◆非合理・不合理もの
つながりということで、ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』(春秋社、2007)の第3部「不合理性」と、柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲―非合理性の哲学入門』(勁草書房、2007)の第1部「自己欺瞞」。
デイヴィドソンについては、アクラシア(をはじめとする非合理な現象)に関する「意志の弱さはいかにして可能か」(1969)以降のアプローチ――そうした現象の扱いを倫理学的関心からは切り離して行為論あるいは心の哲学の枠内で処理するというアプローチ――というのは非常に洗練されたものだとは思うけれども、しかしやっぱり(全く素朴な感想でしかないけれど)、「そうすべきでないと分かっていながら、ついつい悪事を犯してしまった」というケースと全く対称的に、「そうすべきでないと分かって(?)いながら、ついつい善い行ないをしてしまった」というケースをも非合理なアクラシアとして括ってしまうというのは、ちょっとどうなんだろうか。(そうした問題には、解釈主義に立つ哲学者が解くべきパズルという以上の意味があるんだろうか。)
『自己欺瞞と自己犠牲』の方は難しくてまだよく理解できずにいるのですが、自分にとっての躓きはどうもこの本での基本的なアプローチにあるらしい。これについては、同書の中では例えば次のようにも述べられている。
…常識的な理解にできるだけ沿った「モデル」を想定し、そこにおいて自己欺瞞が可能であるかどうか、もしくはいかに可能であるかを考えるという方向が、思うに、少なくとも現時点では最も見込みのある自己欺瞞解明のアプローチなのである。(pp. 20-21)
問題はどうも、こうしたアプローチの中で、次のような箇所で言われているような「因果的な観点」というのがどのような役割を果たしているのか、という点にあるのではないかと思う。
デイヴィドソンは、信念主体が矛盾する二つの信念を分け隔てていた仕切りを取り払い、それらを併置したときには、一方の信念が「破壊」され「消滅」する、と語る。主体の論理的整合性を前提にして言えばそれは正しいであろう。だが、自己欺瞞についての因果的な観点からすれば、実情に即した言い方ではない。矛盾する信念の片方を放棄することによって自己欺瞞的な状態を解消してしまうのは、自己欺瞞的な信念主体にはまったくふさわしくない。自己欺瞞的な信念主体は、計算間違いを指摘された素直な小学生とは異なるのである。(p. 39)
デイヴィドソンにとっては、「いかにして思考や衝動がそれとは合理的関係にはない他の思考や衝動を引き起こすことができるのかは、心を分割することによってはじめて説明できる」のであり、「理由関係の断絶するところが、[心を構成する]下位部分の境界となる」(『合理性の諸問題』、p. 301)。とすると、そうした境界を跨ぎ超えていく因果というのは何だろうということで、上のように述べられる背景には、(フロイト-)デイヴィドソン的な“局所論”モデル――合理的連関によって区分けされた複数のコンパートメントからなるものとしての心――とは根本的に色合いを異にするような、心についてのあるモデルが考えられているのだと思うのだけれど(例えばpp. 218-219(注8)では「私の立場は、信念の変化を徹底して因果的かつ偶然的な過程として捉えるというものである」と述べられている)、そうした舞台裏の事情がまだよく見えてこない。
ちなみにこの本の中で(といってもまだ第1部しか読んでないけど)個人的に一番面白かったのは、「モンテーニュ=ヒンティッカ型の自己欺瞞」と呼ばれる状態を維持するためには、さらに高階の自己欺瞞状態――自分の欺瞞に気付くことを認めるのを拒むという欺瞞――が「おそらく因果的に必要とされる」(p. 36)がゆえに、問題はヒンティッカが予想していた以上にはるかに深刻なのだと論じた部分(pp. 35-36)なのだが、この箇所で持ち込まれるような「因果的」な考察というのが何なのかというと、やはりどうもよく分からないところがある。(ある意味では、ヒンティッカの認識論理的考察にそうした因果的視点が欠けているのは全く当然とも言えるだろうし、その意味ではこの第2章が「信念の論理と高階の自己欺瞞」と題されているのはかなりミスリーディングにも感じられる。)
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『自己欺瞞と自己犠牲』第1部についての思いつき的メモ――
うだうだ考えてみるに、この本での議論に関して感じる抵抗感の根は、結局のところ、自己欺瞞という現象の中核にあくまでも「信念の矛盾」を見て取るという本書のスタンスにあるように思えてきた。というのも、それはなぜ、「信念どうしの矛盾」ではなく「相反する欲求どうしの間の葛藤」をモデルとするような形で捉えてはならないのだろうか。(こうした見方は基本的にはA・メレの立場に近いものとなるようだが、メレの本は未読なのでその点については言えることはない。)
われわれ一人一人の持つ信念体系の内に、それと気付かれないままに何らかの矛盾が潜んでいるということは十分にあり得ることである。しかし、一対の信念間に矛盾があることがいったん明らかとなったならば、その矛盾をしかるべき形で解消する――典型的には一方の信念を放棄するといった仕方で――ことが求められる(と、少なくとも通常は考えられている)。これに対して、われわれの持つ欲求の体系の内に相反する欲求が同時に存在することはむしろ状態でもあり、「一つの心」の中での欲求どうしの葛藤(例えば「食べたい、けど痩せたい」)には、信念の矛盾のような謎めいたところは特にない。
とすると、自己欺瞞と呼ばれる現象の基本的な構造もまた、一方での「pであると信じたい」という欲求(なぜなら全ての証拠がpの真理を支持しているし、私は帰納の法則に忠実でありたいから)と、他方での「pではないと信じたい」という欲求(というのも、実際にpが偽だということには、私にとって決定的に重要なものが懸かっているのだから)という相反する欲求どうしの葛藤として見てはどうか。
なおこの場合、(実際にはpが真である場面であるにもかかわらず)pではないと信じようと欲するということは、必ずしも、自分自身を欺こうと欲することではない。むしろ自己欺瞞的な主体は、「pであると信じたい」という欲求と、「pではないと信じたい」という欲求との双方を持ちながらも、それに加えて「pの真偽に関して自分を欺きたくはない」という欲求を持つことさえできるだろうし、そうした場合、この第三の欲求の存在は、(ちょうど本書の第2章で自己欺瞞的な信念について述べられているのと同型的な)高階の自己欺瞞状態を引き起こすことにもなり得る。
こうした見方には幾つかの利点がある。
第一に、こうした見方からすれば、もっぱら「pが真であって欲しい」という願望によって支えられただけの認知的(?)状態を、真正の信念と見なす必要はない。
第二に、「信念の矛盾」と見た上で自己欺瞞を説明しようとする試みに比べて、上のような見方は何か新たな要素(新たな心的状態や、フロイト-デイヴィドソン的な心的障壁のようなもの)を付け加えるわけではない。
第三に、互いに矛盾する信念間の因果(「pだと信ずる」ことが原因となって「pではないと信ずる」という結果が引き起こされる)というものに比べて、相反する欲求間の因果の方がはるかに容易に理解可能である。(少なくとも、それを理解不可能とするハードルははるかに低い。)
これに対して、本書の中では自己欺瞞が信念の真正の矛盾を含むとする立場をあくまで支持する理由として、二つのものが挙げられている(pp. 12-13)。一つは、信念の矛盾という事態を考えることが、われわれの合理性概念にどのような光を投じるかに関する「理論的関心」の存在であり、もう一つの理由は、次のようなケースに関する説明能力である。
…ある男がふられたことに気づくが、そのことを受けいれられず、そのため彼女の冷たい態度は自分の愛を確かめるためのものだ、あるいは彼女の意志に反してのものだ、と思うようになったとする。このようになってしまった男にもはや愛していないことをあらためて告げることは、多くの場合逆の効果しかもたらさない。以上の事態の説明として、次のようなものがシンプルかつもっともに思われる。すなわち、男は愛されていないとやはりどこかで信じつづけており、それゆえにいまも愛されていると信じているのだから、愛していないと念を押すことは、自己欺瞞のいわば動力源に新鮮な燃料を追加することにほかならない。(pp. 12-13[強調は原文])
自己欺瞞に「信念の矛盾」を見る立場が上のようなケースについて適切な説明を与えるできるかどうかは、この「それゆえに」(自分はもう愛されていないと信ずる、それゆえに、自分はいまも愛されていると信ずる)をいかにして理解可能なものとすることができるかに懸かっている。しかし問題はまさに、この点で本書の試み(デイヴィドソン的な「心の分割」に訴えることなく、問題の「それゆえに」を理解可能とする野心的な試み)が最終的にどれほどの成功を収めているかということなのである。(そしてまたこの点が、第一の理由――「理論的関心」からする理由――の説得力をも左右することになる。)これに対して――先にも述べたように――「自分はもう愛されていないのだと信じたい」と欲することが、それゆえに、「自分はいまも愛されているのだと信じたい」という欲求を生み出し、それを強化しさえするということは、はるかに容易に理解可能であるように思われる。
――けれども、自己欺瞞という現象を、信念とは違って欲求という、そもそも合理性の要求に服さないような諸状態の織り成す構造として解釈するならば、自己欺瞞の持つ非合理性を全く取り逃がすことになる(か、そこに、たかだか願望的思考一般と同程度の非合理性しか認めることができなくなる)のではないか? (そもそも、「自分を欺きたくはない」という欲求の存在も、同時に「自分を欺きたい」という欲求を持つことを排除するわけではない。)あるいは、そうした帰結を避けようとして、欲求の内容――「pだと信じる」や「pでないと信ずる」――に目を向けることで、欲求同士の葛藤に合理性からの逸脱を見て取るというのであれば、これは結局、自己欺瞞を信念同士の矛盾によって理解しようとする立場に再び立ち返るだけではないか?
うーん、その二つの間の狭間は無いものだろうか、ということなのですが、まだよく分かりません…。