性質との間に成立するのだということであり、そしてこれが含意しているのは、色の知覚には、その対象たる色性質をしかるべく「追跡」する能力が必要とされるいるということ(したがって色とは、目を開けただけで心の中に否応無しに飛び込んできて現出するようなものでは必ずしもないということ)である。
以前にキャンベルの論文を読んだ時には、こうしたアイディアはうまくいかないんではないかという気がしていたのに、改めて読みなおしてみると結構見込みがあるんではないかと思えてきて、これは一体なんだろうか。(まあ単に、読み方が適当だというだけのことか…。)もっとも、「色性質の追跡」というのがどのようなものであるかについて、ここでのキャンベルの説明はあまりに乏しいので、それが果たして自分が何となく予想しているようなものとどの程度まで合致するのかはまだよくわからないけれども。またいずれにしても、キャンベル説を支えるような証拠は、経験的な認知科学的研究に(主として)委ねられるということになるだろうし、色をめぐるそうした考察の方向性は恐らく、倫理的価値とのアナロジーの是非といった問題にはあまり光を投じないのではないか、という気もする。(もちろん、色についてのキャンベルの提案に即した形で、色と道徳的価値とのアナロジーを主張する立場が擁護できるとすれば、「第二性質とのアナロジーに訴えるだけの道徳的実在論は、『実在論』の名に値するには余りに弱すぎる」といったようなダンシーの批判に対する一応の回答にはなるのだろうけれども、そもそもそうした立場が尤もらしさを持つかというと、かなり疑問を感じる。というか、単純によく分からない。――というか、そうした立場は倫理学の世界では「直観主義」と呼ばれているものに等しいんではないんだろうか。)

なおスミスについて言えば、スミスが「透明性」に関する誤解に導かれたのは、客観性をめぐる彼の考察が(主観性/客観性をめぐる)ネーゲル的な枠組みに多くを負っていることが深く関わっているように思われる。またネーゲルからの強い影響は"Objectivity and Moral Realism"でのスミスの議論にも見て取ることができる。そこでのスミスの狙いは、道徳的経験についてのマッキーの「現象学的テーゼ」の焦点である客観性を――マクダウェルの理解の仕方(表象的に経験されるべきものとしての客観性)とは違って――合理主義的な見地から問題となるそれ(理性の規範との一致・不一致に関わる事柄)として捉えた上で、そうした客観的価値の存在をめぐるマッキーの懐疑は今なお生きたオプションなのだ(というのも、客観的価値の支えとなるべき合理的規範が存在するかどうかは今なお明らかではないのだから)、と論じることにある。
(これに対して、色の客観性を適切に捉えるためにはまずもって、客観性についてのそうしたネーゲル的な理解からは手を切る必要がある、というのが色に関するキャンベルの「シンプルな見方」の一つのポイントである。)
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"response-dependence"といえば、こうした本が出ているのに今頃気がついた。読んでおきたいような気もするものの、参考にということでこちらの論文(*)をざっと一瞥する限りでは、大味な状況論に終始しそうな様子でもあるけどどうなんだろうか。

(*)追記。一応おしまいまで目を通してみたら、恐ろしく冗長な上に論旨がほとんど不明という、相当にアレな論文であることが判明したのだった。。。

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2009年5月15日 (金)

◆Wiggins, NVT
“Truth, Invention and the Meaning of Life”(1976)と“A Sensible Subjectivism?”(1987)。
あいかわらずよく分からんわけですが。
“Truth~”なんかは、その後の議論の流れを大きく方向付けた論文ということになるのだろうけど、非認知主義的な価値理論ではイカン(し、素朴な認知主義でもイカン)のだという話はいいとして、議論の内容が正直あんまりピンとこない部分も多くてどうなんだろな、と。これはまあ時代的なコンテキストを良く知らないままに読んでいるせいかもしれないけれども。

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2009年5月12日 (火)

◆McDowell
・"Virtue and Reason" (1979)
・"Some Issues in Aristotle's Moral Psychology" (1998)

修行の続き。
これはやっぱり「達人の倫理」とでも言う以外にないんではなかろうか。。。
――と言い切ってしまうのは余りに一面的に過ぎるとは自分でも思いつつ、立て続けに読んでいるとどうしてもそうした印象(「達人だもの」)ばかりが積み重なってくるわけで…。まあともかく、ウィギンズの独特のスタンス――価値の多元性というモダンな理念に立ちつつ「アリストテレス以上にアリストテレス的」(Needs, Values, Truth, p. 251)な道を探るという捩れ方――というのがますます興味深く思えてくる。

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2009年5月11日 (月)

◆McDowell
・"The Role of Eudaimonia in Aristotle's Ethics" (1980)
・"Are Moral Requirements Hypothetical Imperatives?" (1978)

ウィギンズ読むための修行中。

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2009年5月 8日 (金)

◆Wiggins, NVT
・David Wiggins, Needs, Values, Truth: Essays in the Philosophy of Value (OUP, 19983)

“Deliberation and Practical Reason”(1975/76)と“Weakness of Will, Commensurability and the Objects of Deliberation and Desire”(1978/79)。
どういうことをやろうとしているのかという狙いは段々と見えてくるものの、いかんせん何言ってるのか意味の分からん箇所が多すぎる。

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2009年5月 6日 (水)

◆Kane
・Robert Kane, A Contemporary Introduction to Free Will (OUP, 2005)

ほぼ読了。
自由意志をめぐる最重要文献の総ざらえ的なサーベイ、というスタイルでコンパクトにまとめられた入門書。大まかな内容としては、前半部では自由意志をめぐる代表的なオプション(両立説、リバタリアニズム、ハードな決定論)を、それぞれが抱える問題点と合わせて一通りおさらいし、後半部では自由意志と責任との関連に議論の重点を移してフランクフルト、ストローソン以降の「新たな両立論」の展開へと目を向けた上で、最後にケイン自身のリバタリアニズム的提案の紹介で締め括る、というような流れ。読んでいる途中で「そこをもうちょっと詳しく…」と感じる箇所も幾つかあったけれども、逆に言えばバランス感覚に優れた本だと思う。

ケイン自身の打ち出すリバタリアニズム的立場によれば、自由意志が成立するための要件として、(1)他行為可能性(alternative possibilities)に加えて(2)究極的責任(ultimate responsibility)も求められる。ここで「究極的責任」ということで言われているのは、大まかに言えば、ある行為が主体の自由意志に基づくものであるためには、その行為の原因もしくは理由について主体は責任を負っているのでなければならない、ということである。そしてケインによれば、(1)の「他行為可能性」という要件(一般にリバタリアン的自由意志論のメルクマールとされている条件)自体も、実のところ(2)の「究極的責任」の要件から導かれる。その導出の背景にはケイン独特の行為観があるが、それによれば(これまた大まかに言えば)、自由意志に必要とされるのは、「XをすることもできればYをすることもできる」というような単なるindifferenceではなく、「合理的にXをすることもできれば、また合理的にYをすることもできる」という合理的なindifference、あるいはindifferentな合理性なのである(*)。

When we wonder about whether agents have freedom of will (rather than merely freedom of action), what interests us is not merely whether they could have done otherwhise, even if the doing otherwise is undetermined, but whether they could have done otherwise voluntarily (or willingly), intentionally, and rationally. […] ("Voluntarily means here "in accordance with one's will"; "intentionally" means "knowingly" and "on purpose"; and "rationally," means "having good reasons for acting and acting for those reasons.") (p. 128)
Free will seems to require that if we acted voluntarily, intentionally, and rationally, we could also have done otherwise voluntarily, intentionally, and rationally. (p. 129)
これほど強い主張が行為の合理性という概念とすんなり整合するかどうかはかなり疑わしいように思われるのだけれども、この本でのケインの簡潔な論述を見ただけではまだよく分からない。
(もちろん、複数の選択肢が同程度に合理的であるような状況は十分に存在し得るだろうけれども、行為や意志の自由というのは果たしてそうした状況を範例として考えなければならないようなものなのか。それはまるでこの問題全体を、「2+2=4」を真とすることも偽とすることも等しく合理的であるような神の選択への問いになぞらえるようなものではないのだろうか?)

しかしこの本を読んで改めて、自分はやっぱり自由意志とかそういう話にはあんまり関心を持てないんだよなあ、ということを再確認したのだった。(この本で取り上げられている様々な立場の中では、J・M・フィッシャーの提案しているという“semi-compatibilism”――意志の自由は決定論と両立不可能であっても責任は決定論と両立可能だ、という形で自由意志の問題と責任の問題とを切り離そうという戦略――というのが一番しっくりくるけれども、これもつまりはそういうことかもしれない。)
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(*)上での言い方はケインの立場をひどく歪めて伝えかねない(ような気がする)ので、ちょっと補足。(←自業自得)

ケインも、他行為可能性を伴わないような行為がそれにもかかわらず自由な行為(少なくとも「自由」の一つの意味では)であり得ることを認める。例えば、敬虔な信仰心を持つ人ならば、ある種の状況に置かれた場合にはある特定の行為を行なうことしかできない(彼はそうせざるをえないし、それとは違った行為を行なおうとする欲求すら抱くことができない)かもしれない。この場合、彼のその行為には他行為可能性はない。にもかかわらず、それが他ならぬ彼自身の意志や性格に発した行為であるならば、これは自由な行為だと言える。この意味での自由をケインは“self-determination”の自由と呼ぶ。

自由な行為が必ずしも他行為可能性を要求しないとする点で、ケインの立場は両立論者と出発点を等しくしている。ただし、両立論者が、「自由な行為は他行為可能性を要求しないがゆえに決定論とも両立可能である」と考えるのに対して、ケインは、“self-determination”の自由が成立するためにはより強い意味での自由、決定論とは両立不可能な自由が要求されると考える。
その背景には、ケインの次のような直観がある。再び上のケースに戻ろう。敬虔な信仰心を持つ人はある種の状況では、他ならぬ彼自身の意志からして、彼の性格、人となりのゆえにしかじかの行動をとる。彼がその状況でそうした行動をとることは、彼の性格によって決定されている、とさえ言える。しかし、もし彼のそうした性格が、彼以外の何かの力によって完全に定められ、決定されていたとしたらどうだろうか。そこには果たして真の自由はあるだろうか。

こうした見地からケインは、“self-determination”の自由が成立するための条件として、(決定論とは両立不可能な)“self-formation”の自由を主張する。それはすなわち、self-determinationの支えとなる自己(意志、性格、人となり、…)はそれ自体が、次のような意味で自由な行為によって――決定論の軛から解き放たれた仕方で――形成されるものでなければならない、ということである。

Incompatibilists, by contrast, will insist that being truly self-determing requires in addition that your Real of Deep Self --- or your Reason or your values --- cannot in turn be wholly determined by something outside or beyond your own self. You yourself must be in part responsible for being the kind of person you are. (p. 173)

このように自由意志をめぐる考察の焦点を、個々の行為の水準から行為者(の自己形成)という水準へと向けかえる点にケインのリバタリアニズムの特色があるが、それによってまた多くの疑問が生じてくることにもなる。(結局のところ“self-formation”の自由が成立するためには、なぜ行為者自身が「部分的に」寄与するだけで十分なのだろうか。そもそも、自己形成を自由に行ない得るような自己――その「内」と「外」との境界線――とはどのようなものか。また自己形成を――部分的にであれ――自由に行ない得るような自己が要求されるのだとすれば、後者の自己自体もまたそれとは別の自己によって自由に形成されなければならないのだろうか。あるいはそうでないのだとすれば、それはなぜか、等々。)

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2009年5月 1日 (金)

◆Watson, AA
・Gary Watson, Agency and Answerability: Selected Essays (OUP, 2004)

ゲイリー・ワトソンの仕事についてもほとんど何にも知らないので、これまた一から勉強という情けない状況ではあるけどたいへん面白い。
とりあえずは“Free Agency”(1975)と“Skepticism about Weakness of Will”(1977)と“The Work of the Will”(2003)。

プラトン(ただし後期の?)やアリストテレスの古代的なmoral psychologyの洞察に立ち返りつつ、自由な行為者であるとはどのようなことであるかを解明し、また逆に、自由な行為者性が損なわれた状態(アクラシア的状況や、あるいは薬物中毒下におけるcompulsion状態)において何が生じているのかを明らかにしよう、――といったところがワトソンの考察の出発点における基本的なモチーフということになるのだろうか。
ともかく、“Skepticism about Weakness of Will”ではそうした視点に立って、アクラシア(意志の弱さ)に関する通説的理解――「アクラシアが生じてしまうのは、そこで当然発揮されるべき自制力がなぜか行使されずにいるからだ」とする理解の仕方――への懐疑論が示される。ワトソンによれば、こうした理解の仕方の不適切さは端的に、これではアクラシアとcompulsion一般とが全く違いのないものとされてしまう点に見て取られる。これに代えてワトソンが提案する見方によれば、アクラシアを理解するためにわれわれが目を向けなければならないのは、自分をコントロールする能力を獲得し、自由な行為能力を備えた者として自己を形成するプロセスである。アクラシアはそうした自己形成プロセスにおける病理の現れであり、アクラシア的行為者に道徳的に非難されるべき点があるとすれば、それは彼がそうした適切な自己形成に失敗していることにある。

In summary, then, there are capacities and skills of resistance which are generally acquired in the normal course of socialization and practice, and which we hold one another responsible for acquiring and maintaining. Weak agents fall short of standards of "reasonable and normal" self-control (for which we hold them responsible), whereas compulsive agents are motivated by desires which they could not resist even if they met those standards. That is why we focus on the weakness of the agent in the one case (it is the agent's fault), but on the power of the contrary motivation in the compulsive case. And this view allows explanations in terms of weakness of will to be significantly different from explanations in terms of compulsion. In the case of weakness, one acts contrary to one's better judgment because one has failed to meet standards of reasonable or normal self-control; whereas, this explanation does not hold of compulsive behavior. (p. 50)

後の論文ではワトソン自身がこうした説明図式に多くの修正を加えているようではあるけれども、それはひとまず措き、こうした説明を大筋で受け入れるとしてその上で、初期の段階でのワトソンが、「自由な行為者であること」の解明という問題と、「(意図的に行為する能力を持つという意味で)行為者であること」の解明という問題と、これら二つの問題の関係をどのように考えていたのか、というのがちょっと引っかかる。例えば次のような一節(――ここでのワトソンの論点は、アクラシア的な行為もcompulsiveな行為もみな意図的行為だということである):
Some may wish to deny that compulsive behavior is, or can be, intentional if it is not free. This denial seems to me unjustified. For one thing, on leading views of intentionality, both compulsive and weak action will count as intentional. Both the compulsive and the weak person act on a "primary reason" (in Davidson's sense: "Actions, Reasons, and Causes," Journal of Philosophy, 1963.) Their Behavior is consciously motivated; hence both may have "practical knowledge" and be able to answer a certain kind of question "Why?" (See E. Anscombe, Intention.) More decisively, compulsive and weak behavior both involve at least a minimal form of practical reasoning: the person with a dread fear of spiders may reason about how best to escape, a weak person about how best to obtain some cigarettes. To deny intentionality here is unjustifiably to conflate intentional with free action. (pp. 53-54, n. 20)

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(意図的に行為することができるという意味で)行為能力を持つためには(ワトソンが解明しようとしている意味での)自由な行為者であること、自由な行為能力を持つことがconstitutiveな関わりを持つ、――とする立場を、仮に「行為者性に関する内在主義」と呼ぶことにする。そこには例えば、「個々の意図的行為はみな、自由な行為能力の発動によるものでなければならない(したがって、意図的行為と自由な行為との外延は合致する)」というきわめて強い内在主義や、「意図的行為を行ない得る行為者は、自由な行為能力を獲得していなければならない(ただし、個々の意図的行為がみな、自由な行為能力に発するものである必要はない)」という、より緩やかな内在主義など、様々なタイプを区別することができよう。これに対して、自由な行為能力と行為能力一般とのconstitutiveな関係を否定する立場を、「行為者に関する外在主義」と呼ぶことにする。
もし上の引用箇所等でのワトソンの狙いが、そうした外在主義への指向を表明したものだとすれば、これは説得力に欠けると思われるし、しかも、意図的行為についての独立の規準に訴えてそうした立場を擁護しようとすることは、事態をますます悪化させるだけでしかないと思われる。(私には、しかるべく弱められた形の内在主義はきわめて説得的だと思われる。)

ところで、2003年の論文“The Work of the Will”でワトソンが取り上げているのは、これとはやや違った形で定式化された内在主義/外在主義の対立、すなわち意志(will)のあり方をめぐる内在主義と外在主義との対立である。
自分がどのような行動を取るべきかをわれわれが決定し、気持ちを定める場合、そこには二種類の決定が関わっている。一つは、「しかじかを行なうのが最善だ」と決定すること(deciding that)=実践的判断を下すことであり、もう一つは、「しかじかを行なおう」と決定すること(deciding to)=意図することである。そして、意志に関する内在主義は、その二つの間に何らかの必然的な結び付きを主張するのに対して、外在主義はそれを否定する。内在主義者にとって、意図の形成へと至る意志の働きは、実践的判断を支えるのと同じ規範に服している。これとは逆に外在主義者にとって、意志の至上の権能は一切の実践的規範から自由である点に存する。(大まかに言えば、外在主義者がキリスト教的」な意志観に立っているのに対して、内在主義者は「古代ギリシャ的」な意志観――ギリシャ人たちが「意志」という概念を持っていたとすれば――に立つ。)
そしてこの論文でのワトソンの狙いは、(1)外在主義者からの内在主義批判の主要論点を切り崩すことによって、内在主義の一定の擁護を試みること(ただしワトソンも、きわめて強い形の内在主義は説得力に欠けるとして斥ける)、および(2)行為の決定という実践的局面における意志の働きのあり方に類比的なものを、信念(何を信じるべきか)の決定という理論的・認識的局面に探ること、それによってまた、実践的な行為者性と理論的な行為者性との双方にまたがるコミットメントの一般的構造を明らかにすること、である。
おそらく、意志に関するしかるべき内在主義は、上で述べたような意味での行為者に関する内在主義を受け入れることを自然なものとするし、逆に意志に関する外在主義と、行為者に関する外在主義との間に緩やかな結び付きがある。しかしそうした緩やかな繋がり以上のものが正確にはどういった形で取り出されるのかは、まだはっきりしない。

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2009年4月28日 (火)

◆Taylor, HAL
ひとまず読了。
個人的には、「なぜ行為が哲学の問題となるのか」という問いをめぐる懐の深い考察、またその中でも、行為者性に関するテイラー独特の解釈学的視点に立った感情の捉え方(人間的な価値を開示するものとしての感情の役割)、といった点が特に興味深く感じたし、多くを教えられたとも思う。(とはいえ、テイラーのスタンスでは「いかにして動物(人間以外の、言語を持たない動物)は感情を持ち得るのか」という問いをめぐって、かなり苦しい選択を迫られることにもなる。)
行為の哲学や心の哲学の主流的な動向の中では恐らく、The Explanation of Behaviorでのメルロ=ポンティ的なアプローチについて時折思い出されたように言及されるのを別にすれば、テイラーの仕事にきちんと目を向けるということはこれまでほとんど為されてこなかったと思われるけれども(またそれはある意味では何ら不思議ではないのだけれど)、やはりアンスコムからテイラーへという系譜は行為論の一つの太い軸としてしっかりと押えておかなければまずいんではなかろうか、と改めて感じさせられる。しかしまた、何よりもヘーゲル論においてこそアンスコムからの影響を最も色濃く感じさせるあたりが、テイラーという人の複雑なところであり、厄介なところでもある。

締め括りとなる第三部での、ヘルダー、フンボルト、ハーマンを源流とする表現主義的な“the HHH theory”――「超エッチな意味理論」――をめぐる議論を読むと、大学一年の時の授業では某先生がフンボルトの言語論の重要性を力説されていたっけなあ、といった懐かしい想い出が甦ってきたりもして、ちょっと心動かされる。しかしそこでのデイヴィドソン的な意味理論の切り捨て方は随分強引というか拙速というか、あまりテイラーには似つかわしくない気もするけれど、当時の「デイヴィドソン」ブームにはよっぽど腹に据えかねるような苦々しい思いをしていたのだろうか。(そういえば、われこそは元祖デイヴィドソニアンといった調子のウィギンズの自伝的な文章――ウィギンズへの献呈論集に収められているもの――のことを思い出した。)
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But if we follow the insight of the HHH view, and see the importance of expression, and also its intrication into our depictive use of language, this narrow corcumscription will be more difficult to sustain. We then get a much broader view of the phenomena of language, the phenomena which a general theory of meaning must cast light on. Language, in the sense of prose speech, is not seen on its own, or together only with other media of depiction. It is part of a wide gamut, along with expressive gesture, and different media of art: the whole gamut of what Cassirer called the "symbolic forms". This wider circumscription is typical of the Romantic view, the family of theories descended from the HHH. (p. 269)
「真理」や「表象」といった概念を基底に据えて言語的意味を解明しようとする"designative"な意味理論(科学革命期の哲学からフレーゲ、デイヴィドソンへと受け継がれてきたもの)の見方には反して、表現主義的な理論においては、言語の表現的機能を理解することこそが表象的な機能(世界を正しく描出し記述すること)の理解に先立つのであって、その逆ではない。
しかしこうした表現主義的な意味理論の見地から「表現としての言語(活動)」の深みに測鉛を下ろしてみるならば、「人間以外の動物は言語を持たない」という主張はそれほど自明なものとは思われない(し、またこうした主張が偏狭な人間中心的なショーヴィニズムの表明からいかにして分かたれるのかもそれほど明らかではない)。というのも、その種の主張が一般に自明だと考えられているとすれば、その理由は何よりも、人間以外の動物には一般に(対象への方向や距離を多少とも正確に表象し得るようなミツバチのダンスといった特殊な例を除けば)、高度の表象能力が欠けていると考えられていることにあると思われるからである。では、表現主義的な見地から動物に決定的に欠落しているとされるもの――その欠落ゆえに「表現的なもの」の領域から締め出されているとされるもの――とは何か。

テイラーは言語の基礎的な表現的機能を、三重の意味での「開示(disclosure, Erschlossenheit)」として整理している。
(1)非明示的なものを明示化する(make it explicit)こと、分節化する(articulate)こと。
(2)公的な空間、「われわれ」の空間を切り開き、創出すること。
(3)事物の持つ価値=重要性(significance)を露わにする媒体となること。

恐らく、中でも決定的に重要な意味を持つのが(1)の論点である。これについてテイラーは例えば次のようにも説明している。

... coming to articulate our sense of some matter is inseparable from coming to identify its features. It is these that our description pick out; and having an articulated view of something is grasping how the different features or aspects are related. We use "articulate" both as an adjective and a verb, but the first is derivative from the second. We speak of someone who can express himself as "articulate", because he can articulate and lay out the contours of what he has a sense of. (p. 257)
しかし、こうした多分にfigurativeな説明――「輪郭を際立たせること」――が依然として十分に明らかにしていないと思われるのは、そうした働きがいかにして単なる表象的な機能とは決定的に異なるのか、という点である。
(例えば私がある場面である人物を前に複雑な感情を抱くとする。その場において私が抱いた感情がどのようなものであるかは、まだ非明示的なままであり、それをどう名付けるべきか、まだ私には分からない。後に私はその場面を振り返り、その人物とのこれまでの経緯を詳細に辿り直し、私がそこで彼に抱いたのは嫉妬であったのだと自覚するに至る。こうして私は自分の感情に明確な輪郭を与え、分節化する。しかしそうした分節化が、「私が感じたのは嫉妬であった」という単なる表象を形成することから決定的に区別されるとすれば、それは何か。たしかにテイラーも強調するように、感情を分節化し自覚することは、自分自身の感情を変容させ、それと同時に自らの変容をもたらす。しかしそれは、自己自身についての反省的な表象がもたらす因果的効果からはどのように区別されるのか。)

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2009年4月23日 (木)

◆Danto, BBP
もはや大分記憶がおぼろげになりつつある中で、ちょっとメモ。
自分にとってダントという人は、幾つか短い論文を読んでも「結局何をやろうとしているのかよく分からない人」という印象がずっとあって、その点ではこの本(に収められた諸論文)ではダント自身の積極的なスタンスというか哲学的な「人となり」がかなり明確に示されていて成る程と納得する所は少なからずあったのだけれど、しかし残念なことに、そうしたダント自身の積極的な主張というのはおよそ魅力的とは言いがたい、というのが素直な感想。いずれにしても、ダントという人は自分にとっては「ほとんど何から何まで考えを異にする哲学者」ということになりそうである。

行為というテーマに関しては、本書には“Basic Actions and Basic Concepts”(1978)および“Action, Knowledge, and Representation”(1976)という二論文が収められている。アンスコムの行為論が何を目指し、その哲学的なインパクトは何に存するのか、といった点について――メルロ=ポンティの身体論との並行性も視野に入れつつ――ダントが述べる所は概ね的確だと思うが、それだけに、とりわけアンスコムに対する批判を通じてダント自身が展開する考察の道筋は(こう言ってよければ)首尾一貫して体系的に――範例的とも言える仕方で――誤っているように思われる。

いずれも行為の認識論を主題とするこれら二論文でのダントの狙いは、次の二点にまとめられる。
(1)われわれが自分自身の身体や自分の行為について持つ独特の知識――実践的知識――に着目することで、デカルト的な認識論的構図(直接的に知られるものとしての心と、“外界”の一部としての身体や行為)を打ち破ろうとする反デカルト的・「反表象主義」的な試みに異議を唱えること。アンスコム(やメルロ=ポンティ)によれば、われわれは自分の身体や行為について、他の事物やそのあり方について持つような(思弁的な)知識――世界を正確に映し出すことを目指した表象としての知識――とは異なる、独特の実践的な知識、非表象的な知識を持つ。これに対してダントはこうした反表象主義的な提案を斥け、むしろ古典的な表象主義の構図(行為においては意図という心的表象が原因となって、身体的運動という結果が生じる)を守り抜こうとする。
(2)ダント自身が導入した「基礎的行為 basic action」の概念を解体すること。とりわけ、(1)で問題とされるような反デカルト的な試みの観点から基礎的行為の概念に寄せられるであろう認識論的な期待をきっぱりと拭い去ること。

・ダントの提唱した基礎的行為の概念とは大まかに言えば次のようなものであった。Xのある行為aが基礎的行為であるのは、(ⅰ)aがXの行なう行為であり、かつ(ⅱ)aを因果的に引き起こすようなXの別の行為bが存在しない(つまり、aをもたらす原因はもはや、Xの行なう行為ではない)、という場合であり、この場合に限る。
・こうした基礎的行為の存在は、「もしそうした何らかの基礎的行為が存在するのでなければ、非基礎的行為の原因をめぐって無限後退が生じることになってしまう」という“超越論的演繹”によって確立される。
・ところで、こうした基礎的行為の概念を提案した当初の論文(“What We Can Do”(1963)および“Basic Actions”(1965))では、こうした存在証明(何らかの基礎的行為は存在しなければならない)に加えて、実際にいかなる行為が基礎的行為であるのか、またある行為が基礎的行為だということはどのようにして認識されるのか、という問題についてもダント自身の推測が示されていた。
・その段階でのダントの考えによれば、基礎的行為は一定の認識的な要件を満たさなければならないとされていた。すなわち、自分の行なうどの行為が基礎的行為であるかを行為者自身は直接的に認識しているのでなければならないし、さらには、ある行為が基礎的行為だと直接的に知られること自体が、正にその行為が基礎的行為であるための条件なのである、と。

・だが今やダントは、こうした見方を斥ける。たしかに何らかの基礎的行為は存在しなければならない(というのもその“超越論的演繹”は依然として妥当だから)、が、自分のどの行為が基礎的行為なのかをわれわれは必ずしも知っているわけではない。行為者にとって基礎的行為が因果的な意味で最も近接的だということは、決してその認識論的な近さ――直接的・無媒介的な認識可能性――を意味するわけではない。
・そして、基礎的行為の概念をめぐるダントのこうした態度変更は、行為の認識論一般に関するダント自身の見解の明確化――とりわけ、メルロ=ポンティやアンスコムらによる反表象主義的な提案に対する否定的な態度の明確化――と連動している。

・そうしたダントの考察は特にアンスコムの言う「実践的知識」あるいは「非観察的知識」の概念に対する批判を通じてなされるが、ただしダントの提起する批判が正確にはいかなるものであるかはやや分かりにくい所がある。彼は少なくとも三つの論点を示しているように見える(が、間違っているかもしれない)。
(ⅰ)アンスコムの主張には反して、行為において実際に何が為されているかは非観察的には知り得ない、という(よくあるタイプの)批判。――これについては取りあえずパス。
(ⅱ)「一般に行為者はみな自分が何をしているかを知っているはずだ」という常識的直観を揺るがすような様々な心理学的実験成果がある、という批判。――これについても取りあえずパス。(そうした実験の解釈にはかなり問題がありそうに感じる。)
(ⅲ)誤謬の存在が提起する問題に適切に対処するためには、「自分の行為についての行為者の知識」を説明するにあたって結局のところ表象の概念を持ち込む以外にはない、という批判。――これについては、まず第一に、行為の認識論においてダントの言う「誤謬の問題」というものが正確にはどのような形で提起されることになるのかがはっきりしない。そして第二に、もしダントの狙いが、例えば知覚に基づく経験的知識(実践的知識とは異なる思弁的な知識)のケースについて、「錯覚や幻覚のような事例が提起する誤謬の問題に対処するためには、何か心的表象を持ち込む形で知覚の成り立ちを説明する以外にない」と論じられるのと同様のやり方を、行為についての実践的知識のケースにも持ち込もうとすることにあるのだとすれば、こうしたアプローチは(知覚のケースにおいてさえ)問題の本性を見誤ったものだと思う。

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2009年4月20日 (月)

◆Danto, BBP
・Arthur C. Danto, The Body/Body Problem: Selected Essays (University of California Press, 1999)

心(表象)、行為、歴史、芸術といった御得意のテーマに関する諸論文が収められていて、さながら『ポータブル・ダント』といった感じの本らしい。「イントロダクション」によれば、これら多様な分野にわたる考察を貫いているのは、人間の本質を「表象する存在 ens representans」として捉える視点なのである、と。

For some considerable while I have viewed representation as the central concept in philosophy, with differences among philosophers arising in the ways they account for how representations connect to the world, connect to the individuals who possess them, and connect with one another to form systems of beliefs, feelings, and attitudes. The main connections to the world are causation and truth, each of which figures in philosophical accounts of knowledge and of action: a representation is knowledge when caused by what makes it true […]; something is an action when caused by a representation it makes true. There is doubtless more to knowledge and to action than this exiguous catalog of components and connections, but I mean to stress that only to a representational being ---- a res representans ---- can knowledge or action be ascribed, as well as error and misperformance, which are after all failure of fit between representations and the world. […] Representation is the common element in the philosophy of knowledge and the philosophy of action, as well as in the analytical philosophy of history. In this collection of linked essays, however, I advance a philosophy of human beings as systems of representations, some of which represent portions of that system, and so constitute the kind of self-consciousness Hegel supposed he had attained to when he wrote the Phenomenology, relating earlier and later representations under narrative descriptions. (pp. 12-13)
こうした見方には自分としてはほとんど魅力を感じないのだけれど、さしあたって、心の哲学・行為の哲学に関連する章を拾い読み。

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2009年4月17日 (金)

◆Taylor, HAL
・Charles Taylor, Human Agency and Language: Philosophical Papers 1 (CUP, 1985)

今頃になって初めて手にとっているというのは相当に情けないものがあるなあ、と忸怩たる思いに苛まれつつも、本には読むべき時というのがあるのだからまぁいーのだ(と合理化する)。
とりあえず第一部の諸論文に目を通したところ。

Ⅰ. Agency and Self
1. "What is Human Agency?" (1977)
2. "Self-Interpreting Animals" (1977)
3. "Hegel's Philosophy of Mind" (1983)
4. "The Concept of a Person" (1983)

いずれも読みごたえのある重量級の論文で、テイラーという人の巨大さというか懐の深さを今更ながらに思い知らされるわけですが、中でも特に第3論文「ヘーゲルの心の哲学」――行為の本性をめぐる近代以降の哲学的動向を巧みに整理しつつ、そうした背景に照らしてヘーゲルの心の哲学の核心を行為論として読み解こうという鮮やかな試み――には、鈍器で頭をボカっと殴られたような衝撃を受ける。

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2009年4月15日 (水)

◆Taylor, Müller
・Charles Taylor, "Action as Expression," in Cora Diamond & Jenny Teichman (eds.), Intention and Intentionality: Essays in Honour of G. E. M. Anscombe (Cornell University Press, 1979)
・Anselm Winfried Müller, "How Theoretical is Practical Reason?," ibid.

テイラー論文は、「行為は欲求の自然な表現だ」という主張を哲学的にきちんと練り上げようという話。

This kind of case [i.e., "deviant causal chain" case] has been much discussed in the literature. And of course there is no agreement on what to make of it. My claim is that it shows that the relation of action and desire cannot be analyzed with some general category of cause which is also applicable to inanimate beings. Rather we can see that just what is missing in the deviant case is that relation between desire and action that I want to call "expression". […] We can see from the deviant case that this stronger, more intimate relation of expression is essential to what we consider in normal action. What is this relation? It is that desire and action are in a certain sense inseparable. (p. 84)
行為と欲求の間にあるべき表現関係を正しく見て取るには、行為者が強制されずに自らすすんで(unreluctantly and unconstrainedly)行為するような「正常な」あるいは「基礎的な」状況に目を向けなければならない。
For in the case where I act unconstrainedly and unreluctantly, my awareness of my desire must always include, and can just consist in, my awareness that I am so acting. But since my awareness of my desire is not some separable symptom, but is essential to my desire, is part of what it is to have this desire, then so is my awareness of my unconstrained action. Awareness of what I want is inseparable here from awareness of what I am doing. Desire and action are not separable components in the basic situation. (p. 86)
... the desire is inseparable from the action in that the awareness which it essentially involves just is the awareness of unconstrained action. So that in the case of happy action, we can say that the form the desire takes is that of unconstrained action. The locus of desiring in this case, as an essentially intentional state, is just in the action. The action doesn't just enable us to see the desire; it is the desire, embodied in public space. (p. 87)

この論文では「欲求」の概念についてテイラーは立ち入った議論を加えていないので色々よく分からない点もあるけれども(例えば、しばしば生ずるように、対立する欲求や両立不可能な欲求が共存する中では、いかにして欲求は自然な表現を見出すことができるのか、あるいは、そうした欲求の葛藤は「正常な状況」において生ずることはないのか、云々)、それはさておき、様々な逸脱的・病理的ケースについて鋭い考察を加えることで行為の概念の気付かれざる一面を鮮やかに浮き彫りにしましょう的なアプローチが(どちらかというと)行為論の主流を形作ってきた中で、こういう風にむしろ正常なケースでの行為のパラダイムにきちんと目を向けることこそが大事なのだ、という話は大変よくわかるというか、少なくとも自分にとっては非常に心惹かれるものがあるのだよなあと改めて感じた次第。

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2009年4月14日 (火)

◆Anscombe, Falvey
・G. E. M. Anscombe, "On Sensations of Position" (1962)
・G. E. M. Anscombe, "Intention" (1957)
・Kevin Falvey, "Knowledge in Intention" (2000)

ファルヴィー論文はアンスコムの言う非観察的知識、特に自分が現に行なっている行為についての非観察的知識という概念を擁護しようとするものだが、その議論の主要なポイントは二つある。
(1)行為のアスペクトに関するトンプソンの考察を引き継ぎながら、行為と意図との連続性を明らかにすること。
(2)アプリオリな知識を支える知覚的観察の役割(いかにして数学や論理学についての知識は――知覚的観察の働きに支えられているにもかかわらず――アプリオリであり得るのか)に関するバージの議論を援用することで、非観察的知識を支える知覚の役割(いかにして自分の行為についての知識は――様々な知覚的観察に支えられているにもかかわらず――非観察的であり得るのか)を説明すること。

(1)について言えば、自分の行為についての非観察的知識を考察するに当たってファルヴィーが特に注目するのは次のようなケースである。私は今じっと椅子に腰掛け、オーブンの中でパンが焼けるのを待っている。「行なう」という表現の狭い意味では、今の私は何も行なっていないのだが、またもう一つの広い意味では、現に「パンを焼く」ということを意図的に行なっている。
こうした場合、外部の観察者(例えば今この場に入ってきた観察者)が私の様子を目にして、私が何をしているかを観察によって知ることは不可能ではないにせよ(もしかすると彼は、私が珍しくこうしてじっとしている時はいつもパンが焼けるのを待っている時だと知っているかもしれない)、一般にはきわめて困難である。今のケースで私が行なっているのはパン作りだということを窺わせるような観察的な手掛かりは殆どない(少なくともそのように想定することも許される)からである。にもかかわらず私は自分が何をしているかを観察によらずに知っている。
こうしたケースに着目しつつファルヴィーは、自分が現にφしているという場面において、「自分はφしている」という非観察的知識の実質を、"intention-to-be-φing"という意図についての知識に見出すことになる。

こうしたファルヴィーの考察は、前にここで記したような方向性――つまり、「自分が現に行なっている行為についての知識」と「身体的なproprioceptiveな知識」との連続性に着目しようとする方向性――とは逆に、「自分が現に行なっている行為についての知識」を「未来の行為に関する事前の意図についての知識」との連続性の相で捉えようとする方向性に立つものだと言える。これら二つの方向性は必ずしも矛盾するわけでも、両立不可能というわけでもないだろうが、しかしファルヴィーのアプローチにはやはり幾つかの点で疑問を感じる。
何よりもまず第一に、自分が実際にφしているという場面についてファルヴィーが言うような"intention to be φing"――「φしてい(ることにし)ようという意図」?――というのは何だろうか? φしようとする意図(intention to φ)に加えて、私はそうした意図をも持っているのだろうか?
(・ファルヴィーの言う"intention to be φing"は恐らく、サールが"prior intention"と区別して立てる"intention-in-action"(≒"trying")とも異なる。先のケースに関して、恐らくサールの言うような意味では、パン作りに関する"intention-in-action"は作動していないと言うべきだろう。)
(・さらにまた、行為が現に行なわれている最中にそうした特殊な意図を措定するというやり方は、行為のアスペクト的性格に目を向けることで意図の概念の発生に光を投じようというトンプソンの戦略――ファルヴィーによれば「一種のセラーズ風の神話語り」(p. 42, n. 11)――とも基本的な姿勢を異にしていると思う。)

(※抹消線部分に関しては自分の方に誤解があったようなので、ちょっと訂正。ファルビーによれば、"intention to be φing"とは、「φしようとする意図」つまり事前の意図が、現にφしているという局面において――エヴァンズの言う意味で――追跡(keep track)されたものなのであり、「φしようとする意図」に加えて"intention to be φing"を持つわけではない(p. 41, n. 5)。これによって、「自分が現に行なっている行為についての知識」の基本的性格を「未来の行為に関する事前の意図についての知識」のそれに引きつけて捉えようとするファルヴィーの狙いはいっそう明らかとなる。――しかし、事前に意図を形成して行為に臨むケースについては、そうした意図の追跡に訴えることで"intention to be φing"に説明を与えることができるとしても、そうではないケースについてはどうなるのか。事前にφしようとする意図を持ってはいなかったにもかかわらず現に意図的にφしているという場合、"intention to be φing"という行為中の意図については「現にφしている最中に行為者が非観察的に知っているもの」という以外にどのような特徴付けを与えることができるのだろうか?)


私がφしようと意図しているとして、現にφすることに取りかかる以前の段階では、φしようという意図が、自分のその行為について私が行為者として(非観察的に)知るべきことの全てである。だが、いったんφし始めたならば、事情は大きく変貌することになる。今や私が自分の行為について知るべきことは、"intention to be φing"という意図に尽きるわけではない。私はその上また、実際に自分がφしていること(現にφが為されていること)をも知っていなければならない。"intention to be φing"という意図についての知識は、非観察的な性格を保ったままで、いかにして、自分がφしているという知識をも包摂したものとなり得るのか。(あるいはファルヴィーの言い方では、「あなたは何をしているのか」という問いに対して私が与える「私はφしている」という答えは、"intention to be φing"という意図の単なる表明であることを超えて、いかにして「自分はφしている」という事実の記述となり得るのか。)というのも、"intention to be φing"という意図は持ち、自分は現にφしているものと思い込んでいながらも、実際には全くφしそこなっている(自分は今パンを焼いているものと思い込んでいたが、実際にはオーブンに点火していなかった、あるいはオーブンに何も入れていなかった、等々)、ということもあり得るではないか。もしそうならば、私は自分が何をしているのかを知ってはいなかったことになる。こうした問題への対処としてファルヴィーが訴えるのが(2)の論点、すなわちバージ的な認識論の援用というアイディアである。
ファルヴィーはまず第一に、自分が現にφしている場面で、自分が実際にそう行動しているということを知るには、一般に様々な知覚的観察(見たり聞いたりといった“外的”な知覚であれ、身体感覚のような“内的”知覚であれ)の働きに依存せざるを得ないと認める。またこの点で、そうした知識がいかなる観察も介さずに知られると主張しているかに見えるアンスコムの立場を批判する。
しかし彼はまた第二に、そのように知覚的観察の介在を余儀なくされるということからは、そうした介在によって得られる知識が「観察的」性格のものだということが必ずしも帰結しない、と主張する。例えば、数学的論証の結論についてわれわれが持つ知識は、(その論証を構成する様々な数式や記号の知覚をはじめとする)様々な知覚的観察に支えられていながらも、アプリオリなwarrantを持ち得るのと同様に、自分の行為について行為者が持つ知識も、様々な知覚的観察の介在にもかかわらず、非観察的なwarrantを持ち得るのだ、と。

こうしたバージ的なentitlement論の導入という論点について、私には特に積極的な異論はないのだけれど、しかしこの(2)の論点にせよ、先の(1)の論点にせよ、結局のところそのような方策に訴えて非観察的知識という概念を擁護しようとするファルヴィーの狙いが今一つよく分からない。
第一に、ファルヴィーがこの論文で直接的に標的としている"two-factor thesis"との関連において。この"two-factor thesis"によれば、自分の行為について行為者が持つ知識は二つの部分からなるのであり、自分が何を意図しているかは非観察的に知られるにせよ、自分が実際に何を行なっているかは観察に基づいて知る以外にはない、とされる。そして、こうしたテーゼへの批判にもかかわらず、自分の行為についての非観察的知識に関するファルヴィーの最終的な立場は、むしろこの"two-factor thesis"をマイナー・チェンジした修正案とでも言うべきものではないのだろうか。
第二に、アンスコムとの関連において。これはどちらかというと(1)の論点に関わる問題なのだろうが、行為と意図との連続性という主張について、その主張自体には特に異論はないのだけれども、しかしそうした見地(のみ)から非観察的知識という概念の立て直しを図ろうとする場合、アンスコムがわざわざこの概念を導入して担わせようとしていたものの相当部分が取り逃がされてしまうのではないか、という疑問が残る。(この論文の終盤での議論を見ると、複数の行為者が関わるような共同的な行為の場面などで個々の行為者が自分の意図を知りそれを伝えることがどういった役割を果たすかといった問題を念頭に置きながら、自分自身の意図的行為について行為者が持つ特殊な一人称的権限を支えているメカニズムを明らかにしよう、というのがファルヴィーの中心的な関心事であるようにも思われるけれども、いずれにしてもそうした考察はアンスコムの当初の問題意識からはかなり隔たったものにならざるを得ないんじゃなかろうか。)

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2009年4月 9日 (木)

◆Velleman
・J. David Velleman, Practical Reflection (CSLI, 2007)

ちょっとパラパラ読み返してみただけ。すっかり忘れていたが、この新版で付け加えられている新しい序文の中では、アンスコムの非観察的知識の概念の解釈をめぐってかなり卓袱台返し的な話(pp. xxi-xxv)が添えられていて、結果的にはそのおかげで少し勇気付けられる。
ヴェルマンによれば、かつてこの本(Princeton U.P., 1989)を書いたときには、アンスコムの非観察的知識という概念の背景にはreliabilismが控えていることを見落としていた。つまり、自分の手足の位置についての知識(proprioceptive knowledge)が、しかるべきreliableな身体メカニズムによってもたらされるがゆえに、観察的証拠によらずとも知識としての身分を保証されるのと同様に、自分の行為についての実践的知識もまた、単なる偶然やまぐれ当たりを排除するようなreliableな基盤に支えられているがゆえに非観察的でありうる、――これがアンスコムの考え方なのである、と。(もっともヴェルマンは最終的に、意図的行為の知識に関する自分自身のevidentialなアプローチの方が、アンスコムのreliabilismアプローチよりも優れていると主張するのではあるが。)

行為の認識論に関するアンスコムの立場を単純なreliabilismとして特徴付けるというのは、まちがいなく相当に問題含みではあるけれども、それはともかくとして、ここで注目したいのは次の二つの点。
(1)ヴェルマンのこの解釈によれば、proprioceptiveな知識と、意図的行為についての実践的知識は双方とも、同質の性格を持つ何かに言及することによって同形のスタイルで説明されるべきものだということ。
(2)そうした説明においては、自分の意図的行為について実践的知識を持つというのはどういうことかという問題の解明は、(そうした実践的知識を伴いつつ行為し得るような)行為者であるというのはどういうことかという問題の解明に本質的に依存したものとなる、ということ。(この点では、行為者性の解明を前提しない仕方で実践的知識を解明しようとするモランのアプローチ(cf. "Anscombe on ‘Practical Knowledge’," p. 68, n. 14)とは対照的に。)

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2009年4月 8日 (水)

◆Hursthouse, Moran
承前。頭が悪いのでまだグズグズ考えている。
多少はまとまってきたので、ちょっと走り書き的メモ。(ただし、独創性や目新しさはあまり無い。)

(1)ハーストハウス論文について
この論文でのハーストハウスの基本的な狙いは、デイヴィドソン以降の因果説の深刻な難点を衝くような幾つかの代表的な論拠を確認し、それとの対比によってアンスコムの反因果説的構想の健全さを示すことにある。そして実践的知識の取り扱いという問題もそうした論拠の一つとして提起される。自分の身体的状態についての非観察的知識を本来の実践的知識からは除外し、もっぱら「自分の意図的行為についての非観察的知識」のみを実践的知識として捉えるべきだとするハーストハウスの主張の背景には、あるいは、因果説との間の争点を際立たせようとするそこでの姿勢が大きく関わっているのかもしれない。というのも、自分の身体的状態についての非観察的知識をどのように説明するかという点では、因果説と反因果説とで特に大きな相違が生ずるとは思われないからである。
しかしその点はどうであれ、実践的知識についての彼女のそうした見方は、この論文末尾でハーストハウス自身がアンスコムの意図論の大きな美点として賞賛する「反デカルト的」な方向性にはむしろ逆行するものであるように私には思われる。

In this post-Cartesian age, we are still looking for a satisfactory account of first person knowledge. I know a lot of things about myself ---- what I'm intending or trying to do, what I'm going to do (intend to do), that I believe that such and such, want to do so and so, remember hearing such and such, hope to do so and so, seem to see such and such ... and I know all these things in a way that no-one else does or could. On any Cartesian or neo-Cartesian picture it will be natural to give a uniform account of this self-knowledge, in terms of my knowledge of how things are with me "considered by myself." It is the beauty of Anscombe's description of practical knowledge that, entirely abandoning this picture, it makes my so-called self-knowledge of my intention in acting extend beyond my head into the world, without undercutting its essentially first person nature. Although, of course, there is nothing in her to suggest that a general, uniform, account of self-knowledge should or could be given, she shows us the possibility of giving a non-Cartesian account of each of the other case. (p. 105)
自己知についてのそうした反デカルト的説明の試みの端緒として、ハーストハウスはエヴァンズの『指示の諸相』7.4節の参照を求めているが(p. 105, n. 12)、なぜ彼女は併せて7.3節の参照をも求めなかったのだろうか? 自分の手足の位置についての非観察的知識が実践的知識ではなく思弁的知識と見なされるべきことは明らかだとハーストハウスが考えているとすれば(なぜそう見なすべきなのか明白な理由は示されていない――cf. p. 103)、それは何よりも、ハーストハウスにとって「自分の身体」というものが、他の様々な物体と並ぶ単なる一個の物体としてしか考えられていないためではなかろうか?

(2)モラン論文について
モランは非観察的知識を、(a)自分の手足の位置や身体的運動について知識、(b)自分が現に為している意図的行為についての知識、(c)自分がやがて行おうと意図している未来の行為についての知識、という三種に分類した上で、(b)の取り扱いに議論を集中する。というのも、(b)のタイプの知識(例えば、自分は壁に黄色のペンキを塗っているという知識)は、(c)とは違って、現に世界の内で生じている出来事(自分自身によって壁に黄色のペンキが塗られているという現実の出来事)についての知識であり、またそうした出来事は行為者の身体の外部で生じているがゆえに(a)のようなモデルによって説明することはできないという、独特の難しさを抱えているからである。われわれが(a)のような仕方で自分の身体内部の事柄を非観察的に知り得ることには何の疑問もないとしても、いかにして身体外部の世界に関わる事柄が非観察的な仕方で知られ得るというのか。実践的知識とはいかなるものであるかを改めて検討しつつ、どのようにしてわれわれは(b)のような知識を持ち得るのかを説得的な形で示そうとするのがモランの狙いである。こうしたモランの試みについては、二つの点が問題となると思う。
第一に、(b)のタイプの知識をめぐるモランのそもそもの問題設定の背景には、「自分の手足の位置についての非観察的知識をもたらすような知り方は、身体という境界線によって限界付けられており、その境界線の外までは及ばない」という見方がある。しかしこうした見方はきわめて問題含みである、と私は思う。この点を検討してみることで見えてくるのは、(a)のタイプの知識と(b)のタイプの知識との間の滑らかな連続性である。
第二に、実践的知識の本性についてのモランが(主としてヴェルマンに依拠して)与えている説明の大筋には私も同意するが、しかしその説明は必ずしも、(a)のタイプの知識を実践的知識から除外するものとはならないとも考える。そこでの説明においてモランが着目するのは、意図的行為の記述が持つ独特の内包的な性格であり、そうした記述を介して意図的行為とその理由とが取り結ぶ特有の関係である。だが、(a)タイプの仕方で知られるような身体的運動についても、やはりその記述はこれと類比的な内包的性格を帯びることになるし、意図的行為-記述-行為理由という三項の織り成す構造に類比的なものが身体的運動のレベルでも成立すると思われるのである。(少なくとも、アンスコムの用いる「記述」の概念は、そうした類比的な拡張を十分に許すものだと思われる。cf. Anscombe, "Under a Description" (1979).)それゆえ、モランがハーストハウスの主張を踏襲して(a)のタイプの知識を実践的知識から排除するのは、実践的知識に関する彼自身の見地からしても、十分に説得的とは言いがたいと思う。

(2-1)
われわれは自分の手足がどのような位置にあり、どのような動きをしているかを、独特の非観察的な仕方で知ることができる。ではそうした知り方はどこまで及ぶのか。われわれはそうした知り方によって、自分の身体の外の何事かを知り得るだろうか。
第一に、「身体」ということで、通常の皮膚によって画されるような生理学的(?)身体のこととして理解するならば、この非観察的な知り方がその外にまで及ぶことは明らかだと私は考える。例えば私が右足を失い、義足を装着して生活し始めるとしてみよう。そうした場合私は、以前に自分の右足の位置や動きについて知り得たのと多少とも類似した仕方で、自分の装着した義足の位置や動きを非観察的に知り得る(おそらくは時間が経つにつれてますます正確な仕方で)ようになるだろう。義足という身体外部の物体について、私は非観察的な知識を持ち得るのである。
しかしこれについては次のように言われるかもしれない。「そうした場合にあなたが義足の位置等についてそもそも知識を持ち得るのは、自分がその義足を装着していることをあらかじめ知覚的観察を通じて知っていたからこそではないのか? さもなければ、自分の装着した義足の位置を知っているつもりでいながらも、実際にはそれを装着していなかった(がゆえに、そうした知識など持ってはいなかった)、ということもあり得るのではないか?」
しかしこうした反論は決して、今のような「義足」ケースにまで非観察的知識という概念を拡張する妨げにはならないと思う。というのも、これと同様の反論は、通常の非観察的知識のケースについても当てはまるだろうからである。(五体満足であることに何の疑いも抱いていない)私が眠りから覚めて、自分の右足が布団の中でどのような位置にあるかを非観察的に知る(と自分では思っている)。しかし実は、誰かが夜中こっそりと見事な手際で――痛み一つ感じさせることなく――私の右足を切断していたとすればどうだろうか。とすれば、私は自分の足がどのような位置にあるかを非観察的に知るために、それに先だって、自分にはまだ足があることを知覚的観察によって確かめておかなければならないのではないか。しかしこれはまるで、自分が本当に頭痛を感じていることを知るには、自分にはまだ頭があるかどうかをあらかじめ確かめておかなければならない、というようなものではなかろうか。上のような反論が示しているのは結局のところ、「義足」ケースでの非観察的知識は、通常のケースでの非観察的知識と同様に決して不可謬でも訂正不可能でもない、ということだけである。
第二に、このようにして非観察的知識が身体(皮膚)という境界を容易に跨ぎ超えることがいったん理解されるならば、それが義肢のような「身体状」の部分のみならず、はるかに広範にわたる多種多様な対象にまで及び得ることもまた明らかだと思われる。真っ先に挙げられるのは恐らく各種の道具類――われわれにとっての拡張された身体とも言うべきもの――であろう。…

――ここでの趣旨はあくまでも、(a)タイプの知識と(b)タイプの知識との間には滑らかな連続性がある、あるいはいずれとも明確に分類しがたいボーダーライン的ケースがあるということであって、(b)タイプの知識をみな(a)タイプの知識に帰着させることができるということではない。例えば次のようなケースを考えてみよう。(この例はM・トンプソンからの借用である。)私は料理の材料の下拵えを済ませて鍋に放り込み、あとは煮込むだけである。面倒な作業は一段落し、今はソファーに腰掛けてゆっくりしている。この場合、私は同時に二つのことを意図的に行なっている。第一に、ソファーで寛いでおり、第二に、料理をしている(まだ煮込み途中で料理は終わっていないのだ)。こうしたケースで、自分は今料理をしているという非観察的な知識((b)タイプの知識)を(a)タイプの身体的な非観察的知識に帰着させることは困難だろう。何しろ、「料理している」と言えるような特徴的な動作を、今の段階の私は何一つ行なっていないのだから。しかし、自分はソファーで寛いでいるという非観察的知識については、また事情が大きく異なるはずである。

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2009年4月 4日 (土)

◆Hursthouse, Moran
・Rosalind Hursthouse, "Intention" (2000)
・Richard Moran, "Anscombe on ‘Practical Knowledge’" (2004)

ハーストハウス論文の最終節で取り上げられている「実践的知識」の問題で引っかかったまま、うだうだ考え中。
ハーストハウスとモランは共に、(1)アンスコムの挙げる「観察に基づかない知識、非観察的知識」の事例には基本的に性格を異にする多様な種類のものが含まれており、(2)とりわけ「自分の手足の位置・態勢等についての知識」(ここでは仮に「体勢感覚的知識」と呼ぶことにする)は非観察的知識ではあれ、いかなる意味でも実践的知識ではない、と主張する。こうして、本来の実践的知識と体勢感覚的知識が双方ともに非観察的知識と呼ばれるのは、言ってみればあくまで「同名異義的」な意味にすぎない、ということになる。しかしこうした見方はむしろ、実践的知識の概念を痩せ細らせ、行為者の輪郭を不分明にしてしまう(またさらには、アンスコムが倫理学のやり直しを行為論の刷新から始めたことの意味を見失わせてしまう)ことにはならないだろうか。

ハーストハウスは非観察的知識を体勢感覚的知識と「自分の意図的行為についての知識」の二種に分け、モランは後者をさらに「現に自分が行っている行為についての知識」と「自分が未来に行おうと意図している行為についての実践的予知」とに分類するが、いずれにせよ、体勢感覚的知識は実践的知識ではなく通常の「思弁的」知識の例にすぎないと見なされる。実践的知識と思弁的知識とを明確に分かつのは「適合方向」の違いである。すなわち、思弁的知識は、その対象の側のあり方に合致しなければならないが、これに対して実践的知識においては、その対象の側のあり方が実践的知識に適合しなければならない。そして、自分の意図的行為についての知識が実践的知識に相応しい適合方向を持つ(実際に為される行為の方がその知識に合致しなければならない)のに対して、体勢感覚的知識に相応しいのは「対象から知識へ」という思弁的知識の適合方向だということは明白である。

Whatever is non-observational in the awareness of one's bodily position must on Anscombe's own account have a thoroughly different basis from, for instance, the practical foreknowledge of one's immediate plans, for the basic reason that such bodily awareness, however immediate or independent of particular sensation, remains an instance of speculative knowledge. What is known here is still "derived from object known," and the "direction of fit"is still that of fitting the judgment to the independent facts. Even if immediate, and not grounded in observational evidence, the claim that one's knee is bent is still something corrected by the fact of one's straightened leg. Hence the immediate knowledge of one's bodily position cannot be an example of what Anscombe means by "practical knowledge," despite the intimate relation of such awareness to ordinary physical action, and despite the fact that both may be said to have a basis that is in some sense "non-observational." (Moran, p. 48)

しかし実のところ、体勢感覚的知識の適合方向が思弁的知識の適合方向だということは、それほど自明なのだろうか。たしかに、(a)私がしかじかの行為を行おうと意図し、また当然そうした意図を自覚的に知っているにもかかわらず、当の行為が首尾よく行われなかったとすれば、その際の誤りは知識ではなく行為の側にある。またこれとは対照的に、(b)私が目を閉じたまま、誰かが私の手足に力を加えて複雑に動かしているという状況の中で、私が自分の手足の状態を体勢感覚的に知ろうとすれば、その際の知識は私の手足の実際のあり方に合致していなければならない(さもなければ、私はそもそも知識を持ってはいなかったことになる)。しかしそうした特殊な状況は別として、ごく日常的な場面で私が自分の身体について普通に体勢感覚的に認識している中で、それによって私が持つ“知識”が、私の身体の実際のあり方とは大きく懸け離れ始める(問題の種類の知識に許される可謬性の範囲をはるかに超える程度に)としたらどうか。こうした場合、(a)のケースにおいて「行為の側の誤り」が語られるのと多少とも似た意味で、むしろ「身体の側の不調、誤り、異常」(極端な場合には、行為者としての資格をも左右しかねないような)について語るべきではないのだろうか。

ハーストハウスもモランも口を揃えて指摘するように、行為が私が意図的に行う正にその行為であるためには、当の行為について私の持つ実践的知識に合致しなければならない。この特殊な意味で、実践的知識は行為をもたらす“原因”なのであり、世界の中で生ずるしかじかの出来事に一つの行為としての「かたち」を与えることになる。これによって彼らが言わんとしているのは、知識がその対象をもたらすというこうしたconstitutiveな関係が、体勢感覚的な非観察的知識(と、その対象である身体)のケースには全く欠けているのだ、ということである。

It is important to note that it is its non-speculative which makes the agent's knowledge [of his own intentional action] non-observational. It is not non-observational in virtue of how it feels to the agent ---- that I know "straight off" or "directly" or "have a special awareness of" what I am doing, in a way (perhaps) similar to the way in which I know the position of my limbs. Maybe the knowledge does feel the same, but it wouldn't matter if it doesn't. For my knowledge of, e.g., the position of my limbs is still speculative, i.e., derived from (determined as knowledge by) the position of my limbs and hence the fact that it is non-observational is incidental. It might not have been. But practical knowledge, not being derived from the object known, could not possibly be observational. (Hursthouse, p. 103)
しかしこうした主張には反して、意図的行為についての実践的知識に関して言われるのと似た意味で、ある一個の身体が正に私の身体であるためには、やはり、その身体は、少なくとも私が非観察的・体勢感覚的に知り得るようなものでなければならないし、そのあり方も、当の身体について私の持つ非観察的な知識と(しかるべき正確さで)符合していなければならないのではなかろうか。私がそれについていかなる知識(観察的であれ非観察的であれ)も持たない身体が誰か他人の身体であっても何の不思議もないのとは対照的に、私の非観察的知識が全く及ばないような身体が、そもそもいかにして私の身体であり得るだろうか(――とはいえ、私の身体であるために、私はそれについてどの程度の非観察的知識を持たなければならないのか?)。とすると、私の持つ体勢感覚的知識もまた、世界の内にあるしかじかの事物に私の身体としての「かたち」を付与し、そうすることによって私の身体をもたらすのではないか。

――といったような事柄が引っかかって、ハーストハウスやモランとは違った形でアンスコムの洞察を汲み取ることはできないもんだろうかとモヤモヤ考えつつも、もう少し文献を見ないことには現状では単なる電波垂れ流しなので、以下自粛。

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2009年4月 1日 (水)

◆Hursthouse
・Rosalind Hursthouse, "Arational Actions" (1991)
・Rosalind Hursthouse, "Intention" (2000)

"Arational Actions"で論じられるのは、強い感情に囚われたが故に、意図的に、しかし理由もなしに(「理由」ということで、当の行為をしかるべく合理化するような信念-欲求のペアを考えるのだとすれば)行われるような行為の取り扱い。(例えば、車のエンジンがなかなか掛からないのにむかっ腹を立ててハンドルを殴りつける、といったような。)これに対して、"intention"の方はアンスコムの『インテンション』のための丁寧な道案内と言うべき論文。

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2009年3月30日 (月)

◆Peacocke, Anscombe
・Christopher Peacocke, "Intention and Akrasia" (1985)
・G. E. M. Anscombe, "Thought and Action in Aristotle: What is ‘Practical Truth’?" (1965)

実践的推論と意図との関係をめぐって、いずれも非常に興味深い内容が盛り込まれた二論文で、先週からぐるぐる何度も読み返しているものの、さすがにもういいか。無理やりに一つの教訓を引き出すとすれば、デイヴィドソンが「実践的推論」と呼んでいるものは実はちっとも実践的ではないんではないか、というような話にもなりそうではあるけれども、アンスコムによれば、その点ではアリストテレスの立場もかなり問題含みである(アリストテレスは実践的推論を理論的推論に同化することで、結論(=行為)へと心を動かすことを、論証的な必然性の力によって説明しようとしたがゆえに、意図の概念を適切に捉え損なってしまった)のだ、と。

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2009年3月25日 (水)

◆Bratman, Grice&Baker, Peacocke
・Michael Bratman, "Davidson's Theory of Intention," in Bruce Vermazen & Merrill B. Hintikka (eds.), Essays on Davidson: Actions and Events, (OUP, 1985)
・Paul Grice & Judith Bennett, "Davidson on ‘Weakness of the Will’," ibid.
・Christopher Peacocke, "Intention and Akrasia," ibid.

「意図すること」という論文はデイヴィドソンについて考える上でたいへん重要な意味を持っているのだなあ、というような初歩的なところから勉強し直し中。
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ブラットマンによれば、意図(未来の行為に関する事前の意図)についてのデイヴィドソンの説明は――典型的にはビュリダンのロバ状況におけるようなジレンマの扱いにおいて――大きな困難を抱えているが、これはそもそも、実践的推論において意図が果たす役割についてデイヴィドソンが非常に貧しい見方しか持ち合わせていないことに起因している。すなわち、意図が担うべき重要な役割は、単に実践的推論から得られる結論であるのみならず、(信念や欲求と並んで)それ自体が前提として実践的推論の内に組み込まれ、それによってまた包括的なプラン――様々な活動を協調させ一つに統合可能とするような――の形成に寄与することにあるが、デイヴィドソンの視点からはこの重要な役割がすっぽり抜け落ちているのである、と。
こうした批判が正しいかどうかはともかくとしても(デイヴィドソン自身はこれに異議を唱え、意図についての自らの説明は決して、ブラットマンの言うようなプラン形成への役割を排除するものではないと主張する:D. Davidson, "Replies to Essays I-IX," p. 200)、デイヴィドソンの意図論がそうした困難に陥った原因についてブラットマンが与えている診断はやや興味深い。

This is an attenuated conception of the role of intention in practical thinking. It receives support from Davidson's strategy of extention: the attempt to extend the materials present in his account of intentional action to an account of future intention. In intentional action, there is no temporal interval between all-out evaluation and action. So there is no room for further practical reasoning in which that all-out evaluation can play a significant role as an input. When we extend the notion of an all-out evaluation to the future-directed case, it will then be easy to overlook the possibility that future intentions will, at least typically, play such a role. ("Davidson's Theory of Intention," pp. 24-25)
しかしながら、もしこうしたブラットマンの診断が、(大まかに言えば)「それ自体として本来的には個々バラバラであるような諸々の行為が、事前のプラニングを通じて初めて相互に調整可能となる」といったような形でイメージ化されるような行為観に支えられたものだとすれば、これは行為の実際のあり方には全くそぐわないと思われるし、その点でブラットマンはむしろ意図的行為と意図との間の違いを過度に強調しているようにも見える。というのも、意図がそれ自体として実践的推論の前提として寄与する(「私は~しようとしているのだから…」)のと同様に、意図的行為もまた同様の役割を果たすことができるし、また実際――多少とも長期的なスパンに渡る場面では――現にそうした役割を果たしていると思われるからである(「私は今~している/~したのだから…」)。もちろん、行為の最中におけるそうした熟慮はどれも――これから何をなすべきかという選択に関わっている以上――事前の意図形成という問題圏に取り込むことができるのだと言うこともできるだろうが(実際ブラットマンは、「行為から抽象された意図」についてのデイヴィドソンの説明を、もっぱら「未来に関する意図」についての説明として受け止めている)、そうした見方はむしろ、意図的行為の内実を実際以上に貧しいものに見せることにしかならないように思われるし、またそうした見方自体が行為についてのきわめて貧しい捉え方に立つものであるようにも思われる。(さらに言えば、諸行為の協調やプラニングの原初的な形はむしろ、多少とも長期的・包括的な一個の行為を成功裡にやりおおせることそれ自体に内在しているとさえ考えられる。)

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2009年3月18日 (水)

◆Lovibond, EF
前にちょこっとだけ読んであったのを思い出してその続き。第2部まで終えるも、ジャーゴンや仄めかしを満載した優等生的なスタイルの前に、すでに挫折気味。

三部からなる本書の中で、第1部では倫理学に関するロヴィボンド自身の基本的な立場("the practical reason view"と呼ばれている)が――かなり圧縮された形で――述べられている。大まかに言えばそれは、ウィギンズ-マクダウェルの導きのもとで古代的な徳倫理学の洞察に立ち戻りつつも、(いかにして人は徳ある者となりうるかに関する)目的論的な形而上学――「人間本性」の目的論――は斥けて、その点ではむしろウィトゲンシュタイン的なキエティズムの精神を貫こう、といったものであるように見える。

The "nothing-is-hidden," antipsychologistic tendency of our updated conception of practical reason also promotes a different understanding of the teleological theme in virtue ethics. Instead of assuming the telos of formation, or upbringing, to be determined by a timelessly fixed human nature, it leads us to recognize as part of the distinctive "natural history" of our species the fact that, as humans, we possess a "second" nature as well as a "first," and hence (at the risk of paradox --- but this particular nettle is one we must go ahead and grasp) that it is natural to us to participate in a history that is more than merely natural. With this dual nature in view, we can acknowledge that the work of formation is governed by social teleology in which one generation sets itself the goal of initiating the nextinto a common repository of wisdom about "what is a reason for what." And the point of view from which that goal is visible can now be recognized, in turn, as a construct of upbringing --- which means that it is no more of a "natural" given than is the already determinate "second nature" of the parents and teachers who direct us toward it. No more, and no less: but the first of these thoughts is the one that brings out the contrast between ancient and modern. For by historicizing our conception of practical wisdom, it prepares us for a return to the characteristically modern idea of morality as a zone of contention. (p. 63)

続く第2部では、こうした「社会的目的論」の内実を、オースティンの言語行為論に示唆を受けたコミュニケーション的倫理(?)――なぜわれわれは真面目seriousな発話者(自らの発話を自らのものとしてauthorizeできるような発話の真のauthor)でなければならないのか――をベースとして捉えようとするアイディアが展開される。こうしたアイディアは、例えばゲーム理論的なアプローチを導入するなどしてより綿密に組み立てなおすことも可能であるかもしれないが、とするとむしろ、キエティズムということでロヴィボンドがどのようなことで言わんとしているのかがやや疑問にも思えてくる。ダイアモンドからの批判に対するロヴィボンドの応答(第2章)がごく表面的なものにとどまっているのも、こうした問題と無関係ではないようにも見えるが、この点はまだよく分からない。

そうした点はともかくとして、個人的には、同じく"authorship"――道徳的判断のauthorであること――の概念に訴えることでアクラシア問題をときほぐそうとする第5章での議論が興味深かった。そこでのロヴィボンドの狙いは、「道徳的判断(信念)と行為との間には内在的で阻却不可能な結び付きがある」というソクラテス的テーゼを擁護することであり、こうした見地から、そうすべきではないと分かって(信じて)いながらも悪事をはたらいてしまうといったアクラシア現象にどう対処するかが問われることになる。そして、この問題に対するロヴィボンドの解決策は、簡単に言えば、道徳的信念のauthorとなること(道徳的信念を真に自らのものとすること)に関する発達段階に目を向けることで、言ってみれば信念の側に圧力をかける、というものである。徳ある者は道徳的判断を真に自らのものとしているがゆえにアクラシアを免れている。それに対して徳への途上にある者がアクラシアに見舞われるのは、道徳的信念へのauthorshipをいまだ確立していないためである。

... if someone fails to act on one of their supposed moral beliefs --- as in acrasia --- then that belief could not strictly speaking, or at the relevant moment, have been "one of theirs." (p. 94)
As a paradigm of really holding the belief, it offers us the "virtuous person," the complete embodiment of the (local) rationalist character ideal; imperfectly virtuous people only approximate, in varying degree, toward this paradigm. (p. 95)
ただし、ロヴィボンド自身の関心は、ポスト構造主義的な懐疑――「作者(author)の死」――に対する応答へとただちに向かってしまうので、こうした解決策が説得的な形で肉付けされているわけではない。(結局のところ、道徳的信念を自らのものとするというのはどのようなことか。あるいは逆に、われわれ――多少とも徳なき者――はどのような意味で道徳的信念を「持ち」うるのか。それともわれわれはそもそも道徳的信念など持っておらず、それは他の誰かの信念にすぎないのか。とすれば、そうした信念に動機付けられてわれわれが行為する場合、われわれはその「他の誰か」の意のままに、非意図的に行為しているというべきなのか。/あるいはまた、こうしたロヴィボンドのアプローチにおいて、道徳的信念と道徳的知識との間のギャップ、あるいは単なる信念と真なる信念との間のギャップは、どのような役割を果たすことになるのか。)しかし少なくともこうした問題にはじめて関心を持てるようになったという点では得るところがあったかな、と。

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2009年3月13日 (金)

◆Dennett, Bennett & Hacker
・Daniel Dennett, "Philosophy as Naive Anthropology: Comment on Bennett and Hacker" (2005) [pdf]
・M. R. Bennett & P. M. S. Hacker, "Reply to Professor Dennett and Professor Searle" [pdf]

ハッカーらによるNeuroscience and Philosophy: Brain, Mind, and Language (2007)に所収論文のドラフトが公開されているので、一先ずそれらを見ておくことに。しかし正直な感想としては、どうもちょっとイマイチな感じなのである。
これによると、Philosophical Foundations of Neuroscienceという本でのベネット&ハッカーの認知科学批判のポイントというのは、(大まかに言うと)「本来は全体としての人に帰属すべきもの――思考、知覚、記憶、感覚、…――をその一部分(とりわけ脳)に帰す」という“メレオロジカルな誤謬”の問題に集約されるとのことで、そうした誤謬から生じる混乱を解消して、「人に帰すべきものは人に」というアリストテレス-ウィトゲンシュタイン的見地を再確認しよう、というような話であるらしい。そうした論点自体は分からないこともないし、そうした批判が適切に当てはまるような部分もないわけではないのだろうけれども、今日の認知科学研究への全体的な診断ということでは、デネットも言うように、1960年代のオックスフォードで盛んに言われていたような事柄をこの時代にそっくりそのまま繰り返すことが果たして本質的な"clarification"になり得るんだろうかなあ、という気がしてならない。(メレオロジカルな誤謬をあえて犯すこと――例えばデネット自身のhomunculi functionalismがそうであるように――も時にはむしろ生産的な研究プログラムを進展させる契機となり得るのだから寛容に見るべきだ、というデネットの見方に与するかどうかは別にしても。)そういうことからすると、「哲学は科学とは違うのだから、進歩しなくていーのだ」というウィトゲンシュタイン的なメタ哲学というのはまるで、ウィトゲンシュタイニアンにかけられた呪縛のようにも思えてくる。

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2009年3月10日 (火)

◆Conant & Diamond, Hacker
・James Conant & Cora Diamond, "On Reading the Tractatus Resolutely: Reply to Meredith Williams and Peter Sullivan," in Max Kölbel and Bernhard Weiss (eds.), The Lasting Significance of Wittgenstein's Philosophy, (Routledge, 2004)
・P. M. S. Hacker, "Was He Trying to Whistle it?," in A. Crary & R. Read (eds.), The New Wittgenstein (Routledge, 2000)
・P. M. S. Hacker, "Wittgenstein, Carnap and the New American Wittgensteinians," Philosophical Quarterly 53 (2003)

ポレミックなの三本立て。まあ哲学的な論争というのは概して、表面的に派手であればあるほど、その内容はあんまり面白味のないものではありますが。
あくまで個人的な印象というか予想としては、どちらかというとコナントらの"resolute reading"寄りの方向で「大きな論争」はほぼ収束に向かって(あとはテキスト細部の解釈をめぐる実質的な議論に引き継がれて)ゆくことになるのではないかという気が(少なくとも今のところは)しているのですが、どうでしょう。もっともその根拠というのは、自分のごく乏しいウィトゲンシュタイン体験を通じての感触からする限り、やはりコナントやダイアモンドの読みの方がはるかにしっくりくる、といった程度のきわめてアヤフヤなものにすぎないですが。いずれにせよ、コナント&ダイアモンド論文の最後の節で取り上げられている、いわゆる前期・後期のウィトゲンシュタインの連続性/非連続性に関する彼らの議論を見ることで、そうした印象はますます強くなる。

The fundamental continuity in question lies in Wittgenstein's seeking, early and late, to find a way to do philosophy that does not consist in putting forward philosophical theses, and yet which (through the practice of methods of clarification that he, early and late, sought in his writing to exemplify) would genuinely enable his reader to pass from a state of philosophical perplexity to a state of complete clarity in which the philosophical problems completely disappear. The fundamental discontinuity in question lies in his later thinking that there was an entire metaphysics of language embodied in his earlier method of clarification, thereby illustrating that the most crucial moments in the philosophical conjuring trick are the ones that are apt to strike one as most innocent; so that it turns out to be much more difficult to avoid laying down requirements in philosophy than his earlier self had imagined. Hence it turns out that an entirely different approach to philosophical problems from that practiced in the early work was required and had to be developed in the later work. (Conant & Diamond, "On Reading the Tractatus Resolutely," p. 84)
It is interesting in this connection to note how many of the doctrines of the sort that standard readers ascribe to the Tractatus and that the resolute readers are committed to rejecting ---- such as "the doctrine of showing", the commitment to the existence of ineffable truths, and various optional subsidiary doctrines (such as realism, mentalism, solipsism, etc.) and optional subsidiary commitments (such as a distinction between grasping and "grasping", saying and "conveying", etc.) ---- never figure in any of the passages in Wittgenstein's later writing where he is explicitly concerned to criticize something he identifies as a questionable philosophical commitment actually held by the author of the Tractatus. What figure in such passages instead are the sort of metaphysical commitments […] that later Wittgenstein came to think do indeed presuppose a theory but that early Wittgenstein was able to think merely fell out of the activity of clarification itself. He thought that they could be exhibited through the practice of that activity, and were not commitments to any substantive theory. (ibid, pp. 85-86)

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2009年3月 6日 (金)

◆Conant, Donatelli
・James Conant, "What 'Ethics' in the Tractatus is Not," in D. Z. Phillips & Mario von der Ruhr (eds.), Religion and Wittgenstein’s Legacy (Ashgate, 2005)
・Piergiorgio Donatelli, "The Problem of 'The Higher' in Wittgenstein's Tractatus," ibid.

たんへん刺激的な二論文。
特にコナントの論文は、自身のとる"resolute"な『論考』解釈の大枠的プログラムを、目の覚めるような鮮やかな筆致で描き出したものだが、とりわけ『論考』において「意味の理論」――有意味な命題が一般に満たすべき基準を与えるような理論――の演じる役割について多くを教えられる。コナントによれば、『論考』の「意味の理論」がこの著作全体の意図する哲学的elucidationに寄与するのは、「意味の限界」を画定してナンセンスを排除するという仕方によってではなく(というのも、ナンセンスがナンセンスであることに気付くためには、われわれがすでに有している日常的な言語使用能力の行使で十分であり、有意味性の一般理論などというものは不要なのだから)、むしろ、最終的に乗り越えられるべき「意味の錯覚」――意味の限界が画定可能だという幻想を含めて――をあらかじめ読者の内に積極的に掻き立てることによって、である。そして、『論考』についての実証主義的解釈(『論考』の倫理についての情動主義的な理解を含めて)と、(語り得ないineffableな真理の存在をあくまで主張する)神秘主義的解釈は、elucidationへと向けられた『論考』のこうした基本的な構造を完全に読み違えるところから生じたジレンマの二つの角にすぎない、云々。

コナントが言及しているハッカーのインタビューというのはこちらで公開されているようですが、見ると何やら不吉な点々があちらこちらに、ってドイツ語ですか・・・。(ひさしぶりにウムラウトとか目にしたら、ちょっと軽い頭痛が。。。)
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コナント論文が、『論考』全体を支える方法論の見直しを通じて『論考』における倫理の独特なあり方(端的に言えばそれは「どこにでもありどこにもない」、――というのも、命題を倫理的な命題たらしめるのは、「価値」や「善」等の倫理的な語彙が含まれるか否かといった内的な特徴ではなく、その使用の仕方なのだから)を探ろうと試みているのに対して、ドナテッロの論文は(『論考』解釈としては基本的に同様の視座に立ちながら)、ムーアからヘアへの倫理学の流れを補助線に据えて、特にダイアモンドの立場について検討を加えたもの。
ドナテッロがダイアモンドの倫理学的スタンスについて指摘するのは、「超越論的なものとしての倫理」(倫理は世界の内にはないがゆえに、ナンセンスを語る者の視点を通じて理解される以外にはない、――この意味で倫理的“概念”は不可能である)という主張と、「倫理の偏在性」(倫理は世界あるいは生を満たしている)という主張との緊張関係で、こうした診断はそれとして分かるのだけれど、それにもかかわらずダイアモンドがそうした立場を引き受けようとする根底には何があるのだろうか、というとやはりよく分からない。

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2009年3月 2日 (月)

◆Conant
・James Conant, "Throwing Away the Top of the Ladder," The Yale Review, Vol. 79, No. 3 (1991)
・James Conant, "Must We Show What We Cannot Say?," in R. Fleming and M. Payne (eds.), The Senses of Stanley Cavell, (Bucknell University Press, 1989)

コナントさんのホームページで公開されているものをざっと。
二番目のものはキルケゴール風というか、相当ヘンテコなスタイルではあるけれど(というのも何しろこれは、本来書くはずであった論文がいかにして流産したかという次第を述べた「死亡記事」だというのだから)、言わんとする所はよく分かる。(もっとも、「お前のような人間に分かってもらっても仕方がないから困っているのだ」というのがこの論文のヘンテコさの根にはあるのだけど。)

ナンセンスについての"austere view"をウィトゲンシュタイン解釈の基盤に据え、『論考』(およびそれ以降の著作)におけるキエティズム的姿勢の一貫性を強調する点では足並みを揃えながらも、ダイアモンド(とりわけ"Ethics, Imagination and the Method of Wittgenstein's Tractatus"での)が『論考』における倫理をめぐる諸言明を、「総体としての世界あるいは生に対する超越論的態度」に関わるものとして――言わばカント的な視角から――捉えようとするのに対して、コナントはむしろ『論理』における倫理――『論考』という著作に賭けられた倫理的姿勢――を、読者との間のキルケゴール的な関係性(間接的伝達のパラドックス)を軸として読み解こうとする。自分としてはダイアモンドのロマン派的(?)な解釈よりもコナントの読みの方がはるかにしっくりくるし、しかもまたそうした読みをThe Realistic Spiritの著者(少なくともそこに収められた幾つかの論文の著者)に帰すこともそれほど不自然ではないと思われるにもかかわらず、ダイアモンド自身はそれには飽き足らないものを感じているとすれば、それは果たして何なのか。

ちょっと引用:

The Kantian reading of Wittgenstein that proposes that he wishes to draw "limits" to what we can say ---- both in order to demarcate what we cannot say and in order to make room for the Tractatus's analogue of faith ---- seems to me to offer as misguided an angle of entry into the early Wittgenstein as it does into his later work. On the reading I would like to propose, one of the primary targets of the Tractatus is Schopenhauer's Kantian picture of "the limits of the world" with its corollary picture of a noumenal realm beyond those limits. From this vantage point, the echoing of Kantian themes in the work is in part a function of the intentionally anti-Kantian strain of its teaching. ("Must We Show What We Cannot Say?," p. 277, n. 24)
(ただしこうした指摘がダイアモンドのカント的解釈にそのまま当てはまるわけではない。)

ちなみに、キルケゴールか/カントか、という問題との関連では、コナントがヘンリー・アリソンのキルケゴール研究を――キャベルのキルケゴール論と並べて――高く評価しているというのは、ちょっと興味深い。

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2009年2月27日 (金)

◆Diamond
・Cora Diamond, "Ethics, Imagination and the Method of Wittgenstein's Tractatus" (1991); reprinted in Alice Crary & Rupert Read (eds.), The New Wittgenstein, (Routledge, 2000)

これはダイアモンドのウィトゲンシュタイン解釈を色んな意味で集約した非常に重要な論文ではないかと思う。が、まだうまく消化できない部分が少なからずある。難しい。
まだもうちょっと考え中。
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改めて読み直してみて思うに、これはまるで、ミイラ取りならぬウィトゲンシュタイン読みがウィトゲンシュタインになったとでも言いたくなるような、ショッキングなほど風変わりで異様な論文である。(たぶんキャベルとでも比較すべきなのだろうけど、キャベルのことはよく知らない。)しかも、The Realistic Spiritでのダイアモンド自身の哲学的スタンスと照らし合わせてみても、その異様さはむしろ増すばかりである。論文末尾では、グリム童話の「ルンペルシュティルツヒェン」を朗読するウィトゲンシュタインの姿を回想しつつ「自分には彼のヴィジョンを分かち合うことはできなかった」と述懐するファニア・パスカルの言葉が引かれているけれども、恐らくこの論文でのダイアモンドには、今の自分には全く見えないものがまざまざと見えている、とでも考えるしかないような気がする。

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2009年2月24日 (火)

◆Lovibond, EF
・Sabina Lovibond, Ethical Formation (HUP, 2002)

まだ入り口付近。
索引を見ると「アドルノ」「バルト」「ベンヤミン」「ドゥルーズ」「デリダ」「フーコー」「ラカン」「リオタール」…といった名前が並んでいて、賑やかそうな雰囲気ではありますが、どうなんでしょうか。
基本的な狙いとしては、現代の自然主義的な認知主義の枠内で徳倫理を再定式化しようという試み(自然本性の実現というテロスに繋ぎとめられた古代的な目的論とは手を切って、むしろ社会的な文脈における倫理的形成へと目を向けようとする試み)と、ポストモダンな大陸哲学との間の対話を通じて収束点を探ってみましょう、ということらしい。

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2009年2月21日 (土)

◆Diamond, RS
巻頭に戻って、イントロダクション(というのが二つある)と"Realism and Realistic Spirit"(1986)。
これは素晴らしい本だなあという思いには変わりはないけれども、それと同時に、自分にとって非常に魅力的あるいは説得的と感じる部分と、どうも何か違和感や抵抗感を覚える部分と、その二つの間の色分けもだんだん目についてくる。しかし、そうした問題をもう少し丁寧に見極めるには、この本にまとめられたもの以降の論考を辿ってみなければいけない様子でもある。

一つにはカントの影をめぐって(cf. p. 22: "There is indeed a sense in which Kant provides this collection of essays with its unity")。――論理をめぐるウィトゲンシュタインの考察の中で(複数の)カント的テーマがどのように変奏され、修正を加えられていくかについては、二番目のイントロダクション(p. 29ff.)で手短に述べられているのに対して、倫理との関連でダイヤモンドが口を濁しているのには何かひどく不透明なものがつきまとっているような。

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2009年2月17日 (火)

◆Diamond, RS
えっちらおっちら巻末まで。
終盤には倫理学関連の論文が収められている。倫理学方面に関しては特に予想を大きく超えるような主張がなされているわけではないけれども、それでもこれは素晴らしい本だと思う。しかしそのどこがどのように素晴らしいかをきちんと伝える才能は自分には欠けている、とも思う。

これらの諸論文を貫いているのは、倫理的な思考についてのお決まりの窮屈で干乾びた考え方をどのようにしてもっと生気に満ちたものへと変えてゆくかという関心であり、またそうした中で特に文学作品が、あるいは文学作品を読むことが持つ意義とはどのようなものかが――ヌスバウムの仕事への深い共感に立ちつつ――論じられることにもなるけれども、こうした議論を順に辿ってゆくと、これらが、やはり「読むこと」――『論考』を読むこと、またその不可欠な一部としての「梯子を投げ捨てる」こと――の意味への異常なほどの執着に支えられたダイヤモンド独特の『論考』解釈と見事に連動しているのが良く見えてくる(し、その意味では、ここでダイアモンドが探ろうとしているのは、梯子が投げ捨てられてしまった後で倫理的思考のとりうる形だとも言える)。しかしその一方で、こうした倫理学とウィトゲンシュタインとの幸福な結婚の中で、『論考』の倫理というのは一体どういった位置付けを与えられることになるのか、というのがまだ相変わらずよく分からない。

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2009年2月13日 (金)

◆Diamond, RS
・Cora Diamond, The Realistic Spirit: Wittgenstein, Philosophy, and the Mind (MIT Press, 1991)

フレーゲ解釈に関する前半の諸論文はとばして途中から。
"Throwing Away the Ladder: How to Read the Tractatus"(1988)と"Wright's Wittgenstein"(1981)と"Secondary Sense"(1966-67)。
最初のは『論考』解釈で有名なもので、二番目はライトのWittgenstein on the Foundation of Mathematicsの辛口書評。それぞれに面白さ抜群ではあるけれども、当面で一番引っかかってくるのは最後のもの。しかしこれだけではまだダイアモンドの倫理学の輪郭線か、その下図くらいしか分からないのだった。のヮの

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2009年2月 6日 (金)

◆Diamond
・Cora Diamond, "Riddles and Anselm's Riddle" (1977)
・Cora Diamond, "Wittgenstein, Mathematics, and Ethics: Reisisting the Attraction of Realism" (1996)

後者で俎上に載せられるのはSabina Lovibond, Realism and Imagination in Ethicsの打ち出す実在論的なウィトゲンシュタイン解釈(「言語ゲームはどこまでも同質的だから事実/価値の二分法は成り立たないよ」的な話らしい)。

そういえばこの前本屋でブラブラしていて気がついたけれども、ダイアモンドの仕事をフォローしたものとしては、山内志朗『〈つまずき〉のなかの哲学』(NHKブックス、2007)とか、ジャック・ブーヴレス『言うことと、なにも言わないこと―非論理性・不可能性・ナンセンス』(国文社、2000)といったのがあるわけですねえ。
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"Wittgenstein, Mathematics, and Ethics"(in H. Sluga & D. G. Stern (eds.), The Cambridge Companion to Wittgenstein)から引用:

The presence of moral thought (I have been arguing) may be reflected in language, not in the use of moral predicate, tied to our interest in moral properties, but in some of the ways we use language about all sorts of not specifically moral things, like death in war, for example, or pulling horses out of deep snow. The idea that moral discourse is tied to moral predicates shows, I think, a false conception of what it is for our thought to be about something moral. Being about good and evil is a matter of use, not subject matter. (p. 245)
Wittgenstein asks what it would be like if people did arithmetic, but did not teach it in the form of little sentences (RFM, p. 93). We should ask similar questions about ethics. We do use little sentences with moral words in moral teaching, and big and little sentences with moral words in our moral thought; but the existence of these indicative sentences has had too great a fascination for us in moral philosophy. If we want to see what moral thinking is, we need to be able to look away from the case of "moral propositions," and to free ourselves from the idea that goes easily with exclusive focus on that case, of sentences as about moral subject matter through the presence in them of moral words. (p. 252)
The Tractatus approach to ethics differs greatly from that of philosophical ethics: its starting point is the idea that "ethics" is not a term for a subject matter alongside other subjects, any more than "logic" is. […] Ethics comes from our having a world and a will; and the sign that is, in a sense, "for" one's having a world, namely the general form of proposition, of thought, can be taken to be sign "for" the ethical. This brings out that ethics, like logic, is not a sphere in which we mean some kind of fact by using signs with this or that specific meaning. (p. 252)
多様な言語的実践(例えば物語やことわざの使用)との複雑な絡み合いに目を凝らしながら倫理的なもの位置付け(ダイアモンドによればいかなる文、いかなる語彙も倫理的目的のために使用され得るのだから、倫理的なもの位置付けは本質的にきわめて不定形にならざるをえない)を探っていこうとする独特の視点と、またそうした視点に立つ『論考』解釈は非常に面白いなあと感嘆しつつも、その一方では、ウィトゲンシュタイン解釈の枠を越えて考えたときには「じゃあどうなるの?」という点で、何だかまるで狐につままれたかのような気分も残るのだった。――そもそも、倫理的なものの輪郭が論理や数学の場合と類比的な手続きを介して捉えられなければならない――「倫理に関する『論考』の洞察」(p. 253)――というのはなぜなのか、要するに倫理はなぜ「超越論的」と見なされなければならないのか、という点からして。しかしこれは、最近のウィトゲンシュタイン解釈にさっぱり通じていない人間にとっては、たいへん刺激的な内容でした。

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◆Sehon, TR
ひとまず読了(ということにしておこう)。
内容に関しては不満の残る部分も多々あったものの、スタンダードなタイプのcausalismへの未練があんまりなくなったの(と、Holistic Explanationでのピーコックの議論はやっぱりよく分からんらしいというの)が収穫ということになるのかなあ。

ショーン自身もデネットのスタンス論からの直接的な影響を認めているように(p. 235)、彼の言う「目的論的実在論 teleological realism」という立場は、志向的スタンスに関わる解釈実践を目的論的な枠組みの中にそっくり取り込もうとするものだが、果たしてこの本での試みが真に"realism"の名に値するような立場を擁護する(道具主義的な傾斜を食い止める)ことに成功しているかという点では、全体を通じてかなり疑問を覚える(*)。もう少し当面の自分の関心に近い点に関して言えば、(1)動機付け理由に関するヒューム主義的立場を――それが倫理的懐疑主義へと至る危険性を顧慮しつつ――表立って批判しながらも(第11章)、その一方でショーン自身の解釈主義的枠組みは大筋ではヒューム的な「信念-欲求」心理学に立つものとなっている(第9章)、というようなチグハグな態度が見られること、そしてまた(2)そうしたチグハグさは同時にまた、総じて「目的論的なもの」に関するショーンの見方の傾向とも大きく連動しているらしいこと、――これらの点には特に引っ掛かりを感じる。

ショーンによれば、人間の行為について与えられるような真正の目的論的説明とは違って、例えば「クモは餌を捕らえるために巣をはる」といった一見したところの目的論的説明は単なるメタファーであり、heuristicな意義を持つにすぎない。つまりそこには真の目的論はない。こうした見方を支える根拠として、ショーンは「価値(づけ)の体系性」という論点に訴える(p. 163)。すなわち、行為に目的論的な方向付けを与えるのは行為者にとって目標となり得る価値あるものの存在であるが、真正の行為者にとって価値は本質的に、多少とも複雑な体系的構造を持つものでなければならない。そしてこれは結局のところ(ショーン自身はこうした言い方を好まないだろうが)、クモのような動物の行動には、信念や欲求といった心的状態の帰属を不可避とするような複雑さが欠けているという論点と等価である。(真正の行為者は、多少とも複雑な体系的構造を備えた欲求を持っていなければならない。)このように、ショーンの解釈主義は一方で「心的状態なくして目的論なし」とでも言うべき立場にコミットしているように見える。
その一方でショーンは、動機付け理由に関してマイケル・スミスが擁護するようなヒューム主義をめぐる議論の文脈では、価値を主体の欲求に帰着させようとする考え方を斥け、むしろ価値の実在性・客観性を主張する実在論の方向性に希望を託している。しかしそうした価値の実在論は、目的論の実在性に関してショーンが解釈主義的視点から課すような制約を、むしろ突き崩すことにはならないのだろうか。(というのも、なぜクモにとっても、餌を捕らえることや食料を得ることの価値が存在してはならないのか。)
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(*)実際、ショーンが結論部分で吐露するのは次のような言葉である。

But why are the fundamental principles of CSP [common sense psychology] true? What explains their truth? That is, by virtue of what are they true of us? I don't have answers to these questions. Part of what it is to have a nonreductionist theory of mind is to have questions like these left unanswered. (p. 231)
ショーンによれば、常識的心理学に即した志向的解釈(「Aはψするためにφした」)は一般に、「Aの状況においてφすることが最適の手段となるようなψを探せ」および「Aの状況においてφすることで目指し得る最も価値のある事態ψを探せ」といった統制的原理に支配されている。もう少し実際的には、個々の志向的解釈は「他の事情が等しいとして、もしψするためにはπすることが必要だったとすれば、Aはπしていただろう」および「他の事情が等しいとして、もしψするという目標がAにはなかったならば、Aはφしていなかっただろう」といった反事実的条件文に支えられて与えられることになる。しかしショーンによれば、これらの原理や反事実的条件文がなぜ真なのかを告げるものは何もなく、これらは“端的に真 barely true”とでも言うしかない。

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2009年2月 4日 (水)

◆Sehon, TR
ようやく終盤へ。しかしやはりあんまり面白くないなあ。。。
どうも場違いな所に迷い込んでしまったような気分が抜けないのは、結局のところこの本が、行為のテレオロジーについての本というよりも(あるいはそれ以上に)、フォークサイコロジーについての本と言うべきだからなんだろう。
しかし、ハーマンもレビュー(→pdf)で触れているように、(一方での)非規範的で客観的、因果的な物理科学と(他方での)規範的でinterpretive、目的論的な常識心理学との関係をどう捉えるか、というショーンの一貫した問題意識の中では、生物学や(科学的)心理学のようにある意味で規範的な側面にも踏み込まざるを得ない諸分野への十分な目配りがごっそり欠落しているようで、これでは行為の目的論それ自体について――「常識心理学的説明は因果的なそもそも物理科学的とは本質的に異なるのだ(し、そうした相違はどこまでも還元不可能なままに残る)」と主張する以上に――あんまり実りある成果は得られそうにはないんではなかろうか。

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2009年1月30日 (金)

◆Sehon, TR
・Scott Sehon, Teleological Realism: Mind, Agency, and Explanation (MIT Press, 2005)

心の哲学な本を読むのは久しぶりということもあってか、まだうまくペースが掴めないままちんたら読んでいる。行為についての常識心理学的説明を因果的説明ではなく目的論的説明として捉えることで、人間に関する常識心理学的説明と物理科学的説明との平和共存――主題を異にする二種類の説明図式としての――を図ろうという目論見なのだそうですが、中々本題に入らないまま前フリが長い。

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2009年1月28日 (水)

◆Anscombe, ERP
"You Can have Sex without Children: Christianity and the New Offer"(1968)と"Rules, Rights and Promises"(1978)。この本の第1部、倫理学の部分はこれにておしまい。

The point I am making here is a general one about act and intention. We always need to distinguish the intention embodied in an action from the further intentions with which the action is done; I am here concerned only with the former. Whatever ulterior intentions you may or may not have, the question first arise: what intention is inherent in the action you are actually performing? It is one thing to have or not have certain further intentions, another to modify the intentional action you in fact perform. What concerns us is the question: what are you here and now doing on purpose --- whatever your ulterior aims?
Acts that are pretty clearly defined biological events, like eating and copulation, may be said to be by nature actions of a certain kind. Eating is a useful example to illustrate further the concepts I am using; it is a biological example like copulation, but on the other hand we shall not here be confused by controverted moral judgements. Eating is intrinsically a nutritive act, the sort of act to be nutritive; this would be an essential mark of eating if we wished to identify it in an animal species differing very much from us in structure. Now suppose there is a state of the body in which eating happens to be non-nutritive. (There could of course be acts of eating which, considered in a purely physical way, are intrinsically non-nutritive: for example, eating by a severed head kept artificially alive, with the food coming out at the neck.) If someone eats (intentionally or otherwise) at a time when his body happens to be in such a state as prevents nutrition, he is still performing what is intrinsically a nutritive act. But if he purposely brings his body into a nutrition-preventing state, then (1) his physical act is intrinsically a nutritive type of act and is only in the circumstances incidentally non-nutritive, but (2) his intentional action is intrinsically an action of non-nutritive eating. ("You Can have Sex without Children," pp. 86-87)
ここでの問題は、生殖という本質的目的から逸脱するような性交を営むことは「自然に反する罪」だとするトマス的前提からすると、避妊を伴う性交(例えば安全日を利用すること)はどのように評価すべきかということ。避妊は単に、本質的に生殖目的の行為を取り巻く状況を変えるものでしかなく(つまりそこでの性交自体は依然として生殖を本質的目的としている)、それゆえ避妊を伴う性交は――トマス的前提からしても――罪ではないのだとする見解に対して、アンスコムは、単なる物理的行為と意図的行為とが適切に区別されるならば、避妊を伴う性交を意図的に行なうことは、本質的に生殖目的ではない行為を行なうことに他ならないと主張する。
... considered as intentional action, artificially contraceptive acts of intercourse are intrinsically unapt for generation. It is true that just considered physically they may be acts of a intrinsically generative type; but since the physical circumstances that make the acts in the concete case non-generative, are produced on purpose by the agent so that they may be non-generative, they cannot be considered intrinsically generative as intentional actions. (p. 86)
とはいえ、ここでの意図的行為/物理的行為の区別は若干ミスリーディングである。

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2009年1月24日 (土)

◆Anscombe, ERP
"Mr Truman's Degree"について、ちょっとメモ。

罪なき者の命を奪うことは許されない悪である。だが戦争において「罪なき者」とは誰か。それは、「戦闘してはいない者、および、戦闘員に戦闘手段を供給することに従事していない者の全て」(p. 67)である。これに対して、戦闘にたずさわっている者は他人に危害を加えているのであり、したがってそうした者への攻撃は正当化され得る。しかしそれでは、現に戦ってはいない兵士(例えば睡眠中の兵士)はどうなるのか?――

There is an argument which I know from experience it is necessary to forstall at this point, though I think it is visibly captious. It is this: on my theory, would it not follow that a soldier can only be killed when he is actually attacking? Then, for example, it would be impossible to attack a sleeping camp. The answer is that "what someone is doing" can refer either to what he is doing at that moment or to his role in a situation. A soldier under arms is "harming" in the latter sense even if he is asleep. (p. 67)

cf. Michael Thompson, Life and Action, p. 141
・行為を表す進行形表現の「断続的用法 use in hiatus」について――

... it is a mistake to look, at each moment at which a progressive proposition is true, for something in which the progress might be supposed to consist; indeed, it is often in the nature of an event- or process-form that there should be times at which nothing of the sort can be found, as any piece of music is likely to contain silences.

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2009年1月23日 (金)

◆Anscombe, ERP
"War and Murder"(1961)、"Mr Truman's Degree"(1957)、"The Justice of the Present War Examined"(1939)という戦争物三本立て。
「罪無き者の命を意図的に奪うことは絶対的な悪であり、それがたとえいかなる善をもたらすことに繋がろうとも決して許されない」という要請を一方で堅持しつつも、二重結果の原理に訴えることで「正しい戦争・戦争における正しさ」という概念を守り抜こうとするアンスコムの試みには、正直なところかなり危ういものも感じるのだけれども、何にしろ全く馴染みのない分野のことゆえ、ひとまず判断保留。
それでも、アンスコムの行為論との関連で、またアンスコムのキリスト教観の特徴的な一端を垣間見せる点でも、特に"War and Murder"は――ある意味では"Modern Moral Philosophy"にも増して――非常に興味深い。

(1)アンスコムにとって、あらゆる戦争を忌避する絶対平和主義はとうてい維持しがたい立場である。にもかかわらずそうした立場が流布し、あるいは――そうした立場に積極的に与しない人々の間でも――少なくとも一定の共感を得ている大きな要因として、アンスコムは、キリスト教イコール愛の宗教といった「センチメンタル」なキリスト教観の広まりを指摘し、これはキリスト教の本質に関する全くの誤解に立つものだとして厳しく指弾する。

The truth about Christianity is that it is a severe and practicable religion, not a beautifully ideal but impracticable one. Its moral percepts (except for the stricter laws about marriage that Christ enacted, abrogating some of the permissions of the Old Law) are those of the Old Testament; and its God is the God of Israel. (p. 56)
(ということは、アンスコムの場合、キリスト教の捉え方のほうがむしろ“古代的”ということなのか。)

(2)そうした真のキリスト教倫理に不可欠なのが、二重結果の原理である。この原理を否定するような非キリスト教的倫理は腐敗している(上述のような絶対平和主義もその一例――そこでは戦争に伴うあらゆる流血、あらゆる殺害がみな一様に容認不可能な悪と見なされる)。しかしその一方で、キリスト教倫理もまた、この原理を濫用することでしばしば腐敗を招いてきた。――

At the same time, the principle has been repeatedly abused from the seventeenth century up till now. The causes lie in the history of philosophy. From the seventeenth century till now what may be called Cartesian psychology has dominated the thought of philosophers and theologians. According to this psychology, an intention was an interior act of the mind which could be produced at will. Now if intention is all important --- as it is --- in determining the goodness or badness of an action, then, on this theory of what intention is, a marvellous way offered itself of making any action lawful. You only had to "direct your intention" in a suitable way. In practice, this means making a little speach to yourself: "What I mean to be doing is ...". (pp. 58-59)
This same doctrine is used to prevent any doubts about the obliteration bombing of a city. The devout Catholic bomber secures by a "direction of intention" that any shedding of innocent blood that occurs is "accidental". I know a Catholic boy who was puzzled at being told by his schoolmaster that it was an accident that the people of Hiroshima and Nagasaki were there to be killed; in fact, however absurd it seems, such thoughts are common among priests who knows that they are forbidden by the divine law to justify the direct killing of the innocent. / It is nonsense to pretend that you do not intend to do what is the means you take to your chosen end. Otherwise there is absolutely no substance to the Pauline teaching that we may not do evil that good may come. (p. 59)
(意図に関する「デカルト的心理学」の錯誤から、ヒロシマ・ナガサキの災禍へ。しかし実のところ、キリスト教倫理の変質における決定的な分水嶺をデカルトの世紀に見定めることにはかなり違和感も覚えるんだよな。)
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ついでなので、Nicholas Denyer, "Just war"(Roger Teichman (ed.), LCA 所収)もざっと見てみる。

・アンスコムの正戦論が立脚しているのは、罪なき者と罪ある者に関する二つの倫理(神学)的原理――「罪なき者に暴力を振るうことは許されない」、「罪ある者に対して暴力を振るうことは正当化され得る」――であった。
・そしてアンスコムはこれらの原理から、戦争をめぐる現行の国際法とも整合し得るような「戦争の法」――戦争における正義のありかを指し示す法――を導き出そうとする。
・しかし、戦争をめぐる国際法が総じて焦点としているのは戦闘員/非戦闘員の区別である。そしてこの区別は、アンスコムの戦争論が拠って立つ罪ある者/罪なき者と区別とは大きく食い違う。(例えば、罪なき者は不当に加えられた攻撃に対して武力で応じる権利を持つが、国際法上の規定によれば、非戦闘員は敵に対して武力を行使する権利を持たない、等々。)
・それゆえに、戦争における正義の概念を確立しようとするアンスコムの試みは成功していない。

――といったような話のようです。最後は、むしろアンスコムの「平和主義」批判を見直すべきなんではなかろうか、といった提案で締め括り。
あれこれ細かい法的条項が色々挙げられていて教えられることばかりである反面、アンスコムの戦争論の倫理学的背景に関して踏み込んだ議論が無い点に不満も覚える。
しかし、なんにしろ剣呑である。

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2009年1月22日 (木)

◆Teichman (ed.), LCA
・Roger Teichman (ed.), Logic, Cause and Action: Essays in Honour of Elizabeth Anscombe (CUP, 2000)

とりあえず、Philippa Foot, "Does moral subjectivism rest on a mistake?"と、Roger Teichman, "Ethics and psychology"の二本に目を通しただけ。どちらも――乱暴に括ってしまえば――「アンスコムからインスパイアされて話を組み立ててみました」系の論文なので、アンスコムその人に関する自分の疑問にはあんまり応えてくれないのが残念。

フット論文はNatural Goodnessで展開されることになる立場を手短に概観したものだけれども、そうした立場の基本的アイディアについてアンスコムは既に"Modern Moral Philosophy"でも次のように示唆していたことからすると、フットがそこへと辿り着くためになぜこれほどまでの回り道を余儀なくされたのか、という点の方がむしろ疑問に感じられてもくる。(この論文でのフット自身の自己診断によれば、それはつまり行為の理由についてのヒューム的な理解に縛り付けられていたからだ、ということなのだが、それにしても何故なのか。)

It might remain to look for "norms" in human virtues: just as man has so many teeth, which is certainly not the average number of teeth men have, but is the number of teeth for the species, so perhaps the species man, regarded not just biologically, but from the point of view of the activity of thought and choice in regard to the various departments of life --- powers and faculties and use of things needed --- "has" such-and-such virtues: and this "man" with the complete set of virtues is the "norm", as "man" with, e.g., a complete set of teeth is a norm. But in this sense "norm" has ceased to be roughly equivalent to "law". In this sense the notion of a "norm" brings us nearer to an Aristotelian than a law conception of ethics. (Anscombe, ERP, p. 38)

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2009年1月20日 (火)

◆Anscombe, ERP
"Modern Moral Philosophy"(1958)と"Authority in Morals"(1962)。
英文の難しさに涙目になる。
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MMPでのアンスコムの趣旨について、メアリー・ギーチは次のように要約している。(こちらから孫引き)

Anscombe maintains that the class of actions which are illicit (ie, contrary to divine law) is the same class as the class of actions which are contrary to the virtues which one has to have in order to be a good human being. She did not think one needed a divine law conception of ethics to know what a good human being was, or what virtues he had. Aristotle did not speak of divine law, and she saw in him a figure to whom atheists (as well as Christians) could look as an example of how to think about vice and virtue.
She was proposing, in an atheistic culture, a study of the psychology of the virtues with a view to finding a clear and non-theistic method by which one could come to see the objective truths of morality.
つまり、一方で「アリストテレスに還れ」というメッセージと、他方で(明らかにアンスコム自身がコミットしているような)キリスト教原理主義的な性格の色濃い倫理的立場へのコミットメントとはうまく整合し得るのだ、というわけなのだけれども、この論文を改めて読み直しての印象としては、話はどうもそれほどスッキリしていないんじゃないかなあ、という感じもするのだけれども。どうなんだろう。
この論文の分かりにくさを特に感じるのは、シジウィック以後の「帰結主義」への批判に当てられた最後の部分での議論で、そこでは、メタ倫理的なレベルでの非認知主義的傾向や、事実的なものと規範的なものとの二分法について、また規範倫理的なレベルでのその空疎さや因襲的性格について等々、様々な論点が矢継ぎ早に取り上げられていることもあって、実のところアンスコムの批判が正確には何に向けられているのかが非常に見て取りにくいのだが(まあ、その何もかも全てが気に食わないというのかもしれないけれども)、どうもそうした批判――例えば"all these philosophers are quite incompatible with the Hebrew-Christian ethic" (p. 34)――を見る限りでは、一体、古代的・アリストテレス的な倫理に立ち返ることで、アンスコムを満足させるような倫理学を構築し直すことなんてできるのだろうかとも思えてくるわけで、どうもやはりここには大きな亀裂が口を開けようと待ち構えているようにも見えるわけなのですが。。。

というわけで結局、次のように「心理学の哲学」からのやり直しが宣言される場面でも、果たしてアンスコム自身の真意は奈辺に存したかがどうも良く分からないというか、もっと言えば、行為論を土台としてしかるべき倫理学を構築する見込みに関して今日の「アンスコム派」の――と呼べるであろう――人達の分裂状況を予想させるものが、そこには潜んでいなかったか。

But meanwhile --- is it not clear that there are several concepts that need investigating simply as part of the philosophy of psychology and --- as I should recommend --- banishing ethics totally from our minds? Namely --- to begin with "action", "intention", "pleasure", "wanting". More will probably turn up if we start with these. Eventually it might be possible to advance to considering the concept of a virtue; with which, I suppose, we should be beginning some sort of a study of ethics. (p. 38)

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2009年1月19日 (月)

◆Anscombe, ERP
・G. E. M. Anscombe, Ethics, Religion and Politics: Collected Philosophical Papers Volume Three (Blackwell, 1981)

冒頭の三論文("The Two Kinds of Error in Action" (1963); "On Promising and its Justice, and Whether it Need be Respected in Foro Inferno (1969); "On Brute Facts" (1958))で取り上げられているのは、ある種「再帰的」とも呼べるような性格を持つ物理的出来事。すなわち、例えば約束や結婚のように、それが成立し存在するためには、その主体(当事者)は自分がそれをしていると考えていることが不可欠であるような、そうしたタイプの出来事。

ちょっと抜書き――

Thus "it is necessary to do what is good and avoid what is bad" is required as a premise only by someone with a purpose which can be served by acting ill. However, one constantly has such purposes. Then only a man for whom such purposes are subsidiary to a main purpose which cannot be so served will not need the principle; for him it will be nothing but a principle of inference, which is not a premise. Aristotle's conception of "choice" is one according to which a man chooses to do only those actions which are governed by a main purpose; since he held --- though surely he was wrong --- that everyone has a main end such that if he acts purposively at all he acts for that end, he tried to make this concept of choice occupy the place in the analysis of action that ought to be occupied by the concept of intention. I used to think his idea of choice a mere misconception; but the above considerations have made me change my mind. ("On Promising and its Justice ...," pp. 19-20)
(索引を見ると、アリストテレス的な意味での"choice"(=proairesis)への言及は、本書の中ではこの一箇所だけであるらしい。)
In general, my interest in moral philosophy has been more in particular moral questions than in what is now called "meta-ethics". (…) So far as general questions of moral theory have interested me, I have thought them closely tied up with problems of action-description and unsettlable without help from philosophy of mind. Some of these papers represent a struggle to treat all deliberate action as a matter of acting on a calculation how to obtain one's end. I have now become rather doubtful about this. (…) Certain considerations put before me by my friend Georg Henrik von Wright have led me to think this; but I have no full-fledged thoughts on the subject, and what I publish is, I think, all written under the older conception. ("Introduction," p. viii)

しかし英語が難しくてなかなか進まないので、ついつい逃避して『性の歴史』の方を読んでしまう。(いま二巻目。)

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2009年1月12日 (月)

◆G. F. Schueler, Desire: Its Role in Practical Reason and the Explanation of Action (MIT Press, 1995)
これは年明けに読んだ本。
準備作業として「欲求」の二義性を明らかにしておいた上で(第1章)、行為の理由(行為の正しさを示す正当化理由であれ、行為の説明を与える動機付け理由であれ)に関する代表的な諸説を批判的に検討し(第2章~第5章)、最終的には、行為の説明(欲求・信念による説明)に関する二種類のモデルの提案でもって締め括る(第6章)、というのが大まかな構成。
行為の理由に関する諸説として本書で取り上げられるのは次のようなもの――

・ウィリアムズの「内在的理由」論
・ある種の欲求から(その欲求を満たすような行為のための)正当化理由を導き出そうとするS・シファーの試み
・実践的推論についての通俗的な理解(実践的三段論法としての実践的推論)
・欲求・信念による行為の説明についてのゴールドマンとドレツキの因果的解釈
・デネットの「志向的スタンス」論
・ペティット&マイケル・スミスの「背景的欲求」説

これらの諸説についてシューラーは、「欲求」の意味に関する混乱を繰り返し指摘する。すなわち、総じて行為をめぐる議論の文脈において、「欲求」は一方では、当の欲求を持つ主体が、その欲求に反する行為を意図的にすることもできる(言い換えれば、当の欲求を満たすべきかどうかが、実践的な熟慮の対象となり得る)ような意味で理解され得るし、また他方では、ある記述の下で意図的に行為する者には、その記述内容に対応する欲求が必然的に帰せられるような仕方でも理解され得る。シューラーはこれら二種類の意味での欲求を、それぞれ「本来の意味での欲求 desire proper」および「賛成的態度 pro attitude」と呼ぶ。そして、上述の諸説はみなそれぞれに何らかの形で、これら二種の欲求の混同に立つものとして斥けられることになる。

こうしたシューラーの試みは、欲求を軸として隣接する諸分野――心の哲学、行為論、倫理学――を大掴みに俯瞰し切り込んでゆく切り口としては面白いとは思うものの、実質的な議論の内容には疑問を感じる部分も幾つかあって(中でもウィリアムズに関する批判的議論については特に)、これは結局のところ、二種類の欲求それぞれの本性について、またそれらの間の関係について、踏み込んだ検討や考察が本書ではほとんど棚上げにされたままだという事情に直結しているのではないかなあと感じた。
(いかにして本来の意味での欲求以外の所から賛成的態度が導き出されるのか――「本当ならばやりたくないこと」を敢えて行なおうとする動機付けが形成されるのか――をもう少し丁寧に説得的な仕方で跡付けないことには、ウィリアムズ批判は全くの空回りに終わらざるをえないと思う。)

最終章では、この二種類の欲求に対応する形で、欲求・信念による行為の説明についての二種類の説明モデル――行為の原因たる「本来の意味での欲求」に関わる因果的モデルと、合理的な反省的熟慮を介して形成される「賛成的態度」に関わる熟慮モデル――の必要性が主張されるが、これら二種類の説明モデルがどのような関係に立つかという点についても、やはり残念ながら、立ち入った詳しい検討は先送りにされている。

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2008年12月30日 (火)

◆Husrthouse, VE
ようやく終盤。どうにか年内に読み切れるか。
道徳的理由から行為するというのはどのようなことか、ある行為者が道徳的理由から(そうするのが正しいと考えて)行為したと言われ得るのはいかなる場合か、――こういった問題は総じて行為者のキャラ(character)に懸かってるし、キャラって大事だよね、というのが第2部でのお話。でもオレらってそもそもキャラ薄いんだよね、という思いもついつい頭をよぎってしまうのはやはり不徳の致す所だろうか。
功利主義や義務論に伍しうるような規範倫理的構想としての徳倫理の独特の輪郭を際立たせながらも、特にカント的な義務論との接近を改めて図っていこうとする、本書でのハーストハウスの基本的な姿勢が最も良く出ているのがこの第2部なのだろうけれども、この部分は全体的に何だか議論のトーンが固い感じがするのはともかくとして、“Modern Moral Philosophy”でのアンスコムの毒気を一生懸命中和しようとするかのようなハーストハウスの試みは、何かを取り逃がしているんじゃないかという不安感も残る。
その上で最後の第3部では、何をもって徳と見るかがいかにして客観性を持ち得るかという挑戦をめぐって、マクダウェルのような「ノイラートの船」戦略に大枠を借りつつ、フット風の自然主義で肉付けすることで、それなりの対応ができるだろう、というようなことらしい。

今北産業的に一読しただけとはいえ、この本でのハーストハウスの狙いがそれなりに見えてきた所で、ハーストハウスとヴォグラーが、それぞれにアンスコムを強く意識しながらも、倫理学と行為論とをどのように結び付けるかという基本的な方向性に関して、全く相反するような立場に辿り着いていることを考え合わせると、倫理学と行為論とのはざ間でアンスコムが「十全な心理学の哲学 an adequate philosophy of psychology」に付託していたものがますます謎めいてくる。

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2008年12月25日 (木)

◆Hursthouse, VE
まだ前半途中。
本書の内容についてはこちらで簡潔に紹介されていて、一言で言えばアリストテレス的な徳倫理を体系的に提示した著作ということになるみたいですが、(体系的著作にありがちな、同業者相手に口角泡を飛ばしてまくし立てるといったようなスタイルとは異なって)何というか孫を相手におばあさんが諄諄と説き聞かせるかのような柔らかいトーンが印象的。
恐らくそれは単なる語り口の問題というだけではなくて、“子どものための倫理学”というアジェンダ、つまり道徳教育について何を語り得るかこそが倫理的理論の成否を決する一つの重要な因子たりうる(し、またその点で、功利主義や義務論を相手どって、アリストテレス的徳理論にこそ大きな期待が見込めるはずだ)とするハーストハウス自身の確固たる確信に立って選び取られた方法論とも言えるのでしょうが。(またさらに言えば、結局のところ一般の成人も――徳ある人との対比で言えば――多少とも成長した子どもにすぎないのだ、と。)

… an important aspect of our moral life, namely the fact that we do not always act as "autonomous", utterly self-determining agents, but quite often seek moral guidance from people we think are morally better than ourselves. (p. 35)

それはさておき、個人的に興味を引かれるのは、アリストテレス独特の心理学とウィトゲンシュタインとを繋ぐ線――次のような一節でも示唆されているような――について本書ではどういう風に敷衍される(あるいはされない)のだろうか、という点なのだけれども、索引の見出しにはなぜか「ウィトゲンシュタイン」の名は載っていないこともあって、その行方はまだ分からず。
To anyone sympathetic to the writing of the later Wittgenstein, such rejections of clear-cut distinctions [i.e., belief/desire and rational/irrational] in philosophical psychology are as natural and necessary as breathing. […] I have found when teaching virtue ethics to graduate students, or discussing papers by, in particular, Anscombe, Foot, and McDowell with fellow philosophers, that what often blocks understanding is the unconscious assumption that everyone shares the view that, for example, beliefs and desires are natural kinds, or that a reason is a belief/desire pair that causes an action, or that all mental states are brain states --- or, more generally, that philosophy is supposed to uncover or construct the foundations of our thought. Struggling to square these assumptions with what is said, the audience finds what is said deliberately obscure or wilfully incomplete, or inconsistent, or open to such blindingly obvious objections that they think they cannot have understood. Sometimes --- not always, of course --- the cloud lifts if one says, "But you don't believe that so-and-so if you're a Wittgensteinian." (p. 16)

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2008年12月23日 (火)

◆Hursthouse, VE
・Rosalind Hursthouse, On Virtue Ethics (OUP, 1999)

まだ序盤。
考えてみたらこの所ずっと「自然化されたトミズム」みたいな話ばかりを追っていたような具合なので、もうちょっと近代なのを読んでみたい気もそろそろしてきたけれども、ヴォグラーの本に比べてもう少しオーソドックスなアンスコム像を見ておきたいというのもあるから、まあいいかと。

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◆Dancy, Raz, Vogler
・Jonathan Dancy, "Practical Reason and Inference"
・Joseph Raz, "Comment on Dancy's Practical Reasoning"
・Candace Vogler, "Practical Thought"

こちらで公開されているものをざっと一読しただけ。
practical reasoningは行為を結論とするものなのだから、それを推論(inference)――つまり命題間の関係――として捉えようとするのはそもそも間違いなのだ、というのがここでのダンシーの趣旨であるらしい。そうした議論のベースになっているのは、Practical Realityでも述べられていたような命題と事態(state of affair)との区別ということで、ここでのダンシーの議論をきちんと評価するにはそちらも併せて見直しておく必要があるのだけれども、そうした面倒ははしょって大まかな印象としては、ダンシーがこうした区別の導入に至ったそもそもの(一つの大きな)契機というのが、

(A)ピンクの象が空を飛んで行くのが見えたので、私は思わずそれに触れようと手を伸ばした
(B)ピンクの象が空を飛んで行くのが見えたので(=自分の精神状態を不安に思って)、私は精神科のもとを訪れた
というような二種類の「理由」の間のギャップをどう考えるかという点にあったとすれば、命題と事態の区別に訴えるというやり方は徒に問題を複雑にしただけであんまり意味がなかったんではなかろうか、と改めて感じる。

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2008年12月19日 (金)

◆Geach, Hare, Foot
・P. T. Geach, "Good and Evil" (1956)
・R. M. Hare, "Geach: Good and Evil" (1957)
・Philippa Foot "Moral Beliefs" (1958-9)

三本ともPhilippa Foot (ed.), Theories of Ethics (OUP, 1967)に収められているもの。

We can indeed say simpliciter "A is good" or "A is bad," where "A"is a proper name; but this is an exception that proves the rule. For Locke was certainly wrong in holding that there is no nominal essence of individuals; the continued use of a proper name "A" always presupposes a continued reference to an individual as being the same X, where "X" is some common noun; and the "X" expresses the nominal essence of the individual called "A". … Well, then, if the common noun "X" expresses the nominal essence of the individual called "A"; if being the same X is a condition whose fulfilment is presupposed by our still calling an individual "A"; then the meaning of "A is good/bad" said simpliciter, will be "A is a good/bad X". (Geach, "Good and Evil," pp. 65-66)
こうした点では「良い/悪い」の文法は「同じ」の文法とおんなじだ(だって、どっちもtranscendentaliaなんだから)という所見を議論の出発点として、「良い」は(記述的意味を持つがただし)非自然的性質を表すのだとする"Objectivist"と、「良い」はそもそも記述的意味を持たないとする"Oxford Moralist"の双方を叩こうというのがギーチ論文の趣旨。フットによればこのギーチの論文は"a sadly neglected article"なのだそうで(P. Foot, Natural Goodness, p. 2)、「同じ」に関して相対的同一性の問題が巻き起こした議論を考えればちょっと不思議な感じもするけれども、「良い人間」とか「良い行為」に関するギーチの議論の目指す所はやっぱり神がかり的としか言いようがなさそうに見えるせいか。
Geach is the latest of a famous succession of thinkers who have systematically confused "what a thing can (or, alternatively, can typically, or does typically) do," with the quite different notion "what a thing ought to do (or, alternatively, what it is specifically good for it to do)". Plato was of course the principal culprit. The word "function" has perhaps been used to cover all these notions. The assimilation between them is only justified if we accept the assumed premise Natura (sive Deus) nihil facit inane. Anyone who feels attracted by Geach's use of this kind of reasoning should first read Aristotle, Politics 1252a35, where a similar premise is used in order to justify slavery and the subjection of women (cf. also 1253a9) (Hare, "Geach: Good and Evil," p. 81, n. 2)
ヘアによれば、一般に「良いX」という表現が記述的意味を持つのは、Xにあたるのが、その機能によって定義されるような機能語――例えば「ナイフ」や「兵士」――である場合に限られる。そうした機能語については、例えば良いナイフであるためにはどのような性質を持たなければならないかを理解することが、語「ナイフ」の意味を理解することの一部であるし、しかもまた、「良い」に形容されて機能語が登場するのは、一般には道徳的文脈以外の文脈においてである。これに対して、(とりわけ道徳的文脈における)「行為」や「人間」については同様の説明は当てはまらない。
One may know the meaning of "action" without knowing anything which determines, even to the smallest degree, what actions are to be called good or bad. And if "human", like "man", is a non-functional word, the same will be true of "human action". (Hare, pp. 80-81)

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2008年12月17日 (水)

◆Anscombe, HAE
・Mary Geach & Luke Gormally (eds.), Human Life, Action and Ethics: Essays by G. E. M. Anscombe (Imprint Academic, 2005)

"The Causation of Action"(1983)と"Practical Inference"(1989)。
後者(まだ全部読み終えてないけど)はいかにもアンスコムらしい才気に満ちた論文だなあと感じる。(が、前者についてはあんまり感じない。)
実践的推論というネタについては、大学時代に某先生の講義を聞いて以来ずっと、「何だかよく分からん得体の知れない代物」という印象しか実はなかったのだけれども、やはりもう少し勉強しておくべきかと反省する。

・ケニーの"logic of satisfactoriness"について
 通常の論理で「pならばq」が成り立つ場合、ケニーのこの“論理”では、「q!」という命令文を前提として「p!」という命令文を推論することが妥当となる。

Kenny's system allows many natural moves, but does not allow the inference from "Kill everyone" to "Kill Jones!" It has been blamed for having an inference from "Kill Jones!" to "Kill everyone!" but this is not so absurd as it may seem. It may be decided to kill everyone in a certain place in order to get the particular people that one wants. The British, for example, wanted to destroy some German soldiers on a Dutch island in the Second World War, and chose to accomplish this by bombing the dykes and drowning everybody. (The Dutch were their allies.) ("Practical Inference," p. 122)
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アンスコムによれば、実践的推論と理論的推論は言わば同一の構成要素によって形作られるものとして相互に他方の形へと容易に転換できるし(例えば、「p;pならばq;ゆえに」という理論的推論と、「qたらしめん;pならばq;ゆえにpたらしめん」という実践的推論との関係のように)、ユークリッドによる幾何学的証明こそは「実践的推論の純粋な例」(p. 117)とさえ評価される。そして、
(1)このような実践的推論と理論的推論との一種の形式的な同質性を確認した上で、
(2)これら二種類のタイプの推論の基本的な相違を、理論的推論において前提は真なるものとの想定の下で与えられるのに対して、実践的推論における前提は、実現されるべき目標(欲求の対象)を設定するもの――したがってまた結論として実行されるべき行為が何のためになるかを示すもの――として与えられる点に存するのだ、とする所見を梃子として、
(3)理論的推論において真理の概念が果たしている役割と類比的に、実践的推論において「良さ・善(goodness)」の概念が果たしている独特の役割に論じ進める("in the sphere of practical reasoning, goodness of the end has the same role as truth of the premises has in theoretical reasoning" (p. 146))、
――というのが"Practical Inference"でのアンスコムの議論のポイントになるらしい。(←注:要約にあらず。)

そしてアンスコムによれば、理論的推論がその形式的妥当性とは別に前提・結論の真偽という観点から査定できるのと同様に、“妥当”な実践的推論もその前提(=目標)・結論(=目標実現のための行為)の良し悪しという観点から――抽象的な「べき」を問うような“道徳的”視点を持ち込まずとも――評価することが可能である。(例えば、邪悪な人間による邪悪な目的実現のための実践的推論が、その推論としての妥当性にもかかわらず批判され得るように。)ただし――

This can be made out only if man has a last end which governs all. Only on this condition can that illusory "moral ought" be exorcised, while leaving open the possibility of criticizing a piece of practical reasoning, valid in the strict and narrow sense in which in theoretical contexts validity contrasts with truth. The criticism will be of the practical reasoning as not leading to the doing of good action. An action of course is good if it is not bad, but being inimical to the last architectonic end would prove that it was not good. (p. 147)
こうした「最終的目標」の想定の下で、言わば欲求一般を「良さ」に従属させようとするアンスコムのスタンスに照らしてみると、むしろ「良さ」の成り立つ根拠を何よりも欲求(calculativeな欲求)に求めるというヴォグラーのアプローチは、アンスコムの読みとしてはかなり異端的なものにならざるを得ないのだろうけれども、その問題はともかくとしても、(「あれが欲しい、これが欲しい」的な“単なる心理的”状態であってはならず、しかしまた神懸かり的な至高の目的を要請するものであってもならず、――というヴォグラー自身の問題意識の下で)実のところ「calculativeな欲求」というのは一体なんだろう、というのがますます謎めいた問題に感じられてもくるわけだ。

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2008年12月16日 (火)

◆Vogler, RV
本文はひとまず読み終える。(この後さらに五つの補論が続く。)
特に面白かったのは終盤部分(第6~8章)。第6章ではアンスコムの行為論の基本的性格について啓発的な説明が与えられており、第7章での実践的推論をめぐる議論にも教えられるところが多い。(ヴォグラーによれば、実践的推論を正に実践的推論として特徴付けるのはその目的なのであって、内容ではない。したがって、実践的推論の主題は、行為の向かうべき目的を見定めることにあるのか、それとも与えられた目的に相応しい手段を算定することにあるかを問うのは本質的に無益である。)
しかしその一方で、ヴォグラーの引き受けようとしている理論的課題の全貌がまだよく見えてこないようなもどかしさも感じる。

大まかに言えば、目的-手段あるいは部分-全体というcalculativeな構造に即して行為の理由づけや実践理性を捉えようというのがヴォグラーの擁護する"calculative view"の基本的スタンスであり、これは行為の問題に関するM・トンプソンのアプローチとも共通する部分が大きい。ただしトンプソンが、意図や欲求の目的論的構造を直ちに行為自体の目的論に帰着させることで反心理主義な行為論へと向かうのに対して、ヴォグラーの方はむしろそこから逆に欲求の偏在性――意図的行為があるところには欲求(ただし、あくまでもcalculativeな構造を備えた欲求)がある――を導き出すことで、ヒューム的な心理主義とは一線を画しながらも、行為の理由づけの中心に欲求を据えるinstrumentalismの伝統の立て直しを図るという、幾分トリッキーな戦略がとられることになる。

… the baggage of an instrumentalist picture of motivation --- one in which desire is at once unruly and a core component in reasons for acting such that, say, desire sets ends of action and reasons finds means to attaining those ends. I have treated such pictures of motivation as the clunking, weak progeny of a genuine, deep insight into the rational structure of (representations of) intentional action as such, which has a means-end, part-whole calculative articulation. I have denied throughout that this insight derives us toward bifurcationist moral psychology. (pp. 197-198)
その上で最後の第8章は、行為の理由(とりわけ道徳的理由)に関する内在主義を擁護しようという話。外在主義者が思い描くような理由の空間に過不足無く収まるには人間は余りにも卑小だ(したがって人間にとっての実践的合理性の解明は倫理的に中立的なものとならざるを得ない)、――というのがヴォグラーの言う"godless variant of Thomism"(p. 193)の基本的メッセージということになるんだろうか。
The modern philosophical interest in providing a noncalculative theory of practical reason has centered on the need to find rational support for morality, or for some other department of the ethical. If this is what we seek, then, as I have mentioned, my doubts about noncalculative theories of practical reason are not lessened by the fact that we have ignored medieval Christian moral philosophy. The medieval patristic and scholastic philosophers had it in their favor that they needed to make sense of the idea that people could be held accountable for their sins. Under the assumption that you are only held accountable for what you do when you have your wits about you (…), this means that the Christian philosophers needed to understand the rational structure of unethical action and the reasoning behind it. We have tended to ignore accounts of the rational order in wrongdoing in comtemporary, secular work on practical reason. (pp. 178-179)
One obstacle contemporary secular Anglo-North American practical philosophers face in arguing that externalist statements express reasons for acting is partly that we have inherited an ethical tradition grounded in systems of thought and practice that crucially concern themselves with divine providence, but we have lost the license to employ the foundational theological context in making sense of the kind of "ought" that is bound up in that context. … We also have inherited volumes and volumes of work on the rational structure of human evil, produced partly in the service of extending the ancient insights about practical reason. It is true that we neglecte this work almost entirely in our discussions of the reasons to be moral. But disabused of this ignorance, it becomes for us a pressing question just in what sense a mortal being who, say, has a couple of capital vices to her credit has a reason to change her way. (pp. 192-193)

しかしまあこうした壮大な話に釣られてふらふら迷い込んでしまう前に、ヴォグラーにとっての鍵概念である「calculativeな欲求」というものの本性(cf. p. 156)についてもう少し立ち止まって考え直しておくべきか。

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2008年12月 9日 (火)

◆Vogler, RV
半ば惰性でショボショボ読み進めてようやく折り返し地点まで。しかしこれは基本的に面白い本なのだと思う。

・行為の理由や説明について考えるにあたって、言ってみれば行為の水準に踏みとどまって、行為の領域に内在する目的論的な――ヴォグラー自身の好む言い方では"calculative"な――分節構造に着目しようという点ではM・トンプソンと基本的な立場を等しくしているものの、トンプソンの考察があくまでも、行為の“概念記法”的な形式構造(一般には完了/未完了という二種類のアスペクト表現の間のギャップとして表れるような)に向けられているのに対して、ヴォグラーの方はトマス・アクイナスの行為論を参照することで、より実質的な形で行為の目的論の分節化へと切り込もうと試みている、――といったようなことでいいのかな。(前半部を見ただけでは、その成果はまだよく分からず。)

・で、この本全体を通じてのヴォグラーの狙いとしては、(1)実践理性についてのinstrumentalism(道徳的反実在論・非認知主義や、ヒューム的道徳心理学とも緩やかに結び付きつつ、新古典派経済学やベイズ的決定理論のような社会科学的研究のための哲学的基礎を形作っているオーソドクシー)には一応の説得力を認めながらも、(2)それをヒューム的な道徳心理学に基づける形で擁護するのは見込みが無さそうだから、(3)むしろ上述のような、行為のcalculativeな構造に関する主張をinstrumentalismの中心的主張として理解することで、その説得力を説明しよう、ということなのだそうだ。

・んでもってトマス。トマスにとって人間の行為の目的論は最終的に、神による救済を至上の目的とする神学的構図に繋ぎ止められていたわけだから、神なき時代の世俗的倫理学者としてはそこんところ(悪の合理性――全く邪悪な人間へと自らを訓育し、邪悪な目的へと向けて行為を組織化する、という可能性)をどうするかが思案のしどころなのだ、と。

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2008年12月 2日 (火)

◆Vogler, RV
・Candace Vogler, Reasonably Vicious (HUP, 2002)

トンプソンの本の第3部はいきなり社会的実践の問題に話がとんで、ゴティエとロールズが議論の中心になるらしいので、その前にこちらを見ておくかという作戦。
アンスコムの導きにしたがって、トマスにまで立ち帰ってみましょう、ということなのだそうだ。

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2008年12月 1日 (月)

◆Thompson, LA
第2部後半(第8章「行為と時間」)について、ちょっとメモ。
前にドラフトを読んだ時には、これがケニーらの議論とどう関係しているのか理解が不確かなままだったのが、再読してみてようやく話が見えてきた。
ここでのトンプソンの狙いは、行為に内在するetiologicalな秩序を、われわれの「日常的な出来事意識」――行為表現のアスペクト的性格に映し出されているような――に照らして解明することにある。

・言語的アスペクトの哲学的解釈を与えるにあたって、ケニー-ヴェンドラー-ムレラトスが議論のベースとしていたのは出来事/過程/状態という存在論的三分類であった。大まかに言えば、この三分類は、完了アスペクト、未完了(進行)アスペクト、無アスペクトという区別に対応している。(しかもそこでは、いずれも完了的なアスペクトが欠如しているという理由で、過程を状態に同化しようとする強い傾向が見られる。)
 これに対して、トンプソンの考察を輪郭付けているのは、出来事‐過程(つまり、アスペクト的二極性を呈するもの)と状態(アスペクトを欠くもの)という二分法である。

・その背景には、トンプソンの独特な行為観がある。彼によれば、従来の行為の哲学は、いわば瞬間的に為し遂げられるような点的・アトム的な行為に議論を集中してきたが、われわれが目を向けるべきなのはむしろ、時間的な流れの中で進行してゆく行為のプロセス――"events-in-progress"――なのである。

… the tendency of students of practical philosophy to view individual human actions as discrete or atomic or pointlike or eye-blink-like units that might as well be instantaneous for all that it matters to the theory. Part of the present effort, then, is to break up such conceptions. (…) The nature of intentional action, or of the kind of being-subject-of-an-event that characterizes a rational agent and a person, resides in the peculiar "synthesis" that unites the various parts and phases of something like house building, for example, mixing mortar, laying bricks, hammering nails, etc. (p. 91)
それゆえ、
… the object of the philosophy of action is legitimately restricted, in the first instance, to a category of intentional action that excludes acts of mind, starting-to-act and other such non-durative actions-by-courtesy --- to intentional action proper, as we call it. (pp. 111-112)

・行為の説明は先には、諸行為の内的な部分-全体関係に根差したものとして捉えられた。そうした部分-全体関係はさらに、出来事‐過程として見られた行為のアスペクト的な構造に照らして理解することができる。「私はAをしていたので、Bをした」というような“素朴な説明”は、Bという行為をAという全体的行為の内にその一部分として組み入れることによって説明しているが、これは言い換えれば、未完了的で進行的な相で捉えられた出来事‐過程Aの内にBを包摂することによって説明することなのである。これと基本的に同様の説明構造は、「私はAをしたかったので、Bをした」や「私はAをしようと意図していたので、Bをした」といったような“洗練された説明”にも共通している。
The unity that pervades our table of forms of straightforward rationalization resides on the present view in this, that the sort of rationalization registered in it is in general a form of explanation by the imperfective, or by the "incomplete" --- though a specifically self-conscious and reason-involving one. In particular, the type of explanation of action at stake in action theory, whether naive of sophisticated, is uniformly a matter of locating the action explained in what might be called a developing process; it is just that this progress, development or "imperfection" must be understood to exhibit various types or grades. (p. 132)

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以上のような一般的な視点に立ちつつ、最後の二つの節では、「…を意図している」や「…を欲している」といった心的な語法に付随する内包的で非実在的な性格を、「…している/していた」といった未完了アスペクトの表現が一般に持つ同様の性格によって説明することが試みられる。すなわち、トンプソンによれば、「私はパンを焼いた」という完了アスペクトの文は「あるパンxが存在し、私はxを焼いた」を伴立し、また同様に「私はパンを焼くという行為を行なった」は「パンを焼くというある行為xが存在し、私はxを行なった」を伴立するが、これに対して、「私はパンを焼いていた」という未完了アスペクトの文は「あるパンxが存在し、私はxを焼いていた」を伴立せず、また「私はパンを焼くという行為を行なっていた」も「パンを焼くというある行為xが存在し、私はxを行なっていた」を伴立しない。このように、未完了・進行アスペクトの語法は一般に内包的文脈を形作り、独特の非実在的性格を帯びることになる。しかもそれは、未来に関わる不確定性とは全く別個なのである。
ここからさらにトンプソンは、ダメットがしばしば取り上げる「X is going to V」と「X will V」とのペアについても、これら双方をダメットのように未来形(ダメットによれば前者は「現在の傾向性を表す未来形」であり、後者は「真正の未来形」だとされる)として理解するのは誤りだとする。トンプソンによれば、未来時制を表すのは後者だけであり、前者は一種の未完了アスペクトの表現なのである(p. 141, n. 25)。

これらの指摘にはなるほどと感じる部分もあるのだけれども、意図や欲求の表現に伴う内包性が本当にこうした形でうまく処理できるかという点については、まだ十分に納得し切れない部分も残る。(またいずれにせよ、これらの語法に関するトンプソンの考察はかなり駆け足のものである。)

説明項として行為者の意図や欲求に訴えるような“洗練された説明”の説明能力を、説明項のアスペクト的性格に帰着させるというトンプソンの見解を支えているのは、意図や欲求を表現する文中で目的語として働くのは、アスペクト的二極性を備えた表現であるはずだという言語的所見である。

… we can only join a subject and a verb phrase by means of one of our practical-psychical verbs if the subject and verb phrase thus joined exhibit the basic aspectual duality in their own "unvarnished" combination. It is, that is, only because the representations "she" and "walk to school" can be joined perfectively, as in "she walked to school," or imperfectively, as in "she was walking to school," that they can be joined by "wants", "intends" or "tries" --- as in "she intended to walk to school." (p. 131)
しかしこうしたトンプソンの主張にもかかわらず、われわれは実現不可能な――したがってまた完了アスペクトでの表現が(字義通りの意味では常に偽とならざるを得ない、というイミで)原理的に不可能であるような――行為を欲求の対象とすることはないだろうか?(例えば、永久機関の制作のように物理的に実現不可能な行為や、最大の素数の発見といった論理的に不可能な行為、明けの明星と宵の明星との非同一性を発見するといった形而上学的に不可能な行為、等々。)
――こうした行為については、トンプソンの見方には反して、「…しようと意図して/欲していたので」という洗練されたタイプの説明の効力が、「…していたので」という素朴なタイプの説明のそれに帰着するどころか、むしろその逆であるように見える。というのも、「PなのでQ」という素朴な説明は一般に、PとQの双方が真であることを前提しているが、上のような行為については、それを表す素朴な説明項P――例えば「彼は永久機関を作っていた」――は、(「彼は永久機関を作ろうと意図していた/欲していた」といった意味で理解されるのでないとすれば)そもそも真とはなり得ないのである。したがって、上の疑問に対して、「ここで問題となっているような行為についても、少なくとも単なる文法的な見地からすれば完了/未完了双方のアスペクトでの表現が容認可能であるのだから、それ以外の通常の行為の場合と同列に扱うことができるはずだ」と答えることは、トンプソンの狙いにとっては役に立たないように思われる。
もちろん、こうした問題含みの行為については、「これらはみな本来の意味での真正な行為ではないのだ」と言って切り抜けることもできるのかもしれないが、しかしそうした仕方で行為の領域を狭めてしまうとすれば、それはむしろトンプソンの企てをひどくトリヴィアルなものにしてしまわないのだろうか。

あるいはまた、行為を説明するものとしての“洗練された”心的な文と“素朴な”進行形の文との間には、次のような相違もあるのではないだろうか。「人物SはVすることを意図している」と「Vすること=V*すること」が真だということからは、「SはV*することを意図している」は必ずしも帰結しないが、これに対して、「SはVしている」と「Vすること=V*すること」が真だということから「SはV*している」が帰結するように思われる。

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◆Williamson, PP
・Timothy Williamson, The Philosophy of Philosophy (Blackwell, 2007)

トンプソンがやっているアームチェア(アプリオリ)生物学みたいなのはどうなのよ、という関心からちょろっと見ただけ。思い出してみると、もともと自分自身にとっていわゆる分析哲学との出会い――というほど大げさではないけど――を与えてくれたのはアームストロング(の特に最初期)とかチザムの著作だったこともあって、linguistic turnとかconceptual turnとかいった「転回」史観をめぐるお話はそもそもの初めからしてあんまりピンと来ない感もあるわけですが、こんな私でも読み通せるのだろうか。

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2008年11月29日 (土)

◆Thompson, LA
第2部の“Naive Action Theory”。早くから公開されていたドラフトと比べてみると、所々で若干加筆されているみたい。
第1部の成果に関してはかなり懐疑的な印象しか残らなかったのに対して、この第2部の行為論というのは実に面白いなあと改めて感じた。

例えばPractical Realityで行為の理由に関してダンシーが打ち出していたような反心理主義的な立場は、行為の理由となるような事実の存在性格に関して最終的にはかなり奇妙な立場に追い込まれていたし、また行為とその理由(事実)との間の内的・規範的な連関を確かなものとするためには何か特殊な直観的能力を必要としているようにも見える。
これに対して、トンプソンが提案するような「素朴な行為理論」の視点からすれば、こうしたダンシーの反心理主義はいまだに、行為を欲求や意図によって説明しようとする心理主義的伝統と同様、「行為は基本的にそれとカテゴリーを異にする何か(欲求や意図のように心的な何かであれ、事実のような非心理的存在者であれ)によって一方的に説明されるべきもの(explanandum)だ」とする前提に立っている。しかし行為の説明に関するわれわれの実践に目を向けるならば、こうした前提は単なる哲学的な予断にすぎないことが分かる。というのも、一方で行為は説明されるべきもの(被説明項)であるばかりではなく、またそれ自体が説明項ともなり得るからである。実際、ある行為は別の行為に言及することによって説明される(「私はAをしているのでBをしている」)というばかりではなく、時には欲求や意図もまた行為に言及することによって説明される(「私はAしているので、Bしようと意図している」、「私はAしているので、Bしたい」のように)。
トンプソンによれば、行為がこうした説明能力を持ち得るのは、一般に、一定の時間的なプロセスとしての行為に備わっている内的な秩序(etiologicalな構造)のためである。すなわち、そうした内的秩序に即した部分-全体関係(例えば、卵を割ることやフライパンを温めることがオムレツを作ることの一部であるような)に着目することによって、部分的行為(B)はそれを包摂する全体的行為(A)によって説明される(「私はAをしているのでBをしている」)。あるいはむしろ、そうした内的な部分-全体関係の存在こそが、一般に行為(意図的行為)を定義付けるものに他ならないとさえ言える。

X's doing A is an intentional action (proper) under that description just in case the agent can be said, truly, to have done something else because he or she was doing A. The intended sense of "because" is, as usual, the one deployed in rationalization. If we may be permitted free appeal to the notion of a part, then our thought might also be expressed, a bit more metaphysically, as follows: an event, the building of a house, for example, is an intentional action just in case it is the "cause" of its own parts --- where, again, the intended notion of "cause" is not pre-conceived, but is that captured by the "because" of rationalization, whatever it may be. (p. 112)
しかしこうした「素朴な行為理論」が行為の一般理論となりうるためには、結局のところ、任意の行為について、それを一部分として包摂するような、より大きな目的論的プロセスの存在が求められるということになりそうであるけれども、果たしてトンプソンの試みは全体として、そうした強い目的論を説得的な形で示すことに成功しているのか。(とりわけ、第1部での生命論の試み――もしそれがうまくいくのであれば、行為の目的論を最終的に、行為者=生物がその属する種に応じて営む「生の形」に帰着させることもできるかもしれないけれども――がうまくいかないとすれば。)

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2008年11月27日 (木)

◆Thompson, LA
ようやく第1部“The Representation of Life”を読み終える。しかし内容は既発表の同名論文(1995)とほぼ同じ。というわけで、以前にこの論文を読んだ際の疑問は相変わらず解消されないままなのだった。うーん。

ここでのトンプソンの狙いは、「猫は肉食だ」や「人間には32本の歯がある」といったような“アリストテレス的定言文”(あるいはそれによって表現される“自然誌判断”)の持つ判断形式の特殊性を確認することで、そうした独特の判断形式に支えられたアプリオリな概念として「生命」の概念を解明することにあるけれども、そもそもトンプソンの考察が訴えるような形の自然誌判断は、生命もしくは生物の種に固有のものと言えるかどうかという点からしてやはりよく分からないまま。(猫や人間といった生物種についてと同様に、山や川のような地形学的な種、水のような物質種、さらにはテレビやテーブルのような人工物の種についても、自然誌判断を形成することは可能である――というばかりではなくまた実際、例えば「テレビって何?」と訊かれた場合には通常そうした自然誌判断を提示することで答えている――のではなかろうか。)この点をはじめとして、結局のところ論理的-言語的"representation"を焦点にしたトンプソンの考察が生命のリアルな生態(?)を捉えることにどの程度まで成功しているかに関してはあれこれ疑問が残る。こうした点についてはNatural Goodnessでのフットの批判もあるけれども、そうした問題への対応がほとんど全く示されていないのはちょっとどうなのだろうか、というのが今のところの正直な感想。

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2008年11月22日 (土)

◆Thompson, LA
・Michael Thompson, Life and Action: Elementary Structures of Practice and Practical Thought (HUP, 2008)

トンプソンさんという人はまた随分と壮大なことを考えているのだなあと改めて感嘆しつつ、でもイントロダクションを見ただけですが。
対象一般-個別実体-生命-行為者というアリストテレス的な存在の階梯を踏破し直すことで、(アンスコムやフット、ハーストハウスらの目指しているような)アリストテレス的倫理理論の再構築を企てよう、ということだそうです。

My effort might better be characterized as aiming to bring my own thoughts about the matters at hand --- however unworthy these thoughts may be --- into what we might call the Aristotelian tradition in philosophy and practical thought. And here there is after all a genuine tradition: the antecedents to whom we must "look up with grateful awe," as Frege said of Kant, would include not just Aristotle but also St. Thomas, Hegel, Marx, and even indeed Kant in certain respects. Kant's third critique and the pure "psychology" that pervades his work clearly bring him under this heading. […] The other thinkers I mentioned all worked with a deep knowledge of the actual Aristotle, and, I think, it is only by seeing this that we can make a beginning of understanding them or making use of them. The project of an "analytic" or "analytical" Hegelianism or of an "analytical Marxism" (however well- or ill-advised such a thing might be) must see itself as aiming at a form of analytical Aristotelianism, and thus at a form of what Anscombe was first to attempt and is also here attempted. (pp. 11-12)
でもって、こうした目的論的な形而上学の復興の試みは、また他方で、(アリストテレス-)カント-フレーゲの伝統に連なるような、「生命」や「行為」、「実践」といった形式的で言わばアプリオリな概念――ちょうどフレーゲにとっての「対象」や「概念」がそうであるように――に関わる判断形式一般の分析という方法論と結び合わせられることによって、「分析的アリストテレス主義」の名に値するものになるのだ、と。

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2008年11月21日 (金)

◆Steward, OM
ひとまず読み終える。
心的因果に関する問題解決の目途をつけるために因果性の理解の方を調整する(そして存在論を極端に内包化する)、というようなスチュワードの基本的なアプローチに対して個人的にはあまり共感を覚えないせいか、いろいろ疑問を感じる部分が多い。これはつまり、羹(=心的状態)に懲りて膾(=状態一般)を吹く、の類いではないのだろうか?

第2部は結局、ジャクソン&ペティットの"program explanation"というアイディアを転用する形で、個物(出来事)としての原因ではなく、事実としての原因に依拠した命題的説明の権利付けを図ろうという話。
そして最後の第3部では、因果性に関するそうした見直しに立って、トークン同一説、消去主義、随伴現象説がいかに問題含みの因果観に立脚しているかという観点から批判される。そして、「心の存在論」は個物の存在論(出来事や状態の織り成す因果的ネットワークとしての心)ではなく、むしろ事実の存在論をベースとして理解されるべきであり、併せてまた、事実を原因として捉えるような因果理解に立つことによって、心的因果の問題解決への基本的な筋道はつけられるのだ、という提案で締め括られる。

"program explanation"というアイディアを打ち出す際のジャクソン&ペティットの狙いは、低次の物理・化学的な性質(カテゴリカルな性質)を引き合いに出すタイプの説明("process explanation")とは違って、高次の(生物学的、心理学的、社会的、歴史的、等々の)ディスポジショナルな性質に訴えた説明を真正の因果的説明として権利付けることにあるが、スチュワードはこうした性質の区別を軸とした問題構図をむしろ、単称因果言明と命題的な因果的説明との区別に適用することで、因果的説明についての二元論的な見方を提案する。
すなわち、何かある結果が生じた場合、その結果は一つには、それを実際に引き起こした個別的な(諸)存在者(典型的には個別的な出来事)――因果的efficacyを備えた存在者――を特定することによって説明される。「…は…を引き起こした」という単称因果言明が述べているのは、個物としての原因-結果間のこうした"causing"関係である。
また結果は他方では、それと因果的な反事実的共変関係にあるような事実(もしその事実がなかったらその結果は生じなかったような)を特定することによっても説明される。そうした事実は、その結果に対する因果的efficacyを持たないにもかかわらず、因果的relevanceを持つ。そうした事実を表す文を用いた命題的説明が述べているのは、そうした因果的relevanceに支えられた関係に他ならない。
(また、因果に関するわれわれの実際的関心にむしろ適切に応えてくれるのは、一般には前者のタイプの説明よりも後者のタイプの説明である。)

因果性についてのわれわれの通常の理解からすれば、因果連関は一般に、因果的efficacyを備えた諸個物(出来事や状態)が複雑なネットワークを介して結果を産出するに至るプロセスとして描き出される(因果性についての「ネットワーク・モデル」)。そこでは、個別的な出来事と並んで、そうした出来事が当の結果を生み出すために必要とされる諸条件もまた個物(=状態トークン)として原因の地位につけられることになる。心の哲学の諸理論が暗黙の内に採用しているのもこうしたネットワーク・モデルであり、かくしてそれらは、信念や欲求といった心的状態を個物――"causally efficacious entity"――として立てるような"particularist"アプローチを採ることになる。
しかし上述のようなスチュワードの因果観の提案が示しているのは、こうした心的状態の個物化が因果に関する全くの誤解の産物だということである。

Of course, the idea that we might try to represent the aetiology of some particular action by means of a diagram detailing the beliefs, desires, thoughts, intentions, emotions, whatever, that are thought to be involved in its provenance is not in itself objectionable; what is mistaken is the thought that such a diagram represents the causal interactions of a set of separate, particular entities. What it actually represents is a collection of the nominalized explanates of the various sentential explanations which we deem appropriate in the particular case --- a picture of the relevant facts, not the structure of a physically realized web of causal interactions amongst particulars. The causal character of belief-desire explanation need not be threatened by this realization, provided we recognize the causal relevance relation --- one need not find beliefs to be causally efficacious particulars in order to think that one does things, in part, because of what one believes. (p. 245)

こうして視点からスチュワードが狙っているのは、トークン物理主義とは違った形で心的なものの因果的実在性を擁護することにあるが、残念ながら本書の中ではそうした方向へ向けての積極的な提案は詳述されてはいない。(例えば、心的なものの領域の中で何が真の出来事と見なされるべきかも明確にされていない。)
またそうした試みへの下支えとしてスチュワードが打ち出す因果観についても疑問を感じる点が多くある。事実を原因の座に据えることに伴う存在論的な費用対効果の算出結果はそれほどはかばかしいものになるとは思えないし(状態と並んで過程――これについてはスチュワードは第2部以降ではほとんど語ることがない――の取り扱いも考慮に入れた場合には特に)、幾つもの問題がただちに待ち受けているようにも見える。

因果的relevanceに関するスチュワードの議論によれば、ある結果に対してある事実が因果的relevanceを持つ(またその限りで原因と呼ばれ得る)ためには、その事実と結果との間に、「その事実がもしなかったら、その結果は生じていなかった」というような反事実的な依存関係が成立していなければならない。そしてこれは、次のような――因果性の反事実的分析にはおなじみの――奇妙な帰結をもたらすように思われる。
人物AはXに向けてピストルを発射し、Xを首尾よく殺すことに成功する。だがその状況では、AがXの殺害に成功しなかった場合には別の人物BがXの命を確実に仕留めるよう手はずが整えられていた。こうした場合、Xが死亡した原因は、直観的に見てAがピストルを発射したことであると思われるし、また実際、因果的efficacyと単称因果言明に関するスチュワード自身の見方からしても、Aによるピストルの発射という個別的出来事はXの死亡の原因と見なすことが許される。にもかかわらず、Aがピストルを発射したという事実は、Xの死亡という結果に対して因果的relevanceを持たず、したがってその原因ではない。というのも、Aがピストルを発射するという事実がもしなかったとしても、Xは(Bの手によって)命を奪われていただろうからである。
こうした一見したところのパズルを解くべく、スチュワードは「個別的結果」と「命題的結果」との区別を導入すべきだと提案する(p. 195f.)。すなわち、Aによるピストルの発射という個別的出来事は、Xの死という個別的結果をもたらした(「Aのピストル発射はXの死を引き起こした」は真である)が、Aがピストルを発射したという事実は、Xが死んだという命題的結果をもたらしたわけではない(「Aがピストルを発射したので、Xは死んだ」は偽である)、と。
しかしこうした提案は(少なくとも個人的には)きわめて受け入れがたいものだと思われる。またもしこうした提案が、出来事と事実という二重体制の存在論を取ることで生じると思われる様々な因果的多重決定の問題に対するスチュワードの解決の雛型として考えられているのだとすれば、それはむしろスチュワードの側にとってあまり有利に働くようには思われない。

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2008年11月17日 (月)

◆Steward, OM
第5章「個物、事実、因果的説明」。
因果性と因果的説明をめぐる標準的な見解を批判的に検討することを通じて、一方では、因果関係に立つ存在者(因果的な力の担い手)として状態トークンを導き入れようとする誘惑を斥け、また他方では、事実というカテゴリーに因果的力を帰す(つまり事実にも原因としての地位を認める)という戦略――この点ではD. H. Mellor, The Facts of Causationに近い――を打ち出す、というようなことになるらしい。

It will be my eventual conclusion that there is no hope whatever of ridding ourselves of commitments to causal relationships in which one or more of the relata is a fact; and that none of the arguments proffered by Campbell, Fales, and others show, either, that continuant things cannot be causes. In short, I shall be trying to argue against the common suggestion that we ought to try to reduce the rich and varied assortment of causal idioms found in ordinary causal explanations to a single paradigmatic form, and correspondingly, to suggest that there is not really any sensible question of the form ‘What are the "true" or "real" relata of the causal relation?’ (p. 138)
この引用に見られるように、因果性の問題に関するスチュワードの基本的な態度は(出来事の概念についてそうであるのと同様に)寛容で多元的とも言えるものであるけれども、そのせいでかえって議論の焦点が見えづらくなるというか、そもそもなぜ状態(トークン)の概念だけが眼の敵にされるのかが不明瞭になってしまうようにも感じる。というのも、状態の因果的地位に関するスチュワードの議論(状態を原因と見なすことへの批判)は、それと並行する形で過程のカテゴリーについても当てはまるように思われるから。
しかしまあこの第5章は、因果性一般に関するスチュワードの議論全体の内のようやく前半部分なので、結論を出すのはまだ早いのだろうけれど、議論の展開がなんだか散漫な印象は受ける。

なお、上で因果性に関する「標準的な見解」と呼んだものの内容は、大よそ次のようにまとめられる。

(A)因果的な力の担い手に関する標準的見解: 因果的な力を持つもの(したがってまた真に因果関係の項となり得るもの)は、純粋に抽象的・普遍的なもの(例えば事実や命題)であってはならないし、またあまりに個別的すぎるもの(個物)であってもならない。原因・結果となるに相応しいのは、適度の普遍的(質的)性格と適度の個別的性格とを兼ね備えたもの――出来事、状態、過程、個別的特性(トロープ)、…――でなければならない。

(B)因果性と因果的説明に関するデイヴィドソン的見解: 「…は…を引き起こす(… causes …)」という外延的関係表現を用いた単称因果言明(典型的には、CとEが或る個別的出来事を指すとして「CはEを引き起こした」といった言明)は、自然界の内で成り立つリアルな因果関係を表している。これに対して、「~なので~(~ because ~)」という内包的な文結合子を用いた命題的な因果的説明が表しているのは、文によって表現される事実どうしの間の説明関係(リアルな因果関係とは区別された、われわれにとって理解可能な因果的ストーリー)である。

(C)単称言明と命題的説明との関係に関する「存在汎化説」: 「~なので~」という命題的な因果的説明が真である場合、それが真であるのはしかるべき単称因果言明が真であるためである。この意味で、「pなのでq」というような命題的な因果的説明は、(典型的には原因・結果という出来事間の関係を述べた)単称因果言明の存在汎化――「(∃e)(∃e')(eはe'を引き起こした)」――と見なすことができる。

さて、これら三つの基本的主張の内で、この第5章でスチュワードが特に議論を集中するのは(C)の存在汎化説である。彼女は二種類の反例を挙げて、存在汎化説は維持できないと主張する。すなわち、(1)否定的な説明項を持つ因果的説明のケース、および(2)状態に言及した説明項を持つ因果的説明のケース、である。

(1)に関して問題になるのは、「マッチをすらなかったので火はつかなかった」、「その人は抗生物質を投与されなかったので亡くなった」、「列車は警笛を鳴らさなかったので衝突した」といったような説明である。
スチュワードによれば、これらの命題的説明を単称因果言明のフォーマットに合わせようとすれば「マッチをすらないという出来事」といったような否定的な“出来事”を持ち込むというグロテスクな帰結を招くことになる(これは出来事の不在・欠如それ自体を一個の出来事と見なすようなものである)し、またそうした帰結を避けようとして、問題のタイプの説明を因果的説明から排除することは説得力に欠ける。

また(2)に関連するのは、「橋は弱体だったので崩落した」、「私はニュースを見たかったのでテレビをつけた」といったようなタイプの説明である。
こうした説明のケースでは、それに対応する単称因果言明を定式化しようとすれば状態トークン(弱体であること、テレビを見たいという欲求)に訴える必要性が出てくるが、しかしそもそも状態には出来事のような明確な可算性・個体性が欠けている以上("As Mourelatos notes, stative nominalization transciptions are almost always mass-quantified; generally speaking, they do not accept the indefinite article and do not have pural forms." (p. 160))、そうしたやり方では最終的にうまくいかない、というのがスチュワードの主張である。

しかし(1)について言えば(「~しないという出来事」のような否定的な出来事に言及する以外には手がないかのように見えるケースに話を限ったとしても)、存在汎化説の基本的な精神に即する形で、一方では、問題のタイプの説明に一定の因果的な性格を認めながらも、他方では、それを出来事(「マッチをすること」、「火がつくこと」のような通常の肯定的な出来事)間の因果関係について述べたものとして解釈することは可能であるように思われる。
(――といった線で半日ほど考えてみたけれども、初歩的な所で間違っていると恥ずかしいのでここには書かない。)

また(2)については、状態を説明項とするようなタイプの説明に関するスチュワードの議論が正しいものと認めるとして、その上で直ちに問題となるのは、それと基本的に同様の議論が「雨が降っていたので地面は濡れていた」、「彼は運動中だったので心拍数が上昇した」といったように説明項として過程に言及するタイプの説明にも当てはまるだろうということである。
(これについては、デイヴィドソンに関するムレラトスのコメント("Events, Processes, and States," p. 434, n. 48)も参照。―― "At any rate, it is significant that of all the examples Davidson uses in his article ["The Logical Forms of Action Sentences"] none are cases of process predication.")


こうした問題はともかく、存在汎化説のような仕方で命題的説明と単称言明とを繋ぐのでなければ、それら二種類の因果言明はどのように繋がるのか(つまり、いかにして命題的説明は――単なる「良くできたお話」であることを越えて――実在の内に根拠を持ち得るのか)、というのが次章の中心問題になるらしい。

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2008年11月15日 (土)

◆Steward, OM
第2部からいよいよ話題は状態へ。
はじめの第4章はそのイントロダクションといった様子。「状態」をめぐる様々な語り口に関する文法的な考察を通じて、「心的状態」という概念、またそこにタイプ/トークンの区別を重ね合わせることで得られる「(心的)状態トークン」という概念がいかに奇妙で問題含みであるかを浮かび上がらせよう、ということらしい。個々の文法的所見には「なるほど」と思わされる所も少なくないのだけれども(例えば、「…の状態」という表現の濫用が引き起こしかねない混乱について、あるいは心的状態を表す表現が持つ――状態表現としては――例外的な可算性について、等々)、それらが全体としてどういった構図に収まることになるかがまだ明らかではないこともあって、どのような哲学的重要性を持つかについては判断に迷うところもある。

そういえば、以前に金杉武司『心の哲学入門』を読ませて頂いた際に、全体を通じて基本的概念について初心者向けの丁寧な解説が加えられた本であるにもかかわらず、タイプとトークンとの違いについてはかなりぶっきらぼうな扱いがされていたのが少し気になった記憶があるのだけれども、あれはどういうことだったんだろうか。(問題の区別があまりに自明すぎるからか、それとも泥沼にはまりかねないのを見越しての賢明な配慮か。)

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2008年11月10日 (月)

◆Vendler, Mourelatos
・Zeno Vendler, "Verbs and Times" (1957)
・Alexander P. D. Mourelatos, "Events, Processes, and States" (1978)

ついでなので、この機会にアスペクトの問題について勉強しておくか、ということで、ケニーの本は前に見てあったのでその続編。これらを見ると取りあえずは「アスペクトをめぐる哲学史」の大要が分かってしまうというのは、嬉しいような、悲しいような。
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半世紀を経てヴェンドラー論文を振り返ってみると、その日常言語哲学チックな論述スタイルや、ライル的な行動主義への共感があらわに見えるあたりがやはり、その後の哲学の流れ中でヴェンドラー(やケニー)の切り開いた問題領域への関心を閉ざす要因となったんではなかろうか、――と勝手に想像してみる。

それはともかくとして、ムラレトス論文の方は、言語学的知見を大幅に動員しての体系志向のスタイルや、(心の哲学や行為の哲学への関心に方向付けられたケニーやヴェンドラーの試みとは対照的に)より基礎的な存在論的区別への関心によって特徴付けられる。
後者の点については、ケニー=ヴェンドラーによる activity - performance (accomplish/achievement) - state という三分法(行為者性の概念を予想した分類)は、ムレラトスによれば、より広範な存在論的射程を持つ process - event (development/punctual occurrence) - state という「話題中立的」な三分類の特殊ケースにすぎない。
そして、こうしたムレラトスの考察の背景にはやはり、キネーシス(=performance)とエネルゲイア(=activity, state)というアリストテレスの区別(Met. 1048b18-36)への関心が潜んでいるものと思われるし("Events, Processes, and States," p. 431, n. 7; cf. Kenny, Action, Emotion and Will, p. 173, n. 2)、また彼がprocessとeventとの関係をmass termとcount termとの関係になぞらえる背景にも、そうしたアリストテレス的な区別に即した見方(そこではprocessはむしろstateに同化される)が大きく関わっている。

Process, a term ready to hand, is the topic-neutral counterpart of activity. (We need, however, to be on guard against possible confusion since some authors, especially philosophers in the context of discussion of mind-body identity, have used "process" as the counterpart of "accomplishment.") (p. 423)
「過程 process」についてのムレラトスのこうした捉え方は、少なくとも日常的な理解に照らし合わせてみる限りでは、かなり人工的な部分を含んでいるようにも見えるけれども(というのもそこでは、過程に内在すると通常思われている統一性は失われて、不定形な持続だけが残ることになるのだから)、それはひとまず措くとしても、こうしたムレラトス流の枠組みを引き継いだスチュワードにとって、過程というカテゴリーは結局のところどういった意味を持つことになるのか、やはり疑問に思えてくる。(出来事のカテゴリーとは違って状態のカテゴリーには個物性・個体性を否定するスチュワードにとって、結局のところ過程の概念はどのように位置付けられることになるのか。)

こうした問題をめぐっては、アリストテレス研究の文脈でムレラトスの議論がどういったインパクトをもたらしているのかを見るのがよさげではあるけれども、これは激しく自分の手に余るのでペンディング。

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◆Steward, OM
手強そうな本かと思いきや、回りくどい語り口が所々で目につくものの、議論の内容は案外あっさりしているのだった。

存在者の基本的なカテゴリーとして、(1)個物、(2)普遍者、に加えて、(3)事実状(fact-like)の存在者、という三分法を据え、心の哲学においてしばしば曖昧なままに留め置かれている出来事と状態との区別を明確化した上で(出来事が個物であるのに対して、状態は事実状の存在者である)、心の哲学にとってのその帰結を辿ってみよう、――といった所が狙い目になるらしい。(が、まだよく分からない。)

まず第1部は出来事をめぐって。

第1章は、特性の事例化として出来事を捉えようとするキムやベネットのアプローチへの批判。その批判のポイントは、こうしたアプローチでは、心の哲学における代表的なオプションたるトークン同一説(トークン物理主義)を有意味なものとして定式化することすらできなくなってしまう、という点。(こうした角度からの批判はキムにとってはかなり不本意なのではないかという気もするけれども、トークン同一説に対するスチュワード自身の態度がまだはっきり見えてこない段階では、なんとも言いがたい。)

続いて第2章では、変化の概念に基づいて出来事の概念を輪郭づけようとするロンバードの「力動的」アプローチが取り上げられるが、これは最終的に、出来事と状態との区別を適切に捉えることができないという理由で斥けられる。(一方では、何の変化も伴わないような出来事も存在するし、また他方では、変化の概念と密接に結び付いた状態も存在する。)

最後に第3章では、出来事と状態とを適切に区別し得るようなアプローチとして、スチュワード自身の「時間的」アプローチが提案される。その基本的なアイディアは、時間との間で取り持つ関係――「時間的形状」――の相違に着目することで、出来事と状態との区別を明らかにしようというもの。
ただしこの章では、状態を主題とする議論への前段として、出来事と過程との区別をめぐって、アスペクトの概念を軸とした検討が中心となる。

スチュワードは、出来事と過程が、その出来/持続する時空的領域を完全に等しくするような可能性を認めつつも(例えば、「私がゴールまで走った」という出来事と「私が走っ(てい)た」という過程)、そこにカテゴリーを異にする二つの存在者の存在を立てるべく、出来事と過程との関係を、個別実体とその質料(素材)との関係になぞらえるような見方を提案する。(これは、出来事の述定と過程の述定との区別を、count nounとmass nounの区別になぞらえようとするMourelatosのアイディアに由来している。)
こうした見方については個人的には非常に不満を感じるのだけれども、もう少し話の展開――出来事/過程の区別をどのように使おうとしているのか――を見てみないことにはやはりまだ何とも…。しかし、スチュワードの念頭にあるような心の哲学(脳内で何が生じているかを見やりつつ、心的なものの存在論的身分を確定しようとする試み)の枠内では、結局のところ出来事と過程との区別はさしたる重要性を持ちそうにはないんではないか、――というような予感が濃厚に漂っているのが、(今のところ)不満の最大の原因かもしれない。

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2008年11月 7日 (金)

◆Sinnott-Armstrong & Timmons
・Walter Sinnott-Armstrong & Mark Timmons (eds.), Moral Knowledge?: New Readings in Moral Epistemology (OUP, 1996)

ちょっと見てみる。
とりあえずは序論的な、W. Sinnott-Armstrong, "Moral Skepticism and Justification"。

・信念のevidentialな正当化とinstrumentalな正当化(pp. 18f.)
 もしも私が火星にはツチブタが存在していると信ずるのであれば、どこかの慈善家が私に百万ドルを与えてくれることになっている。そこで私は、そのように信ずる状態へと自分を変化させてくれるある特殊な薬品を服用し、その力を借りて実際にそう信ずるようになる。私がそうした信念状態へと変化したのは純粋に薬品の影響によるものであって、何か新たな証拠を獲得したからではない。
 シノット-アームストロングによれば、今の場合に私が火星にはツチブタが存在すると信ずることは、instrumentalには正当化されるが、しかしevidentialに正当化されるわけではない。私がそのように信ずることが正当化されるというのは、あくまでも、私が問題の薬品を服用することが正当化され、そうした仕方でしかるべく自分を変化させることが正当化されるというのと同じ意味でのことでしかない。
 というのも、信念がevidentialに正当化されるためには、当の信念を支える証拠と真理との間にしかるべき結び付きが存在することが必要とされるが、今のケースでの私が信念を持つことにとっては、その内容が真であるかどうかは何ら重要ではないからである。

... In fact, evidential justification could be defined as adequate positive support that is tied to truth./ In contrast, instrumental justification depends only on the beneficial effects of the mental state of belief. (p. 18 ――強調は原文)
In general, instrumental justification depends on the effects of a belief state, and the effects of a belief state do not affect the truth or probability of the belief's content, so instrumental justification is not tied to truth even probabilistically. (p. 19)
(evidentialな正当化とinstrumentalな正当化という区別に立脚してシノット-アームストロングは最終的に次のように論ずる。倫理的ニヒリズムに立つ懐疑論的挑戦を前にしては、道徳的認識論の代表的な立場――直観主義、整合主義、契約主義――はいずれも、道徳的信念のevidentialな正当化を確保することにほぼ失敗しており、それらの立場にできるのはたかだか、道徳的信念のinstrumentalな正当化を守り抜くことでしかない、と。)

上のようなケースで私が――はじめからevidentialな正当化の可能性からは切り離された仕方で――獲得することになるものを「信念」と呼ぶことには本質的にいかがわしいものが伴っているように見えるけれども、「(信念)状態」への言及というのはそうしたいかがわしさをどのように覆い隠しているのか。

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2008年11月 6日 (木)

◆Steward, OM
・Helen Steward, The Ontology of Mind: Events, Processes, and States (OUP, 1997)

読み始め。
出来事については多くの議論が集中しているのに比べ、状態についてはなんでこんなに議論が乏しいのだ?、というのは言われてみればたしかにまあそうか。
コリンズの本とは対照的に、こちらはがっちり重厚な構成で、ちょっと手強そうだな。。。

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2008年11月 5日 (水)

◆Collins, NMT
第6章と第7章の主題は行為と因果性。
理由による行為の説明についてのデイヴィドソン以後の「標準的」見解によれば、「彼は明かりをつけようとしてスイッチを押した」といった説明は、その目的(=明かりをつけること)へと向かうような内容を備えた心的状態(明かりをつけようとする欲求や意図)によって当該の行為が因果的に引き起こされることを述べた因果的説明として解釈される。
コリンズは、こうした因果説では行為者の輪郭が見失われてしまうと批判し、理由による行為の説明をむしろ素朴に目的論的説明(原因としての心的状態の措定を不用とするような)と考えるような代案を打ち出す。彼は生物のホメオスタシスについての説明をモデルとして取り上げ、目的論的説明一般の権利付けを図った上で(そこでは、目的論的なものを心的な志向性に帰着させようとするウッドフィールドの試み(Andrew Woodfield, Teleology, 1976)が特に批判される)、生物のホメオスタシスと類比的に行為一般をも「環境の変化に応じた補償作用」として捉えようとする見方を提案する。

Action is a kind of limiting case of compensation. The action compensate for the general failure of the world to produce the objective without intervention from the agent. (p. 141)
こうした視点からさらに、「彼は明かりをつけたかった(欲していた)のでスイッチを押した」といったように、行為者の心的状態に明示的に言及しているかに見えるタイプの説明において、そうした言及の演じている役割についても考察が加えられることになるが、そうした展開はひとまず措くとして、コリンズの基本的なアイディアは非常に興味深いものだとは思うのだけれども、残念ながら目的論的説明についてのコリンズの議論は基本的にアーネスト・ネーゲルの水準に留まった旧弊なもので、そのままの形ではあまり説得力が見込めないと思う。そしてまた、その議論をブラッシュアップしようとすると(例えばミリカンのように明示的に進化論的視点を組み込む形で)、今度は、目的論的活動一般と行為との間にコリンズが打ちたてようとするアナロジーが説得力を失うことになりかねない。(そうしたアナロジーを説得的なものとするためには、コリンズが与えている以上に多くの努力を傾ける必要があると思う。)

というわけで、議論の内容にいろいろ不満はあるものの、しかしこれは刺激的なアイディアとヒントに満ちた大変面白い本だと感じた。特に、例えば『指示の諸相』でのエヴァンズの試みの、さらにその先に開かれるような心の哲学の展開を考える上では、多くのヒントを与えてくれるんではなかろうか、と思った。(しかし残念なことに、ここではそれらは往々にしてヒントの域に留まっているようにも感じた。)

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2008年10月31日 (金)

◆Collins, NMT
しょぼしょぼと読み進め中。
アイディアに富んだ面白い本なのだけど、平明に書かれているようでいてあんまり親切ではない部分もあったりで難しい。どちらかというと、生のままのアイディアを書き記した研究ノートのような雰囲気。

心的なものの同一性あるいは身元を、その主体に内に実在するような存在者として突き止めることこそが哲学の課題なのだと捉えるような、広義の同一説(二元論であれ、唯物論であれ、機能主義であれ、その他何であれ)とは手を切りましょう、というのが第1章の話。(また消去主義も、「もし信念のようなものが実在するのであれば、それは主体に内在する心的状態として存在するのでなければならない」という考えにコミットする点において、こうした広義の同一説と根を等しくしている。)

それに続く第2、3章は、手始めに信念についてこうしたプログラムを実行に移そうという試み。
「誰某はpと信じている」という三人称的言明(信念の帰属)と「私はpと信じている」という一人称的言明(信念の表出)との間の相違に十分注意を払いつつ、信念というものを何か内的な状態として考えようとする誘惑を払いのけるような代案を示そう、というのがそこでの狙いということになる。
その詳細ははしょってコリンズの戦略の大筋だけを確認しておけば、一見すると正しいかに見える次の原理

主張原理: qという言明がpの主張であるならば、qが真であるのはpが真である場合、この場合に限る
を斥け(というのも、「誰某はpと信じている」という三人称的帰属言明とは違って、「私はpと信じている」という一人称的表出言明は、pということを主張してもいる――にもかかわらず、pが偽の場合でも真でありうる――のだから)、それに代えて、一見すると全くトリヴィアルで無内容とも映る次の原理
意味論的原理: Sがpと信じているならば、Sはpに関して正しいか、もしくはpに関して誤っているかのいずれかである
を手掛かりとして信念の概念を解明しようとするもの。
Emphasis on the Semantic Principle suggests comparison with the concept of knowledge. We all agree that for a subject S to know that p, p must be true. In fact, belief is much more like knowledge than philosophers have supposed. Belief exhibits the same kind of irreducible connectedness to the world outside the believer as knowledge, though the connection is somewhat different and more complex. ...
.... the Semantic Principle reminds us that one cannot believe that p without being either right about p or wrong about p. One truth value or the other is required for belief that p, just as essentially as the value true is required for knowledge that p. The fact that the concept of belief does not require a particular truth value generates the mistaken impression that being a true belief or a false belief is not essential to being a belief. (p. 33)
コリンズによれば、こうした視点から見えてくるのは、信念の持つ本質的に選言的な性格――「信じているということは、正しいかもしくは間違っていることに他ならない」(p. 41)――であり、その点に着目することによって、「Sはpと信じている」という言明は最終的に次のような形で分析される。
Sはpと信じている iff. pは真で、Sはpに関して正しいか、もしくは、pは偽で、Sはpに関して誤っている。
こうした分析によって、pの真偽云々とは独立に特定可能な内的状態などというものをSの内に措定する必要は回避されることになる、というのがコリンズの言い分である。

しかしこうした分析については、大きく二つの点で疑問を感じる。
第一に、この分析が立脚している「正/誤」の概念をどう捉えるか、という点について。
コリンズは「pに関して正しい/誤っている」という表現について、次のように説明することもできるだろうと言う(p. 44, n. 2)。

・「Sはpに関して正しい」は真である iff. Sはpと信じており、かつpは真であるか、もしくは、Sはnot-pと信じており、かつpは偽である。
・「Sはpに関して誤っている」は真である iff. Sはpと信じており、かつpは偽であるか、もしくは、Sはnot-pと信じており、かつpは真である。
しかしpに関する正/誤の概念がこのように信念の概念を直接的に前提しているのだとすれば、前者の概念を用いて後者の概念を分析することで何が成し遂げられたことになるのかよく分からなくなる。

また(恐らくはこれとも関連するが)第二に、コリンズが信念について与えるような「真の場合にはこれこれで、偽の場合にはこれこれ」というシンメトリカルな“両論併記”的な分析は、信念の概念と真理の概念との結び付きを十分に捉えそこなっているようにも思われる。というのも、信念を持っているということは、そのように信じられている内容に関して単に正誤いずれでもあり得るというばかりではなく、正しく信ずるように目指すことだからである。信念は真偽いずれでもあり得るが、偽の信念を持つことはある重要な意味において失敗である。そして、信念を持つことにおいて正しくあることがいかなる意味で成功であり、誤ることはいかなる意味で失敗であるかを明らかにするためには、(上の第一の点に立ち戻ることになるが)コリンズが立脚している正誤の概念について、より実質的な解明を加えることが不可欠なのではないだろうか。(なおかつ、コリンズは内的状態や内的表象など「内的なもの」一般をはじめから忌避することで、そうした実質的な解明への道を自ら塞いでしまったのではないのだろうか。というのも、なぜ「内的なもの」に与することは、「あらゆる点で内的なもの」に与することでなければならないのか。)

例えば、〈pは偽で、Sはpに関して正しいか、もしくは、pは真で、Sはpに関して誤っている〉という場合、この場合に限ってSが持つと定義されるような*信念*(「Sはpと*信*じている」)というものを考えるとすると(もちろんこうした*信念*の概念は、さらに*正*/*誤*の概念によって分析することができる)、通常の正常な信念と、その反転形である*信念*との間にあるべきギャップを、どのようにして明らかにすることができるのか。

――しかしまあこの辺の問題については、コリンズがこうした信念の分析を、行為の概念に関する考察の中でさらにどのように利用しようとしているのかを見てみないことにはまだよく分からない部分が大きい。
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上の問題に関連した論点については第7章でも再び取り上げられているが、それを踏まえた上でちょっとメモ。

信念についてコリンズが提案する「選言的」な考え方のポイントは、信念というものを、その内容の真偽に中立的に――その真偽に関わりなく同一のものとして――主体の内に存在するような状態として考えることはできない、ということである。
そしてコリンズは、信念それ自体をそうした中立的な心的状態と見なす立場を斥けるばかりではなく、信念の構成要素、あるいは信念の一部としてそうした中立的な状態(当の信念の真偽に関わらず同一であるような何らかの状態)を措定しようとする立場をも斥ける。
それによって、内的状態や内的表象といったものを持ち込もうとする誘惑(コリンズによれば、それはデカルト主義的な心の哲学の残滓である)は一切撥ね付けられるのだ、というのがコリンズの見解である。

しかしここまでのコリンズの議論を認めたとしても、次のような形で内的状態を取り入れるという可能性はまだ残されてはいないだろうか。それによれば、信念それ自体は中立的な心的状態ではないし、また信念を部分的に構成するような中立的状態も存在しない。しかし信念は、その内容の真偽に応じるような非中立的な状態(例えば真の場合にはAという内的状態、偽の場合にはBという内的状態)によって部分的に構成されている。――こうした可能性である。(したがって、これらの内的状態が「内的」と呼ばれるのは、信念内容の真偽という「外的」な要素とは独立に、同一のままであり続けることができるからではない。)
この場合、例えばpと信ずることは、pが真である場合にはA状態をもたらし、pが偽である場合にはB状態をもたらすような何かある一般的能力の行使として考えることもできる。
こうした構図から見れば、信念の概念と正誤の概念との相互定義のためにコリンズの分析に実質が欠けている理由も明らかとなる。つまりその空疎さは、コリンズにとって、pと信ずることは単に「pという信念をもたらす能力」の行使としか規定されていないことに起因しているのである。

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2008年10月29日 (水)

◆Collins, NMT
・Arthur W. Collins, The Nature of Mental Things (University of Notre Dame Press, 1987)

注文していた本がなかなか届かないので、倫理学方面はひとまず中休みにしてこちらを読んでみることに。
ちなみに目次はこんなんです。

1. Prospects for the Philosophy of Mind
2. Belief Statements and Belief States
3. Pointing Models for Discourse about Belief
4. The Concept of Consciousness
5. Visual Experiences and Theoretical Identification
6. Action and Teleology
7. Causal Explanation and the Philosophy of Mind
全体を通してのテーマというと、一般に信念等がそうであると考えられているような心的な存在者(その主体の内に実在するとされる内的表象)に関するデフレーション的な対応を貫き通すといったような感じであるみたいですが、そうしたアイディアというのはある意味では最近のvehicle externalismみたいな路線にも親和的であると言えるのかな。(例えば、メモ帳のような「外的」対象が記憶という心的状態の担い手であって何が悪い、みたいな。)

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2008年10月27日 (月)

◆Ross, RG
・W. D. Ross, The Right and the Good (OUP, 1930)

ムーア(『倫理学』 (1912))、プリチャード("Does Moral Philosophy Rest on a Mistake?" (1912))ときて、今度はロス。第3章まで。
(もっともムーアの本は、原文と一々付き合せるのが段々めんどくさくなってきて、訳文を眺めながら「原文は多分こんなことを言ってるんじゃないかなあ」と妄想力を羽ばたかせつつお終いまで辿りついたというだけなので、「読み終えた」というよりは「妄想し終えた」という感じである。)

ムーアの"ideal utilitarianism"の出発点が、その都度の一回的な行為トークンの倫理的正しさに関する評価にあったのに対して、ロスの言う"prima facie duty"という概念は、そもそもの初めからしてタイプとしての行為(例えば約束することや、嘘をつくこと)に定位している。(一個の行為は、あるタイプに属することにおいてしかじかのprima facie dutyの下にあり、同時にまた別のタイプに属することにおいてかくかくのprima facie dutyの下にもある、等々。)この点ではロスのムーア批判はかなりすれ違い気味とも思われるけれども、しかし翻って、一回的な出来事として見られた限りでの行為(それを促す動機からも切り離して捉えられるがゆえに、それがもたらす結果に照らす以外に倫理的評価を受けることはないと思われるようなもの)というのは果たして何であるのかというと、段々よく分からなくなってくる。例えば、ロスにとって行為の正しさはその行為の本性(例えばある行為が「約束を果たす」という行為であること)に根差しているのでなければならないが、純粋にトークンとして見られた行為にとってその「本性」というのはどのように考えられることになるのか。

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2008年10月23日 (木)

◆Miller, ICM
やっと読み終える。疲れたもう寝る。
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かなり執筆を急いだのか、前半部に比べると後半の方は話の組み立てがあまり練られていないような印象。全体としては、どちらかというとブラックバーン寄りの所に話の落しどころを持ってくるという締め括り方で、第4章でブラックバーンの見解についてかなり詳しく論じられていたのはこうした展開への伏線だったのかと納得する。あれこれ情報量が豊富で、とりわけブラックバーンとレイルトン(第9章)については素直に「勉強させて頂きました」という感じなのだけれども、それ以外の部分では若干期待外れな感も。まあこれは単純に、自分の関心と重なり合う部分の多い少ないの問題にすぎないかもしれないけれど。(それはそうと、この本を読む限りでは90年代のウィギンズは全く迷走しているようにしか思えないのだけれども、これはどういうことなのかなあ。)

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2008年10月21日 (火)

◆McNaughton, MV
幾つかの章は駆け足で、ひとまず読了。
ミラーの本が言語哲学的考察を軸としているのに対して、こちらは道徳心理学的な議論を中心に据えた構成。実在論へのコミットメントという党派的な色合いが強すぎるような気もしないではないけれども、この辺の問題をめぐる基本的な入門書としては第一級の本と言えるんではなかろうか。(しかし、実在論にさしてシンパシーを持たない人にとってはあまり面白みの無い本と感じられるかもしれない。)
とはいえ、倫理的事実の把握・観察という主題に関して、美的性質や芸術作品の享受とのアナロジーが何度も引き合いに出されるのを見ていると、段々とそうした「審美的」なスタンスに少しばかり居心地の悪い思いも強まってくる。

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2008年10月18日 (土)

◆McNaughton, MV
・David McNaughton, Moral Vision: An Introduction to Ethics (Blackwell, 1988)

ミラーさんの本は最後の章がまだ残ってるけれども、ついでだからこちらを先に見ておくか、ということで前半。
今となってはやはり古さは否めないのだろうなあと思いつつ、実在論が復活を遂げつつあった時代の感触をとどめた書きぶりが面白い。時代といえばこんな年表を見つけたけど、なんだこれは。

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2008年10月16日 (木)

◆Miller, ICM
超スローペースでようやく第8章まで。
著者のミラーさんはクリスピン・ライトに比較的近いポジションで仕事をしている方だから当然ではあるけれども、全体としてやはりライトの影を強く感じさせる本。(主として問題の切り取り方という点で。もっともライトの擁護するような「弱い認知主義」それ自体に対してはかなり批判的な見解も示されている。)特に、ムーア以降の直観主義からの撤退の動向(エアー、マッキー、ブラックバーン、ギバード、ライト)を辿った前半部(第7章まで)は、ライトのTruth and Objectivityへと至る流れがすっきりと整理されていて、この本を読むための恰好のイントロダクションとも言えそうである。とはいえ、そうした整理の仕方ではギバードの扱い(第5章)がかなり一面的というか断片的なものになっているのにちょっと不満も感じる。(なにしろそこでは、「フレーゲ=ギーチ問題」へのギバードの対処しか取り上げられていない。)

そんなような前半部に対して、後半に入ってまずはコーネル・リアリズムを取り上げた第8章の話は、ネタの取り上げ方にしろ議論の内容にしろ、ずいぶん雑然とした印象が残るけれども、この落差はなんなのか。

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2008年10月 9日 (木)

◆Miller, ICM
・Alexander Miller, An Introduction to Contemporary Metaethics (Polity, 2003)

メタ倫理とかいうものについてなんにも知らないのもいかがなものかということで、先ずはこの本で一から勉強してみるか、と思ってはみても、相変わらずほとんど興味が湧かないので先日から遅々として進まない。たしかに哲学的に見ても面白い論点について論じられているんだよなあと頭では分かっていても、一向に興味が湧かないというか、正直なところ、そもそも「意味が分からない」とさえ言いたくなる。
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・Jonathan Dancy, "Intuitionism," in Peter Singer (ed.), A Companion to Ethics (Blackwell, 1991)
プリチャード、ロスからネーゲル、マクダウェルへというラインを描き出した小論。ダンシーの仕事のモチーフ(の一端)が窺えて興味深い。

・今日では直観主義とは、倫理的判断あるいは倫理的知識の源泉に関する教説として理解されているが、1860年代から1920年代までの期間、「直観主義」とは道徳的原理に関する多元論的立場(例えば自然主義的な一元論への批判)として知られていた。直観主義のこの二つの意味を重ね合わせたのは、1930年代のプリチャード、ロスであった。
・ロスの直観主義に対しては、とりわけその外在主義的性格が批判の的となってきた。というのもロスの直観主義において、直観によってもたらされる倫理的判断には、それに応じた行動へと人を動機付ける力が欠けているからである。
・しかしダンシーによれば、こうした問題はロスが動機付けについてのヒューム的な見解にコミットしているために生じたものである。そして、このヒューム的見解と手を切ることによって上のような批判を切り抜けることが可能になるし、また同時に、直観主義は何か謎めいた道徳感覚のような能力に頼らざるを得ないのではないかという嫌疑を晴らすことも可能になる。

This position is an internalist one, and for that reason generally preferable to Ross's externalism. Externalism was always implausible, and since it emerged as a direct result of applying Hume's views on motivation to Ross's views on ethics, the way to improve Ross's position must be to abandon Humean accounts of belief and desire. And I think this move also offers an easier answer to the question how we come to find out moral facts. When we thought of these facts as inert, in the Humean way, we only had two possible accounts of how we come to know them --- by the senses or by reason. But now we are thinking of them rather differently, as reasons for action. Given this, we might claim that their discovery is a matter of practical judgement, not of inference nor of perception, and in this way try to avoid the suggestion that we have invented a special faculty or moral sense. After all, we will be claiming that the story in the moral case is not significantly different from the story in the case of prudence, and surely there it is a matter of judgement, not of perception, when we take the fact that a bus is coming as a reason for not stepping out yet. (p. 416)
(こうしてダンシーによれば、倫理的事実を直観的に把握するということは、しかるべき事実を行為の理由として把握することであり、適切な動機付けの力を具えた信念を形成することに他ならない。しかしこの戦略は残念ながら、知覚に類した感受性というものの存在にマクダウェルのような人が固執する理由をかえって不明にしてしまう。)

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2008年10月 6日 (月)

◆『思想』
のマクダウェル特集号(2008年第7号)をほったらかしにしてあったのを思い出して読み終える。以下の三論文が訳出されている。
・ジョン・マクダウェル「徳と理性」(1979)
・ヒューバート・L・ドレイファス「心的作用の神話の克服――哲学者が日常的な熟達者的知識の現象学からどのように恩恵を受け得るか――」(2005)
・ジョン・マクダウェル「何の神話が問題なのか」(2005)

ここでのドレイファスのマクダウェル批判は、合理性についての恐ろしく狭隘な理解に立っているようにしか見えないので、これは何だろうと思いつつ読み終えたら、こんなような事情があったわけですか。

「心的作用の神話の回帰」でドレイファスはまず、「心的作用の神話の克服」で彼が二点についてマクダウェルを誤解していたことを認める。第一に、マクダウェルは合理性(理性的なありかた)・概念性を、状況から独立した、一般的なものと解しているとドレイファスが想定していたのは誤解だった。そのことはマクダウェルのアリストテレス論文を読めば明らかなのだが、読んでいなかったとドレイファスは謝罪する。(…)誤解がとけてみると、じぶんたち二人の立場はかなり近いことがわかったとドレイファスは言う。(荻原理「マクダウェル『何の神話が問題か』訳者解題」、p. 61)
大方こんなことだろうとは思ったけれど…。

「徳と理性」を改めて読み直してみると、こうした徳論をベースとした行為論――「アリストテレスのアプローチが倫理学をそこに位置付ける、心の哲学のその領域」(p. 28)――にもそれなりに見込みがあるかなあと思えてきたけれども、結局のところいかにして行為が理由付けられ、行為の理由がいかにして知られるかについて、知覚状の感受性の行使――「プロネーシスは究極的個別者の知を含んでいる。この知は体系的知識によっては到達されえず、…「知覚」によってのみ到達されうる。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』1142a25-27)――に訴えるだけで満足の行く説明が与えられるかというと、やはりよく分からない。(もっともこの点では、「ロゴスの領域には属さない」「純粋知覚」(ハイデガー)にまで退却しようとするドレイファスの方がいっそう絶望的とも言えるのだけれども。)
しかし知覚とのアナロジーは、それによって何が・どのように知られるかに関してよりもむしろ、行為の理由を知る(見てとる)ことがどれほどまでの無知あるいは盲目性と両立し得るかという点に関して興味深いものだとも思う。

マクダウェルの『心と世界』での知覚論そのものには正直なところあまり関心がないせいか、心と世界の間で何が起こっているのか、あるいはそもそもそうした「間」などというものが存在するのか、といった問題に取り組むに当たって『心と世界』で主として知覚的経験という主題を議論の場に見定めたのは戦略的に失敗だったのではなかったか、――というような無責任なことを思ってもみたり。しかし「何の神話が問題なのか」では、知覚内容に関する概念主義を維持するために、内容に関する形式/質料という区別に助けを求める格好になるけれども、これでは話が元の木阿弥(図式と内容の二元論云々)にはならないんだろうか、と、これまたよく分からず。

・ガダマーについて:

私がアリストテレスのプロネーシスを、具体的状況に特異な識別の能力(concretely situated-specific discernment)として理解することを学んだのはデイヴィド・ウィギンズからだった。だが興味あることに、私の理解するアリストテレスの見解の、私による定式化のいくつかは、ガダマーを通じて間接的にハイデガーの影響を受けている可能性が考えられる。私がはじめてガダマーを読んだのはチャールズ・テイラーに薦められてのことだった。テイラーは私に『真理と方法』を読むようにうながした。プロネーシスについて私がした話と、ガダマーのプロネーシス解釈――もちろんきわめてハイデガー的――の親近性にテイラーはおどろいたからである。(マクダウェル「何の神話が問題なのか」、p. 65)
――といったエピソードを読むと、いっちょガダマーでも読んでみるかという気にならないこともないけれど、そこにはあんまり明るい未来は無いような予感もするんだよなあ。。。
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・Samuel Todes, Body and World (MIT Press, 2001)

ドレイファスによる「イントロダクション」を見ただけ。

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2008年10月 4日 (土)

◆Dancy, McDowell
・Jonathan Dancy, "Acting in the Light of Appearance," in C. Macdonald & G. Macdonald (eds.), McDowell and His Critics (Blackwell, 2006)
・John McDowell, "Reply to Dancy," ibid.

ダンシーの本があまりに分からない悔しさにジタバタする日々。
もう一遍最初から読み直す必要がありそうだけれども、とりあえず再読用にメモ。ポイントは二つ。

(1)反因果説
ダンシーによれば、行為をその理由によって説明することは因果的説明を与えることではない。ダンシーのこうした反因果説は、行為の説明に関する彼の議論を、主として二つの形で(Practical Realityでの論述の外見から思われる以上に強く)方向付けている(らしい)。
第一に、理由の「事実的」性格について。ダンシーによれば、因果的説明とは、factiveな結果をfactiveな原因(実際に生起した事態)によって説明することでなければならないが、理由による行為に説明は因果的説明ではないのだから、そこでの説明項である行為の理由はfactiveなものである必要はない。
第二に、disjunctivismの診断について。pという理由から行為者がしかじかの行為をしたのだとして、disjunctivismによれば(大まかに言えば)、pということが実際に真であった場合には、その行為はpという事態によって説明され、またpということが偽であった場合には、その行為はその行為者がpと信じていたことによって説明される。そしてダンシーによれば、disjunctivismが(真偽二つのケースに応じて)これら二種類の理由を持ち出すのは、行為の説明は因果的説明でなければならない――したがってまた、そうした説明において説明項たるべき理由は何であれfactiveなものでなければならない――と想定されているためである。

これに対してマクダウェルは、説明が因果的説明であるための要件をダンシーが取り違えていると指摘する。マクダウェルによれば、説明が因果的説明と見なされるのは、それが因果的な理解をもたらす場合なのであり、理由による行為の説明はこうした意味で因果的説明である。ただしそれは、「合理性の働きの結果としてその被説明項を示す」(p. 140)ような説明による、「特殊な種類の因果的理解」ではあるけれども。

(2)行為の理由に関する三種類のケース
行為の理由に関する反心理主義的提案を擁護しようとするダンシーの狙いにとって、克服すべき最大の問題と見なされているのは、pという理由から行為がなされたにもかかわらず、pということは偽であったというケースをどう処理するか、ということであった。そのため、ダンシーの議論を大きく輪郭付けているのは、pということが真であったケースと偽であったケースとの区別である。

しかしマクダウェルによれば、行為の理由を考える上で重要な区別は、そうした単なる真偽の区別ではない。というのも、偶然の悪戯によってたまたまpということが真であったようなゲティア的ケースにおいてpという事態は――弱い意味では行為の理由をなしているとも言えなくはないとはいえ――行為者に対して真に合理的な仕方で働きかけてはいない。むしろ、「事実が[行為者の]意志に合理的なインパクトを及ぼすのは、あくまでもその事実が知られている場合に限られる」(p. 137)。したがって重要な区別は、(一方で)pということが知られているケースと、(他方で)pということが(行為者に知られないままに)たまたま真であったケース&pということが偽であったケース、という区別である。

(おそらくマクダウェルの言うような区別に関して、Practical Realityでのダンシーが完全に目を閉ざしているわけではないが(e.g., p. 124: "we determine what our reason is by considering what it varies with it.")、「真か偽か」という区別を大枠としたそこでの議論の中では、そうした視点はほとんど活かされてはいないのも事実である。)

――というわけで、ダンシーの本を一読して感じた違和感のモヤモヤは、マクダウェルの診断を通じて大分すっきりしたとも言えるのだけれども、でも本当に知りたいのはさらにそこから先の話(特殊な因果的理解というのはどのようなものなのか、理由の合理的な働きはなぜ知識の介在を要求するのか、またそこで要求される知識はどのような種類のものか)なんだよな…。

(ダンシーはこの論文で、知識/たまたま真である信念/偽である信念、という区別について、マクダウェルの徳論における人間の分類――有徳の人/抑制ある人/無抑制の人――とのアナロジーに触れていて、この辺を探ってみると何かヒントが見つかるんだろうかと思いつつも、そういった分野については何しろ知識が無さすぎて皆目見当もつかない。)

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2008年10月 1日 (水)

◆Dancy, PR
ひとまずお終いまで。
しかし後半に入るとどうもモゴモゴした口調が増えて、今一つ内容を掴みきれない感じ。

One contentious aspect of the picture that has been developed here is that something that is not the case can explain an action. Another is that a normative fact (for instance, that I owe it to her to do what she asks) can explain an action. Explanations by appeal to the normative or to the non-obtaining are not what we are used to. Nor, even, are we used to the idea that a simple matter of fact can explain an action; we are too used to hearing about beliefs and desires. But these things are things that I think we should countenance without too much reluctance. In doing so, we will be giving one sense to the idea that reality is practical. The reasons that motivate us can be things that are the case.
The other sense to the idea that reality is practical is that good reasons can be, or be grounded in, considerations other than those concerning the psychology of the agent. Here I have especially in mind the desires of the agent. If, as I argued in Chapters 2 and 3, few if any reasons are either desire-based or belief-based, we are a long way towards establishing on the normative side too that reality can be practical. Features of our surroundings can be, or at least can give us, reasons in favour of acting in one way rather than another. (p. 137)
というわけで、行為者を行為へと動機付ける理由(motivating reason)であれ、その行為の適不適・正不正(彼はそのように行為すべきであったか)を照らし出す理由(normative reason)であれ、総じて行為の理由を欲求や信念といった心的状態に基づくもの、あるいは心的状態によって形作られるものとして考えるのは誤りだ、むしろそうした理由を与えるのは実在する事態なのだ、――というような反心理主義の基本的なメッセージはいいとして、これをもう少し具体的に肉付けする議論を見ると、ダンシーのやろうとしていることの輪郭がどんどんぼやけていってしまうような印象が残る。

行為の理由に関してダンシーの擁護する反心理主義にとっての大きな課題は、一般に「彼はpと信じていたので…した」といった心的状態を引き合いに出すタイプの説明をどのように位置付けるか、また特に、実際にはpということが成立していない局面で唯一そうしたタイプの説明だけが持ち得ると思われる説明能力をどう考えるのか、という問題に対処することにある。(そうした場面では、「pなので…した」というタイプの説明は成り立たないように見える。そして、誤った信念に基づいて行為がなされるというケースは、結局のところあらゆる行為がその主体の心的状態――その内容の真偽を問わず――によって説明されるべきではないかという見方を強く促すことになる。)
この問題についてのダンシーの基本的な対処策は、「彼はpと信じていたので…した」とは違って「pなので…した」というタイプの説明が持っているかに見えるfactiveな性格を否定することにある。一般には、例えば「彼はpということを知っている」という言明が真である場合にはpということもまた真でなければならないのと同様に、「pなので…した」という説明が真であるならばpということもまた真であるはずだと考えられている。しかしダンシーによれば、このタイプの説明が持つとされるそうしたfactiveな含意は、会話の含みにすぎない。「彼はpと信じていたので」という説明と、「pなので」という説明は本質的に変るところがないのであり、その二つの間の違いはただ、前者のような“心理的”説明は、その主体の想定している事柄(p)に関するコミットメントを差し控えた慎重な表現だという点にあるにすぎない。

しかし、「pなので…した」という説明がこのようにfactiveな含みを持たないとするような主張には、実のところかなり抵抗感を覚えざるを得ないし、また、そうした説明によって述べ表されるような事態が、ダンシーの反心理主義的構想にとって正確にはどのような形で寄与するのかも判然としない所がある。(これは一つには、この文脈でダンシーがもっぱら念頭に置いている仮想敵が、しかじかの内容を伴う信念を行為の理由と見なすようなタイプの心理主義者ではなく、むしろ、誰某がしかじかと信じていること――というfactiveな事態――を以って行為の理由と見なすようなタイプの心理主義者だから、である。)実際、そのような事態の形而上学的性格に関してダンシーは、むしろ信念の志向性に訴える形で説明を与えるという方向性も示唆しているが(p. 147f.)、これはまるで心的状態の存在性格を「実在」に貸し与えようとしているかのようにも見える。

またこうしたダンシーはそうしたスタンスから、行為の理由に関するdisjunctivismの提案について、なぜ自身はdisjunctivismを採らないのか、またdisjunctivismの誤りはどこにあるかについても論じているが(ch. 7, sec. 1)、この箇所は一読した限りでは自分にはほとんど理解できなかった。(というのはかなり情けないけれども事実なので仕方がない。)
この点は、心的状態そのものの主題的な検討という点での踏み込みの浅さとも合わさって、ダンシーの試みでは何かがうまくいっていないことの表れだと思いたい所ではあるけれども、もしかしたら単に、自分がダンシーの構想全体の意味を根本的に理解し損ねているだけなのかもしれない。

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2008年9月29日 (月)

◆Dancy, PR
ようやく第7章まで。あともうちょっと。
このところの自分の関心と非常に近い視点から書かれた本なので、諸問題の配置・整理に関して教えられるところが多いのだけれども、全体的に心の哲学方面への踏み込みの浅さに不満も感じる。(そうした理由から、行為の理由に関する心理主義に対するダンシーの批判を見ても、全体としては、攻めあぐねているという印象が強く残る。)とはいえ、行為の哲学(や道徳心理学、倫理学)が心の哲学に突き付けている問題――結局のところ心的状態というのは何であるのか?、なぜそのようなものが要求されるのか?――を考える上ではたいへん示唆的な本だと思う。

とりあえず、次の二冊が要チェック、と。
・Helen Steward, The Ontology of Mind (OUP, 1997)
・A. W. Collins, The Nature of Mental Things (Univ. of Notre Dame Pr., 1987)

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2008年9月25日 (木)

◆Dancy, PR
・Jonathan Dancy, Practical Reality (OUP, 2000)

このところ何冊かの本をパラパラ覗いてみてもあまり食指が動かないし、先ずはこの本から勝負してみるか、と。パーフィットの"Reasons and Motivation"(1997)を先に見ておかなければならないみたいで、とりあえずそちらに目を通してみたりと例によって泥縄式。この論文はしかし強烈に難しいな。

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2008年9月22日 (月)

◆Soames
・Scott Soames, Philosophical Analysis in the Twentieth Century, Vol. 2: The Age of Meaning (Princeton University Press, 2003)

「イトロダクション」と「エピローグ」と第3部(第7章がノーマン・マルコムで第8章がオースティン)。

この第2巻で扱われるのはウィトゲンシュタインの『哲学探究』からクリプキの『名指しと必然性』まで、時代でいうと大よそ1950年代から70年代初めまで、ということになるらしい。基本的なストーリーとしては、(1)哲学的問題を生み出すのは言語の誤用である(したがってそうした誤用を解くことで哲学的問題を解消するのが哲学の課題である)、また(2)言語の意味の研究は個々の言語使用の詳細な観察という形でなされるべきである(体系的な「意味の理論」の構築によってではなく)、というウィトゲンシュタイン的な見方が、一つにはデイヴィドソンによる意味理論の構築の試みによって、またもう一つにはクリプキによる形而上学の復興(哲学的問題は言語の問題に尽きるわけではない)によって突き崩されていく次第を跡付ける、というような具合になるそうな。でもって、ソームズ自身の見通しによれば、こうした展開はさらに、「意味の透明性」という伝統的な見解(二つの表現が同義的であるならば、話し手はそれらが同義的だということを知っている)からは手を切った、新たな哲学的展望への道を切り開くものである、と。

What we now see at the end of the century is, in my opinion, the beginnings within the philosophy of logic and language of a less introspective, more theoretical and scientific, perspective on meaning. Though facts about the meanings of our words and the information semantically encoded by our sentences are, from this perspective, real and important, we have no privileged epistemological access to them.
If this is right, it means that, as philosophers, we have no privileged and secure linguistic starting point of the sort imagined by so many of our analytic predecessors. Meaning is neither the source of all philosophical problems, nor the key to solving them all. (p. 476)
しかしこの本全体の4分の1がクリプキの話にあてられているというのはバランス的にちょっとどーなのよ、という感も無くはないわけですが。(二つの巻を通じてフレーゲについてほとんど触れてはいない点に関しては、この「エピローグ」でも弁明が述べられてはいるけれども、そういえばこの第2巻の索引を見ても「ダメット」の名は影も形もないという徹底ぶりで、この本の構成を見るとまるで、日常言語学派と共にイギリス哲学オワタ\(^o^)/というような感じでもある。)

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2008年9月15日 (月)

◆Myles Burnyeat & Michael Frede (eds.), The Original Sceptics: A Controversy (Hackett, 1998)
ちょっと寄り道して覗いてみるものの、基礎知識が欠けているせいか、なかなか進まない。
リチャード・ポプキンの懐疑論史はいつのまにか「サヴォナローラからピエール・ベールまで」というものに変貌していたことに気がついた。

本書に収められているのは以下の5論文。
・Michael Frede, "The Sceptic's Belief" (1979)
・Myles Burnyeat, "Can the Sceptic Live His Scepticism?" (1980)
・Jonathan Barnes, "The Beliefs of a Pyrrhonist" (1982)
・Myles Burnyeat, "The Sceptic in His Place and Time" (1984)
・Michael Frede, "The Sceptic's Two Kinds of Assent and the Question of the Possibility of Knowledge" (1984)

古代の懐疑主義者の信念(dogma)というのが本書全体を貫くテーマになるようで、懐疑主義者はいかなる信念を持ち得るのか?、信念を持たずに生きるというのはどのようなことなのか?、果たしてそんなことは可能なのか?、といった問題をめぐって三者三様の特色ある解釈が繰り広げられるわけですが、一体どれを信じたらいいんでしょうか。しょうがないから判断停止してみたよ。。。
(でも個人的な好みからいったら、フレーデの描き出すような脱力系の「懐疑主義者」像が一番好みには合うけれど。)
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ちょっとメモ(記憶に残っている限りで)。

・フレーデ、バーニェト、バーンズ三者それぞれの解釈の焦点は、(1)懐疑主義者は信念(dogma)を持たずに生きる、および(2)懐疑主義者の生を導くのは現れ(phainomenon; appearance)である、という古代ピュロニズムの二つの教説。

・フレーデは、ストア派に代表されるような独断論者の武装解除を図るこそがピュロニズムの主眼なのだとする観点から、(1)については、懐疑主義者の判断停止が及ぶのは基本的に、事物の真の本性に関する高度に理論的・思弁的な信念に限られ、通常の日常的な信念はそこから除外されているとする。
・また彼によれば、懐疑主義者の言う「現れ(appearance)」は、epistemicな意味で理解されるべきである。懐疑主義者が「私には…のように現れる(it appears to me that ...)」という表現を用いて現れを述べる際、彼は、通常の事物からは区別される現象的存在という何か特殊な存在領域について記述しているのではなく、通常の事物についての自分の思い、信念を表明しているにすぎないのである。

・これに対してバーニェトによれば、哲学的懐疑主義を日常的常識から隔離しようとするフレーデの解釈は、「生きるための哲学」としてのピュロニズムの性格を見逃しており、懐疑主義についての近代的な理解に立つアナクロニズムでしかない。(哲学的懐疑主義は日常的な世界から隔離されたものだ――懐疑主義は常識を脅かすわけではないし、また逆に単なる常識に訴えることで懐疑主義を論駁することもできない――とする見方は、バーニェトによれば本質的にカント以降のものである。)古代の懐疑主義者の判断停止は、理論的な信念であれ常識的な信念であれ、あらゆる信念に及ぼされるのである。
・したがって、「現れ」についてのepistemicな解釈も斥けられることになる。懐疑主義者の言う現れは、あくまでも、主体の経験に直接的に現れるもの(感覚としてであれ思考としてであれ、その他何であれ)として理解されなければならない。
・また、「私には…のように現れる」という懐疑主義者の発言は、決して信念を表明しているわけではない。というのもバーニェトによれば、信念は真理の概念との結び付きによって特徴付けられるべきものだが、古代ギリシャ人の理解において、真理の概念は(単なる現れからは区別された)客観的実在にのみ関わるものだからである。

・だがバーニェトによれば、こうしたピュロニズムの考え方は本質的に不整合を孕んでおり、懐疑主義者は自らの懐疑主義を生きることができない。問題は、一切の信念の判断停止に至ろうとする懐疑主義者の試みが、いわゆる「方式」を用いた哲学的論証を不可欠としていることにある。というのも彼はいかにしてそうした論証の正しさに関して、同意を与えることを差し控えることができるだろうか? もしそこで、例えば知覚的錯覚のケースにおいて同意を差し控える(「私にはpのように見えるが、私はpとは信じない」)のと同様の仕方で、自らの論証への同意を差し控えようとするならば――

If the sceptic does insist, if he refuses to identify with his assent, he is as it were detaching himself from the person (namely, himself) who was convinced by the argument, and he is treating his own thought as if it were the thought of someone else, someone thinking thought within him. He is saying, in effect, "It is thought within me that p, but I do not believe it." (…) When one has seen how radically the sceptic must detach himself from himself, one will agree that the supposed life without belief is not, after all, a possible life for man. (p. 57)
(――しかしバーニェトのこの議論の趣旨が今一つ良く分からない。というのも、一方でバーニェト自身の解釈するように、現れ(感覚知覚的な現れであれ思考としての現れであれ)を把握することは――真理の概念との結び付きが欠けているがゆえに――真正の信念を決して形作らないのだとすれば、同意の差し控えという点での感覚知覚のケースと思考のケースとの相違はどこから生じることになるのか? ある論証の正しさを(思考の現れとして)経験することにおいて私は信念を持つわけではないのだとすれば、なぜ「私にはこの論証は正しいように見えるが、私はこの論証が正しいと信じていない」、「単に正しいように見えるだけ、思われるだけなのだ」と述べてはならないのだろうか?)

・バーンズもやはり、フレーデの唱えるepistemicな解釈を斥け、「現れ」はその「現象学的」意味で理解されなければならないとする。
・またバーンズによれば、「私には…のように現れる」という懐疑主義者の発言がその信念を表明するものではないことは、この発言の言語行為論的性格によって説明される。すなわち、そうした発言は、信念を表明する言明ではなく、ウィトゲンシュタインが言う意味での"avowal"なのである。
・懐疑主義者による信念放擲が、(フレーデの言うように)限定的なものにとどまるか、それとも(バーニェトの解釈するように)全面的・包括的なものたらんとしているかという問題を考えるに当たって、バーンズが特に着目するのは、行為(すなわち、現れによる生を形作る諸要素)について懐疑主義者が容認する説明のタイプ(思考や知覚を支える「自然の教え」による説明、飢えや渇きといった情動による説明、伝統的な法・慣習による説明、技芸による説明)である。というのも、これらのタイプの説明がどれも信念の存在を前提しないものとして理解できるとすれば、懐疑主義者の懐疑を包括的な形で解釈する道が開かれるからである。
・バーンズ自身は一方でそうした解釈の可能性を認めながらも、むしろ(日常的信念を判断停止の範囲から除外するような)限定的な解釈の方が古代懐疑主義者の意図に近いのではないかとも示唆する。
・もっともバーンズによれば、懐疑主義者の判断停止は正確にはどの範囲まで及ぶのかという問題は、ある意味ではニセの問題である。というのも、動揺・混乱(tarache)という病いを判断停止(epoche)という治癒へともたらす治療術としてのピュロニズムにとって、全ては個々の病状に左右されるのだからである。

(*)バーニェトは"The Sceptic in His Place and Time"の注で、一つには"Burton Dreben's Howison Lectures at Berkeley in 1981"からインスピレーションを与えられたと記しているけれど、こちらによるとその年の講義はパットナムなんだけどなあという謎。(しかしそれにしても豪華なラインナップ。)

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2008年9月13日 (土)

◆Nagel, VN
第7章「自由」の周辺でぐるぐる。
第一性質と第二性質との区別においてその顔を覗かせるような、主観的・内的な見方と客観的・外的な見方との間のギャップに関する直観(主観的な視点からより客観的な視点への超出によって、われわれは、世界あるいは実在のわれわれにとっての現れを乗り越えて、実在それ自体のあり方へと接近してゆく)に支えられつつ、心身問題や人格同一性、知識と懐疑論、思考と実在といった諸問題を通覧し、きわめて強い実在論的主張を打ち出す(ネーゲルは、検証主義であれデイヴィドソン的解釈主義であれウィトゲンシュタイン的言語ゲーム論であれ、実在するものの領域をわれわれにとっての理解可能性によって裁断し、切り詰めようとするあらゆる観念論的試みからは手を切ろうとする)、――というこの本の前半(第6章まで)の部分は、話が滑らかにスウっと進んでいくのはいいとして、悪くすると哲学的直観の垂れ流しめいた印象もあって正直あまり面白くなかったのだけれども、行為と自由をテーマとした第7章に入ってようやく何かが動いてきた感じ。ここでネーゲルをとりわけ困惑させているのは、行為に関する外的な視点においては、われわれ行為主体の自由あるいは自律性に関する信念が全く理解不可能なものになってしまう(一方で、行為に際してわれわれに与えられている条件を、われわれにコントロール可能なものとして捉え返すためにも、自律性に関するわれわれの感覚は、そうした外的な視点からの行為把握を要求しているにもかかわらず)ということなのだけれども、「理解の方法としての客観化」という方法論をあくまで堅持するネーゲルには、行為者をにっちもさっちも身動きの取れない状況に追い込みながら、行為という神秘を前に首を傾げてみせる以外に行為の理論というのはありうるんだろうか。
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このように外的な視点からの行為の把握がわれわれの自律性の観念にもたらす破壊的な帰結を確認しながらも、にもかかわらず行為についてのわれわれ自身の理解にとって、「本質的に不完全」な限りでの客観的な見方が不可欠に関わっていることを、まず第一にその時間的次元(その時々の時点に相対的な衝動に支配された内的視点から、時点中立的な思慮を可能とする外的視点へ)において、また第二に倫理的次元(自分以外の他者への顧慮を欠いた純粋に個人的な視点から、他者への配慮を可能にするインパーソナルな視点へ)において確認し、倫理をめぐる次章の議論に繋げてゆく、――というのがこの章の大まかな流れ。

しかし実のところこの章での論述を見る限りでは、ネーゲルを当初悩ませていた二つの視点(これを仮に「形而上学的な意味」での内的視点と外的視点と呼ぶことにするとして)が、時点に相対的な視点と時点中立的な視点(時間的な意味での内的/外的視点)、また個人的・利己的な視点とインパーソナルな視点(倫理的?な意味での内的/外的視点)のそれぞれとどのような関係にあるのかが良く分からない。
というのも、われわれの行為把握がそこから出発するとされる形而上学的意味での内的視点が、時間的意味での内的視点と、また倫理的意味での内的とも重ね合わせられるのだとすれば、「(より)内的・主観的視点から(より)外的・客観的視点への離脱」というネーゲル的テーマはうまく歩調を合わせる形ですっきりと貫徹されることにもなるのだけれども、果たしてこうした見方は正しいのだろうか。
われわれが自分の行為を差し当たっては内側から、内的な視点から(形而上学的意味で)捉えるのだとして、それはまた長期的な思慮を欠いたその時々の時点に束縛された視点から行為を捉えるということなのだろうか。むしろ、行為についての反省を経ない通常の理解の中で、そうした時点相対的な視点からの把握はごく特殊なケースにおいて初めて得られるにすぎないとも言えるのではないだろうか。
たしかにわれわれ人間は(おそらく)、一定の長期的な展望の下で行動する能力を備えた段階へと至る以前に、その時々の衝動に支配されて行動する段階を経ざるを得ないが、こうした発達論的な事実は、形而上学的意味での内的視点が同時にまた時間的意味での内的視点でもある(あらざるをえない)ということを示すものだろうか。
そして、形而上学的意味での内的視点は、時間的意味での外的視点、倫理的意味での外的視点を包摂し得るものだとすれば、形而上学的意味での外的視点には結局のところどのような役割が残されることになるのだろうか。
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――と書いてみてから、同じようなようなことは誰か書いてなかったっけ?、と考えてみたら、どうも"Agency and Causal Explanation"でのホーンズビーだったらしい。

To be satisfied with saying that actions are apparent only from what I have called the personal view we need in the first place to be clear that this is not a view confined to a particular self. We cannot explain what someone has done unless we know whether she has been successful in achieving what she wanted. So the point of view from which she is understood must not only be one from which she can be seen to be in states of mind representing things beyond her, but also one from which those same states of mind can be evaluated, as correct or incorrect representations. The personal point of view, then, may differ from the most "internal" view of Nagel, of "a particular person inside the world" (Simple Mindedness, pp. 147-148)

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2008年9月11日 (木)

◆Nagel, VN
・Thomas Nagel, The View from Nowhere (OUP, 1986)

ようやく前半。
恐ろしく駆け足で話がたったか運ばれてゆくのにちょっと唖然とする。(オースティンの後だけにいっそう。)これを読んで分かったつもりになっていたかつての自分というのは何だったんだろう、という感じでもある。もしかすると、この本を読み終える頃にはすっかりネーゲル嫌いになってしまっているのではなかろうか、という気もしてきた。

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2008年9月 8日 (月)

◆Austin, PP
幾つかの論文はとばして、ひとまず読み終える。
恐ろしく冴えた人だとは思うけど、やっぱり苦手だ。

たまたま目にした文章の中に、次のような一節を発見。

Austin was a brilliant philosopher, but most of the very promising philosophers who orbited around him, no doubt chuckling at this remark, have vanished without a trace, their oh-so-clever work in ordinary language philosophy duly published and then utterly and deservedly ignored within a few years of publication. It has happened many times. (Daniel C. Dennett, "Higher Order Truths about Chmess" (2002))
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オースティンの懐疑論批判(「他人の心」からそうした議論が引き出されるとして)に対するストラウドの反論は要するに、オースティンの議論はパラダイム・ケース論法にすぎないではないかというものだったが(cf. 『君はいま夢を見てないとどうして言えるのか』、p. 130)、これとは逆にダメットは、オースティンの「他人の心」でそうした論法が用いられているとする見方を斥けているのに気がついた("Oxford Philosophy" (1960) in Truth and Other Enigmas, p. 436)。これはゲルナーのWords and Thingsの書評の中で手短に述べられているにすぎないけれども、ダメットの最初の論考はパラダイム・ケース論法の批判だったというから(ibid., p. xii)、さしたる根拠のない発言とも思えない。いずれにしても、ストラウドの議論はやはりピンとこない。

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2008年9月 6日 (土)

◆Austin, PP
・J. L. Austin, Philosophical Papers (OUP, 19793)
・J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』(勁草書房、1991)

考えてみたらこの本をきちんと読むのはこれが初めてという体たらく。
とりあえず序盤。

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2008年9月 2日 (火)

◆バリー・ストラウド『君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか―哲学的懐疑論の意義』(春秋社、2006)
なぜか恐ろしく時間がかかったものの、どうにか読み終える。議論のステップワークの細かさが持ち味のようなこうした本の場合、結局英語で読んだ方が手っ取り早いような気がしないでもないけど、そんなこと言ったら訳者の人たちに怒られるか。。。

幾つか感じたこと。
われわれはデカルトに端を発するような懐疑主義の挑戦をごく自然なものとして受け止め、その挑戦に十全に答えることができるような知識理論を追い求めようとするが、そうした幾つかの代表的な試みはみな失敗に終わっている。なぜわれわれはこうした窮状に陥ってしまうのか、ストラウドによればこの問題を解く鍵は、「内的」なものと「外的」なものとの間の乗り越えがたいギャップに関するわれわれの形而上学的な不安、あるいはわれわれの知識や信念からは独立したそれ自体としての客観的世界への形而上学的渇望にある。少なくとも、こうしたストラウドの形而上学的な問題設定が本書全体を通じての主調音を与えており、またそれは、カント(第4章)やカルナップ(第5章)のように懐疑主義的挑戦と言わばがっぷり四つに組み合ってその乗り越えを図った哲学者についてのストラウドの考察に精彩を添えている。しかしその一方で、こうした問題設定のゆえに、懐疑論的挑戦から脱出しようとするトンプソン・クラークの試み(第7章)とのやり取りは全くのすれ違いにならざるを得ないし、ムーア(第3章)の懐疑主義論駁を支える哲学的動機はついに理解不可能なままとなる。また、オースティンの懐疑主義批判に当てられた第2章の、特に後半部分での議論(120ページ以下)は、本書の中では最も満足のいかないものだと(個人的には)思う。
結局のところ、ストラウドが言うような客観性をめぐる形而上学的不安は、われわれが知識を追い求めることで手に入れようとしているものと、どのような仕方で結び付いているのか。われわれが知識を求めることの意義は何に存するのか。したがってまた、自分が(あるいは他人が)知識を持つ(持ち得る)かどうかをめぐって反省することの意義は何に存するのか。ストラウドの形而上学的不安あるいは渇望は、その哲学的な含みの遠大さのゆえに、むしろこうした知識に固有の問いを跨ぎ越えて、そうした問いの存在をかえって不明瞭にしてしまってはいないのだろうか。(個人的には、例えば「経験主義・意味論・存在論」に代表されるようなカルナップの試みを、伝統的懐疑論の問いかけに応ずるような“知識”理論――単なる信念の理論や有意味な内容の理論とは異なる知識の理論――の構築を目指したものとして理解するのが、一面ではひどく奇妙なことにも思えるけれども、そうした理解のどこがどう奇妙なのかをうまく述べることが(今のところ)できない。)

いずれにせよ、改めて本書を通読してみて、ストラウドが固執