◆Timmons, MWF
第4章の“Contextual Moral Semantics”。
「自然主義的な世界像をどのように維持してゆくか」という関心に貫かれた存在論的プログラムの一端を見せられると、ティモンズがT・ホーガンのような人とタッグを組んで仕事をしている事情はだいぶ呑み込めてくるけれども、丁度それと反比例して、ティモンズのこうした試みへの興味も段々薄れつつある。
この章でティモンズが打ち出す文脈主義的意味論の基本的なアイディアは次のようにまとめられている。
The leading ideas of contextual semantics are these: (1) The truth of a sentence is a matter of its correct assertability. (2) Correct assertability, at least for ordinary descriptive sentences, is normally a matter of the often complex interaction of two factors: (a) the various normas and practices that govern a certain mode of discourse and (b) the WORLD. (3) Unlike the correspondence view, a mode of discourse often employs assertability normas that do not require, for the truth of sentences constituting that discourse, OBJECTS or PROPERTIES in the WORLD to directly answer to the sentences' singular terms, unnegated quantifier expressions, or predicates; nor need there be any "dedicated" FACTS in the world that correspond to the sentence. (4) Furthermore, the norms and practices for correct assertability are not monolithic within a language; rather, these norms and practices vary from context to context depending on such factors as the sort of discourse in question (scientific, aesthetic, moral, and so forth) and the specific purposes the discourse is serving at the time. (5) Although truth, in this view, is a normative notion, the view is not a form of verificationism (sometimes called, pragmatism): truth is not radically epistemic; correct assertability is not the same as warranted assertability (even "ideal" warranted assertability). (p. 116)
(“OBJECTS”や“PROPERTIES”等の大文字表記は、真理の対応説において言語(単称名辞、述語、…)と対応するものとされているmind-independentな存在者を表している。)
与えられた文脈において文が真であるか偽であるか、つまり「正しく主張可能」であるか否かは、一つには、その文脈で用いられている意味論的規範に依存している。そして意味論的規範は、その文脈で用いられた文の真偽(=主張可能性)が世界(あるいはむしろ世界)との対応にどのように依存するかを定める。こうした文脈的変動を考慮に入れることで、一方で、自然主義的存在論の枠内にうまく収まる存在者について述べた文の場合には、実質的に、その文の真偽を古典的な対応説に即した形で理解可能なものに保っておくことができるだろうし、また他方では、自然主義的見地から問題含みの談話領域に関わる文については、対応説に依存しない形でその真偽を語り得る余地を残しておくことができるだろう(そうすることで、「存在論的インフレか、さもなければ錯誤説か」というジレンマを回避することができる)、――といったところがティモンズの基本的な考え方のようである。
ただしこの本の中では、文脈とその変動についてどう考えるか、また肝心の意味論的規範というのはどういったものであるかについて詳しい議論は棚上げにされているので、実のところティモンズがこうした意味論の展開をどこまで本気で考えているのかよく分からないところもある。(発話の文脈やその変動といった概念を、ティモンズの存在論的スタンスをうまく反映させるような仕方で捉えることはどうやったらできるのか。あるいはまた、ティモンズの言う「意味論的規範」は、かつてセラーズが語っていたような“picturing”がそうであるように、かなり謎めいたものとなってしまうのではないか。)
一般的な意味理論の展開はともかくとして、より狭くmoral semanticsとの関連について言えば、ティモンズの文脈主義の役割としては、道徳的な言明に関して「主張内容 assertoric content」と「記述内容 descriptive content」との区別を置き、ミニマルな真理概念に立つものとして主張内容の概念を理解するという、「ミニマリズム的テーマ」を導入するための露払いという役割が大きなウェイトを占めているように見える。その意味では、moral semanticsに関するここでのティモンズの議論は実質的に、道徳的言明に関する表出主義をミニマリズム的真理論と結び付けようとする試み、と言った方が良さそうである。(文脈主義的なアイディア自体は、むしろ第5章で論じられるmoral epistemologyで大きな役割を果たすことになるのかもしれない。)
ティモンズの擁護しようとする“Assertoric Non-Descriptivism”によれば、道徳的言明はその真偽を問い得る(truth-apt)真正の主張であり、主張内容を持つが、世界内の事態を映し出すような記述内容を持つわけではない。そして、道徳的言明について言われる真理の概念とは、単純に、タルスキのTシェーマを満たすミニマルな真理概念であって、「対応としての真」という形而上学的な概念ではない。
こうした形でミニマリズムを援用することで、(道徳的事実に関する)非実在論あるいは非記述主義と(道徳的事実――ミニマルな意味での事実――に関する)認知主義とを結び付けようという話について差し当たっては異論はないのだけれども、逆に、事新しく教えられた論点もあまり無かった気がする。(そういえば思い出したけれども、この前読んだウェッジウッドの本の表出主義批判にかなり違和感を覚えた理由も、こうしたミニマリズム的な表出主義の展開について一顧だにされていない点にある。)むしろ漠然と感じたのは、こうしたミニマリズム的な展開は結局のところ、ティモンズ自身が堅く奉じているような自然主義(自然的なものに関する実在論/非自然的なものに関する非実在論)と本当に相性がいいものなのかといった疑問で、これはつまり、実在論とか非実在論とかいった話について自分の関心自体がdeflateしつつあるということなのだけれども。
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