2009年10月19日 (月)

◆Johnston, SG
・Mark Johnston, Saving God: Religion after Idolatry (Princeton University Press, 2009)

現物が届いたのでパラパラと眺めてはいるものの、これはまた強烈に変な本としか言いようがないな。第1章の末尾には次のようなお言葉が――

Then there are those whom we might call, in the fashion of Richard Rorty's own self-description, the "religiously tone-deaf": those who simply find these remarks about necessary suffering and the large-scale structural defects of human life to be odd or overblown or, perhaps, just in bad taste. I wish them well, but I feel obliged to warn them not to waste their time by reading on. (p. 17)
この先を読み続けたものかどうか深刻な疑念に苛まれる。

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2009年9月28日 (月)

◆内藤淳『進化倫理学入門―「利己的」なのが結局、正しい』(光文社新書、2009)
これはアッピアの本と並行して読んでみた本。本書は「特にリチャード・アレグザンダー(Richard D. Alexander)の理論に多くを負った内容になっている」(p. 195)とのこと。(しかしアレグザンダーの本を実際に読んでみないことには、「間接互恵」の話(pp. 97f.)以外にどのへんにその影響が強く見られるのかはよく分からなかった。)
ネットでこの本についての評判を見ると、酷評と言えるようなものもかなり見受けられるので、買ってしまってから「あちゃー」と思ったのだけれど、実際に読んでみるとその割には案外普通の本でした。ただし、普通の本として読むには、かなり好意的な読み込みが必要とされるので、その点では進化倫理学「入門」としてはあまり成功していないようにも感じる。

まず第一に、特に第1章から第3章までの前半部分について。この部分では、われわれ人間が現にどのように行為しているかについて、行動遺伝学や進化心理学の知見に立った進化論的視点からの解説が加えられている。そのポイントは、現に多くの場合われわれは(それとはっきり意識せずとも)、進化論的見地から見た自分の利益(進化論的意味での適応度の向上)に適うように利己的に行動しているということ、そしてまた、そうした利己的な行動への方向付けにあたって感情――快を感じるか不快を感じるか――が大きな役割を果たしているということであり、日常生活の中に見られる多くの事例が、これら二点の正しさを裏付けるものとして取り上げられている。
ただしこの部分では、簡潔を旨に、また恐らくは初心者向けの直観的な分かりやすさを重視した論述がかえって逆効果になっているように感じられる。本来はきわめて理論的な概念と見なされるべきものが「利益」や「快・不快」といった馴染みやすい表現で表されていること、またそうした表現を用いてごく日常的な行動事例が分析されていることも、かえって多くの誤解を不必要に招く要因になりかねないように見える。

第二に、第4章と第5章からなる後半部分について。前半部分での進化心理学的説明(われわれは現にどのように行動しているのか)に続いて、この後半部分ではその倫理学的含意(われわれはどのように行動すべきなのか)が解説される。第4章は個人道徳、第5章は社会道徳にそれぞれあてられている。善悪という倫理的価値の内実を形作っているのは「自分の利益」に関する損得なのだということ、そしてまた社会の構成員誰にとっても利益を得られる社会が正しい社会、あるべき社会だということ、――これがここでの基本的な主張である。
この部分について言えば、人間の行動の背景事実を探る進化心理学的考察がどうしてこのような(「どのような行動をすべきか」「いかなる社会を実現すべきか」に関する)倫理学的含意を持ち得るのか、その二つの間の関係についてのメタ倫理学的な見地からの説明がほとんど与えられていないことが最大の問題点だろう。終章でも述べられているように、本書の立場は「メタ倫理学的自然主義」(p. 192)と呼ばれるべきものであり、その主要な狙いは善悪のような価値性質を自然的な性質に帰着させることにある。そして、こうした自然主義的な立場からする一つのオプションとして、価値性質と(アポステリオリに)同一視されるべき自然的性質として、進化論的適応に関わる性質に目を向ける――倫理的な価値性質がそうした進化論的性質に余すところなく帰着させられるかどうかはともかくとして――という、本書で打ち出されているような方向性は十分に“あり”だと思われる。しかし本書を手に取る多くの人にとっては、そもそもなぜ自然主義的な立場を取るべきなのか、なぜこうした自然主義的な倫理学が「倫理学」の名に値するのか、これらの点がかなり謎めいたままに残されてしまうのではないだろうか。

本書が拠ってたつ基本的な視点については、序章の中で次のように説明されている。

道徳や善悪についても、当事者の立場を離れ、人間を「外」から観察することで、これらがいかにわれわれ自身の利益と結びついているかが見えてくる。といっても、筆者や読者を含め、われわれはみな人間であり道徳の当事者だから、完全にその「外」に出るのは無理だが、少なくともそれに近い態度をとることはできる。それは、科学の視点を採ることによる。/対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。またにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。そこでは、われわれの行動や、自分で思っているその動機・理由の背後に、自分では意識していない心のはたらきが存在すること、思考や行動はそれらを基にして生じていることが、さまざまな実験や観察から明らかにされている。そうした目線に立つと、「人は自分で思っているほど、自らの知覚・情動・行動の本当の理由を知ってはいない」(心理学者・下條信輔『サブリミナル・マインド』中公新書での表現)のであり、その「本当の理由」を、当事者の目線を離れて、より客観的な観察や分析により解明していくのが人間科学の各分野だといえる。(pp. 14-15)
こうした視点から見えてくるのは(もし本書での立場が正しいとすれば)、倫理的な行動をとるにあたってダーウィン以前の人々はその真の理由を何ら理解してはいなかったし、今日のわれわれもまた倫理的な自己理解においてさほど前進してはいない、ということである。ここにあるパラドキシカルな気配に対処する術を示すことが、「進化倫理学入門」を謳う本書が向き合うべき最大の課題だったのではないだろうか。

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2009年9月21日 (月)

◆大型連休
とはいっても特に行く当てもないけど、でもまあ折角なので近所をウロウロしてみると、あちらこちらで金木犀の香り。

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える―心は「空白の石版」か』(NHKブックス、2004)をざっと一読。しかし三分冊というスタイルは、なるべくやめてもらえないもんだろうか。
進化心理学、認知科学、生成文法、脳科学等をベースとした「人間本性の科学」というプログラムに対する根強い抵抗感や不安感を払いのけた上で、政治から子育て、芸術にまでわたる今日的なテーマについて「人間本性の科学」がどのような知見をもたらすかを紹介しようといった内容で、どんな話題をふられても巧みなレトリックを交えてペラペラよく喋る有能なスポークスマンといった印象であります。哲学談義になると話がどうしても薄っぺらくなりがちではあるけれども、エピソードが豊富で面白い。例えば、ポール・エクマンの表情研究について――

人間には生まれつきの差があるというトピックは、あきらかな政治的含意をもつ。これについてはあとの章で検討する。しかしなかには、人間には生まれつきの共通点があるという、友好的であいまいな主張をしたために怒りをかった学者もいる。心理学者のポール・エクマンは1960年代の終わりに、ほほえみ、険しい顔、冷笑、しかめ面などの表情が、それまで西洋と一度も接触がなかった狩猟採集民も含めて世界中で見られ、意味も理解されることを発見し、それらの所見は、ダーウィンが1872年の『人間および動物の情動表現』という本に書いた二つの主張を裏づけるものであると論じた。一つは、人間の情動表現は進化の過程であたえられたものであるという主張、もう一つは、人種はすべて最近になって共通祖先から分岐したという主張で、これはダーウィンの時代には過激な意見だった。このように高尚な内容だったにもかかわらず、マーガレット・ミードはエクマンの研究を「とんでもない」「ぞっとする」「面よごし」だと評した――これでも反応としてはおだやかなほうだった。アメリカ人類学会の年次大会では、聴衆のなかにいたアラン・ロマックス[アメリカの著名な民族音楽研究家]が立ちあがり、エクマンの考えはファシストの考えであるから話しをさせるなと叫んだ。またあるときは、アフリカ系アメリカ人の活動家が、黒人の表情は白人の表情と変わらないという主張は人種差別だといって非難した。急進派の怒りをかったのは人類の生得的な能力についての主張だけではなく、どんな生物の話であろうと生得的な能力に関する主張はすべてそうだった。神経科学者のトーステン・ウィーゼルが、ネコの神経系は誕生時におおむね完成していることをあきらかにした、デイヴィッド・ヒューベルとの歴史的な共同研究の結果を発表したとき、ある神経科学者は彼をファシスト呼ばわりし、彼がまちがっていることを証明してみせると断言した。(上巻、pp. 209-210)

全体を通じてピンカーが主な標的としているのは、(トゥービー&コスミデスの言う)社会科学における標準的モデル、行動主義的心理学、それに伝統的宗教に立つ反進化論的ドグマといった“バイオフォビア”(生物学的に解明されるべき「人間本性」を想定することへの強い抵抗感)の傾向で、こうした傾向を象徴するものとして原題の“The Blank Slate”にもあるブランク・スレート=tabula rasaというイコンが持ち出されることにはなるのだけれども、実のところこうした思想史的な見立てはあんまりうまくいっていないように思うし、またそうした「巨大な敵」に対峙させることで、今日の「人間本性の科学」のあり方が実際以上にはるかに一枚岩であるかのごとく描き出されているようにも感じられるけれども、この辺もまあ優れたスポークスマンの話術といったところでしょうか。

一つ驚いたのは、巻末に掲げられている「参考文献」の内で進化心理学関係の翻訳が随分と多いことで、もちろん優れた本が広く紹介されるのにケチをつける筋合いのものではないけれども、こうした状況はまるで、この本でピンカーが払拭しようとしているような様々な不安感(「生物学的還元主義」や「遺伝子決定論」をめぐる不安)を煽りたてて付け込もうとしているかにも見えて、ちょっとどうなのよ的な思いも浮かぶのだった。(そうした本はほとんど読んだことがないので、個々の内容の評価は全く別にして。)
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Wikipediaでは独立したエントリが作られていて、幾つかの書評等へのリンクも張られているけれども、ブラックバーンの書評が全体としてバランスのとれた評価を与えている様子。

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2009年9月18日 (金)

◆R・H・フランク『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』(サイエンス社、1995)
ようやく読了。
しかし前にメモっていた部分を見直してみると、「集団選択」がどうのといった、かなり早とちりのトンチンカンな事柄が書かれているのに自分でもゲンナリする。というか、すいません。本書でのフランクの狙いはあくまでも、通常の個体選択説に代わる「もう一つの個体選択説」を提示することなので、別に集団選択説を復活させようといった話ではない。

本書の基本的なメッセージを、フランク自身は次のような四つの主張にまとめている(pp. 309f.)。
1.多くの場合、人は自己利益追及モデルで予測されるようには行動しない。
2.非合理的行動の理由は、人々の計算ミスとは限らない。
3.多くの場合、感情が非合理的行動の動機となっている。
4.感情に動機づけられていると、有利になることが多い。

自己利益の観点からすれば一見したところでは不利益な――したがって非合理的な――行動へと動機付けるかに見える感情の働きが、にもかかわらず進化的な見地からすれば決して「割の合わないもの」ではないということを示すこと、これが本書前半部でのフランクの狙いであるが、その際フランクが特に重視するのが、感情の表現的な次元(感情が表情等を通じてどのように表現されるか、またそうした表現を介してどのように当人の性格特性が他人に識別可能になるか)であるのが興味深い。またそうした観点から、ダーウィンの表情研究(『人および動物の表情について』)の意義が高く評価されることにもなるが、この点にも改めて目を開かされる思いをする。
(短期的・瞬発的な行動惹起機能に焦点を合わせた戸田正直『感情』のアプローチとは対照的に、フランクが着目するのは、上述のような感情の表現機能であり、また、感情の働きが自己コントロールを助け、安定した性格特性の形成を支えるという長期的な自己形成的機能である。)

しかしこの本は非常に入手が困難なせいか、amazonのマーケットプレイスでは臆面のない「自己利益的」な値段がつけられているわけですが…。

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2009年9月14日 (月)

◆戸田正直『認知科学選書24:感情―人を動かしている適応プログラム』(東京大学出版会、1992)
ちょっと寄り道して読んでみた本。何の予備知識もなしに読み始めたので、理論的な構想の壮大さと、そうした理論構築への強烈な意志には軽く圧倒される。(もっとも、その一方では「心の傷」や「可愛らしさ」といった感情にまつわる様々な現象にも丁寧な目配りを欠かさない綿密な考察が、実はこの本の読みどころかもしれないけれど。)
というわけで、二言、三言で簡単に語れるような本では決してないのだけれど、本書で展開される感情理論(「アージ理論 Urge theory」と呼ばれる)というのは、その基本的な性格からして、自分の関心とはかなりズレるものなのかなあ、とも感じる。

大まかにまとめると、本書の狙いは、「感情は知的な判断を撹乱する非合理的なノイズにすぎない」という常識的な見方に対して、感情的なメカニズムを、進化的な適応に支えられた合理的な心的ソフトウェア、適切な行動プランを効率的に起動させるアージ(行動へと突き動かす駆動力)のシステムとして捉えることにある。こうした感情の合理性を見出す上で重要な意味を持つのが、「野生環境」と「文明環境」との区別である。感情的なメカニズムはもともと、野生環境に適応した「野生合理性」のゆえに進化をとげてきたが、その一方で、今日のわれわれが置かれているような文明環境には必ずしも適応してはいない。その最大の理由は、感情システムが基本的に“「今ここ」原理”によって支えられていることにある。

私がアージ・システムの「今ここ」原理と呼んでいるのは、アージ強度が特に高い時[=いわゆる「強い感情に支配された」とき]、アージ・システムが情報処理省略の自動化方策として、「今ここ」に存在しない対象にかかわる情報処理を機械的に排除し、現在の問題解決に深くかかわった「今ここ」対象のデータだけに情報処理を集中させる傾向を指す。(p. 54)
感情はしかし、そうした「今ここ」的な志向を本質的に備えているがゆえに、長期的な視点に立つ合理的判断を求められる文明環境においてはしばしば撹乱要因として現れざるをえないのだ、と。

ところで本書では「野生環境」が、一方では上のように情報処理の視点から捉えられているが(「今ここ」に関する情報処理に集中することがしばしば適応的であるような環境)、またもう一方では、主体を取り巻く社会集団の大きさという観点からも特徴付けられている。

…アージ・システムの集団維持機能は、集団のサイズが適正(多分100人以下)でないとうまく働かない。したがって文明化が集団サイズの急激な増大を引き起こした時、アージに代わる集団維持の方法が必要になった。そしてそれは、感情の働きを「なぞる」形で社会ルールを増強することによってなされたものと推察される。(p. 29)
原始集団のサイズを推定する直接の手懸りはないが、狩猟採集集団が一般に利用可能な資源量と、アージ・システムがうまく機能するために不可欠なメンバー間の完全な相互認知という条件から考えて、ほぼ数十人位の集団であったと推定しておくのが無難だろう。(p. 143)
具体的な集団サイズの算定根拠は本書では明確に示されてはいないけれども、それはともかく、感情(アージ・システム)が本来の合理性を発揮するに適した社会集団のサイズとは、集団内のメンバー相互の認知が十分に成り立つ規模、つまり互恵性に支えられた利他的交渉が安定的にとり行なわれるような規模だ、というのが本書の基本的な見方ということになる(*)。
(そして、感情が本来の合理性を発揮する場を、あくまでも互恵的な集団内部に見定めるという考え方には、個人的にはあまり面白味が感じられない。)

(*)この点に関連するが、マット・リドレー『徳の起源―他人をおもいやる遺伝子』(翔泳社、2000)では次のように述べられていた。

…この相関関係[動物の脳の大きさと社会的集団のサイズとの間の相関関係]があまりにもはっきりとしているために、動物種の集団の大きさを、実際に観察しないでも推定することができるくらいなのである。この原理を適用すると、人間は150人強の集団で生活する動物ということになる。多くの都市の人口はこれよりも大きいが、実はこの150という数はほぼ正しいのである。典型的な狩猟採集民のバンドあるいは典型的な宗教共同体の構成メンバーの数はだいたいこれくらいである。アドレス帳に載っている人の数、陸軍中隊の人員数、経営しやすい工場の工員数も約150人である。要するに、150はおたがいによく知りあうことのできる数というわけだ。(p. 100)
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・ところで、情報処理の視点から特徴付けられた「今ここ」的な「野生環境」と、適正な集団サイズの観点から特徴付けられる「野生環境」と、この二つの捉え方はうまくぴったりと重なり合うのだろうか?
・「野生環境」と「文明環境」との違いについて、本書では、「弱システム weakly-organized system」と「強システム strongly-organized system」との区別――大まかに言えば、システムを構成する諸要素間の「相互作用」の強弱に基づく区別――をめぐるシステム論的(?)考察も交えつつ、「相対的に弱システム」としての野生環境/「相対的に強システム」としての文明環境という対比も引き出されているけれども(pp. 31ff.)、この箇所での議論は本書の中では最も明確さに欠ける部分だと思う。
・もっとも、与えられた状況に相応しい行動プランを起動する「アージとしての感情」と、そうしたアージの起動しやすさを全般的に左右する心の状態である「ムード(気分、情緒)としての感情」(「喜び」のような単なるムードには、アージとは違って、それに固有の行動プランとの結び付きが欠けている)とを明確に区別するという本書の基本的な枠組からすれば、情報処理的な「今ここ」としての「野生環境」と社会集団的な「野生環境」とはかなり接近することになるかもしれない。(というのも、感情(アージ)の主体は常に、その状況下での行動へ向けた情報処理プロセスの最中にあるのだから。)しかしそれにしても、こうしたアージ/ムードという区別を立てて、もっぱらアージのみを(言ってみれば)真の感情として認可するかのような考え方というのは、感情の概念をむしろ痩せ細らせてはしまわないんだろうか、というのが素朴な疑問点としてやはり引っかかる部分。

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2009年9月 9日 (水)

◆R・H・フランク『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』(サイエンス社、1995)
これまた大変に有名な本で、繙くのもこれまた初めて。読み始めたばかりではあるけど、恐ろしく刺激的な内容。まあ現代版『道徳感情論』との誉れも高い本だからそんなの当然か。

自己利益モデルのもっとも強力な知的基盤はスミスの『国富論』ではなく、1859年に出版されたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』にある。ある遺伝形質を持つ個体が増えるのは、それを持つ個体の再生産適応性が向上する場合だけであると、ダーウィンは説明している。ダーウィンは、ある遺伝形質が集団全体の利益にどのような効果を持つかを、少しも重要だとは考えていない。(p. 29)
真の利他的行動を説明するには互恵性に訴えるだけでは不充分であって、むしろ感情の果たす役割に目を向けるべきだ、というトリヴァースの先駆的なアイディアを引き継ぎつつ、このアイディアを説得的に展開するためには、自然選択の単位を個体におくダーウィン的モデルから集団選択(群選択)のモデルへと切り替えを図るべきなのだ(*)、という流れになるらしい。

(*)こちらで訂正しました。
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フランクの本は他にも翻訳が出ているのに今ごろ気がついた。

・ロバート・H・フランク、フィリップ・J・クック『ウィナー・テイク・オール―「ひとり勝ち」社会の到来』(日本経済新聞社、1998)
・ロバート・H・フランク『日常の疑問を経済学で考える』(日本経済新聞社、2008)

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2009年9月 8日 (火)

◆山岸俊男『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム』(東京大学出版会、1998)
これはかなり変な本。社会に向けてメッセージをばんばん発信しまっせ、というヤリ手風の姿勢が単に肌に合わないだけかもしれないけれども。前半は、ゲーム理論の衣をまとわせた定型的な日本文化論みたいな話(日本は閉鎖的な「安心」社会で、アメリカは開かれた「信頼」社会)が続いて萎えそうになりつつも、後半に入ってからは、日米間のような文化的・社会的偏差の底にある「社会的知性」のあり方とその進化をテーマに据えて、やや持ち直して(?)くる。ただし、特にロバート・フランクの仕事に焦点を合わせた議論は無し。というか、結局のところこの本は、機会コストをめぐる自己利益の問題――「安心」と「信頼」のどちらに任せた方が儲かるか――をめぐる議論に終始しているのだから、フランクのような人にはそもそもあんまり出番がないわけか。(自己利益的な機会を付け狙う非利他的なオポチュニストも、「信頼」社会の良き一員でありうる。)

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2009年9月 7日 (月)

◆マット・リドレー『徳の起源―他人をおもいやる遺伝子』(翔泳社、2000)
これまた有名な本ではあるけど、読むのは初めて。各章とも、教科書的な基本事項の叙述は最小限にとどめて、そこから先の興味深いトピックを鮮やかな切り口でコラム風に料理するといった構成。話題も豊富で、筆も立つ人ですねえ。(しかしこの訳書では、「互恵(veciprocity)」とか、モースの「『贈与論(Essai suv le don)』」といった、ちょっと不思議な誤植が残っているのはなんだろう。)
特に興味を引かれた話題というと、次のようなものだろうか。

・ロバート・フランクの感情研究と「約束」モデル(第7章)
――「トリヴァースは互恵主義によって得られる直接的な報酬によって自説を説明しているが、フランクは約束のモデルによって利他性の問題をトリヴァースのような冷笑家たちの手から救っている。約束のモデルは利他主義から利他主義の仮面をひきはがそうとはしていない。互恵主義や縁者びいきに基づいた説明とは対照的に、約束のモデルでは純粋な利他性が進化しうるのである。」(p. 192)

・新たな集団淘汰説の復活(遺伝的集団淘汰に代わる文化的集団淘汰)と、体制順応主義の進化(第9章)
――「もちろん、その例外[集団淘汰説が誤りだという主張に関する例外]とは人間である。人間を他の動物と区別しているのは文化である。人間は伝統、慣習、知識、信念といったものを人から人へと直接伝えていくので、人間にはまったく新しい種類の進化が起っている。つまり、遺伝的に異なる個人や集団間の競争ではなく、異なる文化を持つ個人あるいは集団間の競争である。」(p. 247)

・石器時代人における部族間の分業・交易と、そのリカード的な「比較優位」分析(第10章)
――「もし交易が何十万年も続いてきたのだとしたら、その理由はデイヴィッド・リカードの比較優位にある。大部分の人類学的考察は自足を前提としている。狩猟採集民はサバンナに身をひそめて暮らす、必要品を完全に自給自足できる人々として描かれている。夫と妻、あるいは狩が特異な者とハチミツを見つけるのがうまい者のあいだの分業くらいは認識されているが、部族間の分業は見逃されている。」(p. 284)、「…人間以外の動物で集団間の比較優位を利用する動物はいない。…デイヴィッド・リカードはわれわれの祖先がはるか昔に考えだした巧妙な手段を説明したわけだ。比較優位は、われわれ人間の生態学的奥の手の一つなのである。」(p. 286)

(ロバート・フランクに関して「約束」と訳されているのは“commitment”のことであるらしい。)
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以下は、フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』の感想(というか個人的なメモ)の続き。

・ハミルトンの血縁淘汰理論からトリヴァースの互恵的利他性の理論への進展は、動物個体にどの程度の認知的能力を認めるかという点での進展でもあった。血縁淘汰理論によれば、他個体との間のしかるべき血縁関係を検知するというミニマムな認知能力を持つ動物は、そうした血縁関係にある個体への利他的行動を進化させることができる。これに対してトリヴァースによれば、いくつかの基本的な条件の下では血縁関係にはない個体同士の間での互恵的な利他行動の成立をうまく説明できるのが、その一つの条件は、特定の他個体をそれとして再認し、その個体との過去のやり取りを記憶するといったような、より高度の認知的能力である。(さらに、そうした互恵性を安定したものとするためには、「ただ乗り」をしようとするフリーライダーを適切に排除するための能力――トリヴァースはこうした役割を担うものとして感情に着目する――も必要となる。)
・こうした点でトリヴァースの理論的な試みが、ドゥ・ヴァールによって高く評価されるのは分からないでもないのだけれども、トリヴァースの理論自体は決して、ドゥ・ヴァールが言うところの「遺伝子中心の社会生物学」の枠をはみ出るようなものではない。また、そうした互恵的利他行動の実例(例えばチスイコウモリが採食した血の貸し借り)は、それ自体としてはまだ、道徳性の起源というには程遠いものでしかない。そうした行動は結局のところ遺伝的プログラムに支配されているのであって、そのような動物の利他的行動がなぜ行なわれるのかを説明するに当たって、「意図」や「予期」といった志向的な概念を用いるべき理由は何もない。
・道徳性の起源や進化を考えるに当たっては、ヒト以外の動物における利他的行動、しかもあくまでも志向的に説明されるべき利他的行動に目を向けなければならないし、そのためには(また、共感や罪悪感、報復と正義といった広い意味での道徳性を考えるためにも)トリヴァースが着目した以上に高度な認知的能力を考慮に入れる必要があるのだ、――というのがドゥ・ヴァール自身の基本的な見通しということになるのだろうけれども、「(ある種の)サルたちにはそうした能力が備わっているとしか考えられない」という経験を積んだ観察家としての確信以上に、そうした認知的能力の進化的基盤をどう考えるかという理論的な展望が明確な形で示されない(少なくともこの本の中では)のが、自分にとっては最大の不満ということになる。

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2009年9月 5日 (土)

◆F. de Waal
『政治をするサル』というのはもう品切れで、その原著新版の翻訳『チンパンジーの政治学』というのも既に絶版になっているとのことで、これまたなんとも。

・『チンパンジーの政治学―猿の権力と性』(産経新聞出版、2006)

ロンドンのジョナサン・ハウス社から1982年に出版された当初、本書はほとんど論争を引き起こさなかった。一般向け、科学者向けの書評のいずれでも、批判されるより歓迎された。今になって考えてみると、本書に流れる前提は、動物に対する態度が急激に変わっていった1980年代の時代精神にぴったりと合っていたのである。米国の認知心理学の勃興とほとんど関わりなしに仕事をしたので、この新しい知的冒険に私が唯一無二ではなかったということに、私は気づいていなかった。このことは、世界の異なる場所での科学上の発達が共有されたアイデアの細紐によってしばしば結びつけられていることを例示している。それらは、けっして独立のものではないのである。だから、ドナルド・グリフィンの『動物に意識はあるか』を私が初めて読んだとき、驚きはしなかった。これは、『チンパンジーの政治学』がたいていの霊長類学者を驚かせなかったのと同じである。(「改訂版の序文」、p. 4)
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『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』(草思社、1998)の方はひとまず読了。内容的にはたいへん面白かったのだけれども、これが――内井惣七『ダーウィンの思想』第六章で述べられているように――道徳的進化に関するダーウィン的なシナリオにそのまますっきり収まるような話なのかというと、疑問を感じる部分もある。
ドゥ・ヴァールによれば、「動物行動の研究者たちは、動物とは何かをほしがったり、意図したり、感じたり考えたり、期待をする動物だという発想を、素人考えの誤りと決めつけてきた。動物はただ行動するだけで、私たちが知っていること、今後知りうることもその域を出ないと。」(p. 124) 行動主義的心理学者が動物個体の内面をブラックボックスと見なすように、生物学者は動物を、環境に支配された単なる「生存マシン」としか見てこなかった。こうした「遺伝子中心の社会生物学」のアプローチに代えて、むしろかなり高度な認知的能力や豊かな心的生活を動物に認めることで、道徳性の起源を動物のうちに探ろう、――というのがドゥ・ヴァールの基本的なスタンスということになるらしい。
こうした見地から、単なる「血縁淘汰」の枠をこえた「互恵的利他行動」を提唱するトリヴァースの理論的試みが高く評価されることにもなるが、実のところドゥ・ヴァール自身がここでやろうとしていることがトリヴァースの理論の射程との関係でどういう風に見積もられるべきなのかが今一つ良く分からない。
(続きは後で書く)

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2009年8月26日 (水)

◆奥野満里子『シジウィックと現代功利主義』(勁草書房、1999)
シジウィックを徹頭徹尾功利主義者として読もうという試みなので、功利主義それ自体への深い思い入れを共有していない人間にはどれだけ理解できたか怪しいものではあるけれど、幾つかの章を端折りつつ一先ずお終いまで目を通す。
「はじめに考えていたのは、現代功利主義がシジウィックの残した理論的困難をいかに克服したかを明らかにするという、ありきたりの筋書きであった。しかし、いざ『倫理学の諸方法』を読み始め、シジウィックの議論を現代功利主義者たちの議論と突き合わせてみると、シジウィックの洞察のほうが深く、しかも正確であるように思えてきたのである。私は途中で論文を全面的に書き直し、「我々はシジウィックを乗り越えた」という主張から「我々はまだシジウィックにはかなわない」という主張に百八十度変えなければならなかった」(「あとがき」、p. 312)とあるのは、「シジウィック偉い」と見るべきなのか、それとも「功利主義ダメじゃん」と見るべきなのか。

本書の中では、シジウィックの立てる三つの基本原理(正義の原理、自愛の原理、博愛の原理)の背景にある「全体」についての捉え方をめぐる議論(6.2)が特に興味深く思った。すなわち、これら三原理に共通する要素として「部分-全体関係」のモデルが挙げられるとはいえ、正義の原理は(量の概念には依存しない)「論理的全体」の考察から導かれるのに対して、自愛の原理と博愛の原理はあくまでも「数学的または量的全体」の考察から導かれるのであって、この二つに共通するような単一の「全体論」を想定するのは正しくない、という話。これは本書では「内井-奥野解釈」と呼ばれ、ヘアの功利主義擁護論の検討の中で効果的に用いられている。(ヘアは功利主義を導出するにあたって、シジウィックの言う正義の原理にあたるものを、道徳判断の普遍化可能性という要件として明示的に取り入れる一方で、自愛の原理および博愛の原理に相当するものに暗黙的に訴えているしまっている、と。)

(以上のようなヘア批判への布石という狙いが強いせいか、本書での「内井-奥野解釈」の説明においては、「論理的全体」に基づく正義の原理と、「量的全体」に基づく自愛の原理および博愛の原理との相違が強調される一方で、量的全体の考慮に等しく基づくものとして自愛の原理と博愛の原理それぞれの導出がどういった関係にあるかについては詳しく論じられてはいない。以下の部分(↓)には、本書あるいはシジウィックに関する誤解が含まれているかもしれない。)

アラン・トーマスのネーゲル論では「シジウィック的客観性 Sidgwickian objectivity」という言い方が表現が(特に詳しい説明も無しに)何度も使われていたけれども、博愛の原理を提示するにあたって「宇宙の観点」という表現にシジウィック自身が担わせていた役割からすると、この言い方はこれはかなりミスリーディングなのではなかろうか。シジウィックによれば、自愛の原理が示しているのは、「一個人の全体としての善」を時間に中立的な尺度によって考慮する視点であり、また博愛の原理が示しているのは、「全体としての善」を不偏の尺度によって(つまり、その善が自分のものであるか他人のものであるかは捨象して)考慮する視点=「宇宙の観点」である。これら二つの視点はいずれも、量的な善の概念に支えられた「数学的全体」を問題としている。シジウィックにおいてこれはさらに、快楽説を経由して快の総和最大化という功利主義的な原理へと肉付けされてゆくことにもなるけれども、そうした先の展開はさておき、結局のところシジウィックにおいては、自愛的な視点と博愛的な「宇宙の観点」との間に、主観的なものと客観的なものという根本的な対立を見出すことは本質的に難しいのではないか。(むしろそこにあるのは、より小さな一部分のみを顧慮するか、より大きな全体に目を向けるかという違い、同一スケールの上に位置付けることのできるような量的な違いにすぎなくて、その意味では全てがはじめから等しく客観化されているのではないか。あるいは逆に、「数学的全体」が最終的には快の総量の問題に帰着するという意味では、全ては等しく主観的でもある。)そしてまた、もっぱら自愛の原理のみに立つ利己主義的方法と、博愛の原理(+自愛の原理)に依拠する功利主義的方法との葛藤――「実践理性の二元性」――という問題をシジウィックが最終的に解消できないままに終わってしまったとすれば(より大きな善を目指すべきだとして、なぜある一人の個人という「小宇宙」にとっての善以上のものを目指すべきなのか?)、これもまた、自愛的・自己利益的な視点と博愛的な「宇宙の観点」との間に――量的な多少に関わる相違以外の――決定的な断絶を認めなかったことに起因しているのではなかろうか。(こうした観点からすれば、自己の境界線を弱めることで利己主義的考慮の重みを減じようとするパーフィットの試みにせよ、個人的道徳体系と社会的道徳体系との区別を立てることで社会的道徳体系としての功利主義の権利付け(利己的な選好を持つ人でさえ社会的道徳としては功利主義的体系を支持する)を図ろうとするブラントの試みにせよ、「実践理性の二元性」を解決しようとする代表的な功利主義的試みが失敗に終わっているのは何ら不思議ではない、――と言いたくもなる。というのも、こうした解決の試みを共通に悩ませているのは、実のところそこには真の二元性が初めから欠けているということだろうから。)

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2009年8月 4日 (火)

◆いつのまにか
八月に入ったものの、暑いんだか寒いんだかよく分からない日々が相変わらず続いてダラダラし続け。はなはだよろしくない。

桑島秀樹『崇高の美学』(講談社選書メチエ、2008)を読み終える。
バークから(カントを回避して)ラスキンあるいはジンメルへ、という「大地」への下降・沈潜志向の崇高美学の系譜――地の細部への凝視によって立ち現れてくるものとしての崇高――を主軸に据えた展開なのだけど、そうした「崇高」概念の見直しが、(最終章で主題化されているような)テクノロジーの生み出す「アメリカ的崇高」やヒロシマの表象不可能性といったリオタール風の問題設定とどのような形で再び切り結ぶことになるのかが今一つよく分からず。単純に、そんなに無理してまで結び付けなければいけないんだろうかという気も一方ではしつつ、逆にそこをうまく繋ぎ合わせるためには、「感性的」=「美的」なものについて(またバークの「感覚主義」やカントの「合理主義」について、つまり時代規定的な「イズム」のみならず哲学的な「イズム」についても)正面からもう少し掘り下げた検討作業が必要なのではないのかなあとも感じる。本書をみる限りでは、山歩きのような足取りでぶらっと散策しては、その辺に無造作に転がっている小さな思想史的原石の数々を拾い上げてはじっくり賞玩する、という辺りに著者の方の本領があるのではないかと見受けられるわけですが、どうもそれに比べて、総じてリオタール的な問題の構えに寄りかかった論述には借り物的な印象が強いような。
(しかし考えてみたら、海辺のひたすら平坦な土地で生まれ育ったこともあってか、山岳の美学とかそういった話題は自分にとってはいまだに根本的に馴染めないものがあるんだよな…。)

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2009年7月26日 (日)

◆連日
蒸し暑い。どうにかならんもんですか。

鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書、2009)を読み終える。本の帯には

「永遠の吉本主義者」が、60年代の情況的テキストを通して、その思想的核心を捉えた渾身の書。
とあるものの、どちらかというとこの本で大きく取り上げられているのは「転向論」とか『高村光太郎』といった、主に50年代の著作なので、そうしたズレをどう見るべきなのか。50年代の著作群に見られたような切れ味鋭い批評性が、1968年における吉本隆明の威信を支えていたとしても不思議はないようにも思う一方で、現在から振り返ってみて、やはりそこには何か「任意な感じ」が拭えないような気もするのだけれども、まあそうした逡巡をすうっと乗り越えてしまうのが信者(主義者)の信者たる所以なんだろうか。
この本で特に50年代のテキストが大きくフィーチャーされている背景には、そうした論考の基本的な問題意識を形作った戦前期の社会的状況(故郷喪失によるアノミー状況と、「想像の共同体」への回収)を現在のそれに重ね合わせることで、特に若い読者層に向けて、今日における吉本隆明の思想的アクチュアリティーをなんたらかんたら、という狙いがあろうかとは思うけれども、1968年(かその辺り)に生じたと思われる決定的な変化というもの――これについては「少し長めのあとがき」の中で人口動態学研究等にも触れつつ若干述べられてはいるが――をむしろ中心に据えて論じないことには余り意味がないんじゃないのかなあ、とも感じる。実際、80年代に入ってからの吉本隆明自身の変貌というものも、そうした変化がもたらした遠い余波の一つと見るべきなのだろうし。

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2009年5月26日 (火)

◆洗濯日和
なので洗濯機を回しつつ大西巨人の『深淵』を読み終える。
チェーホフ(の特に『犬を連れた奥さん』)が作品全体を通じての一つの基本的なモチーフになっていることもあって尚更そう感じるのかもしれないが、「男の世界」的な雄々しいトーンには結局最後までかなり引っかかりを感じ続ける。鎌田哲哉が「解説」(光文社文庫)で記しているような「疑問」というのもそれと関連が無いわけではないのだろうけれども、しかし鎌田哲哉という人はそれを逆方向に突き抜けようとしてみるみたいでもある。

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2009年4月23日 (木)

◆M・メルロ=ポンティ『心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける』(朝日出版社、1981)
押入れから発掘されたので、思い立って第十講、ビランの部分まで読んでみる。ずっと以前に読んだ時にはどうもマールブランシュの部分で挫折したらしいのだけど、改めてみると、マールブランシュからビランへと話が移るとにわかに語り口が精彩を帯びてくる、という印象。(それ自体が乗り越えられるべき様々な対立――観念論と実在論、超越論的反省と経験的観察、デカルトとコンディヤック、…――を前にして、その対立を形作る両項の間でいかにビランが不安定な揺れ動きを示しているかを丹念に辿る、といったようないかにもメルロ=ポンティらしい話。)
幾つか抜書き:

立てられうる本当の問題はこうなる。――ビランは哲学者たることに成功したのか、それとも単に心理学の諸要求を哲学に突きつけただけなのか。彼がデカルト主義に対置したのは、哲学、つまり存在についての或る考え方なのか、それとも単に存在の一領域の単なる主題化としての心理学なのか、と。ビランは、たとえば視角ではなく触覚の哲学を作るのだと宣言するときなど、しばしば心理[学?]主義に傾いているような印象を与える。確かに、その宣言は軽率な言い方ではある。というのも、存在全体を触覚的なものと考えることは問題にもならないし、視角の意識も原始的事実によって忌避されるわけではないからである。ビランがしばしば哲学の下方にとどまっていたとすれば、それは観念の明証性に問いかけたためではなく(そうした問いかけこそが哲学そのものなのだから)、存在そのものに問いかけなかったためなのだ。(p. 76)
ビランが心理学から離れるのは、存在の一部だけを主題化する代わりに、身体性と生きられる世界と他者たちとをかの新しい次元において再発見したときだけであった。大抵の場合、彼は領分に領分を、存在論に心理学を対置するであろう。マールブランシュについて語りながら、彼は、マールブランシュが存在論の観点に身を置いていたことを非難するだろうが、このことは、彼が自分を単なる心理学者と考え、哲学には携わらないと告白していることを暗に意味しているのである。(p. 94)
…今日、ゲシュタルト心理学は、「知覚の領分」と「運動の領分」を同じ一つの包括的体制の要素とみなしている。知覚するとは、物へと向かい、それを目指すということである。行動するとは、運動の中に意味を付与された思考を置き入れるということである。このことは、認識が「…に対して振舞う仕方」であり、行動が知覚する自我に統合されていることを要求する。ビランは、同じ精神で、個人がもはや存在感をもたないような完全な麻痺の症例について語っている。彼がわれわれに理解させようとしているのは、自分の身体を動かすこととそれを知覚することとの間には差異がないということである。ビランは、意識を罷免しようというのではなく、それを定義しなおそうとしているのだ。
自由の経験についての一頁が示しているのは、まさにこのことである。彼は次のように書いている。「以上のことから結論されるのは、ちょうど私の存在の内的感情がわれわれに私の存在の実在性を証明してくれるのと同じように、行使中の或る能力の感情とみなされる自由がこの能力の実在を予想する、ということである。私は自分が存在していると感ずる(すなわち私は考える)、故に私は実在的に存在する、とデカルトが言ったのと同じように、またそれと同じ程度のすぐれた明証性をもって、私は自分が自由だと感じる、故に私は自由である、と言いうるであろう。もしこの能力の感情が私を欺くとすれば、すなわち私がみずからを決定し、努力しているその瞬間に、私の決定の原因をなし、私の努力を行使し、私の能力を実行に移すのは、実は別な存在、別の目に見えない力ではないかどうか、をなお疑うことができるとすれば、私は同じように、私が自分の個体的存在を感じたり統覚したりするとき、私の代わりに別な存在者が存在しているのではないかどうか、を疑うことができるだろう」[Essai sur les fondements de la psychologie, 1re partie, section 2, ch IV]。この頁が示しているように、ビランは、「我思う」の代わりに、彼が「我思う」の全き意味と考えるものを復権させようとしたのにほかならない。彼はここで、あたかもデカルトが機会原因論的観念を留保なしに認めていたかのような言い方[?]をし、デカルトが自我の存在を肯定する際に使っていたのとその同じ言葉で、身体の運動能力を肯定している。「我思う」は排斥されたのではなく、拡張されたのだ。(pp. 83-84)
ビランは、空間[=「視角や触覚の対象となる無限に分割可能な外的空間」]以前のこの空間性[=「直接的統覚の対象としての身体という内的延長」]と相関的に、内部と外部との同時的分析の方法を導入する。「四肢に対するわれわれの本原的な能力ないし意志の主権は、明証的に認識されているのであるが、しかしそれは、ただその能力が感じられているという点においてのみであって、例えば或る疎遠なメカニズムがそうであるかもしれないように、外部で表象されるという点においてではない。このような表象のみを考慮に入れ、外的運動を意志がその原因であると想定されるような結果とみなすならば、そのような意味では、能力は結果において認識されるのではないし、その逆でもないというのは、いかにもその通りである。というのも、これら二つの考え方は、一方はもっぱら内感に依拠し、他方は外感に依拠するといったふうに、異質なものだからである。…これら二種類の認識の間に生じている対立、つまり意志が肢体を動かそうとするときに、もし運動性の諸器官が内的に感じられたり統覚されたりする代わりに表象されるようなことがありうるとすれば、意志は決して生じないであろうといった対立を、どうして見過ごすことができようか。同様に、もしわれわれが網膜の神経と発光体とを表象するのdとすれば、われわれはもはや色を見ないであろう。自分自身の内側で見るように組織された眼が、外側にあるものをどのようにして見ることができようか。まさにこんなわけなので、自分自身の意志の働きの隠れたバネを客観的に認識するためには、自己であると同時に他者でなければならぬということになるのだ」[Essai sur les fondements de la psychologie, 1re partie, section 2, ch IV, §II]。(pp. 86-87)

"maine+de+biran"で検索してみると日本語のページがずいぶん沢山引っかかるというのは西田幾多郎以来のビラン好きの伝統ゆえなのだろうか。

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2009年3月18日 (水)

◆非合理・不合理もの
つながりということで、ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』(春秋社、2007)の第3部「不合理性」と、柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲―非合理性の哲学入門』(勁草書房、2007)の第1部「自己欺瞞」。

デイヴィドソンについては、アクラシア(をはじめとする非合理な現象)に関する「意志の弱さはいかにして可能か」(1969)以降のアプローチ――そうした現象の扱いを倫理学的関心からは切り離して行為論あるいは心の哲学の枠内で処理するというアプローチ――というのは非常に洗練されたものだとは思うけれども、しかしやっぱり(全く素朴な感想でしかないけれど)、「そうすべきでないと分かっていながら、ついつい悪事を犯してしまった」というケースと全く対称的に、「そうすべきでないと分かって(?)いながら、ついつい善い行ないをしてしまった」というケースをも非合理なアクラシアとして括ってしまうというのは、ちょっとどうなんだろうか。(そうした問題には、解釈主義に立つ哲学者が解くべきパズルという以上の意味があるんだろうか。)

『自己欺瞞と自己犠牲』の方は難しくてまだよく理解できずにいるのですが、自分にとっての躓きはどうもこの本での基本的なアプローチにあるらしい。これについては、同書の中では例えば次のようにも述べられている。

…常識的な理解にできるだけ沿った「モデル」を想定し、そこにおいて自己欺瞞が可能であるかどうか、もしくはいかに可能であるかを考えるという方向が、思うに、少なくとも現時点では最も見込みのある自己欺瞞解明のアプローチなのである。(pp. 20-21)
問題はどうも、こうしたアプローチの中で、次のような箇所で言われているような「因果的な観点」というのがどのような役割を果たしているのか、という点にあるのではないかと思う。
デイヴィドソンは、信念主体が矛盾する二つの信念を分け隔てていた仕切りを取り払い、それらを併置したときには、一方の信念が「破壊」され「消滅」する、と語る。主体の論理的整合性を前提にして言えばそれは正しいであろう。だが、自己欺瞞についての因果的な観点からすれば、実情に即した言い方ではない。矛盾する信念の片方を放棄することによって自己欺瞞的な状態を解消してしまうのは、自己欺瞞的な信念主体にはまったくふさわしくない。自己欺瞞的な信念主体は、計算間違いを指摘された素直な小学生とは異なるのである。(p. 39)
デイヴィドソンにとっては、「いかにして思考や衝動がそれとは合理的関係にはない他の思考や衝動を引き起こすことができるのかは、心を分割することによってはじめて説明できる」のであり、「理由関係の断絶するところが、[心を構成する]下位部分の境界となる」(『合理性の諸問題』、p. 301)。とすると、そうした境界を跨ぎ超えていく因果というのは何だろうということで、上のように述べられる背景には、(フロイト-)デイヴィドソン的な“局所論”モデル――合理的連関によって区分けされた複数のコンパートメントからなるものとしての心――とは根本的に色合いを異にするような、心についてのあるモデルが考えられているのだと思うのだけれど(例えばpp. 218-219(注8)では「私の立場は、信念の変化を徹底して因果的かつ偶然的な過程として捉えるというものである」と述べられている)、そうした舞台裏の事情がまだよく見えてこない。
ちなみにこの本の中で(といってもまだ第1部しか読んでないけど)個人的に一番面白かったのは、「モンテーニュ=ヒンティッカ型の自己欺瞞」と呼ばれる状態を維持するためには、さらに高階の自己欺瞞状態――自分の欺瞞に気付くことを認めるのを拒むという欺瞞――が「おそらく因果的に必要とされる」(p. 36)がゆえに、問題はヒンティッカが予想していた以上にはるかに深刻なのだと論じた部分(pp. 35-36)なのだが、この箇所で持ち込まれるような「因果的」な考察というのが何なのかというと、やはりどうもよく分からないところがある。(ある意味では、ヒンティッカの認識論理的考察にそうした因果的視点が欠けているのは全く当然とも言えるだろうし、その意味ではこの第2章が「信念の論理と高階の自己欺瞞」と題されているのはかなりミスリーディングにも感じられる。)
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『自己欺瞞と自己犠牲』第1部についての思いつき的メモ――
うだうだ考えてみるに、この本での議論に関して感じる抵抗感の根は、結局のところ、自己欺瞞という現象の中核にあくまでも「信念の矛盾」を見て取るという本書のスタンスにあるように思えてきた。というのも、それはなぜ、「信念どうしの矛盾」ではなく「相反する欲求どうしの間の葛藤」をモデルとするような形で捉えてはならないのだろうか。(こうした見方は基本的にはA・メレの立場に近いものとなるようだが、メレの本は未読なのでその点については言えることはない。)
われわれ一人一人の持つ信念体系の内に、それと気付かれないままに何らかの矛盾が潜んでいるということは十分にあり得ることである。しかし、一対の信念間に矛盾があることがいったん明らかとなったならば、その矛盾をしかるべき形で解消する――典型的には一方の信念を放棄するといった仕方で――ことが求められる(と、少なくとも通常は考えられている)。これに対して、われわれの持つ欲求の体系の内に相反する欲求が同時に存在することはむしろ状態でもあり、「一つの心」の中での欲求どうしの葛藤(例えば「食べたい、けど痩せたい」)には、信念の矛盾のような謎めいたところは特にない。
とすると、自己欺瞞と呼ばれる現象の基本的な構造もまた、一方での「pであると信じたい」という欲求(なぜなら全ての証拠がpの真理を支持しているし、私は帰納の法則に忠実でありたいから)と、他方での「pではないと信じたい」という欲求(というのも、実際にpが偽だということには、私にとって決定的に重要なものが懸かっているのだから)という相反する欲求どうしの葛藤として見てはどうか。
なおこの場合、(実際にはpが真である場面であるにもかかわらず)pではないと信じようと欲するということは、必ずしも、自分自身を欺こうと欲することではない。むしろ自己欺瞞的な主体は、「pであると信じたい」という欲求と、「pではないと信じたい」という欲求との双方を持ちながらも、それに加えて「pの真偽に関して自分を欺きたくはない」という欲求を持つことさえできるだろうし、そうした場合、この第三の欲求の存在は、(ちょうど本書の第2章で自己欺瞞的な信念について述べられているのと同型的な)高階の自己欺瞞状態を引き起こすことにもなり得る。
こうした見方には幾つかの利点がある。
第一に、こうした見方からすれば、もっぱら「pが真であって欲しい」という願望によって支えられただけの認知的(?)状態を、真正の信念と見なす必要はない。
第二に、「信念の矛盾」と見た上で自己欺瞞を説明しようとする試みに比べて、上のような見方は何か新たな要素(新たな心的状態や、フロイト-デイヴィドソン的な心的障壁のようなもの)を付け加えるわけではない。
第三に、互いに矛盾する信念間の因果(「pだと信ずる」ことが原因となって「pではないと信ずる」という結果が引き起こされる)というものに比べて、相反する欲求間の因果の方がはるかに容易に理解可能である。(少なくとも、それを理解不可能とするハードルははるかに低い。)

これに対して、本書の中では自己欺瞞が信念の真正の矛盾を含むとする立場をあくまで支持する理由として、二つのものが挙げられている(pp. 12-13)。一つは、信念の矛盾という事態を考えることが、われわれの合理性概念にどのような光を投じるかに関する「理論的関心」の存在であり、もう一つの理由は、次のようなケースに関する説明能力である。

…ある男がふられたことに気づくが、そのことを受けいれられず、そのため彼女の冷たい態度は自分の愛を確かめるためのものだ、あるいは彼女の意志に反してのものだ、と思うようになったとする。このようになってしまった男にもはや愛していないことをあらためて告げることは、多くの場合逆の効果しかもたらさない。以上の事態の説明として、次のようなものがシンプルかつもっともに思われる。すなわち、男は愛されていないとやはりどこかで信じつづけており、それゆえにいまも愛されていると信じているのだから、愛していないと念を押すことは、自己欺瞞のいわば動力源に新鮮な燃料を追加することにほかならない。(pp. 12-13[強調は原文])
自己欺瞞に「信念の矛盾」を見る立場が上のようなケースについて適切な説明を与えるできるかどうかは、この「それゆえに」(自分はもう愛されていないと信ずる、それゆえに、自分はいまも愛されていると信ずる)をいかにして理解可能なものとすることができるかに懸かっている。しかし問題はまさに、この点で本書の試み(デイヴィドソン的な「心の分割」に訴えることなく、問題の「それゆえに」を理解可能とする野心的な試み)が最終的にどれほどの成功を収めているかということなのである。(そしてまたこの点が、第一の理由――「理論的関心」からする理由――の説得力をも左右することになる。)これに対して――先にも述べたように――「自分はもう愛されていないのだと信じたい」と欲することが、それゆえに、「自分はいまも愛されているのだと信じたい」という欲求を生み出し、それを強化しさえするということは、はるかに容易に理解可能であるように思われる。

――けれども、自己欺瞞という現象を、信念とは違って欲求という、そもそも合理性の要求に服さないような諸状態の織り成す構造として解釈するならば、自己欺瞞の持つ非合理性を全く取り逃がすことになる(か、そこに、たかだか願望的思考一般と同程度の非合理性しか認めることができなくなる)のではないか? (そもそも、「自分を欺きたくはない」という欲求の存在も、同時に「自分を欺きたい」という欲求を持つことを排除するわけではない。)あるいは、そうした帰結を避けようとして、欲求の内容――「pだと信じる」や「pでないと信ずる」――に目を向けることで、欲求同士の葛藤に合理性からの逸脱を見て取るというのであれば、これは結局、自己欺瞞を信念同士の矛盾によって理解しようとする立場に再び立ち返るだけではないか?

うーん、その二つの間の狭間は無いものだろうか、ということなのですが、まだよく分かりません…。

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2009年2月23日 (月)

◆春
めいた香りの風が漂うようになってきたかと思えば、再び雪に覆われたり冷え込んだりと、道はまだ遠い。

せっかく買ったまま読まないのも勿体無いか、という貧乏臭い理由から、ジャック・ブーヴレス『言うことと、なにも言わないこと―非論理性・不可能性・ナンセンス』(国文社、2000)をざざっと通読。
ナンセンスはみな等しくナンセンスであって、それ以上でもそれ以下でもない(したがって、単なる皮相なナンセンスとは区別されるような哲学的に深遠なナンセンス――何か深遠な哲学的洞察を“示す”にとどまるようなナンセンス――が存在するわけではない)、――というコーラ・ダイアモンドのテーゼについて詳述することに一冊丸ごと割いたような本なのでした。(その意味で良い復習にはなったけれども、特に新たな収穫も無し。)

ウィトゲンシュタインはこう書いている。「私がしばしば言ってきたように、哲学は私をいかなる断念にも導かない。というのも私はなにか言うことを差し控えたりせず、ある種の語結合を意味に欠けたものとして放棄するだけだから。けれども別の意味で哲学はある放棄を要求するが、それは感情の放棄であって知性の放棄ではない。そしてそのことこそが、たぶん、多くの人々にとって哲学をかくもむずかしいものにしているのだろう。ある表現を使用しないことは、涙をこらえたり怒りを抑えたりすることと同じくらいむずかしいかもしれない」(『ビッグ・タイプスクリプト』p. 177)。もちろん伝統的な教養を身につけた哲学者にとって、本質の真理と呼びうるようなものに関しフッサールのような仕方で自己の見解を表現するのを断念することは困難である。しかしその是非はともかく、ウィトゲンシュタインの考えによれば、その種の表現を全面的に断念したからといって、重要なものはなにひとつ断念しなくてもよいのである。彼にとって哲学的問題が呼び覚まされそして維持されるのは、まったく特別なタイプの悩み、いかなる他の研究分野にもその等価物をもたないような悩み、そして本質の認識をふくめ、いかなる理論的認識をもってしてもそれを鎮められないような悩みによってであることを忘れるとき、哲学の本性に関する彼の考え方は理解しがたいものにとどまり、常識外れなものにとどまる可能性が十分にある。/したがって根本的な見解の相違はまさに、哲学にとって特別な関心事になるようなナンセンスが存在するかいなかという問題にかかわっている。その種のナンセンスの存在を承認することは、とりもなおさず、他のどんな認識にもましていっそう哲学的であるような特別な認識を取得することであると考えてよいのか。ウィトゲンシュタインの主張はこうである。すべてのナンセンスはじっさい同じタイプに属する。ナンセンスに直面したとき哲学がなすべきことは、そのナンセンスを排除するという事実を記録する以外にはなにもない。ある表現が結局のところ言語から排除されてしまう理由は、もちろん限りなく多種多様であろう。だがそうした排除をいわば「哲学的な」理由によって説明したり根拠づけたりしようと試みるべきではない。まさにその種の試みこそが哲学的なナンセンスを生じさせることになる。ウィトゲンシュタインが指摘するように、そうした哲学的なナンセンスは、われわれが特別な愛着を覚えるナンセンス、そしてそれを断念することが絶対に不可能であるようにさえ思われるナンセンスなのである。…(pp. 172-174)

しかしこの本全体を通じて(「訳者後記」も含めて)、ナンセンスをめぐるこうした一見マージナルとも映りかねない議論が、なぜ「新たなウィトゲンシュタイン」観の提起といったようなラディカルな帰結につながりうるのか(別の言い方をすれば、本書が全面的に依拠しているようなダイアモンドのナンセンス論は、どのようなウィトゲンシュタイン像の彫琢に寄与しようとしているのか)、といった辺りの事情が――特にこの本をいきなり手に取る人にとっては――今一つ見えにくいんではないかなあ、という印象も受けた。(その点について全く触れられていないわけではないが(175頁以下)、本書の論述の中ではあくまでも「余談」にすぎない。)

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2009年2月 2日 (月)

◆Charles Taylor & Anscombe
・Fergus Kerr, "The Self and the Good: Taylor's Moral Ontology," in Ruth Abbey (ed.), Charles Taylor (Cambridge University Press, 2004)

googleで立ち読み。『行動の説明』でのテイラーのメルロ-ポンティ受容の背景に、アンスコムからの影響が示唆されている。

Taylor's later work, and most obviously Sources of the Self, has at its centre the ambition to expound and defend an "ontology of the human," in which the identity of the self is related (as he says on the first page, referring us to Murdoch) to the "sovereignty of the good." Yet already in The Explanation of Behaviour (1964), Taylor showed his interest in moral philosophy, albeit this concern was visible at that stage only between the lines. In a review at the time, hailing it as a "vehemently interesting book," Anscombe noted that the first half, the "philosophical part," as she called it, "displays the most remarkable grasp of the contemporary philosophical situation and its historical roots" [G. E. M. Anscombe, "Mechanism and Ideology," New Statesman, Feb. 5 1965]. It pleased her also to note "a satisfactory absence of the tones and attitudes of any particular philosophical school." The only major philosopher named by Taylor is Maurice Merleau-Ponty, who is referred to in three footnotes. He was surely inspired by the example of Merleau-Ponty's attempts, in La Structure du comportement (1942) and Phénoménologie de la perception (1945), translated into English as The Structure of Behaviour (1963) and Phenomenology of Perception (1962) respectively, to steer between Cartesian dualism and reductionist naturalism, in detailed critique of then fashinable behaviourist theories in experimental psychology.
In The Explanation of Behaviour, however, as elsewhere, Taylor makes his own what he has learnt from philosophers outside the analytic tradition: his "tones and attitudes" are, as Anscombe says, completely free of standard phenomenological terminology. Paradoxically, his "tones and attitudes" sound very much in tune with Anscombe's own famous declaration, originally published in the journal Philosophy (1958), that moral philosophy should be laid aside "at any rate until we have an adequate philosophy of psychology, in which we are conspicuously lacking." Some indication of Anscombe's influence on Taylor's thinking comes indirectly when he records his indebtedness to Anthony Kenny's Oxford doctoral thesis (completed in 1961, it was revised to appear as Action, Emotion and Will, 1963). This key work, explicitly rejecting both Cartesianism and behaviourism in philosophical psychology, was much indebted to Anscombe's Intention (1957) and to Wittgenstein's Philosophical Investigations (1953). In short, although we may see his work as in line with that of the French phenomenologist Merleau-Ponty, Taylor's attack on behaviourist views of will, intention, and action is entirely consonant with post-Wittgensteinian developments in philosophy of mind. (p. 85)
まあ師弟なのだから、この程度の影響というのは当然あってしかるべきという気もしないでもないけれど。
Ruth Abbeyさんの単著の方のCharles Taylorという本は評判も良いみたいだから、そちらでも読んでみるか。

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2009年1月24日 (土)

◆ブックオフ
にて、加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003)とオクタビオ・パス『弓と竪琴』(ちくま学芸文庫、2001)を購入。

『戦争倫理学』を読み終える。
「倫理学」を冠した表題にもかかわらず、特に後半は戦争をめぐる様々な法的条項とその解釈が主たる内容になって、こういうのは本来は法学系の方とでもタッグを組んで書かれるべきものなのではなかろうかという気もするけれど、「いやいや倫理学の垣根の中で安閑としているわけにはいかんのじゃ」ということなのだろうか。

第6章ではアンスコムの戦争論が、カトリシズムの正戦論の系譜を今日において引き継ぐものとして印象的に描き出されている。

戦争の正義は、国家主権の外にある。しかし、その正義が死ねば、主権そのものが悪魔的なヒュブリス(不遜)になってしまう。「罪なき者の血を流すことが神の法によって禁じられているということは、ユダヤ-キリスト教の伝統のもっとも厳しい、反復された教義のひとつである。何人も己れの罪によらずして罰せられてはならない。罪なき者の血を流して足を濡らす者はつねに神の敵となって現れるのである」[Anscombe, ERP, p. 56]。アンスコムのこの言葉は「彼女の背後に立つ伝統」(カトリシズム)を抜きにしては理解できないかもしれない。この言葉は決してカトリシズムの信仰告白に尽きるものではない。およそ戦争が正義であるという自己主張をする限り、自然法の最根源的な原理まで蹂躙することはできないということを、アンスコムは「ユダヤ-キリスト教の伝統」という言葉で語っている。(p. 83)
アンブロシウス(Ambrosius 339?-397)からスアレスにいたる過程で形成されてきた「正義の戦争」は、国民国家に超越する無謬の教会の存在を前提としていた。あらゆる国家の上に立つ教会が正義か正義でないか決定できるというタテマエがはたらいていた。アンスコムは、今もって教会の無謬性への信仰告白を行っている。しかし、近代国家の本質となるその主権性は、国家が教会を自己の下に置き、地上における絶対者となることを意味している。主権国家は正当化の構造一般を否定する本質をもつにもかかわらず、自国の国民に対しては自己を正当化し、戦争への協力を国民に強制する。しかし、国家のこうした権限は、「罪なき者の血を流すことは神の法によって禁じられている。何人も己れの罪によらずして罰せられてはならない。罪なき者の血を流して足を濡らす者はつねに神の敵となって現れる」という究極の原理まで、否定することをふくむのだろうか。(p. 85)
この本を通じてアンスコムのこうした一面のみが広く知られてゆくことになるとすれば、それもちょっとどうかなあという思いもないわけではないけれども、しかし考えてみると、もしかするとアンスコムという人は後世の哲学史・思想史では、「20世紀の特異なカトリック思想家」といったような位置付けを与えられてゆくことになるのではないかと思ったりもする。(さしたる根拠もありませんが。)

まあともかく、総じてアンスコムの「行為」観というのが二重結果の原理からの倫理的要請によっていかに強固に方向付けられているかということ、またこの点で、(例えば)行為とその記述との関係をめぐって一見すると近い立場にあるかにも見えるアンスコムとデイヴィドソンとの間の隔たりがいかに大きなものであるかということ、――こうしたことを今更ながらに改めて痛感させられた此の数日なのでした。
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かなりどうでもいい話だけれども、『戦争倫理学』の77頁から78頁にかけて、「トルーマン元大統領がケンブリッジ大学を訪問して「名誉博士」の学位を受けるということが話題になったとき、アンスコムはトルーマンへの学位授与にかんし、原爆投下の倫理的責任があるから反対だという主張をしたのである」とあるのは、「ケンブリッジ大学」ではなく「オックスフォード大学」の誤りだろう。

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2008年12月11日 (木)

◆松嶋敦茂『功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて』(勁草書房、2005)
気分転換に読んでみた本。ゴティエを取り巻く大まかな議論状況については多少は見えてきたものの、でもやっぱり難しい。
限界革命前後の経済学者たちにおける経済学と功利主義との交錯に光を投じた前半部に関しては、経済学史についてロクに知らないのだからよく分からんのもしょうがないかとも思うのだけど、功利主義とリバタリアニズム(ハイエク)や契約主義(ロールズ、ゴティエ、スキャンロン)との競合状況を主題とする後半部分に関しても、そこでの様々な対立が作り出す大きな編み目模様――そこではロールズやスキャンロンの契約主義とヘアやシンガーの功利主義が緩やかに連携して一つの図柄を形作ったりもする――以上のものが素人目にはあんまりよく見えてこないような。いやむしろ、この先生きのこり戦略からいったらそれでいいのだ、ということなのかな。
      _,,...,_
   /_~,,..::: ~"'ヽ
  (,,"ヾ  ii /^',)
     :i    i"
     | (,,゚Д゚)
     |(ノ  |)
     |    |
     ヽ _ノ
      U"U


http://www.shiozawa.net/koen/koenkiroku/MRKenkyukai2007.html
『現代経済学史 1870-1970』というのも暇があったら読んでみるか。

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2008年11月18日 (火)

◆いろいろ
整理中。にもかかわらず実家方面から鍋が送られてくるのはなんでなのかと。

村岡晋一『対話の哲学―ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』(講談社選書メチエ、2008)を読み終える。前半はドイツ・ユダヤ人の歴史の概観に続いて、ヘルマン・コーヘンとその弟子ローゼンツヴァイクの仕事が紹介され、後半では主としてフンボルト、シェリング、ローゼンツヴァイクに依拠しつつ「対話の哲学」の構想が述べられる。なんとなく、近現代におけるユダヤ思想の系譜や様々な動向(例えば、カッシーラー/ハイデガーとローゼンツヴァイクとの間の捩れ)をもっとふくらみのある形で描き出してくれるような本なのではないかと勝手に思い込んでいたので、その点ではかなり予想が外れた格好になる。
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ローゼンツヴァイクの「新しい思考」というのは『思想』のシュトラウス特集号(2008年第10号)に訳出されているのだそうだから後で見ておくか。

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2008年10月22日 (水)

◆ムーア
・G・E・ムーア『倫理学』(法政大学出版局、1977)

電車の中でちらちら読んでみたものの、自分の理解力を越えた箇所にあちこちで遭遇して既に挫け気味。
ネットで探してみると、こちらで原文が見られるわけですね。やっぱり英文で読むべきなのかなあと、悩ましい。(基本的に英語は苦手だ。)

冒頭近くでいきなり途方にくれてしまったのが次の一節――

たとえば、この尺度ではより低いところにくるある行為は、もし上位にくる行為の結果がまたはるかに多くの量の苦を引起すことによって相殺されるならば、実際にはその上位にくる行為よりもはるかに多くの快を生みだすことがあるのは明らかである。(p. 18)
うーん、何が何によって相殺されるのかがよく分かりません><
ということで原文を見ると
It is obvious, for instance, that an action which comes lower in the scale may actually produce much more pleasure than one which comes higher provided this effect is counteracted by its also causing a much greater quantity of pain.
ここで問題になっている「尺度」というのは、ある行為が結果としてもたらす快の量から、その同じ行為がもたらす苦の量を差し引きした残量によって諸々の行為を評価付けるような尺度のこと。(この尺度で上位にくる行為ほど、快苦の差し引き残高が多い。)というわけで、上の訳文では「はるかに多くの量の苦を引起す」のはどっちの行為なのかが全く逆になっていたのだった。

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2008年7月21日 (月)

◆小糠雨
が途切れないので家に篭ってゴロゴロ過ごす。何の気なしに庭の様子を眺めていると、全身黒に鮮やかな白線が入った20センチ程の鳥や、もう一回り大型の青味がかった鳥や、色んな鳥が入れ替わり立ち代わりやってくるのに初めて気がついた。

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ、2005)を読み終える。この本の中で使われている、農業社会/産業社会/消費社会、あるいは等価交換と贈与といった解読格子では理肌が随分と粗すぎて、著者自身の現場感覚に裏打ちれた目線の先をうまく掬い取ってはいないような。(なぜか、身の丈にあわないブカブカの服を着せられた子どもの姿――今の時代にそんな子どもはいないけど――を連想してしまう。)

続けて大澤真幸『<自由>の条件』(講談社、2008)。まだちょびっとしか見てないのでコメントは差し控えますが、すでに後悔の念が高まりつつあるのは何故だろうか。。。
「哲学的な厳密さ」というのは果たして哲学者の名前(マクタガート、ダメット、クリプキ、その他いろいろ)を持ち出すことで担保されるようなものなのだろうかという気もするわけですが…、まあともかく、この先の話が盛り上がるよう祈っておこう。。。

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2008年6月 9日 (月)

◆暑過ぎる
ので何時もながらにやる気無し。

ジャック・デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』(人文書院、1990)を読み終える。
こういう本の場合、内容について喋喋するのはネタばらしの禁じ手ということになるのだろうか。(なにしろデリダの本はほとんど読んだことがないのでその辺の事情がよく分からん。)まあ面白かったからいいけど。
「動物(化)」というような批評的タームは、デリダの(ある意味での)愚直さを覆い隠すような働き方をしてしまったんではなかろうか。

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2008年6月 3日 (火)

◆パオロ・ヴィルノ『ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」』(人文書院、2008)
マッキンタイアの本と並行してこちらも読み終える。

マッキンタイアとは逆に、こちらはネオテニーの人間学の系譜(ボルク-ポルトマン-グールド、あるいはヘルダー-ゲーレン)を引き継いで、人間を通常の動物から明確に分かつその特異な本性(不安定性、潜在性、言語能力、環境の欠如と世界への開かれ)に着目しつつ、チョムスキー的本質主義(そこでは全てはメタ歴史的な人間本性へと帰着させられる)とフーコー的構築主義(そこでは全てが歴史的なものへと溶解させられる)との間を縫う「第三の道」を切り開きましょう、ということで、資本主義の変容の中で今日、メタ歴史的な生物学的不変項としての人間本性がそれとして歴史の中に露呈させられ、労働の場へと動員されるに至った次第が跡付けられる、――といったところですか。しかし要するに、不安定性を縮減させるような擬似環境としての“冷たい会社”(フォーディズム)から、不安定な潜在性を労働力として召還する“熱い会社”(ポストフォーディズム)へ、といったような単純な図式しか頭に残らないのは、やっぱり自分がポストフォーディズム的労働の経験には乏しいせいなんだろうか。
まあしかし、第三の道を行くんだぜ、というアプローチは一般には、獣道のような道なき道を切り開いてゆく所にそのスリルがあるのだろうけれども、それに比べるとヴィルノさんの語るそれは初めから随分と間口(道幅)が広いというか何というかという感も。間口を広く取って色んな品(チャーチランドからヘーゲル、カール・シュミットからウィトゲンシュタインまで)を仕入れては、それらを巧みに料理してみせるというのが持ち味の人ではあるのだろうけど。また実際、この本の中では、ヴィットリア・ガッレーゼのミラーニューロン研究に茶々を入れた「鏡ニューロン、言語的否定、相互認知」の部分が個人的には一番面白かった。

そういえばガッレーゼさんという方はアルヴィン・ゴールドマンなんかとも一緒に研究している人ですか。ミラーニューロンの話はまだ暫くは流行りそうな気配だし、少しは勉強しておくべきなんだろうなあとは思いつつ、なんだか今更な感じもあって億劫でもある。

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2008年5月13日 (火)

◆神崎繁『魂(アニマ)への態度―古代から現代まで』(岩波書店、2008)
いちおう読み終える。これはきっと、ウィリアムズのShame and Necessityを読む前に読んでおくべき本だったのだろうけど、まあいいか。
小著とはいえ、広範なテキスト渉猟に支えられた「デジャ・リュ(déjà lu)」を導きとして、時代を隔てたテクストどうしをつなぐ幾つもの糸を辿り、それらが織り成す文様を浮かび上がらせて行く、その名人芸的な手さばきを十分に堪能させてくれる内容で(しかしこういうのはむしろ、もっと長い本にした方がかえって読みやすさも随分と増したのではないんだろうか)、「舟と船人の比喩」をめぐって、トレトゥスら後期スコラ哲学のアリストテレス解釈に潜む可能性を、さらに中国明代のイエズス会士たちの残した注解書にまで追跡して浮き彫りにしようという最終章の話ともなると、さすがにもう参りました、という感じにもなる。

(しかし、アリストテレスの機能主義的な心の哲学が云々という話は、この本を読んでもやっぱりよく分からない。というか、この本ではバーニェトとソラブジをめぐる楽屋オチ的なネタの一つとして通りすがりに言及されているだけではあるのだけれど。まあやっぱりブレンターノが曲者だ、と。)

ちょっとメモ。

 アリストテレスは、「身体(ソーマ)」が魂の「道具(organon)」であることを、明言しています(『魂論』415b18-20, cf. 407b25, 429a26, 『動物部分論』642a11-13, 646b10-647a23, 687a10-23)。通常これは、「道具」ではなく「器官」と訳され、この言葉をそれ以前に使ったプラトン(『国家』508b4, 518a1, 『ティマイオス』45ab)とは違って、比喩的に「道具」と述べているのではなく、「器官」という意味ではじめて使ったのは、アリストテレスであると付言されることが多いと思われます。けれども、私自身は、アリストテレスは一貫して「道具」という意味をそれに込めていたように思います。しかも、それは制作者という意味での技術者(このイメージは、プラトンとストア派において顕著だと思います)ではなく、技術そのもの、それも「使用者」を相関者とする「道具」です。
 やや大胆な言い方をすれば、「器官(organ)」、もしくは「器官的・有機的(organic)」さらには「有機組織(organism)」という言葉は、近代の機械論的考えが広まるにつれて、従来の「道具」「道具的」という比喩的表現がそれ自体としては効力をもたなくなったために、比喩的用法を完全に脱して、それ独自の意味合いを帯びるようになったものだと、私は推定しています。けれどもそれをご説明するためには、また別の集中講義が必要ですから、ここではこれで留めておきます。(pp. 203-204)
締め括りとしては、そこからさらに、ハイデガー的な「道具連関」論(と、道具使用に体現されるものとしての「実践的知識」観)への筋道が示唆されているのだけれども、アリストテレス解釈のこの辺の問題についてはもう少し詳しい話が読みたかったかなあ、と。

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2008年3月21日 (金)

◆Albert Lautman
久野収『読書のなかの思想』(三一書房、1976)をブクオフで買ってパラパラ読んでると、戦前のフランクフルト研究所の『社会研究誌』(の書評欄)に関する文章の中で「A・ロートマン」という名が出てくるので「ん?」と思ったら、Albert Lautmanという人は旧制三高で教鞭を取っていたわけですか(→Wikipedia)。以下は引用――

こうして私は、この書評欄を通じて、学界の動きだけではなく、人間の動き、世界の動きそのものを追い、たしかめていた。たとえば37年の第一冊には、A・ロートマン(仏)がシャルトルから、『科学的哲学国際会議報告』、『物理学の進歩と哲学』、E・メイエルソン『論文集』、A・ブウタリク『物理学の現実的諸概念』の書評をしているのを読んで、日本からフランスへ帰郷した彼の健在ぶりをよろこんだりした。彼は、ボーヴォワール『或る戦後』を読むと、サルトルに代って、旧制三高の仏語教師に赴任してきた人物であることがわかるが、ゴーシュ(左派)と自称していた。野間宏君の『わが塔はそこに立つ』に出てくる若いフランス人学者のモデルであり、戦後、レジスタンスでの殉難が伝えられてきた、すぐれた哲学者である。(pp. 19-20)

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2008年2月26日 (火)

◆アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』(みすず書房、1993)
ずるずる読んで大方読了。しかしこの本を通じて、「合理性」ということで何が要求されているのか(例えば一方で「私たちの文化においては、道徳的な一致を確保するための合理的な方法は何もないように思われる」(p. 7)と言われ、また他方では「彼[アリストテレス]は…古典的伝統を合理的伝統に仕上げた」(p. 180)と言われる場合に)が終始はっきりしない感が残って不安になるのだけれども。。。

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2008年2月19日 (火)

◆河野哲也『善悪は存在するか―アフォーダンスの倫理学』(講談社選書メチエ、2007)
とりあえず一遍読んだだけ。しかしこれは若干看板に偽りアリげな様子なので、一読しただけではまだちょっと「?」な感じである。タイトルからストレートに予想されるようなテーマをめぐっては、普通の進化心理学風の話(進化的に安定した戦略としての利他主義・互酬性)と、普通の功利主義をアレンジしたような話(他者の利益/不利益への共感)で終わってしまうので、この本の“売り”はむしろ終盤での、「法的なもの」をめぐる抵抗への呼びかけにある、ということか。けれども、(一方での)普遍的で指令的・強制的な規範性を備えた「法的なもの」(「法化された道徳」)と、(他方での)「健康」さを育む自然の法に立つものとしての互酬的・呼応的な関係性、という本書での基本的なコントラストは、とりわけ言語に固有なレベルでの規範性について十分に顧慮されていない(ように見える)せいもあって、かなり単純化されて誇張的に描き出されているようにも思われる。
(第2章では「規則に従うこと」をめぐるクリプキの議論について検討がされていて、とは言ってもそこでの議論内容が十分に理解できているわけではないけれども、もしその趣旨が「クリプキ的な懐疑は既にして言語活動における“法的なもの”の支配を前提してしまっている」といったようなことなのだとすれば、これは――「言語的なもの」と「法的なもの」との関係を単純に転倒しているのでないとすれば――言語に内在する規範性(法)をむしろ取り逃がしているようにも見える。あるいは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い(pp. 142f.)の抽象性について言えば、この問いかけの“抽象”性に映し出されているのは、「法的社会」の管理の根深さである以前に、言語それ自体の可能性――特定の「あの人」や「この人」がまた一般的な「(ある)人」でもあるということ――なのではないのだろうか。)

しかし議論の内容はともかくとしても、「従来の倫理学」というような壮大な括りで何か有意義な議論をしようというのは――ここ最近の倫理学における諸派の群雄割拠ぶりを見ればなおさらのこと(ナントカ主義とかカントカ主義とかいった諸宗派がこれほど賑やかに乱立している分野が他にあるだろうか(いや無い、と言えるかどうかはともかく))――そもそもの初めから根本的に無理があるんじゃなかろうか。。。

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2008年1月28日 (月)

◆Paul Boghossian, Fear of Knowledge: Against Relativism and Constructivism (OUP, 2006)
読み終える。
ポストモダン風の社会的構成(構築)主義の主張――(1)事実に関する構成主義、(2)正当化に関する構成主義、(3)信念の合理的説明(なぜわれわれは現に持つような信念を持っているのか)に関する構成主義――がいずれも説得的な議論の裏付けを欠くものであることを示しましょう、ということで、そうした構成主義的風潮を言ってみれば側面から支援したとしてネルソン・グッドマンやローティが指弾されるわけなのでした。というか、(1)と(2)に関しては、それらの構成主義的主張を維持しようとすればローティの唱えるような相対主義に訴えるしかないというのがボゴシアンの見立て(ということで、ローティへの批判がこの本の中心的テーマを形作ることになる)なので、ローティはむしろ主犯扱いとでも言うべきなのか。(これに比べると、(3)をめぐる議論――デヴィッド・ブルア、クーン、デュエムに対する批判――は、分量的にも少ないこともあって、まるで取ってつけたかのようにも見えないこともない。)
この本では中でも特に(2)の正当化に関する構成主義への批判に重点が置かれているようで、なるほどそうかと感じる点も多くあるけれども、それに比べると(1)の事実に関する構成主義をめぐる批判的議論について言えば、この本でのボゴシアンがそうであるように、(分析)哲学者が何ら良心の呵責を感じることなしに“事実(fact)”について語ることができるようになった――この点ではハッキングの本はまだ随分と慎み深かった(ように記憶している)けれども――その理由としては何が大きかったんだろうか、といったような事などの方がむしろ気になるわけなのだった。
「ネタにマジレス」的な感じも無いわけではないけれど、サイズ的にも新書本でぴったり収まりそうだし、ナントカ新書とかで翻訳でも出したらどうですかね。

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2008年1月21日 (月)

◆ダニエル・C・デネット『自由は進化する』(NTT出版、2005)
遅れ馳せながら読み終える。
超訳的に超要約すると、前半では、デネット自身のスタンス論をベースとする形で決定論と自由意志との両立可能性を示しておいた上で(たとえ基底的な物理的世界には決定論が貫徹しているとしても志向的システムは自由でありうる)、後半では、物理的な世界の中からいかにして自由や道徳性を備えた心が生まれてくるかという「自由の進化」論を描き出す、といった具合だけれど、特に前半部分では良く分からない箇所が幾つもあって、果たしてこの翻訳で大丈夫なんだろうかとちょっと不安になる。(しかも「訳者解説」を読むとますます不安が高まるわけですが。)
しかし翻訳はともかくとして、やっぱりこの本だけではデネットの両立論的自由意志論の骨格や含みは中々見通しにくそうなので(恐らく、この本の読み所はむしろ後半部分だろうし、特に第7章や第9章には「へぇー」というネタが沢山ある)、ついでだからElbow Roomも読んでみようかどうしようかと思案中。

行為者の設計をめぐる思考実験をするのは、プラトン『国家』以来の伝統だ。進化論的な視点が追加でもたらしてくれるのは、そうした実験を自然主義的に保つため(そうでないと、天使や永久機関を設計することになりかねない)のそこそこ系統だった方法だ。でも同じくらい重要なこととして、行為者たちの相互作用が時間を追うにつれてどうなるか、というのが検討できるのだ。この点について哲学者たちは口先であれこれ言うだけだ。たとえば、哲学者たちはしばしば「みんながそれをやったらどうなる?」というのを修辞的な質問として投げかけるけれど、その答えは明らかだと思い込んでいるのが普通なので、実際にその答えをまじめに考えようとはしない。そしてもっとおもしろい以下のような質問は思いつきもしない――一部の人がそれをやったらどうなる? (何パーセントの人が、どのくらいの期間、どんな条件でそれをやったら?) 進化シナリオのコンピュータ・シミュレーションは、もっと強い規律をもたらす。それはモデルに隠された前提条件を見つける手段であり、「つまみをまわす」ことで変数の設定を変えるとどんな影響が出るかをダイナミックに探求できるようになる。こうしたコンピュータ・シミュレーションが、経験論的な実験ではなく実は哲学的な思考実験であって、直観を補強するものなのだと認識するのは重要なことだ。それは各種の前提が持つ意味合いを系統立った形で検討するものだ。今までの哲学者はこうした思考実験を手作業で一つずつやるしかなかった。いまや、一時間で何千という変種を試せる。これはそこから出てくる直観が、シナリオのいい加減な特徴の産物じゃないということをチェックするのによい方法だ。(pp. 303-4)
進化論的なアプローチを持ち込むことで果してどこまで行けるか、というのは哲学的に見ても興味深い問題だと思う一方で(その意味では、この本は例えばブランダムなんかと突き合わせて読んでみたら面白そうな気もする)、正直な話、自分はやっぱり進化論的な話それ自体にはあんまり関心が無いんだよなあ、とも改めて感じた次第なのだった。
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・ロバート・ケインについて
佐々木拓「生き方が責任を作る:「もうひとつの可能性」再考」[pdf]

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2008年1月15日 (火)

◆野矢茂樹『大森荘蔵―哲学の見本』(講談社、2007)
読み終えた。
こうして改めて全体像(と言ってもこの本で描き出されているのはあくまでその一部なのだろうけれども)を振り返ってみると、大森荘蔵という哲学者はそのレトリックの巧みさに比べると、使われる哲学的アイディアの型という点ではどちらかと言うと貧しい方ではなかったかと思えてくる。でもまあ、それじゃ逆にそんなにアイディア豊富な哲学者なんているものか、ということでもあるけれどもそれはともかくとして、比較的限られたアイディアを駆使しつつ粘り腰で頑張り抜くというその姿勢にきちんと向かい合えるだけの粘り腰が読む側にもないことには、いわゆる「後期」の仕事の意味というのは十分に読み解けないのかなあとも思った。(自分自身が、『物と心』や『新視覚新論』に比べると、『時間と自我』以後の著作をあまりきちんと読んでいないこともあって。)

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2008年1月11日 (金)

◆読んだもの(年末年始篇)
・清水幾太郎『倫理学ノート』(講談社学術文庫、2000)
・加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫、1997)
・保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮文庫、2006)
・イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』(以文社、1998)
・小島信夫『女流』(集英社文庫、1977)
・小熊英二『清水幾太郎―ある戦後知識人の軌跡』(御茶の水書房、2003)
・アイザイア・バーリン『自由論』(みすず書房、1971)
・アイザイア・バーリン『ロマン主義講義』(岩波書店、2000)

以前に読んだ本を読み返してばかりいると、いつの間にかマラルメ的全能感?――"j'ai lu tous les livres"――が忍び寄ってくるので注意しなければならない。(肉体も悲しいが貧乏も悲しい。)

バーリンの『ロマン主義講義』では、18世紀的啓蒙を(結果として)揺るがすに大きく与ったとして特にフィーチャーされているのが、ハーマン、ヘルダー、カント、シラー、フィヒテという五人の面々だけれども、これをさしずめゴレンジャーになぞらえると、
  アカレンジャー:ハーマン
  アオレンジャー:カント
  キレンジャー:ヘルダー
  モモレンジャー:シラー
  ミドレンジャー:フィヒテ
といったような具合にでもなるのだろうか。しかし新年早々から下らないことを考えている場合ではないだろう。Aude sapere.

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2007年12月28日 (金)

◆最近読んだの
・長谷川三千子『バベルの謎―ヤハウィストの冒険』(中央公論社、1996)
・絲山秋子『袋小路の男』(講談社、 2004)
・保坂和志『小説の自由』(新潮社、2005)
・保坂和志『小説の誕生』(新潮社、2006)
・ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』(晶文社、1969)

『小説の自由』はしばらく前に途中まで読んだままほったらかしてあったのをまた初めから読み直して、でもってまたそこから当然のように続けて『小説の誕生』を読んでしまうのは何だかすっかり術中にはまっているような気がしないこともない。
しかし『小説の自由』にしろ『小説の誕生』にしろ、面白い部分もあれば詰まらない部分もあるというのはいいのだけれども、それは結局「保坂和志が面白い話/詰まらない話をしている」というようなことで、「この人は次に何を言うんだろう」という持続した関心に繋ぎとめられていない人間(というのは自分のことだが)にとっては、そこから何かが広がって動き出してくるようなものがあんまり感じられないのだが、唯一そうしたワクワクするような感じ(の予感)を抱かせてくれるのが『小説の誕生』の中の所々で『寓話』と『菅野満子の手紙』に触れた部分であるというのは一体なんだろう。
(それにしても、『小説の自由』も『小説の誕生』も両方とも、引用される沢山の文章はことごとく変な文章ばかりといっても過言ではないのだけれど、『小説の誕生』の第10章に引用されている小島信夫の「裸木」――これは22歳の時に書いた短編なのだそうだ――というのはちょっと余りに変な文章で驚いた。)

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2007年12月25日 (火)

◆永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店、2007)
二次元繋がりということでこちらも。
しかしこれは穏やかな語り口のようでいて、恐ろしいまでに早口だ。
この何だかよく分からない切迫感がこの本に独特の魅力を添えているようにも思えるけれども、そうした魅力というのはもはや哲学的なそれとは本質的に別物なのではないかという気もする。
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どこまで辿り着いたら読み終えたということになるのか、その着地地点がなかなか見えてこないので(むしろそんなものなんて存在しないのかもしれない)、最後まで進んではまた最初のページに戻る、という作業を何度か繰り返してはみたものの、グルグル輪廻転生を続けるのもいいかげん飽きてきたので一旦やめ。
この本の中では「二次元的意味論」だの「可能世界」だの「志向性」だの「ゾンビ」だのといったガジェットが随分にぎやかに使われてはいるけれども、結局これらは実質的な話の本当の中身にはあんまり関係が無いようで、例えば――二次元主義的な第一次内包や第二次内包と並べる形で――「第〇次内包」と呼ばれているものは恐らくは、そもそも内包ですらないし(それはいかなる外延も確定しない)、またそれゆえにこそ第〇次なのである、等々。(もしかしたら「内包」とでも表記されるべきなのかもしれない。)

「はじめに」で述べられている、「本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的である」(p. v)という言葉が正しいのかどうか、自分にはまだ良くわからないけれども、少なくともこの本から幾つかの結論らしきものを引き出すことができるとすれば、それらのほとんどは(あるいはもしかすると、引き出し方によってはその全てが)正しいのではないかとさえ思えるものの、そこへと至る道のりは全く間違っているはずだ、とも感じる。

自分にとっての興味はもともと、二次元主義的な語り口の耳触りの良さというのは一体どこから来るのかという、その秘密にあったのだけれども、この本の中では、予想されるべきノイズや軋みが一切遮断されてしまうような形で“世界像”があらかじめ設えられているので、その意味では得るものは無かったと言えば無かったとも言える。(現象的な意識経験が「内包」化される、その一瞬が勝負の分かれ目なので、その意味では、それから後の話はどうでもいいと言えばどうでもいいのである。)「上ってみたら梯子なんてなかった!」――気がついてみるとなぜか自分は一番高い所に(祭り上げられて?)いる――というのがこの本の「正しい上がり方」なのだとすれば、むしろそこからどう脱け出るかというのが自分にとっての課題ということになるんだろうか。

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2007年10月19日 (金)

◆岡部勉『合理的とはどういうことか―愚かさと弱さの哲学』(講談社選書メチエ、2007)
読了。――と言えるほど十分に理解できてはいない。
グライスの(晩年の?)仕事(The Conception of ValueAspects of Reason)が随所で参照されている割には、結局のところグライスがやろうとしていたのはどういうことだったのかがあまりクリアに見えてこないというのは、どこか茫洋としたマイペースな語り口のせいなのか、それともこちらの頭が悪いせいなのか。(それとも両方か。)

…「理性的」存在としての成熟ということが、グライスに従って考えれば、私たちの一つの目標であるということになります。それはただ単に、既存の社会規範によってその成熟度が測られるという意味で、ということではないと思います。社会自体が成熟するということがあって、そのことが私たちの目標になり得る、あるいは、そのことが私たちの目標を変え得る、そういう意味で社会の成熟と私たちの成熟が問題になり得るということだと思います。/このような考え方は、実は、きわめてアリストテレス的なのかもしれません。少なくとも、ギリシア的ではあると思います。人間としての成熟とか社会そのものの成熟というようなことが、哲学の主題になっていた時代です。グライスの考え方がギリシア的だと言う人はあまりいないようですが、実は、グライスには間違いなく、オックスフォードの正統アリストテレス主義者の血が流れています。(pp. 35-6)
グライス的なコミュニケーション理論が――ルイスの規約論などを介して――ゲーム理論の展開にも見られるような合理性についての現代的な理解にも繋がるものであるとして、そうした中でグライス自身のギリシア回帰(?)というのは果していかなる意味を持つものであったのか。(そうした観点からしても、人間にとっての価値や合理性を取り巻く「第二の自然」を「自然言語をモデルとして」(p. 171)考え直そうとする最終章での試みは――少なくともグライスに則して見た場合には――事態を転倒しているようにも思えてくるけどどうなんだろ。)
しかし、グライスの本をきちんと見た上でもう一遍読み直してみたい本ではある。(哲学にとっての「成熟」の形について色々考えさせられる本でもあるし。)
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と思っていたら、Aspects of Reasonの第1章は翻訳があるのだった。

岡部勉「理性と推論」[pdf]

でもこれを見ただけではやっぱりグライスの狙いがいま一つうまく掴めない…。

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2007年10月17日 (水)

◆最近の読み物
・納富信留『哲学者の誕生―ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書、2005)
・東浩紀『情報環境論集 東浩紀コレクションS』(講談社、2007)
・斎藤環『生き延びるためのラカン』(バジリコ、2006)
・北野圭介『大人のための「ローマの休日」講義―オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書、2007)

『哲学者の誕生』と『生き延びるためのラカン』はアルキビアデス繋がり。(という程でもないか。)

『大人のための「ローマの休日」講義』についてはこちらのblogでの紹介にちょっと興味を引かれて読んでみたわけですが、バランス感覚と堅実さに裏付けられた、多様なアプローチへの広範な目配りという点で賞賛されるべき本なのだろうとは思うものの、小著のせいかどうしても八方美人的な印象も受けてしまう。

『情報環境論集』に収められている中では「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」が面白かったけど、「ポストモダン」という言葉にはいまだにどこか気恥ずかしさを覚えざるを得ない世代に属する人間としては、ちょっと複雑な思いも残るのだよなあ。

ポストモダンの理論家たち、とりわけ日本におけるその紹介者たちは、この20年間、ポストモダンなるものを実体化してはならないということ、むしろそれは近代の文化的論理の一変種にすぎないのであり、近代の近代による乗り越えと見なすべきだということばかり繰り返してきた。しかし、実はそのような麻痺的な言説こそが、未来学の――さらに一般化して言えば、好況時の消費社会の欲望に基いている。(pp. 354-355)
というわけで、ここ20年間に進展した「情報化」の流れは、ポストモダン社会の後戻り不可能な訪れを否応無しに突き付けているのだ、ということではあるけれど、そうした中では例えばラカンを特権的に参照しつつ語られるような「批評」的言説というのは何かもう決定的に失効してはしまわないのか、と。(批評とポストモダン? というのはともかくとしても、「情報自由論」の方になると、そこでの議論を導いている「想像力」の質というのはむしろかつての「未来学」者のそれを思わせるものなんじゃなかろうか。)
ベンヤミンの複製技術論を手引きとして精神分析と映画との同時代性という話で締めるというのは上手いものだなあと思うけれども、ベンヤミンにおいて「映画(的なもの)」と「写真(的なもの)」とがどのように分化されているのかが今一つよく分からない。(しかし精神分析と映画との同時代性に加えて、ラカンとチューリングとの同時代性も語られるということになると、何だか同時代性の大安売りにも見えてくる。)

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2007年10月11日 (木)

◆最近読んだの(その2)
・レイモンド・ゴイス『公と私の系譜学』(岩波書店、2004)

なぜか下ネタが多目。

ニーチェが「超人」と呼んだものは、自己制御の理想を実現できる者という考えであるが、定義上《超人》は人間ではない。興味深いことにアウグスティヌスもまた、これと似た状態について説明をしている。つまりそれは、肉体的な構造のいくつかに有る特徴をわれわれは現在自分の意のままにできないのだが、そうした特徴が完全にわれわれの意識的で随意的な制御の下にある、という状態に関する説明である。アウグスティヌスはこれを、神の恩寵から堕落する以前に人間が生きていた状態だと考えている。アウグスティヌス自身がもっていた強迫観念にかんがみるなら、堕落以前の男性が自分自身の勃起を完全に制御できたのかどうかに彼は最も興味を抱いているのだ。彼の考えでは原罪以前にアダムは、純粋な有意的行為によっていつでも勃起させることができたのであり、そうした意志の結果以外で勃起することはありえなかった。つまりアウグスティヌスにとって、意志に基かない勃起とは、人間の意志が堕落し退廃した状態にあることのしるしなのである。(p. 64)

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一読しての印象では、これは(といっても原題はPublic Goods, Private Goodsなのだから、正確には邦題が、と言うべきなのだろうけど)若干看板に偽りあり、という感も受けるわけですが。
近代リベラリズムの拠って立つ「公/私」の区別を系譜学的に解体すべく、前半第2~4章はそれぞれ、「アゴラで自慰するディオゲネス」、「ルビコン川を渡って進軍へと踏み切るカエサル」、「神との霊的会話に沈潜するアウグスティヌス」という三つの古代的形象を経巡り、そこには公と私に関わる唯一の区別など存在しない(逆にそこには(i)「儀礼的無関心を原理とする空間」と「親密さに満たされた空間」、(ii)「公共善」と「私的な利益」、(iii)霊的な内面性とその外部、という少なくとも三つの異なる区別がある)ことを暴き立てるという話ではあるけれど、「歴史を遡っていくとその辿り着く先は色々ありまっせ」という形で起源の多様性を示すことにはどれほどの破壊力があるものなのか。
というわけで結局、近代的なリベラリズムそのものを被告席につけての第5章での――かなり殺伐とした――議論が要請されることにもなるのだろが。
(もっとも、系譜学的解体の試みがリベラリズムへの「一般的な批判的議論」の一部を形作るにすぎないことについては、「序文」(p. xviii)でも述べられていたのではあるけれども。)

あとは、『哲学と自然の鏡』では「主観的」と「客観的」という区別のグダグダさを見事に衝いていたローティが、『偶然性・アイロニー・連帯』では公/私の区別をのうのうと保持してリベラリズムの伝統に屈しているのはケシカランから反省しる(p. 135)、という話など。

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◆最近読んだの(その1)
・A・A・ロング『ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派』(京都大学学術出版会、2003)

すべての動物が目的志向的な行動を示すとした場合、動物があるものを追い求め、別のものを回避するのはなぜだろうか。この問題に対するストア派の答えはきわめて興味深い。彼らは、あらゆる動物が、自らの自然的な構成に適した好みと嫌悪を示すように遺伝子的に定められている、と論じた(SVF iii 178-188)。すべての生き物が、《自然》によって「自分自身に親近的である」ように構成されているのである。「親近的」と訳した語(oikeios オイケイオス)は、ギリシア語では、「同族の、類縁的、属する」を意味すべく日常的に用いられた語である。しかし、ストア派はそれによって、十分に「独創的」とみなしうる専門的な概念を表現している――もっとも、アンティオコスを信用すべきであるとすれば、ゼノンはアカデメイアのポレモンから影響を受けた、とのことである(キケロ『善と悪の究極について』第4巻45)。オイケイオーシス(oikeiosis 親近性)は、動物がその環境に対して示す関係を規定する概念であるが、しかし、動物が第一義的に親近的であるのは、自分自身に対してである(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻85)。動物の自己意識は、愛情の関係であって、あらゆる行動は、この同一の原理の拡張ないしは表現として解釈されうる。こうして動物の衝動の方向は、それが感覚する対象と、自らに帰属する物事を認識する生得的能力の両方によって決定される。…(p. 261)
・ストア派倫理学の出発点としての「最初の衝動 prote horme」→ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻85-86(→pp. 281f.)

・《自然》への適合としての徳――《自然》的構成の理論(「自然に適ったもの ta kata physin」と「自然に反したもの ta para physin」(→p. 287)

・kathekon―officium (Cicero)―function(→pp. 285f.):「…こうして基本的な原則として、《自然》に適ったものはそれ自体のゆえに獲得されるべきものであり、それと反対のものは斥けられるべきものであるということが確立されると、第一に相応しい役割は、自らをその自然的な構成の内で保存することであり、第二に相応しい役割は、《自然》に適ったものを捉え、反対のものを遠ざけることである。いったんこの選び取りと拒絶が見出されると、その次に結果してくるのは、相応しい役割の遂行を伴う選び取りである。そしてそれに続いて、そのような選び取りが連続的になされるようになり、最後に来るのは、完全に整合的で、《自然》と一致した選び取りである。そしてここにいたってはじめて、真の意味で善いと呼ばれうるものが人の内に宿りはじめ、理解されはじめる。…」(キケロ『善と悪の究極について』第3巻20-21)(→pp. 283-284)

…しかし、それらすべての物事の相応しさは、それらが理性的生き物の自然に適合している、という事実に依存している。すなわち、理性の始動とともに、人は、こうした諸行為の遂行が自らに「適している」と認識するようになると考えられている。人の内部で理性が発達するにつれて、彼にとって遂行するのが「相応しい」行為の範囲は、大きく拡大してゆく。キケロは、「われわれは市民の共同に向けて、《自然》によって結びつけられ、一体化されている」というストア派の見解を報告している(『善と悪の究極について』第3巻66)。ストア派倫理学における社会的な諸原理の源泉は、家族内・家族外の関係を構築すべく、《自然》によって植えつけられたこの衝動の内にある(『義務について』第1巻12)。しかし、こうした行動を決定づける原理は、より明白に自愛的な諸行為を促す原理と、種類の上で異なるものとはみなされない。正義の出発点は、「オイケイオーシス」(oikeiosis)、すなわち、自分自身に属しているものに引かれる、かの親近性の態度である(SVF i 197)。ストア派にとって道徳的な発達とは、最も単純で最も基礎的なレベルにおいては、けっきょく、共同体の生活と徳がとくに優れて人間の自然に属している、ということを認識することなのである。

――というわけで、ストア派の"oikeiosis"の概念がその倫理学においていかに中心的な役割を担っているかはよく分かったものの、それだけにこれを(ソラブジの言うように)ロックの身体論と結び付けるというのはかえって難しくなってくるようにも思えるわけですが…(ロックにおいて、少なくとも、意識によってその任意部分が領有可能なものと見なされる限りでの身体には、いかなる《自然》も欠けている?)。 ――「しかし最終的には、ストア哲学は、以前、以後の諸思想の展開とのいかなる単純な比較をも拒絶するのである。ストア派は完結した世界像を提出しており、そしてある意味において、彼ら自ら認めていたように、人は全体を丸呑みするか、さもなくば、まったく何も取り込まないかのいずれかの道を採るしかない。彼らが他の哲学者たちと一致しているように思われる諸点も、つねに全体的な体系という文脈のなかで考察しなければならない。」(p. 314)
それでもまあソラブジの"Animal Minds"本を読む取っ掛かりが得られただけでも良しとすべきか。


ストア派から賢者を取り去ると、世界はルイス・キャロルのものとなり、倫理学はethologyとなる。(と適当に言ってみただけー)

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2007年10月 8日 (月)

◆昨日の読書
・フィリップ・ラクー=ラバルト、ジャン=リュック・ナンシー『ナチ神話』(松籟社、2002)
・加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス、2007)

とはいっても『〈個〉からはじめる生命論』は前半のみ。
第一章「胎児や脳死者は人と呼べるのか―生命倫理のリミット」で主要な標的となっているのはトゥーリーやシンガーの功利主義に立つパーソン論だが、「関係性の考慮」云々をめぐる議論は功利主義に関する基本的な誤解に立っているとしか思えない。(またそれと関連することでもあるけれど、パーソン論で言われる「パーソン」概念の思想史的背景を考えるならば、「倫理的配慮を受けるに値する」者たる「〈誰か〉」――人格(パーソン)に代わるものとして――への依拠も的外れに見える。)
第二章「「生まれない方がよかった」という思想―ロングフル・ライフ訴訟をめぐって」では、前半部分で各国でのロングフル・ライフ訴訟の実例が詳しく紹介されているのが大変参考になるけれども、そこからパーフィットの非同一性問題へと強引に話を繋げていく後半部分の展開はちょっと無茶過ぎるんじゃないんだろうか…。

ここまでの議論は、邦訳で二段組・約750頁に及ぶパーフィットの主著『理由と人格』のほんのいくつかの断片に対して仕掛けられたものにすぎない。けれども私としては、パーフィットの思想の本質的な部分に切り込む異議を提出したつもりである。パーフィットの議論は目眩く知的刺激に満ちているが、その世界観の根幹には「生きられるに値する生と値しない生」「存在させることは恩恵を与えることであり、存在させないことは損害を与えることである」「無よりも悪い存在がある」「生まれないことと死ぬことは類比的に語りうる」といった疑わしい観念の数々が横たわっている。私はそのすべてを反転させ、パーフィットとは別の倫理を見出したいと思う。本章はそのための小さな一歩であった。(p. 140)
――という締め括りの言葉からすると、ここでのパーフィット批判(の行き着く先)はおそらく、パーフィットの基本的には功利主義的な構想を焦点にしているのであって、パーフィットが非同一性問題の提起という形でそこに付け加えた捻りは本当はあんまり関係ないような。いずれにしても、この章でのパーフィットへの言及は全体に、何だかあんまり質の良くない伝言ゲームを経由しているように見えて仕方がないけれども、もしそうだとしたら一体誰が悪いのか。
といったわけで、この先を読み進める気力がわいてこない。。。(個人的には、「魂の叫び」を叫ぶための手軽なツールとして哲学を使うのは止めて欲しいと思う。)

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2007年10月 5日 (金)

◆デイヴィッド・ミラー『1冊でわかる 政治哲学』(岩波書店、2005)
読み終えた&いろいろ勉強になった。
こうしたコンパクトなサイズで「誰もが読んでおくべき本」をきちんと書き上げてしまう力量は流石だなあと思う。

訳者解説では、1950年代には「死滅宣告」を下されていた政治哲学が――「分析的」政治哲学として――復活再生するにあたってオックスフォードでのPPE(哲学、政治学、経済学)プログラムが果した一定の役割にも触れられているけれど、結局のところ20世紀の哲学の中では最も成功を収めた分野の一つが政治哲学なのだから(たぶん)、日本の哲学カリキュラムの中でももっと重視されてもよさそうなものではあるけれども、もはやそんな贅沢なこと言ってられる時代ではない、ということになるのだろうか。

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2007年10月 3日 (水)

◆昨日
は丸々一日がかりで『黒死館殺人事件』を読み終えたその余波か、今朝方は時間軸が脱臼しまくったような奇怪な夢で目覚める。(安倍シンゾーとAlva Noeとの幻の共著論文って何なんだ。。。)

そういえば少し前に吉本隆明の『少年』(徳間文庫、2001)を読んで、田村隆一や北村太郎ら荒地世代への「遅れ」について書かれた部分に「へー」というか「なるほど」という思いをしたけれど、(少年時の僅かな年齢差が色々な面で極端に大きなギャップに繋がりかねないものであるとはいえ)昭和初年期のモダニズムへのこの無感覚さ――端的に言えば無知ということだが――というのは一体何だろうと改めて訝しく感じたのを思い出した。

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2007年9月 8日 (土)

◆金杉武司『心の哲学入門』(勁草書房、2007)
とりあえず一読。
トピックの選択にしても筆致にしても随分禁欲的だなあという印象も受けるけれども、こういう風に内容のレベルを一定に抑えて、躓きそうなポイントについて丁寧にフォローを加えるというのは、これから教科書を書く人たちが大いに見習うべき点なんではなかろうか。

内容的には、第3章後半での「志向性の説明」についての説明は、後段との解釈主義の取り扱いとの繋がりもあってか、教科書的な叙述としては少しミスリーディングに思える点も目に付くけどどうなんだろうか。(そうした自然主義的説明の試みは、心的なものの全体論には概して冷淡であるし、“信念-欲求”モデルにはうまくそぐわない部分も少なからずある。あるいは、表象の目的論的説明において鍵となる目的論的機能の概念それ自体は、“自然”選択という歴史的過程に支えられているという意味での「進化論的目的」を必ずしも必要とはしない。したがってロボットのような人工物に目的論的機能を帰すことは、目的論的説明の基本的精神には必ずしも反しない、等。)

こうした丁寧に書かれた教科書を使って大学一年から哲学を学習する世代というのは、大学内で全く放し飼い状態のままに置かれていたような牧歌的な世代とはきっと根本的に違ったメンタリティーを育むのであろうなあ、といったことなどあれこれ考えると感慨深い。(教科書が無いことの“恍惚と不安”などというものも、やがては想定不可能になってしまうに違いない。)

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2007年8月23日 (木)

◆昨日
とは打って変わって乾いた風は肌寒さを覚えるほど。
百日紅の木は、夕焼けを濃縮したような鮮やかな色合いの花をつけている。

多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』(作品社、2000)を読み終える。こうして個人史に突き合わせて見たからといって『北條』での変貌の何が分かるというものでもないが、それだけにそこを転機とした衰弱ぶりだけが際立って見える。「辞するにあって 作法はすべてまもられた」。

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2007年8月12日 (日)

◆読了
・ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』(昭和堂、2006)

これはかなり下らないとしか思えないわけなんですが。。。(ある意味ヒット作というか)
買うんじゃなかった。。。_| ̄|○

というか、原文はネット上で読むことができるらしいし(→SUR LES CHEMINS DU VIRTUEL)。ますます_| ̄|○

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2007年8月 8日 (水)

◆朝から
薄曇で涼しく過ごしやすい一日。しかし過ごしやすければ過ごしやすいで、これまたやる気が失せてしまうのはどうしたもんか。
とかなんとか言いながら、島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房、2007)をダラっと読んで、ダラっと過ごす。直截な表題には反して、中身はなんだか「状況証拠の積み重ね」に終始しただけという感じなんですが、こうした形で様々な側面から光を投じてその「危険さ」を映し出そうというやり方は、かえってその批判対象に不思議な魅力を帯びさせることにしかならないんではなかろうか。効果的な批判(を加えることの良し悪しは別にして)というものは一般に、もっと遥かにミもフタもない形で為されるべきなのではないかという気がする。もっとも中沢新一の本はほとんど読んだことがないので、「まあ何とも…」という読後感しか残らない。(でも考えてみたら、『虹の階梯』だけは大学時代に読んでいたのだった。)

この国の人々は革命は求めない。しかし、出来上がった秩序が破壊され、焼け跡から新しい世界がつくられるのを見ているのは、大好きな人たちである。心のなかに死の衝動をいっぱいかかえながら、日常生活の安定を求めている、まったく一筋縄ではいかない心理の持ち主なのである。(中沢新一『アースダイバー』)

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2007年8月 7日 (火)

◆一天
俄に掻き曇り、黒々とした空は横殴りの風に乗せて大粒の雨を叩き付けてくる、というリスキーな天候なので、昼過ぎまで家でじっと中西準子『環境リスク学―不安の海の羅針盤』(日本評論社、2004)を読む。
小学校の五年生からマルクスを読みはじめ、という話には恐れ入る。

中西功 - Wikipedia

生活の質を考える? それはいいことだ。生きている間も苦しいのだからと多くの方が言います。しかし、実は私はQOLの研究をすること、および、それを使ってリスク評価をすることを研究室の院生やCRESTの研究員に長い間禁止してきました。院生や若い研究者は、とてもそれをやりたがっていました。しかし、私は「ダメ」と言い続けました。損失余命は、失われた生存年の比較です。QOLの評価は、生きている人生の質の評価です。もちろん、それは低下したQOLを回復するために使うのですが、それが完全に回復されない間は、質の低い人生と見なされるという問題が起きています。そのことを認めたくなかったのです。その領域は、やすやすと踏み込めるものではないと考えていました。(p. 125)

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2007年8月 4日 (土)

◆朝方
のにわか雨の涼気も昼までしか続かず。午後からは昨日一昨日の再来のようなカンカン照りで、家の中の暑さも尋常ではない。
百日紅の木のある公園に行って、平出隆『ベルリンの瞬間』(集英社、2002)を読む。『2000年前後のベルリンにおける偽幼年時代』(p. 107)――考えてみると、親分肌ならぬ「息子肌」という感じがこれほどピッタリくる人も珍しいと思う。

高度経済成長期から日本の都市は、東京をはじめとして、均質で衛生的な都市環境整備へ向けて、廃墟を徹底的に掩蔽してしまうことに血道をあげてきただろう。「物」が氾濫し、消費が生産に先行し、詩人もまた「物」としてあつかわれるようになっただろう。そこで彼は内蔵助のように擬態を演じつづけていたが、ついに擬態がひとつの技芸をこえた豊穣に至り、討入りはなくなったようだった。
垂直性は水平性に敗北するし、敗北せざるをえない。詩人はだれよりもそのことを知っていたはずである。だから、垂直が寝そべるとき、水平もたんなる水平ではなくなるのではないか、という希望に賭けていくほかはなかったのかもしれない。これが戦後五十年の日本の詩を、最上級の緊張度で支えた意識だったかもしれない。そんなふうに、詩人の歩みを考えてきた。
(…)
スコットランドの田園風景や、ロンドンのパブ、東京の銭湯に、言葉への信頼と精神の共同体の拠り所を探すことに至った詩人の歩みは、戦後日本の風景に追い立てられての、貴族的な反抗の一形態だった。だが、その追い立てられかた自体が、あまりにも戦後日本的な、それも虚構的ななりゆきだったにちがいない。全詩集や選詩集に解説を書く機会を与えられると、ぼくはこのなりゆきに対してシニカルな、しかし精一杯の肯定を行なってきた。いいかえれば、精一杯の肯定の中に、否定の試みを手探りしてきた。ベルリンに住みはじめて、その手探りは、息子の父に対する否定の試みのごとき甘さのなかになかったか、と考えさせられはじめたようだ。(pp. 93-95)
これは「父」こと田村隆一の訃報に接しての記事。平出隆という人にとって散文というスタイルはどのような形の反抗を印しているのか。(しかし「豊穣」という言葉はいつもどこか嘘くさい響きを残す。)

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2007年7月19日 (木)

◆最近の読み物
ブクオフで100えんで買ってきた本を順番に読んでいくコーナー。

・島尾伸三『月の家族』(角川文庫、2002)
身辺雑記的ネタではあるけど、島尾敏雄をさらに追い詰めて神経過敏にしたような文体が正直しんどい。ジュブナイル版『日の移ろい』とはいえ、なんとも苛烈な日々である。
しかしそう考えると、(『海辺の生と死』の著者としての)島尾ミホという人の安定振りがまるで怪物的に思えてくる。

・宮台真司、速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(筑摩書房、2000)
なんだこれは…orz。
(こういう風に、卑近で卑小な日常と「名状しがたいすごいもの」としての世界とを短絡させることで「覚醒」への動機付けを導き出そうというやり方のことを、最近は「セカイ系」とか呼ぶのかと思ってたら、それともちょっと違うのか…。イマ風の言葉の使い方はやっぱり難しい。)

・大江健三郎『私という小説家の作り方』(新潮文庫、2001)
ジョージ・ケナンへの肩入れは分からないでもないけど、『燃えあがる緑の木』の中での「総領事」の造型はやっぱり物語にいたずらに停滞を招いただけでうまくいっていないと思う。

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2007年7月15日 (日)

◆ずっと雨続き
なので、ひたすら眠い。

それでも晴れ間をみて散歩。いつもと逆の方向に向って、車一台がやっと通れるような細い路地を登り下りしてゆくと、狭い川の両岸に鄙びた家々がひっそり建ち並んだ、まるで隠れ里のような所に出る。
帰ってきたら、大家さんちの庭で合歓木がフワフワ花を咲かせているのに気がついた。

『燃えあがる緑の木』は数日前に読了。第三部に入ると文章の筆圧が一挙にあがって「いつもの大江健三郎の小説」風になるけど、それはつまりは、登場人物がみんな同じ言葉で話し始めるようになってしまうということでもある。(まるで、イェーツやシモーヌ・ヴェイユやアウグスティヌスの読後感をお互い同士の間で語り合うため以外には言葉が与えられていないかのように。)そうした中では神の実在をめぐる逡巡も、奇怪な「核時代の神学」によって至極あっさりと片を付けられてしまう、というのは小説的にもいかがなもんなのか。

…ケナンは、核兵器があらためて実際に使用されることがあれば、それは怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑だといっています。さて、その大きい事故が、核兵器の使用にひとしい惨禍をもたらす施設として、いま原子力発電所が作動していることは誰もが認めるでしょう。しかも、いやこの国の原発で大事故は決して起らぬ、といいたてる勢力が、それを作動させ続けているわけです。(…)私たちは、そのような侮蔑を神に向けて働くことを恐れる。私たちそれぞれが、自分で神と呼ぶ対象はバラバラであるかも知れない。しかしそのような侮蔑を働きたくない相手をひとしく神と呼ぶなら、私たちはひとつの神の前にある。私たちの教会は、神について明確な定義をずっと持たなかった。しかしいま初めて、お互いに確認しあえる神の定義を持っているということではないでしょうか?

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2007年7月 5日 (木)

◆こぬか雨続き
なので家で過ごす。

谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ―「教養のない東大生」からの挑戦状』(洋泉社、2001)を読んだ。

「人体」は立花氏の重要なテーマの一つである。
立花氏が手がけた人体関係のテーマでもっとも有名なのは、「脳死」だろう。『脳死』(中央公論社、1986年)、『脳死再論』(中央公論社、1988年)、『脳死臨調批判』(中央公論社、1992年)が代表的な著作だ。1990年の半ば頃まで携わっていたこの「脳死」というテーマに関しては、その主張の是非はともかくとして、丁寧に資料にあたって持論を展開している姿勢のまっとうさが読む側にも伝わってくる。立花氏が、当時盛り上がった脳死に関する議論の立役者の一人であったことは間違いない。
だが、90年代に入ると次第に雲行きが怪しくなる。緻密な議論や丁寧な論証は姿を消し、ある方向へ突き抜けてしまったような怪しげな内容になっていく。論理が独善的になり、ベースとなる知識も信憑性に乏しいものになっていくのである。(p. 118)
ということで、脳死三部作の時代はまだ「良い立花隆」だったのだという話だけど、膨大な文献調査とトンデモ説との奇妙な同居という事態を読み解くためには『脳死』の検討は外せないというか、立花隆という人が「知の巨人」化していった経緯(というのは良く知らないが)を辿る上では恐らくこの本が決定的な転機に位置していると言えるんではないんだろうか。

『燃えあがる緑の木』は第一部を読み終えて第二部へ。コテコテの粘着質の文章が急に読みたくなって手に取っただけなので、第一部冒頭からいきなり肩透かし(『「雨の木」を聴く女たち』から後はほとんどフォローしてなかったので事情は知らないけど、最近はこんな位置に「語り手」を据えて書いてるのか)、というのはいいとして、第一部の終わり近くから急激にリアリティーが希薄になっていくのはこのさき大丈夫なのか…。

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◆パワーポイント
の使い方がいまだによく分かりません(´・ω・`)

それから、久しぶりに電車に乗ったら自分の知らない間に新しい駅が出来ていたのでした(´・ω・`)

帰りに時間があったんで本屋に寄って中村昇『ホワイトヘッドの哲学』を立ち読み。「ホワイトヘッド読むぞー」という気持ちが少しは高まるかとも期待したけどやっぱりダメっぽい(´・ω・`)。というのは、この本自体がどうこうということではなくて(しかし読んでると「柳原可奈子風ショップ店員がホワイトヘッドを勧めるの図」がなぜか脳裏に浮かんでしまうのだった)、やっぱり自分にとってホワイトヘッドとの相性が最悪なのではないかという気がしてきた。この本の中に引かれているホワイトヘッドの多くの文章を目にしても、いまいち心にグっとこないんである。"It is genius, and not the want of it, that adulterates philosophy, and fills it with error and false theory." (Thomas Reid) ホワイトヘッドの哲学が"false theory"であるかどうかはともかくとして、その「天才」が果たして彼の哲学にとって資するものであったかどうかは考えておくべき問題だと思う。(なんちゃって)
とかなんとか言いつつ、Process and Realityをゴソゴソと探し出してきてちょびっと読んでみたり。

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2007年6月21日 (木)

◆本日の読書
・フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュ『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』(工作舎、2001)

先日からチョビチョビ読み継いでようやく終わる。
色の物理主義は(物体の)表面という概念を当然のものとして考えているからダメなのだ(何が表面であるかは知覚者のタイプに相対的であるのに)とか、ギブソンは不変項を知覚的環境の内に位置付けることで、主体に対する環境の独立性を――したがってまた、「自然の鏡」としての心に映し出されるべき実在世界という観念を――未だに維持しようとしている(しかしむしろ、主体と環境との相互的な「構造的カップリング」を重視すべきなのだ)、といったようなことなどが述べられているらしいが、随所で訳文が不安定なので、なんだかなあという感じが…。
例えばp. 204:

重要なのは、主観と客観とのこの対立が、はじめから与えられているものでも、すでにできあがっているものでもないと理解することである。これは、第1章で述べられた心と自然に関する人間の歴史がもたらした一つの考え方でしかないのだ。例えば、デカルト以前には、心と自然という名辞は神の心の内容にしか使われなかった。デカルトは、この名辞をはじめて使って、それが人間の心の作用によるとしたのである。この言語学的・概念的シフトは、リチャード・ローティが「自然の鏡としての心の発明」と説明するもの、つまり異質なイメージ、概念、言語学的使用法をつなぎ合せた発明の一側面に他ならない。
原著(は持ってないので)と照らし合わせて確認したわけではないけど、内容からすればほぼ間違いなく、「心と自然という名辞」というのは「“観念〔考え方〕”という名辞」ということだろう。

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2007年6月11日 (月)

◆河野哲也『環境に拡がる心―生態学的哲学の展望』(勁草書房、2005)
パラパラ斜め読みしただけなので、感想は特に無し。

従来の個体主義的な心の科学と、ギブソン心理学を敷衍した生態学的立場の相違は、最終的に存在論の違いに帰着するであろう。明示的であれ暗黙のうちであれ、デカルト的・個体主義的な心の概念は、実体substanceの存在論を想定している。実体の存在論とは、存在の基本単位を、周囲から独立し内在的な性質を有した実体にもとめる立場である。実体は絶対的な存在であり、その本質は他のものとの関係性で変化することはない。デカルトは心(精神・意識)を実体と考えた。この立場を暗黙のうちに受けついでいる個体主義の心の科学は、心をそれだけで自足した領域と見なし、心を身体や身体を囲んでいる環境から切り離して考える傾向がある。心の科学における個体主義の問題点は、実体の存在論の問題点と深く関連している。/一方、ギブソンの生態学的心理学は、出来事(事象、event)の存在論(オントロジー)を採用している。ロンバードによれば、ギブソン心理学を背後で支えている存在論は出来事の存在論であり、彼の知覚心理学の革新性はなかばその存在論にある(Lombardo 1987)。ガリレイやデカルト以降の近代科学は、プラトン的で実体論的な存在論の伝統を継承しており、科学的心理学もその揺籃のなかで生まれてきた。ギブソンは、近代科学の知覚論をそのプラトン主義的な前提にまで遡って批判し、出来事と過程の存在論に立つことによって新たな知覚論を切り開いたのである。/出来事の存在論は、存在の基本単位を、変化としての出来事、あるいはその連続的な推移としての過程processにもとめる。出来事の存在論を主張する代表的な現代哲学者として、ホワイトヘッドをあげることができるだろう(Whitehead 1929/1979, 1934; 河野 2003: 3章)。ホワイトヘッドによれば、世界は根本的にダイナミックである。世界は相互に孤立した不変の実体(原子)からできているのではなく、時間と変化を含んだ出来事の連続体から成っている。世界の最も基本的な単位は出来事であり、時間や空間や実体といったカテゴリーはそこからの抽象にすぎない。(pp. 51-52)
しかし、「reification(実体の概念)こそが諸悪の根源」というような話になると、ギブソンの視覚理論の革新性がかえってぼやけてしまいそうな気もするけど、どうなんだろ。(なんといっても、「出来事の存在論」のような反実体主義は、「デカルト主義」にも引けを取らないだけの長い伝統を持つのだから。)
それはともかく、もしこうした路線がギブソニアンの主流をなしているのだとすれば、キャンベルのような哲学者のギブソンへの冷淡さも分からないことはない。

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2007年6月 9日 (土)

◆昨日の読書
・佐々木正人『アフォーダンス―新しい認知の理論』(岩波書店、1994)
・三嶋博之『エコロジカル・マインド―知性と環境をつなぐ心理学』(NHKブックス、2000)

手頃な入門書で済まそうという姑息な作戦。しかし目論見に反してますます分からなくなる。orz

先述のように、ギブソンは、知覚にはそれを支える情報があると考えた。それは、情報が知覚と一対一に対応しているということでもある。これはギブソンの知覚理論の中でもとても重要な概念である。この点からも、ダイナミック・タッチを支える情報として、慣性モーメントは有力な候補なのである。/ここまで見てきたように、実は、厳密な言い方をすれば棒の「長さ」は知覚されてはいない。しかし、棒の「長さ」が変化するのに応じて棒の「慣性モーメント」も同時に変化するときに限って、棒の「長さ」の知覚と「慣性モーメント」の知覚とは対応する。ここで明らかになったように、ダイナミック・タッチで第一に知覚されているのは、あくまで棒の「慣性モーメント」だったのである。(『エコロジカル・マインド』pp. 134-5)
アマジーンたちの実験結果は、慣性テンソルのパターンが、私たちの感じる重さの印象と関連しているということを示した。つまり「重さ-大きさ錯覚」と言われていた現象は、「錯覚」ではなく、「不変項」としての主慣性モーメントのつくり出す特定のパターンの正確な「知覚」だったのである。(p. 142)
私たちは手に持った鉛筆などについて、必ずしもそれを目で見なくても、手が直接触れている一部だけでなくその物体の全体的な長さや幅や向きなどについて感じることができる。しかも、これは鉛筆のようないわゆる「物体」に限ったことではなく、私たち自身の身体そのものの大きさや向きの知覚にも同じようにあてはまる。従来、このような知覚は、触覚的に感じられる「重さ」や、関節の「角度」などの「手がかり」をつなぎ合わせることによって成立しているのだと考えられてきた。しかし、私たちは、ダイナミック・タッチによって得られる知覚が、ダイナミック・タッチの対象物の慣性テンソル、とりわけ、その主慣性モーメントと主軸の知覚そのものであり、それ以上でもそれ以下でもないことを見てきた。それはもはや「推論」によって得られる不確かな印象ではない、確かな知覚である。ターヴェイを中心とするコネチカット大学の「知覚と行為の生態学的研究センター」のグループは、10年以上に及ぶ綿密な実験によって、この事実を明らかにしたのだ。(pp. 147-8)
第三章では、ダイナミック・タッチによって、手に持った物体や、自分の身体そのものの「形」や「向き」が知覚されることを見てきた。そして、ダイナミック・タッチによる知覚が、対象の「慣性モーメント」、あるいは「慣性テンソル」と呼ばれている量と対応していることがわかった。慣性モーメントや慣性テンソルは、「回転させる」ことに対する抵抗だ。それは、対象を「振ろうとする」ことによってはじめて露わになる。対象の持続した性質、つまり、変化の中の「不変項」だ。環境の中の対象や、環境そのものについての知覚の「曖昧さのなさ」は、そのような意味での情報、つまり人間や動物を包囲するエネルギー場の、変化するパターンの中の持続的な性質としての「不変項」に支えられている。(pp. 159-60)
たとえば、近づいてくる自動車の音はだんだんと大きくなるが、その音エネルギーの強さは、音源からの距離の二乗に反比例して増大する。あなたがそのような音の変化に注意することができるのであれば、もし、自動車など音を発する対象が接近してきっとしても、そのときあなたは、「音響的タウ」(音の強度の変化率の逆数)によって、対象との位置関係――正確には、接触までの残り時間――を知ることができるのである。/動物にとって重要なのは、タウによって特定される「接触の切迫度」、あるいはタウの変化率であるタウ・ドットによって特定される「接触の安全性や危険性」といった、行為の意味や価値、つまり「アフォーダンス」を直接的に特定できるような情報なのだ。タウの知覚は、決して「奥行き」のような距離の知覚の代用ではない。動物にとっては、物理学の中で定義された変数を知覚することが重要なのではない。むしろ、タウやタウ・ドットのような、アフォーダンスを特定する情報を知覚することこそが、第一の課題なのだと考えられる。(p. 176)
こうした様々な言い方を見ていると、ギブソニアンにとっては知覚の対象や内容というもの(「直接的に」知覚されると言われているもの)がどのように考えられているのか、したがってまた知覚に関しては正誤や真偽の概念がどのように適用されると考えられているのか、が根本的に分からなくなってくる。(ギブソニアンの仕事の面白さというのは、ことによると、彼らの用いる知覚の概念の融通無碍さ――少なくとも「私たちはXを知覚している;XはZと対応している;だから私たちは(本当は)Zを知覚している」という推論を許すだけのユルさ――に支えられている部分も少なからずあるのではないかとさえ思えてくる。)そして、この辺の分かりにくさというのは、(色々理由はあるにせよ)一つにはやはり、ギブソニアンの採っている存在論の分かりにくさに起因しているらしい。
知覚と行為の協応を、ギブソニアンは「知覚と行為のカップリング」と呼ぶ。ターヴェイらは、カップリングによる制御を理解するためには、古典的な力学に変わる新しい力学の成果を利用する必要があるとする。古典的な物理学には「力によるインタラクションの教義」と呼ばれるものがあった。それは、質量を介したインタラクションのみが物理的に存在するものの変化を説明できるという考え方である。この発想は、生理学的なエネルギーに基盤をもつ「感覚→解釈→指令→実行」という過程を、制御の流れとした発想の背景にもあった。しかし、視覚性制御の事例は、質量を介さない「情報のレベルのインタラクション」が動物の行為を「制御」していることを示していた。動物における、知覚による行為の「制御」の問題を理解するためには、内部と外部を分離し、内部と外部の「力」による因果的連関を前提としてきた古典的力学のモデルを越える必要がある。「因果」に代わるのが「共鳴・同調」のモデルなのである。(『アフォーダンス』pp. 99-100)
何か「情報一元論」のような形而上学――「情報=chair du monde」みたいな――にでも立って、結局のところ生体の行動制御のために利用可能な情報の捕捉はみな知覚なのだ、という風にでも言えば話は随分スッキリはするんだろうけれども、そうしたrevisionism――「Xはその存在論的本性において(本当は)Zである」――は果たして知覚の解明と言えるものなのか。

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2007年6月 1日 (金)

◆最近の読み物
・古川日出男『13』(角川文庫、2002)
・工藤幸雄『ぼくの翻訳人生』(中公新書、2004)
・松井みどり『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』(朝日出版社、2002)
・ハル・フォスター(編)『視覚論』(平凡社ライブラリー、2007)
・ジャン=リュック・ゴダール『映画史』Ⅰ(筑摩書房、1982)

『視覚論』は、〈見ること〉の社会的構成をめぐって臆面もなくメタ哲学的できらびやかな議論の数々が面白いけど、結局のところグリーンバーグ的なモダニズムを正統な嫡子とするような形で「近代的な視覚論」を跡付けておいた上でそれへのオルタナティヴ――バロック的な「見ることの狂気」だったりパルスだったり西谷啓治の東洋的無だったり――を探る(王座に就けておいて簒奪する)というのは何やらジサクジエンくさいのではないかという気もしてくるわけですが…。しかしマーティン・ジェイという人はケレン味もたっぷりというか、こういう大舞台が良く似合う人なんだなあというのが新たな発見。
(ロザリンド・クラウスは、「ピカソ=ぱらぱらマンガ」説なり。)

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2007年5月30日 (水)

◆長尾伸一『トマス・リード―実在論・幾何学・ユートピア』(名古屋大学出版会、2004)
読了。「意図的に、思想史の作品としては異例なバフチン的ポリフォニーによるナレティヴを採用」(p. 302)したとのことで、中盤ではリードはほとんどそっちのけで、歴史(思想史)叙述のメタ批判のような話がメインになってしまったりと、ちょっと変格すぎ。というか、そうした話はどこか別の所でやって欲しかったような…。
「思想史的研究の対象としてのリード」を面白くしようと色々苦慮しているのだろうとは思うものの、結局のところ、哲学にあまり関心の無い人にとってはリードはさして面白味がない、というようなごくありきたりの結論に落ち付かざるをえないんじゃないんだろうか。
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…カントの友人で論敵だったハーマンも、カントを批判するために、ビーティの『真理の本性と不壊性について――詭弁と懐疑主義に抗して』(1770年)を読んでいた。リードとスコットランド学派の学説が、すでにある程度知られていたドイツの学界で行なわれた、勇み足とも思えるカントの『プロレゴメナ』での粗雑な批判は、ドイツの学界での論争の枠組みの中でカントが採用した戦略によって動機付けられ、方向を与えられていたのかもしれない。/しかし現代の研究では、カントがリードから、意識的、無意識的に影響された可能性が指摘されている。英語圏でのカント研究者であり、ドイツでのリードの影響を研究したマンフレート・クーンは、カントが『純粋理性批判』を構想するにあたって、リードの認識論を独自に発展させたヨハン・ニコラウス・テーテンスを通じてリードの影響を受けた可能性や、『一研究』のドイツ語訳によってリードを研究し、それが初版の心理主義的色彩を払拭した『純粋理性批判』第二版での改訂に反映した可能性を指摘している[Manfred Kuehn, "Reid's Contribution to "Hume's" Problem," Peter Jones (ed.), The Science of Man in the Scottish Enlightenment, Edinburgh University Press, 1989. Manfred Kuehn, Scottish Common Sense in Germany, 1768-1888, McGill-Queen's University Press, Kingston and Montreal, 1987]。(p. 28)
…とはいえ、カントやハミルトンばかりがリードとスコットランド哲学の没落に寄与したのではなかった。それはリードの学説自身にも、本質的な欠陥があったからだった。このような見解も、現在の標準的な理解となっている。リードが認知プロセスの根本的な部分を、いまだ具体的に解明されていない「人間本性の仕組み」に帰着させたのは、経験的に確認されている事物の相互関係は、それらが因果的に説明できなくても客観的に実在するものとみなすという「実験哲学の方法」にしたがったからだった。しかしそれは一面では結果的に、経験的な認知プロセスに先行するなんらかの認知枠組みを前提としなければ、具体的な知識の成立を考えることはできないと主張することになった。それらの枠組みは、演繹的な、あるいは経験的な「証明」なしに、ア・プリオリに正しいとされなければならない。そう言うことは、哲学史を回顧するなら、カントの先験哲学的な論法に先駆けることだったと見ることもできる。パトナムが言うように、「リードはカント哲学の中心的な問題を予見している」と評価することもできるだろう[Hilary Putnam, Foreword to Norman Daniels, Thomas Reid's Inquiries: The Geometry of Visibles and the Case for Realism, Stanford University Press, 1989]。しかしこのような論法には、「通俗化」に伴う大きな危険が伏在している。科学との抱合関係の上に成り立つ「人間本性の研究」に過ぎなかったリードの認識論あるいは「哲学」が、例えばドイツ観念論の諸体系に匹敵する、独立した哲学体系と同等の構造物とみなされ、それらに対峙させられるなら、そのシステムとしての不完全性は明らかな欠陥と映るだろう。(pp. 247-8)

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2007年5月15日 (火)

◆うだうだ日記
天気悪い。曇り空のせいか、大家さんちの庭の躑躅も、何度も洗濯したせいですっかり色落ちしてしまったかのように、オレンジ色が白んで頼りなげに見える。濃い紫の牡丹の花は重く凝固したかのような色合い。

午後は家でうだうだしながら、坂部恵『「ふれる」ことの哲学―人称的世界とその根底』(岩波書店、1983)と『モデルニテ・バロック―現代精神史序説』(哲学書房、2005)をパラパラ覗いてみたり。学識というのは凄いものだなあと思う反面、細部まで神経の行き届いたスケッチを仕上げる以上のことを簡単には許さない、その重圧にもちょっとびびる。(それにしても、『モデルニテ・バロック』の文章に漂うこの疲弊感というのは何だろう。)

晩年のヘルダーがカントの『純粋理性批判』を批判したMetakritik zur Kritik der reinen Vernunft, 1799においても、ヘルダーは、空間、時間、力についての同様の考えの上に立って、カントのカテゴリー表の根本的な書きかえを提唱している(Saemtliche Werke, Suphan-Ausgabe, Bd. XXI, SS. 100-112)。後述のライプニッツやニュートンとのかかわりにおいてみるとき、ここにはこれまであまり注目を引くことのなかった西欧近世思想史の展開におけるまことに興味深い一齣がみられるとわたしはおもうのだが、詳細な展開は今後を期することにしよう。(『「ふれる」ことの哲学』、p. 344, 注(32))
注(32)でもふれた、ヘルダーのMetakritik zur Kritik der reinen Vernunftのカントの空間論への現代からみても、というよりも、むしろ現代的観点からすればなおさらに興味尽きぬ批判の展開(Saemtliche Werke, Bd. XXI, SS. 43-55)をすこし気をつけて読むだけでも、従来の教科書的見方の常識の根本的再検討の必要はだれしもおのずから納得しうるところとおもう。いずれ稿をあらためて詳論したい。(p. 350, 注(58))
ちなみに、SEPを見るとヘルダーとカントとの関係についてこんな風に述べられている。――
Hamann's influence on Herder's best thought has been greatly exaggerated. But Kant's was early, fundamental, and enduring. However, the Kant who influenced Herder in this way was the precritical Kant of the early and middle 1760's, not the critical Kant (against whom Herder later engaged in the -- distracting and rather ineffective -- public polemics mentioned above). Some of Kant's key positions in the 1760's, sharply contrasting with those which he would later adopt in the critical period, were: a (Pyrrhonist-influenced) skepticism about metaphysics; a form of empiricism; and a (Hume-influenced) non-cognitivism in ethics. Herder took over these positions in the 1760's and retained them throughout his career. It should by no means be assumed that this Herderian debt to the early Kant is a debt to a philosophically inferior Kant; a good case could be made for the very opposite.
というような「教科書的見方」からすると、ヘルダーの「力の形而上学」に立つ触覚論というのは、素人が気軽に立ち入るにかなり危険な香りも漂っているわけで、ここはやっぱり地味にトマス・リード読むことにするか。。。

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2007年5月14日 (月)

◆先週の読書
・仲俣暁生『極西文学論―West way to the world』(晶文社、2004)
・テオドール・W・アドルノ『本来性という隠語―ドイツ的なイデオロギーについて』(未来社、1992)
・坂部恵『和辻哲郎―異文化共生の形』(岩波現代文庫、2000)

なぜか自分の中ではアドルノという人について“ケンカ番長”的なイメージが強くあったせいか、なんだかケンカ下手だなあという読後感。

すでに見た著作全体の構成からもあきらかなように、和辻は、『風土』第五章「風土学の歴史的考察」において、とくに一節をもうけ、多くのページを費やして「ヘルデルの精神風土学」を紹介し、「生ける有機力」たる自然の解釈として〈理解〉の方法にもとづくPhysiognomik(人相学)Pathognomik(情相学)の一環としての「人間の精神の風土学」の構想のもつ先駆的意義を高く評価している(Ⅷ-209~223)。
 ここで和辻が、歴史を〈前後継起の秩序〉、諸風土を〈並存の秩序〉とするヘルダーの考えに触れながら、もう一ついわば力の発現の内包的空間としての〈相互浸透の秩序〉が前二者の根底にあるものとしてヘルダーの空間把握の一貫した最重要点をなしていることを見逃していること。この点をあらためて考慮に入れれば、カントを越えてむしろ(お望みならば〈ポスト・モダン〉な内包空間の着想をもつ)ライプニッツに直接つらなるヘルダーの考えをより一層積極的に評価する道も容易にひらけたであろうこと。さらには、そこからひるがえって、〈自由の理念〉による〈理解〉の外挿法を自然の歴史ととりわけ人間の歴史の構成においてヘルダーに対抗しつつある意味ではヘルダーよりも大胆に駆使したカントの一面や、ルソーとともに近代科学の正統とはすこし流れを異にする自然誌(Historia naturalis)の伝統に強くつらなるこれまたカントの一面やを、新カント派風のカントの神格化から自由に評価する道も見えてきたであろうこと。そうすれば、特定民族や国家の神格化などからまったく自由に「個々の民族の個性を平等に尊重する」ヘルダーの行き方への同感も、より実質的かつより全面的なものでありえたであろうこと。さらに、このような自由な視点が一旦獲得されれば、和辻の空間論が風土にとどまらず柳宗悦のようにより身近な民具の類いへの関心にまでおよびえたであろうこと。また、戦時下の植民地朝鮮の民具や建築に国家主義的偏見などとはまったく無縁の率直な関心をもちえた柳のようなとらわれのない行き方もおのずから可能になったであろうこと。
 以上のような一連のことどもを、現実の私辻にもとめることは、もちろん、あまりにも酷な無いものねだりというべきだろう。(『和辻哲郎』pp. 118f.)

「ポスト・モダンな内包空間」はともかくとして、ヘルダー受容のこうした系譜にすっかり気付かずにいたのは、我ながらひどく間抜けな感じである。

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2007年5月 9日 (水)

◆最近読んだの
・『ロマン・ロラン全集16:伝記Ⅲ ペギー』(みすず書房、1980)
・脇圭平、芦津丈夫『フルトヴェングラー』(岩波新書、1984)
・諸井誠『音楽の現代史―世紀末から戦後へ』(岩波新書、1986)
・野崎六助『北米探偵小説論』(双葉文庫、2006)
・エラリー・クィーン『レーン最後の事件』(創元推理文庫、1959)
・金子隆芳『色彩の科学』(岩波新書、1988)
・ロバート・B・パーカー『ハメットとチャンドラーの私立探偵』(早川書房、1994)
・大山正『色彩心理学入門―ニュートンとゲーテの流れを追って』(中公新書、1994)
・古井由吉『眉雨』(福武書店、1986)

この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。  独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮りにも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。(『眉雨』)
こうして書き写しているだけで、何かに取り憑かれてしまいそうになる。この世のものではない。恐るべし。

平野謙の『島崎藤村』をミステリーとして読むというのはかつての時代における一つの教養であったというようなことを法月綸太郎がどこかで書いていたような気がするけど、そう言われてみれば『文藝時評』の語り口というのも何やら無聊をかこつ余りに筋金入りの難事件の到来を待ちわびる名探偵の口吻を思わせなくもない――その推理の当否はともかく――し、最後の『スパイ・リンチ事件』に至るまで一貫してミステリー作家であったようにも思えてくる。今の時代であったら、さしずめ『郵便的/存在的』あたりをミステリーとして読むといったような感じにでもなるんだろうか。(あるいは、教養の崩壊した時代にあって、そんなこと考えてもしょうがないのか。)

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2007年3月23日 (金)

◆このまえの読書
・渡辺保『俳優の運命』(講談社、1981)

俳優における「私」と「役」との関係を問い尋ねて時代を経巡りつつ、能、浄瑠璃、歌舞伎における古代的な「私」と新劇における近代的な「私」との狭間の廃墟のような空間に亡霊のように立ち現れる白石加代子の「私」を浮き上がらせる、――という具合に一冊丸ごとを割いての「鈴木忠志」論。しかし読み進めていく内になんだか、(おフランス系現代思想が大量流入する前の時代の)1970年代的ポストモダニズムの模範解答を読まされているような気分がだんだん強まってくるわけですが。というか、これだけ見事に鈴木忠志の思惑に搦め取られてしまうのは批評としてどうなんだろうか。

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2007年3月16日 (金)

◆最近読んだの
苧阪直行『意識とは何か―科学の新たな挑戦』(岩波書店、1996)とフランシス・クリック『DNAに魂はあるか―驚異の仮説』(講談社、1995)と岩田誠『見る脳・描く脳―絵画のニューロ・サイエンス』(東京大学出版会、1997)と宮崎清孝、上野直樹『視点』(東京大学出版会、1985)とV・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳の中の幽霊』(角川書店、1999)。

クリックの本は邦題がアレ過ぎるけど、これはむしろ視覚研究に関する優れた啓蒙書として読まれるべきなんじゃないんだろうか。(しかし「驚異の仮説」というのはどの辺にビックリすべきなのか、今一つ判然としない。)
この中では、『視点』は今となってはさすがに古さを感じさせる。

最近心理学や哲学以外のサイエンティストが意識に強い関心を向けはじめたのにははっきりした理由がある。(…)(2)意識を科学的に捉えるキー概念である注意の脳内メカニズムが明らかになってきたことも大きい(心理学では長らく構成概念としてしかみられなかった注意が実際に脳内に神経基盤をもつ実体概念であることがわかった)。つまり、注意が情報を束ねるはたらきをもつことがわかってきたのである。これについては神経心理学分野での患者の症例研究が大きく寄与している。(苧阪直行『意識とは何か』、pp. 115f.)

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2007年3月12日 (月)

◆茂木健一郎『脳内現象―〈私〉はいかに創られるか』(NHKブックス、2004)
いちおう読んだ、が、しかしほとんど何一つ理解できず。(やっぱりブクオフで100円で買ってきたのが敗因だろうか…。)
というわけで感想は特に無いものの、感想と言えば小林秀雄の『感想』が何度も引かれているのにベルクソンには一言も無しというのが面白いといえば面白い所か。「脳なんて単なる電話交換所」なんて言い切られてしまったら「サンショウウオのキンタマ」にも増して研究のモチベーションは上がらないだろうしなあ。そういうことからすれば、「脳こそは超越論的統覚」といったような通俗カント主義(?)的な話も、脳科学研究上の方法論的“景気付けの掛け声”として大目に見てね、ということになるのかも。

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2007年3月 6日 (火)

◆先週の読み物
渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005)とJ・G・バラード『コカイン・ナイト』(新潮文庫、2005)。
無理やり一つに括るとしたら、どちらも「リゾートもの」ということか。(ベクトルは真逆だけど。)
バラードの小説は時たま読んでみて、その度に、この人の本領というのはやっぱり『沈んだ世界』みたいに起伏の無い世界を平坦に描写し続けたものなんじゃないかと感じてしまう。単なる好みの問題かもしれないけど。しかしこの小説も話がガチャガチャ動き始めると全く面白くなくなってしまう。というわけで、高橋源一郎がわざわざ太鼓持ちみたいな「解説」を寄せている意味がよく理解できず。

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2007年2月22日 (木)

◆最近読んだ本
・丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』(河出書房新社、1996)
ドゥルーズについて書かれた評論風(?)の文章というのは、書き手の「手クセ」のようなものが過剰に強調されてしまうという傾向でもあるんだろうか。

・岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書、2005)
「音楽の精神からの公共性の構造転換」といったような趣き。なんだか指し示される図式が奇麗過ぎるような気もするけど、でも面白い。(少し前に中野雄『丸山真男 音楽の対話』を読んで色んな意味でちょっと唖然としたのとは対照的に。)
しかし、聴衆(公衆)は消え去ってしまい、私たちはいまだに「感動」を執拗に求めている、――という黄昏的な光景は何やら他人事ではないような…。

そういえば、音楽の祖ピタゴラス、といった話については、最近ではこんなことになっているらしい。

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2007年2月21日 (水)

◆先生とわたし
『新潮』3月号に掲載されてる四方田犬彦の「先生とわたし」を読んだ。自分の世代にとってはこの「先生」=由良君美が活躍していた時代というのは何だか薄靄の中に包まれているような感じだし(由良君美の名前を聞いてすぐに思い浮かぶというと、ジョージ・スタイナーやヴァン・デル・ポストの翻訳とか、『国文学』での「由良君美その他大勢」のコラムになる)、ボンクラなまま大学時代を過ごした人間にとってはちょっと想像しがたい「知的」世界が繰り広げられてもいるということで、自分にとっては二重の意味で未知の世界を覗き見るような面白さはあるけど、サロン的なスノビズムには不感症なせいか、「これが伝説の由良ゼミだ!」的な話の中身自体にはあんまり興味は涌かなかった。(しかし江藤淳の嫌われ者ぶりには改めて呆れる。)というか、「長編評論」と記されているものの、これって果たして「評論」なんだろうか。第3章「出自と残滓」では由良君美の父親の業績にまで遡っての“元型論”が探られたり、「間奏曲」の部ではジョージ・スタイナーや山折哲雄の師弟論に話を振ったりと、「評論」らしい体裁を備えていないわけではないけど、そうした部分になるととりわけ、話が薄っぺらいとかどうとか言う前に、なんか根本的にズレているというか、ヘンなのである。そう思って見てみると、評伝を交えながら師弟の関わりを回想風に描いた部分も全体の調子が何かヘンに思えてくるのである。(それにしても、マルカム・ラウリー的な酒浸り状態から、人はそんなに簡単に「回復」できるものなんだろうか。)どうもこの人の場合、何を書いても(と言えるほど沢山読んでいるわけではないが)「最新の勉強成果の発表の場」に見えて仕方がないというような辺りにも、こうしたズレ加減が大きく関わっているような気がするけど、まあ本当はどうなんだか。しかし、風俗誌の書き手という風にでも自己限定してしまったら、随分と楽に成仏できそうな感じがするけどなあ。
ちなみにこの号では、「先生とわたし」のすぐ後が保坂和志の連載になっていて、そこでは師・小島信夫に対するある意味貫禄十分な堂々たる弟子っぷりが見せ付けられていることもあって、四方田犬彦を取り巻いているヘンな感じがますます際立ってしまうのである。

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2007年2月13日 (火)

◆三上真司『もの・言葉・思考―形而上学と論理』(東信堂、2007)

「経験」という語が心理学的な意味に解されるべきであるならば、「思考」は経験ではない。それは人間の心理とは無関係である。(p. 4)

どうにか一読。でも難しい。(「思考ってそんなに立派なものなのか?!」という煩悩で曇らされた目で読んでいるせいかもしれない。)
おそらくこの本の中では、幾つかの独立したテーマが――それぞれに前提を携えて――議論の要所に複雑に流れ込んでいるので、それらをきちんと腑分けしながら解読していくのはきっと面白いことなのだろうが、今のところそんなことしてる余裕は無さそうだ。

・「対象の同一性を、私は、同一性の記号を使用することによってではなく、記号の同一性によって表わす。対象の差異を、私は、記号の差異によって表わす。」(『論考』5.53) ――しかしもちろん、記号の同一性が対象の同一性以上に明瞭であるわけでもなければ確固としているわけでもない。例えば「」と「」が同一の記号の表記上のヴァリアントであるように、「a」と「b」もまた――単に同一の対象を指示する二種類の記号というのにとどまらず――同一の記号(の表記上のヴァリアント)でありうる(いずれにせよそのようなものとして使用できる)のだから。(では思考の形式化ってなんだろう?)

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2007年2月 6日 (火)

◆最近読んだの
・イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店、2006)
チャラけた調子の訳文がみごとだなあと思って読み進めていくと、前半と後半とで文体違い過ぎなのもいとおかし。フーコーじゃなくってネルソン・グッドマンを持ってくるあたりはさすがに自分の売り方をよく知ってる人だなあ、といった適当な感想しか浮かんでこないけど、やっぱりこうした話にはあんまり興味が持てないんだからしょうがないか。

・長谷部恭男、杉田敦『これが憲法だ!』(朝日新書、2006)
こちらはぐっと「オトナの世界」。しかし自分にはこうした本を読み解くための基本的な教養が大幅に欠けているらしい。

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2007年1月23日 (火)

◆エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(月曜社、2006)
行きがかり上、いちおうこっちも読んではみたものの、俺は完璧に迷走してるな。。。
まあ訳者解説の迷走ぶりも相当のものだからおあいこ(?)か。(それにしても世の中にはアルトー好きの人が随分多いもんだなあと思いつつも、あたくし的にはあんまり興味がございません。)

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2007年1月19日 (金)

◆ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上(河出文庫、2007)
むしゃくしゃして読んだ。
今は崩壊している。(アイオーンヽ(・ω・)ノ)

規則なきゲーム、勝者も敗者もいないゲーム、責任なきゲーム、無垢のゲーム、技巧と偶然が区別されないコーカス・レース、こんなゲームには何のリアリティもないように見える。しかも、こんなゲームは誰も楽しまないだろう。それは、間違いなく、パスカルの人間のゲームでも、ライプニッツの神のゲームでもない。実際、パスカルの道徳的な賭けには実に多くの誤魔化しがあるし、ライプニッツの経済的な組み合わせの中には実に多くの悪しき指し手がある。間違いなく、それらは、芸術作品の世界に属するものではない。われわれが語っている理念的なゲームは、人間や神によっては実行されえないものである。理念的なゲームは思考されるしかないし、しかも無-意味として思考されるしかない。まさしく、理念的なゲームは、思考そのもののリアリティである。理念的なゲームは、純粋思考の無意識である。各思考こそが、意識的に思考可能な連続的時間の最小よりも小さい時間でセリーを形成する。各思考こそが、特異性の配分を放出する。あらゆる思考は、〈一つの長い思考〉において交流する。この長い思考は、自らの移動にノマド的な配分の全形態や全姿形を対応させ、到る所に偶然を吹き込み、各思考を分岐させ、「あらゆる回」に代わる「各回」を「一回」で結び付ける。というのは、すべての偶然を肯定すること、偶然を肯定の対象とすること、これをできるのは思考だけであるからである。そして、このゲームを思考の中以外でやろうとしても何も到来しないし、芸術作品以外の成果を生産しようとしても何も生産されない。したがって、理念的なゲームは、思考と芸術のために確保されたゲームである。そこでは、偶然を支配するために、賭けるために、稼ぐために偶然を分割するのではなく、遊ぶことができる者、言いかえるなら、偶然を肯定し分岐させることができる者のためにだけ勝利がある。思考の中にしかなく芸術作品以外の成果のないこのゲームは、思考と芸術をリアルにするものであり、世界のリアリティを、世界の道徳性と経済を攪乱する。(pp. 116-7)

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2007年1月15日 (月)

◆昨日の読書
なんかもう完全に現実逃避モードに入ってしまってるのがヤバい。

・シャンタル・ムフ『民主主義の逆説』(以文社、2006)
グローバリゼーションという形での「経済的なもの」の全般的な水位上昇の中で、消去不可能な「政治的なもの」を堅持するカール・シュミット的な問題構図がたいへん使い勝手がよいというのは分かったが、そこからもう少しムフフな展開があるのかと思いきや、「討議民主主義」(ハーバマス、ロールズ)や「第三の道」(ギデンス)への批判にせよ、ウィトゲンシュタインの援用にせよ、ラディカル・デモクラシーの構想(民主主義の可能性の条件としての抗争性あるいは闘技)にせよ、議論があまりにスカスカ過ぎなんじゃなかろうか。なもんで、この本を見る限りでは結局、シュミット的な構図にデリダな風味を添えてみただけ、という印象しか残らないのだった。

・金谷武洋『主語を抹殺した男―評伝 三上章』(講談社、2006)
あられもない礼賛振りとか、強引な劇化でのかなり無理やりな盛り上げ方とか、海外での日本語学習熱の高まりに浮かされたかのような無意識過剰なナショナリズム指向とか、評伝の出来ということでは疑問符満載の本書だが、ワタクシ的には三上章というと、(一方で)どこか国士風なところと軽やかな快活さと合理的なリゴリズムが微妙に交じり合ったような文章の印象と、(もう一方で)写真に写し取られた表情の異常に暗い印象とのギャップが常々気になっていたので、なるほどなあと思うところが多くあった。しかし、ハーヴァード招聘の折の悲惨な経験をはじめとして、晩年の痛々しさには色々考えさせられてしまう。(とはいうものの、「統合失調症」(p. 226)なんて断定を下してしまって大丈夫なんだろうか。)その他、伝記的な事実に関しては新たに教えられることばかり。だいたい、数学史家の三上義夫が大叔父にあたるということも知らなかったし、その三上義夫が山田孝雄の親友だったとかという話にはちょっと驚いた。それ以外にも、植民地体験とか、今西錦司との関係とか、吉田健一の『批評』への連載とその打ち切りとか、正にネタの宝庫といった感じで、もう少し落ち着いた筆致でもっと本格的な伝記が書かれてしかるべきだよなあ、と痛感する。

メモ:三上章(1903-1971)は1927年(昭和2年)7月に台湾総督府営繕課に就職、1929年2月に辞任。また1930年(昭和5年)12月に朝鮮半島の羅南中学校に着任、1934年には光州高等普通学校に転任し、1935年3月に辞任。ちなみに時枝誠記(1900-1967)は、1927年(昭和2年)に京城帝大助教授に着任、1933年には同教授。1943年に東京帝大教授に転任。

そういえば、もともと自分にとって「思想の哲学」というアイディアが魅力的に思えたのは、一つには、日本語における主語の不在という問題への引っかかりがあったためだった、ということをふと思い出した。

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2007年1月11日 (木)

◆年末年始の読み物
・稲葉振一郎、立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス、2006)
・稲葉振一郎『「資本」論―取引する身体/取引される身体』(ちくま新書、2005)
・ブレンダ・マドクス『ノーラ―ジェイムズ・ジョイスの妻となった女』(集英社文庫、2001)
・柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書、2006)
・大橋良介『京都学派と日本海軍―新史料「大島メモ」をめぐって』(PHP新書、2001)
・山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997)
・上村忠男『歴史家と母たち―カルロ・ギンズブルグ論』(未来社、1994)
・渡辺保『女形の運命』(岩波現代文庫、2002)
・中野敏男『大塚久雄と丸山眞男―動員、主体、戦争責任』(青土社、2001)

『女形の運命』は紛れもない名著だが、歌舞伎という制度の崩壊の中での「笑う肉体の発見」をめぐる貫禄たっぷりの「名著」的分析よりも、一つの世界の崩壊を予感しながら丹念な観劇記録に大人びた感想を記しているような怜悧な少年の視線の方が強く印象付けられる。そうした視線を可能にしたのはかなり限定された時代と地域の刻印だったのではないかという気もするが、いずれにしても、一つの時代の精神史が渡辺保と小林信彦とを焦点にして描き出されるべきだと思う。

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2006年12月26日 (火)

◆伊藤邦武『人間的な合理性の哲学―パスカルから現代まで』(勁草書房、1997)
読了。
面白かった、と言えるようになるにはまだまだ修業が必要なのだが、特に第三章「ケインズとラムジー」は、ラムジーのいわゆる「主観的」確率解釈の背景にある決定理論のアイディアやプラグマティズム的構想にまで光が当てられていて色々勉強になるところが多い。というか、ラムジーの面白さというのがこれを読んで初めて(少し)分かってきたような気がする。
が、それよりも前に、パースの「共同性」概念については一度きちんと勉強しておかなければいけないらしい。

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2006年12月19日 (火)

◆先週の読書
・熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書、2006)
・野矢茂樹『入門!論理学』(中公新書、2006)
・マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(風行社、1999)
・グレッグ・イーガン『万物理論』(創元SF文庫、2004)
・田辺繁治『生き方の人類学―実践とは何か』(講談社現代新書、2003)
・エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』(ちくま学芸文庫、2000)

なんか玉石混交なり。というか、ついつい『アクセルの城』に読みふけってしまったらそれ以外の印象がすっかり薄れてしまったような。この本はたしか大学一年か二年の頃に一遍読んだことがあって、その時には何だかもっさりしてオッサン臭い本、という感じがあったような気がするけど、今度読み直してみると正に「批評する批評家」の面目躍如というのか随分と若々しく溌剌としてて、前半の詩人論なんかはむしろ稚気に溢れてるとさえ思えてしまうわけで、それがどういうことかといったらもちろん、読む側が確実にオッサン臭くなりつつあるということだから気をつけろ。
(しかしこの文庫版に篠田一士の解説文をわざわざ再録する必要があったんだか。そのおかげで、元の筑摩叢書版で訳出されてた幾つかの文章が削られているというのは、非常に理解に苦しむ。)

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2006年12月 9日 (土)

◆朝から雪が降っている
ので外出しない。
散歩の代わりに吉増剛造『透谷ノート』(小沢書店、1987)を読む。
透谷を遠巻きにしながらその周りをぐるぐる回っているうちに、藤村の文章の妙なうねうね感に感応してゆく辺りの危なっかしい足取りが面白い。

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2006年12月 4日 (月)

◆功利主義
について一から学習するシリーズ。今ごろこんなことしてるのもいかがなものか、という感じではあるが、ホントに無知なので仕方がない。で、ジェームズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学』(晃洋書房、2003)、伊勢田哲治・樫則章(編)『生命倫理学と功利主義』(ナカニシヤ出版、2006)、W・キムリッカ『新版 現代政治理論』(日本経済評論社、2005)などをパラパラ覗いてみる。ヘアの『道徳的に考える』というのは家の中を捜してみても見つからないけどまあいいか。
しかし功利主義については日本語で簡単に読めるような「これ一冊で分かる」的概説書が全く見当たらないのが大変不便なのだが、これはきっと、功利主義的"government house"の見地から見てそちらの方が望ましいからに違いない。(いや違うか。)

・効用最大化についての二つの解釈

…第一の解釈では正(right)を平等者としての処遇と定義し、それが功利主義的な集計の基準になり、結果として善を最大化するという。これにたいして、第二の解釈は正を善の最大化と定義するが、それが功利主義的集計の基準につながり、その単なる結果の一つとして人々の利害を平等に扱うのである。すでにみたように、こうした逆転には、重要な理論的および実践的帰結がともなっている。このように、効用は最大化されるべきだという主張には、二つの独立した、それどころか相反する道筋がある。どちらが功利主義にとって基本的な論拠なのであろうか。これまで私は、第一の見解に暗黙のうちに依拠してきた。功利主義は、各人が平等者として処遇されるべきであるという道徳的要請をどのようにして尊重するかに関する理論として最もよく捉えられる、と。しかしロールズに言わせれば、功利主義とは基本的に第二の立場の理論、すなわち正を善の最大化によって定義する理論である。ところが、第二の解釈にはどこか奇妙な点がある。というのは、なぜ直接的目的としての効用の最大化が道徳的義務と考えられるべきなのかが、まったくもって不明瞭だからである。それは誰にたいする義務なのであろうか。日常感覚では、道徳性は人と人とのあいだの義務、すなわち、われわれが相互に負う義務の問題である。だが、誰にたいして効用の最大化という義務を負うというのか。それは、最大限に価値ある状態そのものにたいしてではありえない。状態が道徳的要求を持つことなどありえないからである。おそらくわれわれは、効用の最大化によって利益を得る人々にたいして義務を負うのであろう。しかし、その義務が、最も説得力がありそうなものとして、人々を平等に顧慮する義務だとすれば、人々を平等に処遇する方法として功利主義を捉える第一の解釈に戻ってしまうことになる。その場合、効用の最大化は副産物にすぎなくなり、理論の究極的論拠ではなくなることになる。そうであるならば、人口倍増の必要もなくなる。増加した人口を構成するであろう人々のことを考える義務などないからである。(W・キムリッカ『新版 現代政治理論』 pp. 52-53)

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2006年11月29日 (水)

◆そういえば
松本正夫『世紀への展望―永遠哲学の周辺に立ちて』(岩波書店、1951)という本を読んだ。「トミズム最強(それ以外の哲学は全部ダメ)」という力強い――あまりに力強い――メッセージに貫かれた一書だが、半世紀の時を隔てて読むと「限りなく奇書に近い本」にしか見えないところが凄い。タイトルも凄いが、「ヒューマニズムと民主主義の原理」、「マルキシズムとの対決」、「近代精神の自己審判」、「スコラ的存在論の現代的任務」、…といった文字が(しかも旧字で)並べられた目次も凄い。
この本の中に収められている「アメリカ視察旅行より帰りて」という一文は1950年に二ヶ月ほどかけてアメリカ各地を視察した折りの見聞を記したものだということで、チャールズ・モリスやライヘンバッハやタルスキをはじめとして随分色んな人とも会談したらしい(カルナップとクワインとファイグルには会えなかったらしい)。しかしタルスキとの間で一体どんなやり取りがあった(あり得た)のか、ちょっと気になる。

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◆なぜか
明け方前のまだ暗い時間に目が覚めてしまい、阿部和重の『グランド・フィナーレ』を読み終えてから出かけることに。「果たしてわたしはこの難関を、乗り切ることが出来るのだろうか。」この作品の位置付けもよく知らないし、これ自体が特別に優れた出来とも思えないが、それほど嫌いではない。登場人物のノッペリとしたセリフ(濁点は無し)にも釣り合っていると言えるような平板で白白とした田舎景色の中での怪しげな幕切れ――というか「上演の開始」なのだが――はなかなか効果的だと思う。しかし「ジンジャーマン」って何だ?

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2006年11月27日 (月)

◆昨日の読書
上野修『スピノザの世界―神あるいは自然』(講談社現代新書、2005)。んー、どうでしょう。新書本に課せられている「期待の地平」というものについて何だか考えてしまう。
あと、ドロシー・セイヤーズ『ドグマこそドラマ―なぜ教理と混沌のいずれかを選ばなければならないのか』(新教出版社、2005)も読んだ。こちらは戦時下のアジテーション。

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2006年11月24日 (金)

◆野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(ちくま学芸文庫、2006)
を読む。見事な道案内なのだが(特に第8章など)、正直なところ、『論考』というのは本当にこんなに「まともな本」だったのだろうかという疑問も頭をかすめる。(――というのは主として「対象」の扱いという点でのことだが、しかし第13章での解説によれば、『論考』というのは「世界」の概念の三段階の変容を語るツァラトゥストラ的(?)な書なのでした、ということなのだから、これだけでも『論考』というのは十分に「㌧でもない本」と言うべきなのかもしれない。)哲学的に面白そうな話題になると、「案内人」としての分というか慎み深さが歯止めをかけているようにも見えて、ちょっと物足りない感も(例えば命題的態度の取り扱い等)。「語りきれぬものは、語り続けなければならない」のだとしたら、いっそのことダメット並みのスケールで『『論理哲学論考』をもっと詳しく読む』といったような続編をキボン。
それはさておき、自分的には、この本を読んでの一番の収穫は、セラーズが――ウィトゲンシュタインに事寄せて――やろうとしていたことについて少しは光明が見えてきた、ということかもしれない(が、これは全くの勘違いなのかもしれない)。

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2006年11月20日 (月)

◆昨日の読書
大庭健『善と悪』。威圧的な「読書案内」にびびらされつつ読了。
アクロイドのエリオット伝はラッセル大活躍(主に女性関係の面で)の巻。外的関係と多元論的存在論の発見によるヘーゲルの影響圏からの脱出は、ラッセルにとって、女性関係の多元論への道を切り開くものであった。嘘。しかし、教え子(エリオットはハーヴァード時代にラッセルの授業に参加していた)の新婚早早の女房にも平気で手を出すんだから、油断も隙もあったものではない。

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2006年11月 5日 (日)

◆「これをナンセンスと言いたくばお言い。じゃがわしの知っとるナンセンスに比べれば、これなどまるで字引きのごとくにまともじゃぞ!」
・ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(東京図書、1980)
「白の女王」つながりで予習用。考えてみたら、きちんと読むのはこれが初めてなのだった。
マーチン・ガードナーの注解(pp. 13-14)によれば、お話の舞台は(たぶん1862年の)11月4日(=ガイ・フォークス・デイ前日)なのだそうで、なぜかタイムリーなのだった。

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2006年10月28日 (土)

◆K・v・フリッシュ『ミツバチの生活から』(岩波書店、1975年)

…このような「嗅ぎ孔」と「嗅ぎ孔」の中間には小さな触毛の林がある。したがって、触角(アンテナ)は嗅覚器であると同時に重要な触覚器でもあることがわかる。じっくり考えてみると、そのことから独特な結論が出てくる。われわれの鼻にとっては、匂っている物が丸かろうと、角ばっていようと、全くかかわりのないことである。匂う物質は、吸い込んだ息の渦に巻き込まれて入ってくる。したがって、鼻の深部で嗅覚器に到達するまでの間に、嗅がれているものの形と、嗅覚器と嗅覚物との接触のしかたとの間には何の関係も成立しない。ミツバチではこれとは事情がちがう。彼等が巣箱の暗闇の中でアンテナで蝋の香のする巣脾や、幼虫の蛆にふれると、触覚器と嗅覚器とが一しょにアンテナの表面に存在するのであるから、触覚と嗅覚との感じが結びつき、対象の形と密接な関係をもって知覚される。その結果はミツバチは丁度われわれが子供の時から視覚的印象と、皮膚感覚とを密着させて結びつけることに慣れて、具象的に「見る」ことが出来るのと同じように、具象的に「嗅ぐ」ことが出来るにちがいない。われわれの場合は、われわれの鼻で巣脾の六角の巣房を嗅ごうが、それで作った蝋の玉を嗅ごうが、それは同じで、どちらも蝋の香がするにすぎない。ところがミツバチにとっては六角の蝋の香と、球状の蝋の香とは丁度われわれにとって蝋の巣脾と、蝋の球とが見かけにおいて異なるように異なるのである。まっくらな家の中で、ただひたすらに触覚と嗅覚に頼っている彼等にとって、以上のことはその感覚生活を決定的に豊かにすることに連なる。(p. 70)

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2006年10月 5日 (木)

◆結婚は反復だぁ
という話。

・キャロリン・ハイルブラン『女の書く自伝』(みすず書房、1992)

…うまくいく結婚はすべて、スタンリー・キャヴェルが再婚と呼ぶものであって、情熱を装う欲望の仮装ではない。再婚する者だけが、ほんとうの意味で結婚しているのである。(p. 120)
 わたしは結婚の再創造について、つまりパートナー同士が中年になってから再生を果たした結婚について語ってきた。この現象は、スタンリー・キャヴェルによって「再婚喜劇」と呼ばれている。キャヴェルが書いた映画のシナリオ『幸福の追求』はまた、おそらくこれまで出版されたうちで最上の結婚教科書だろう。しかし人は彼の定義を、それを述べるときに彼が用いたハリウッドの言語から中年の言語へ、つまり魅力も、しなやかな若さも、幻想の国の要素も少なくなった言語へと翻訳しなければならない。キャヴェルはとくに、1930年代と1940年代のハリウッドの映画について書いている。そこでは夫婦が――パートナーの一人は、しばしばまぶしいほど魅力的なケーリー・グラントだ――お互いを尊重しあい、平等について学び直し、再婚するようになる。これを可能にしたのは、しばしば目を奪うばかりのキャサリン・ヘップバーンを含めて、これらの映画に出演した女優たちだということをキャヴェルは認めている。彼の本は、愉快な状況におかれた美男美女の話としてではなく、結婚についての深い哲学的な議論として読めば、結婚の成功についての警句とでも言うべきものをたくさん含んでいる。たとえば、「男女のどちらかが積極的または消極的パートナーなのか、実際のところ積極的、消極的というのが男女の差を表わすのにふさわしい性格描写なのかどうか、あるいはまた、実際わたしたちは、男女に差について満足のゆく考え方をもっているのかどうかという問題は、あいまいなままにしておくのが、わたしの言う〔再婚喜劇の〕本質的な特質なのである」。それから、「わたしたちは、〔再婚のロマンスが〕課している枠組のなかで、主人公は誰なのか、ということはつまり、積極的なパートナーは男性か女性か、彼らのうちどちらが探求をしているのか、誰が誰のあとを追っているのかについて、永久に迷い続けるのだ」。
 何よりもキャヴェルは、彼が論じている映画に登場する俳優たちの性的魅力にもかかわらず、性は彼らの結婚の究極的な鍵ではないことを知っている。「神の御意志では、適切で幸せな会話こそ、もっとも主要で高尚な結婚の目的なのだ……わたしたちが、これらの関係には友情の性質、つまり気分を引き立ててくれるもうひとつの要素がある、という印象を受けるのはこのためだ。」さらに彼は賢明にも「法律も性的魅力も(含みでは子孫も)真の結婚をたしかなものにするには不十分であると考え、合法性を与えているものは再婚を、すなわち一種の継続的再確認を喜んで相互にやりあおうという気持ちなのだ、と示唆することによって、結婚の神秘性を……」強調している。「再婚、すなわち真の結婚とは、他にもさまざまな特徴があるかもしれないが、知的な営みなのだ」。
 キャヴェルがもっとも早く出した、もっとも賢明な結論は、「すでに結婚している者だけが、純粋に結婚できる」ということだ。あの最初の、雷に打たれたような、やむにやまれぬ惹かれあいは、結婚に到達してはいけないのだ。再婚には行けないからである。したがって、それはぜんぜん結婚ではなく、情熱であり、恋人の関係にすぎない。「それはあたかも離婚できないと考えるにいたったとき、つまり、この生活はどうしても解消できないということがわかったとき、自分は結婚しているのだ、と知るようなものだ。あなた方の愛が幸運なものなら、その自覚は笑いで迎えられるだろう」。だが笑いの代わりに、幾許かの口論で迎えられるかもしれない。口論は正直なところ、中年の夫婦のあいだでは、ケーリー・グラントやスペンサー・トレイシーやキャサリン・ヘップバーンのあいだほど魅力的なものではないだろう。(トレイシーとヘップバーンが年とってから映画を作ったとき、彼らは口論を止めてしまったことに注意。全体的に見て、口論するほどの魅力はなくなったのだ。)しかし、キャヴェルは「それ自体、正確に言って幸福のしるしではなく愛情のしるしとなるような口論があるかもしれない。あたかも結婚への意志は、ある種の口論への意志を内包しているかのように」と述べている。
 要するにキャヴェルは、もっとも幸福な結婚は、かならずしももっともお行儀のよいものではなく、公然とお互いに注目しあうということは少なくとも、優雅にまたは絶対的に無視しあうこととは逆に、その夫婦が親しい関係にあることを指し示しているのだと教えてくれる。彼は婚姻の床についての原初のイメージでしめくくっているのだが、テレビや映画で写されるようになったセックスという観客動員力のあるスポーツの舞台としてではなく、むしろ「局外者には見えない結婚のすべてを表わすもの」として描いている。「局外者には見えないものこそ、本質的にすべてであり、本質的なすべてなのである」。
 伝記作者は結婚を、とくに自分たちの主人公である卓越した女性たちの結婚を、ロマンスや父権制が教えてくれた幸福な結婚の指標だけを使って、外から眺めてきた。わたしたちはむしろ、キャヴェルの手引きにしたがって、再婚を果たした中年の結婚を眺めなければならない。そして、その会話、友情の質、何よりもその平等性と、男女の探求の平等性を探さなければならない。よい結婚の徴候とは、あらゆるものが論議と挑戦の対象になるということ、ひとつとして法律や政策に変わるものはないということだ。規則は、もしあるとしたら、公のトロフィーは求めない二人の選手に知られているだけである。(pp. 121-125)

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2006年10月 2日 (月)

◆山口真美『視覚世界の謎に迫る―脳と視覚の実験心理学』(講談社ブルーバックス、2005)
読み終えた。色々な実験が紹介されているが、(最後の章で取り上げられている顔認知に関するものを別にすれば)大方はどこかで聞きかじったことのあるようなものなので、あんまり新しい発見はなし。

同色で塗りつぶされた二つの図形の融合図を(適切に輪郭線を補って)見る能力と、同じ二つの図形が別々の色で塗られた融合図を(一方の図形が他方の図形に部分的に隠されたものとして)見る能力との間には大きなギャップがある(p. 136)という話:

 図と地を切り分けること、隠された形を補うこと――じつは同じ形の見方でも、物理的世界から考えるとこれら二つの間には格段の違いがある。
 図と地の切り分けは、同じ二次元平面上で形を切り分けることに該当する。それに対して、隠された形を補うということは、奥行きの異なる二つの平面の前後関係を想定しているわけで、つまり三次元空間世界を前提としている。前者が二次元世界で形を切りとる能力であるとすれば、後者は三次元空間の中で形を切りとる能力であるとも言える。
 とはいえ、この二つは形を見るという観点から連続している。すなわち物理的には別世界である二次元世界と三次元世界であるが、視覚世界を処理する脳の中では、この二つは完全に切り離されたものというわけではなさそうだ。
 そもそも網膜に入る映像そのものが二次元である。私たちが見ている、二次元の形も三次元の空間世界も、この二次元の網膜から得られた映像から構成されるのだ。三次元の空間世界が頭の中でつくられるのと同じように、二次元の形の世界も頭の中でつくられる。そこでは二次元と三次元の境界は希薄なようだ。そこに、私たちの視覚システムの最大の特徴があるのである。(pp. 140-141)
この本の中では、視覚のメカニズムについての概説的な説明に続いて、動き(第3章)、空間(第4章)、形(第5章)、顔(第6章)、というそれぞれを巡る視覚的認知について述べられているが、三次元的な物体の認知については主題的に取り上げられていないので、二次元と三次元の境界の「希薄さ」というのが、視覚的認識に本来的に具わったものなのか、それともここで採られているアプローチの制約によるものなのか、どうもよく分からない。

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2006年9月28日 (木)

◆昨日の記
朝から大雨の猛威に直撃される。駅まで歩いて10分ほどの道のりを行く間、後ろから来る車には三度も雨水を撥ねかけられるわで、ほぼ全身ビチョビチョ状態に。駅に着く頃には既にすっかり戦意喪失した敗残兵となっている。結局そのままのビチョビチョもしくは生乾き状態で半日を過ごすことに。おかげでものすごい肩こりに襲われる。

このところの諸事情により、眠れない病が再発してしまったので、明るくなるまで小田島雄志訳の『リチャード三世』と池田清彦、金森修『遺伝子改造社会 あなたならどうする』(洋泉社新書、2001)を読んで過ごす。
どうも小田島雄志の翻訳はやっぱり自分の肌には合わないような。登場人物たちの言葉がするするするっと流れては停滞するところなく引き継がれてゆくので、言葉を追っていくだけでは造形力に欠けるような感じがするんだけど、まあ偉そうなことを言っている場合ではないか。
『遺伝子~』の方は「電光石火で」作られたというだけあって、「対談」というよりはむしろ全体が「放談」調。興味深い話題や情報もあるものの、全体の調子のせいか、その信頼性にはついつい疑問を覚えてしまう。しかし、池田清彦という人はこうした飲み屋でのネタ的な話になるとそこそこ面白いのだなあ、というのが新発見。(これまでこの人の文章を面白いと思った例がなかったので。)『ベル・カーブ』の翻訳計画があったというのは知らなかった。

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2006年9月18日 (月)

◆最近の読書
・粉川哲夫(編)『花田清輝評論集』(岩波文庫、1993)
ちまちまと一週間ほどかけて読み終える。
執筆時期から言うと1940年代から1970年代に亘る評論が満遍なくカバーされているせいで、1960年前後の或る時期以降の文章の弛緩ぶりが何だか際立って映るような。しかしそんな中でも柳田国男と南方熊楠について書かれた文章(「柳田国男について」1959年、「ダイダラ坊の足跡」1973年)は――60年代以降の小説作品と直結するモチーフを抱え込んでいるためか――やはり面白い、というのが新発見。「前近代的なものを否定的媒介にモダニズムを乗り越える」という若き日の夢よ今一度という“第二の青春”みたいな感じでもあるが、これは本気で賭けているなあという様子が興味深いと言うか。

・三中信宏『系統樹思考の世界―すべてはツリーとともに』(講談社現代新書、2006)
前著『生物系統学』のおいしい所だけが――しかも涙なしに――楽しめるということで、これはたいへんお買い得な本。しかし、古今東西にわたる「系統樹」渉猟(なにしろ裏表紙には――どこかかつての杉浦康平デザインを思わせなくもないような感じで――「セフィロトの樹」まで印刷されている)を見せつけられると、「系統樹思考」と「進化的思考」との間のズレというのかすれ違いというのか、ともかくある種の緊張を抱え込んだような微妙な関係の方が気になってしまう。(フーコーのキュヴィエ論などがつい脳裏をよぎってしまうのは電波な体質ゆえか。)例えば、「歴史や系統の復元は、生物進化という考えが出現するはるか前から行われてきました。それは、ここで挙げた伝言系譜とよく似た、比較文献学での古写本の復元でした」(p. 185)。あるいはガレス・ネルソンらによる発展分岐学の展開について。生物進化に関する実質的仮定を可能な限り取り除いて(「進化分類学派とは異なり、発展分岐学派は自然淘汰をも前提とはしませんでした」(pp. 219-20))、「系統発生のパターンを純粋に抽出できる方法論」(p. 218)としての「系統樹の数学」(p. 221)の洗練を図るという試みを、もっぱら反進化論的と見なすのは「誤解にすぎない」(p. 220)とはいえ、このように純化された「系統樹思考」をそのまま「進化的思考」とべったり重ね合わせてしまうのにも少し違和感が残るような。こうした点でのスッキリしなさ具合が、例えば本書での「本質主義」攻撃がどこか空回り気味に見えてしまうといったような事情とも深く関連しているように思われるが(この辺は一つには、レイコフ的な認知意味論への肩入れ具合にもやや問題があるような感じがするが)、どうなんだろう。

・W・キムリッカ『現代政治理論』(日本経済評論社、2005)
これは先日からそろそろと読み始め。この厚さを見るたびに、お終いまで読み通せるものか非常に不安になる。
ちなみに原題はContemporary Political Philosophyなわけですが、ひょっとすると政治学系の世界では「政治哲学」という日本語表現はあまり歓迎されないといったような事情でもあるのだろうか。

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◆「ドガ・ダンス・デッサン」(1936)

 ドガは或る一群の人々を「思想家」と呼んで、ひどく軽蔑していた。
 それは改革者や、合理主義者や、「正義と真実と」を看板にしている人たちや、抽象的な議論をするものや、美術批評家たちであって、……これらの極めて真面目な人々は彼の陽気な、そして非常に意気な性格と合うはずがなく、彼のそういう反感について更に詳しく言えば、彼においては他人に騙されたくはないという気持が極めて強く、また芸術がいかに困難な、そして精密な仕事であるかということについてほとんど悲劇的に明確な観念を抱いていた彼の性格は、更にそれとともに一種のいたずらな、他人の理想の愚劣さやおかしさを敏感に嗅ぎつける、つむじ曲りな傾向を持っていたのだった。
 それらの「思想家」の同類として(そしてこの言葉がいかに悲しげな、重苦しい響きを持つものであるかは、彼がこの言葉を使うのを実際に聞いたものでなければ解らない)、ドガは「建築家」を挙げていた。……彼によれば、それはともに人間の屑ともいうべき存在だった。
 彼はそういう思想家や建築家にその時代の悪弊の大部分を帰していた。また彼の他にもその当時(それは1890年頃のことである)、幾人かの優れた人たちがすべて近代的なことと、その代弁者たちに対して反動主義的な考えを持つようになっていた。そして一種の、経験論的な色彩を帯びた実証主義が出現したが、それは他の実証主義のごとくすべてを白紙に還元しようとするものではなくて、経験を尊重し、しかもしれは実験室において得られた経験ではなく、単に幾世紀かの時間が齎したいわゆる経験なのだった。そして幾世紀かの堆積というものは人の好みに応じていかなる返事でもするものであるが、とにかく人は再び寺院とか、プーサンとか、ラシーヌとかについて語り始め、中世紀の芸術家たちが人々の憧憬の的となり、画家や彫刻家の中のあるものはそういう中世紀の芸術家たちと同じようななりをして街を歩いた。それで人々は伝統という言葉を耳にするようになった。そして或るものは過去への情熱に引き摺られて彼らが子供の頃以来顧みなかった宗教に復帰し、その中には遂に僧院に入るに至ったものもあった。また或るものは依然として不信心を続け、伝統については彼らの気に入るものだけをしか認めないのだった。そしてまた私が知っていた人たちの中で、完全に無政府主義的な考えを抱きながら、誰よりもルイ十四世を尊敬しているものも幾人かあった。
 その頃の人々は、伝統とは無意識にしか存在せず、人に口出しすることを許さないものだということを忘れていたのである。そして人目を引かずに持続するということが伝統というものの本質なのであって、「一つの伝統を復活させる」とか、「継承する」とか言ったりするのは見せ掛けの表現に過ぎない。それ故にチャールス十世の戴冠式が厳かであるよりも滑稽だったということは必然なのである。すなわち或る伝統が伝統というものとして考えられる時、それは単にそういう存在とか行為とかに過ぎないものになるのであって、その意味でそれは他のあらゆる存在とか行為とかと全く同じ工合に評価され、批判される他はないのである。そして遂にはそういう評価を行って過去の残滓を精密に分析し、依然として我々の尊敬に価する事柄と、全然廃止すべきものとを選り分けなければならない時が来るのであるが、それにしても、錆と垢とを区別するのは決して容易なことではないのである。
 しかし今日の芸術家たちが過去を回顧して、それが現在よりも遥かにいい時代だったと思うのは無理もないことである。すなわち未来が彼らに約束しているのは彼らにとって致命的なことばかりであって、彼らが最も栄えたのは、個人が大袈裟な振舞いをすることが出来て、また、或る政体の持続にしても、或は一つの王家の、或は一つの信仰の、または栄光そのものの持続にしても、とにかく持続ということが信じられている時代なのである。
 ところが、現在では最早誰もいないのである。……すなわち国王とか、偉大な僧正とか、強力な貴族とかが宮殿や、庭園や、寺院や、廟や、玉飾りや、家具などを作らせて、そういう驕慢とか、悔恨とか、快楽とかの、あれほど貴重な、そして独創的な記念物を後世に遺すということは最早今日においては不可能なことなのである。……何故なら独創的な人物、また自分自身にしか頼らない溌剌たる人物が今日では一人もいないからであって、現在我々の目に着くものは群集と、その代表と、各種の委員会とに過ぎない。確かに私は所々に、二、三人の群集の引き廻し役を見るが、彼らには群集にもそれを欲するように暗示し得る事柄以外には、いかなる欲望も抱くことが出来ないのである。
 要するに人物がだんだん減っていき、風変りな、特異な性格を持ったものがほとんどいなくなったのである。それにもしそういうものがいたとしたら直ぐに病院に収容されて、精神病学者が彼について浩瀚な書物を著すのに決っている。
 何人かのアメリカの百万長者がメディチ家の人々の真似をしようとしたことは事実であるが、それは手探りして、すなわち権威のある顧問を雇ってのことだったのである。……
 それに彼らは見栄とか、新聞とか、博物館とか、公共の福祉とか、そういうことを考えてこの挙に出でたのである。
 すなわちそれは楽しみにではなかったのだ。
 そこに現在と過去との重大な相違が存するのであって、今や楽しむという行為が消滅せんとしているようである。すなわち我々は最早楽しむのではなくて、激烈さとか、巨大さとか、速さとか、そういう最も簡易な方法によっての、神経中枢に対する直接的な作用を求めているのである。
 そして芸術や、恋愛でさえも、暇と剰余精力との更に新しい消費形式に圧倒されようとしているのであって、それらの新しい形式がどんなものであるかは想像するに難くないのである。……(『ヴァレリー全集10:芸術論集』(筑摩書房、1967)、pp. 101-104)

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2006年9月 4日 (月)

◆内田樹『私家版・ユダヤ文化論』

産業革命以後、フランスがすさまじい勢いで近代化を遂げつつあるそのただ中で、ドリュモンは歴史の流れを逆行させるような物語を紡いでみせた。『ユダヤ的フランス』のマスセールスの最大の理由は読者の琴線に触れるこの懐古趣味にあった。私はそう考えている。
 そこに伏流しているのは、変化すること進歩することへの恐怖である。奇妙に聞こえるのを承知で言えば、未来の未知性に対する恐怖である。中世とあまり変らない生活をしていた人々がわずか一、二世代の間に、現代と地続きの近代社会に投じられたのである。そのときの不安と困惑がどれほどのものか、その実感を今私たちが想像的に追体験することはたいへんに困難である。
 そのような未来の未知性への本能的な怯えのうちにあるフランス人大衆の目に、ユダヤ系市民が「変化の象徴」のように映ったという蓋然性は高い。というのは、電気もガスも鉄道も自動車も新聞も……およそフランスの前近代的ライフスタイルを破壊する事業のすべてにユダヤ人はかかわっていたし、汚職政治家や怪しげな政商の中にも、およそドラスティックな社会的変化のあるところには必ずユダヤ人の影が出没していたのである。
 理由は簡単である。中世的なギルドのメンタリティが残る業界はどこもユダヤ人を組織的に排除したからである。もともと農地がユダヤ人に与えられていなかった以上、既存の業種から閉め出されたユダヤ人たちには、流通、金融、運輸、通信、マスメディア、興業といった新興の業界やニッチ・ビジネスに雪崩れ込む以外に選択肢がなかった。ユダヤ人が新たな産業を興したというよりは、新たな産業を興して、需要のないところに需要を生み出す以外にユダヤ人には生計の道がなかったのである。(pp. 122-3)
ユダヤ文化論というよりはむしろ「反ユダヤ主義」文化論と呼ぶべき内容だが、恐らく書きたいのは「○○○文化論のスキーム」なのだろうから、「○○○」に入るのは何であっても別に構わないのだろう。――といったようなことを思いつつ油断してると、終章はレヴィナスを導きの糸にしながら、根源的に「アナクロニズム」を抱え込んだものとしてのユダヤ的知性の特異性が語られることになるのだが、こういうのは――例えばヘーゲルに寄り掛かってキリスト教文化を語るのがそうであるように――単純に順序が逆と言うべきなんじゃないんだろうか。あるいは、こうした逆転(アナクロニズム?)を不可避とするようなものがそこにはあると言うべきなのか。(メシアニズム?)

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2006年8月28日 (月)

◆予習用
ということで、齋藤純一『自由』を読む。第Ⅰ部はバーリンの「消極的自由」の概念を中軸としたこれまでの議論のまとめ、第Ⅱ部では、アーレントとフーコーの視点を交えつつ、今日的状況の中での自由論の展望が示される。いろいろ勉強にはなるのだが、どこか微妙な敷居の高さに微妙に落ち着かない気持ちにさせられる本でもある。(これが「思考のフロンティア」というものか。)

社会立法や社会計画、福祉国家や社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考慮することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけることができる。歴史的に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の害敵は、レッセ・フェールではなくて専制だったからである。二つの概念の消長は、たいてい、ある集団や社会を一定の時点で最も脅かしている特定の危機に原因を求めうる。統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。二つの概念はいずれも、本来それをおさえつけるために生みだされた、その害悪に自ら転化していく傾向があるらしい。ところで、現今では、リベラルな超個人主義(liberal ultra-individualism)が優勢であるとはほとんど言えないのに対し、積極的自由のレトリックは、少なくとも歪曲させられた形でははるかに目立ち、より広い自由という名のもとに、専制のかくれみのとして(資本主義社会のなかでも、反資本主義社会のなかでも)その歴史的役割を演じつづけている。(I・バーリン『自由論』(みすず書房、1971), p. 70)[pp. 1-2に引用]
『自由論』においてミルが示したいわゆる「危害原理」(harm principle)、つまり、自ら自身に関わる事柄については人びとは絶対的に自由であり、他者に危害を加える場合にのみ自由は制約されうるという原理も、「社会的専制」を阻止することを意図したものである。社会的権力による自由の抑圧は社会を停滞状態に引き入れ、社会からその活力を奪うことになる。そうした停滞状態を避けるためには、各人が「自ら自身の善を自ら自身の仕方で追及する自由」を徹底して擁護する必要があり、多数派が受け容れがたいと感じる個性の主張――「異教的な自己主張」――にさえ、その自由が与えられなければならない。他とは異なった自己主張や「生の実験」の抑圧を自由の封殺としてとらえるミルの視点にも影響を与えたドイツのロマン主義は、自由への脅威を〈社会〉の平準化・画一化の圧力に看取するその後の(実存主義を含む)さまざまな思想の源泉となっていく。(pp. 8-9)
いかなる人といえども、私に対して強制的に(その人が他の人の幸福をどのようなものと考えるかという)その人のやり方で幸福にすることなどできない。各人は、自らがよいと思うやり方で幸福を追求してよい。ただ、自らと同じように目的を追求する他者の自由が可能な普遍的法則に従ってすべての人の自由と両立しうるときには、そうした他者の自由(目的を追求する権利)を侵害しさえしなければよいのである。――父親が自らの子供に対して行うのと同じように恩恵の原理にもとづいて国民に対して行われる支配はパターナリスティックな支配(imperium paternale)と呼ばれる。それゆえ、そうした支配のもとでは、臣民は、何が自らにとって本当に有益であり何が本当に有害であるかを見きわめられない未熟な子供のように、ただただ受動的な態度をとるように強いられる。このとき臣民は、自らがどのようなあり方で幸福であるべきかは国家元首の判断を待つほかなく、自らの幸福をも国家元首が欲してくれることを彼の善良さに期待するしかない。このような支配は、考えられるかぎり最も強力な専制(臣民のすべての自由を破棄し、その結果臣民は一切の権利をもたないことになる体制)である。(カント「理論と実践」、『カント全集』第14巻(岩波書店、2000), pp. 187-188)[pp. 5-6に引用]
近代リベラリズムの自由観においては、自らに開かれた選択肢を前にして自らの意思で決定を行うべき「自己」は、すでに固定したもの、自明なものとして想定されている。しかも、そのような自己は、自由であるためには、他者の意思を排して自らを支配しうるような主体でなければならない。この考え方によれば、人びとは、自由であるためには自らに対して主権性(排他的かつ一元的な支配)を確立し、非主権的と見なされる要素を徹底して排除しなければならない。そのような主権性の確立はそもそも可能なのだろうか。
 すでに触れたように、バーリンは、理性的な自己支配という積極的自由の観念は、理性を体現するとされる者による他者支配を導くという観点から、自由と自己支配との同一視に対して批判を提起したが、アーレントは、やや異なった観点から、つまり人間の複数性(plurality)の擁護という観点から、自由と主権性は同一視されえないどころか、両立不可能であるとさえ明言する(この二人の思想家は一見対照的な立場にあるように見えながら、価値一元論――とりわけ歴史の必然性という観念――に対する徹底した批判というスタンスを共有している。アーレントの自由概念はバーリンのいう「積極的自由」の概念にあたるという散見される理解の仕方もそれゆえ正当ではない。彼女は、自由を非主権的なものとして理解し、人びとの〈間〉を超越するような大文字の主体の観念を退けているからである。)(pp. 57-58)

アーレント的な非主権的自由(他者との〈間〉に開かれる自由の空間)が、フーコー的なミクロ権力論の構図と――全く同一視されるわけではないにせよ――比較的抵抗なくするっと接続されてしまう辺りの議論の運び(cf. p. 66)が今一つよく分からない。この本での話の筋道からすると、彼らの相違はむしろ、安全(セキュリティ)のせり上がりという状況――「治安という意味でのセキュリティの台頭と生の保証という意味でのセキュリティの後退は、明らかに相関する現象である。」(p. 104)――に照らして読み解かれるべき、ということか。
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・「人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」(J・S・ミル「自由論」、『世界の名著49:ベンサム、J・S・ミル』(中央公論、1979), p. 225)

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2006年8月27日 (日)

◆あいかわらず
スーダラな日々が続く此の頃。基本的に何もやる気が起きないので、小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』を三日がかりで読み終える。長い間同じ姿勢が続いたせいか異常に腰が痛くなってしまった。というのはともかくとして、同書は、ここ最近の「戦後(批判)」論議(この本での位置付けによれば、これは、終戦後およそ10年にわたる「第一の戦後」、その後の戦後55年体制と並行する「第二の戦後」に続いて、90年代以降のグローバリズムの進行がもたらした「第三の戦後」を画する第三の「戦後責任論」ということになる)に対する啓発的な解毒剤とでも言うべきもの。特に、(網野善彦を育むことになる)国民的歴史学運動の顛末や、そこでのスターリンの言語学論文の受容について辿り直した第8章など、教えられる所が多い。しかしながら、個々の「戦後思想家」についての取り扱いには正直な所かなり違和感を覚える。時代(「心情」)の関数(「表現」)として読むという試みは、丸山真男に関してはかなり上手くハマッているし、吉本隆明に関しても――これとは全く逆の意味で――それなりにハマッているのだが(「情況への発言」や丸山真男論等での罵倒芸と、60年安保直後のグダグダな感じとのギャップを考える上では、きわめて啓発的)、一番割りを食ったのは福田恒存あたりではないか。(まるで死者を鞭打つかのような江藤淳批判も酷いと言えば酷いのだが、その章(第15章)全般に漂うウェットな感じは――『一族再会』とも微妙にマッチして――そんなに悪くはない。とはいえ、「日本と私」を軸に論ずる点をはじめとして、大塚英志のパクリが多いのはちょっとズルイと思う。がそれよりも、「共有された戦争の記憶が失われてしまえば、もう役目御免」と言わんばかりの竹内好に対する扱いの酷薄さの方が気にかかる。)その理由は恐らく、時代の「心情の表現」というものが概して、当の思想家の最低ラインにおいて読み取られる性格のものだからだろう。というわけで、最低ラインにおいても最高ラインを実現してしまうような透明なテキストを残した丸山真男や、最低ラインにこそ最高度の可能性を探ろうとする鶴見俊輔が比較的高い評価を与えられることになるのも不思議ではないが、最終章での鶴見俊輔&小田実への評価は幾らなんでもあまりに甘過ぎはしないのか。そうした甘さはまた、結論で締め括りとして提示されるナショナリズム像――言ってみれば、その最低ラインへと切り下げられたナショナリズムの構想――のダメさ加減とも見合っているのではなかろうか。(その辺のダメさについては、本書の方法論的土台を形作っている言語論(?)の異常な平板さと併せて、誰かがきちんと批判したらよいと思う。)というわけで、近年の「戦後」論議を蔽い尽くしている――戦後思想そのものに関する無知ゆえの――無意識的(喜劇的?)な「反復」の連鎖を断ち切るべく、「戦後思想の最良の部分を再現」(p. 825)しようとする本書の目論見がどの程度成功を収めているかとなると、かなり疑問が残ってしまう。もしかすると、ここでもやはり「最良の者は帰ってこなかった」のではなかろうか。

(ブログ界隈では、「『〈民主〉と〈愛国〉』での吉本論は『共同幻想論』が読めてないから駄目」という牧歌的な意見もあるようだが、駄目なのは――『共同幻想論』が読めていないからではなくて――「マチウ書試論」を全く読み外しているからである。)

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2006年8月23日 (水)

◆今日の読書
・小田中直樹『日本の個人主義』(ちくま新書、2006)

主題的に取り上げられるのは、大塚久雄の戦後早い時期の個人主義(自律)論だが、その後の共同体論への展開については完全黙秘(?)。
脳科学の進展による「アイデンティティー復活」という話(第2章)は御愛嬌というところだろうか。

(他者)啓蒙への二つの批判――民衆文化論と総動員体制論(中野敏男『大塚久雄と丸山真男』)

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◆昨日の読書
・糸圭秀実『革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論』(作品社、2003)

言売了。

…日本における68年革命は、それを体験した68年世代の者からさえ、いまだに「挫折」といったイメージによって語られている。全共闘=ニューレフトは権力の悪に対して純粋な正義感から反抗を開始したが、体制の厚い壁の前に挫折を余儀なくされ、ついには「連合赤軍事件」(1972年)をシンボリックな頂点とする「内ゲバ」によって自壊していった、という次第である。それは、明治期初期の「自由民権運動」から1960年安保にいたる近代「青年」運動の挫折の延長上にイメージされており、哀惜されるばかりなのだ。この種の「挫折」のイメージは、文学的にも、かつて平野謙が唱導した「人民戦線史観」、すなわち「昭和十年前後」における文学的人民戦線の対戦時における挫折が戦後派によって復活し――すなわち、「1945年革命」によって復活し――持ちこされたとする「第二の青春」(荒正人)的歴史観をはじめ、今なお多くの者を規定しているといってよい。
 「戦後」思想の意義を探って、その可能性の核心を鶴見俊輔と小田実に求めた、小熊英二の浩瀚な『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』にあっても、そこにおいて徹底的におとしめられているのが68年とその思想にほかならない。確かに、68年が単にロマン主義的反抗とその挫折としてのみ括りうるものであるなら、小熊の論も正鵠を射ていよう。
 しかし、68年が今なお持続する世界革命であるとは、それが圧倒的な「勝利」以外の何ものでもないということなのだ。68年への批判が必要だとすれば(実際に必要なのだが)、それは何よりも、その勝利を「挫折」と見なさせてしまう歴史的な光学に対してであり、その今日的な帰趨なのである。どこまで可能であるかは知らないが、本書は徹底して肯定的な史論たることが目指されている。(pp. 7-8)
というわけで、小熊英二へのあからさまな対抗意識に発すると覚しい本書だが、あれこれと細かな情報が豊富な割に、というかむしろ「色々ありました」というその豊富さゆえに、肝心の「68年革命」の明確な像を取り出すことが妨げられているような。(悪くすると、後出しジャンケンで勝利宣言を上げているようにも見えかねない。)一応、本書の中では、(小林康夫を介しておぼろげに浮び上がってくる)宮川淳―津村喬というライン上のどこかにその革命の(一つの)可能性の中心が探られるような格好にはなるのだが、そこから出てくる答えが「フォルマリズムとしてのマオイズム」というのでは――「スカスカゆえに吾信ず」というのならばともかく――幾らなんでも空疎すぎはしないのか。このことからすれば、本書が結局は一連の古典的なマイノリティー問題の召還で締め括られる運びとなるのも、当然と言うべきか。

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2006年8月21日 (月)

◆けっきょく
『死霊』を読み終えたところで、この夏の戦後文学週間もいったん終了。今まで第五章までしか読んだことがなかったが、霧が晴れ渡ってから後の章は恐ろしくつまらないことが判明する。一週間も「阿頼耶識」とか「過誤の存在史」とかといった話ばかりを読み続けた反動か、中野重治の『甲乙丙丁』みたいなのが読みたくなってきた。

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2006年8月 3日 (木)

◆そういえば
涼を求めて入った本屋でたまたま、今井清人(編)『村上春樹スタディーズ2000‐2004』(若草書房、2005)に収められている小谷野敦「『ノルウェイの森』を徹底批判する―極私的村上春樹論」を立ち読みしていたら、大学の同級生との恋愛をめぐって東大派(けしからん派)と早(慶)大派(別にいいじゃん派)との対立があるのではないかといった話があるのだが、「何時の時代の話だよ」というのはともかくとして、これでいくと柄谷行人はむしろ早(慶)大派ということになるんじゃないのだろうか。勤め先が官製大じゃないから別にいいのか。まあどうでもいいけど。
最後は漱石もドストエフスキーもトルストイも全部ひっくるめてモテ文学一掃への熱い思いが全面展開されるのだが、この伝でいくとなんだか近松秋江くらいしか読む小説がなくなってしまいそうだ。

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◆梅雨が明けた
と思ったら、心の準備もないままに、幾らなんでもいきなり暑い。まるでダメ。

そんなこんなで檜垣立哉『生と権力の哲学』はサクっと読了。うーむ。感想は特にありません。
しかしアガンベンの「自己触発」論みたいなのがピロっと出てくる文脈については、もう少し詳しく知りたいという感じもある。若き日のフーコーがハイデガーについて大量に残したというノートから、ドゥルーズの幻のマルクス論へ、というラインを考えるにあたっては(あるいはまたフーコーとアレントとの「すれ違い」の持つ意味を考え直す上でも)、地下水脈としてのカントというのはやはり軽視することはできないんじゃないかという気もするが、こういうのは「カント主義のまどろみ」とか言われちゃうんだろうか。

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2006年7月31日 (月)

◆バルタン星人は語ることができるか
昨日の読書。
・G・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房、1998)
・斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、2002)

従属文化としてのコバルト文庫(「少女限定文学」)、等々。
批評の対象にならない作家というものがいるのだなあ、と改めて感じる。

『文壇アイドル論』で取り上げられているのは村上春樹、俵万智、吉本ばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫、というラインナップ。ある意味きっちり漏れなく地雷を踏んでいる所は流石だが、田中康夫を取り上げた終章が今一つ冴えなかったりと、「活字世界から見た八○年代試論」としてはあんまり輪郭がくっきり見えてはこないような。林真理子と上野千鶴子を論じた第Ⅱ部「オンナの時代の選択」は、むしろ70年代リブ運動の後日談といったような切り込み方になってるし。(林真理子の章は面白いし纏まりもいいけど、これは「出世スゴロク人生」を見事に駆け上がったその対象の特殊性によるものだと言うべきか。林真理子の結婚によって80年代は終焉=上がりを迎えた、と。)

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2006年7月26日 (水)

◆村上春樹本少々
少し前に読んだ小森陽一『村上春樹論』だが、これには「『海辺のカフカ』を精読する」という副題が付されている。同様にタイトルに「精読」を謳った本も時々見かけるが、ひょっとすると出版業界ではこの語は何か特殊なコノテーションを帯びて用いられているのだろうか。
それはともかく、ずいぶん目の粗い分析ツール(「権威主義的パーソナリティー」と「民主主義的パーソナリティー」とか)で押し通したり、批評の言葉を排して教育的言説を前面に押し出したりといった辺りは、それ自体が意図的な教育的配慮の為せる業なのだろう、――と、思いたいのだが、もしかしたらこれは根本的に違うのかもしれない。

『海辺のカフカ』を読んで〈癒し〉を感じたあなたにわかっていただきたいのは、ブッシュ政権が、世界中の言葉を操る生きものとしての人間を騙そうとする言語戦略と、『海辺のカフカ』のテクストとは、驚くほどに相同性と相似性を持っているということです。世界中の多くの人々が、「戦争」の始まる前から、イラク攻撃に反対しましたが、暴力の連鎖を止めることはできませんでした。その欲求不満=フラストレーションを、記憶の消去と歴史の否認、精神的外傷を〈解離〉によってなかったことにして、空虚であることを〈いたしかたのなかったこと〉として容認する、そのような〈癒し〉効果を『海辺のカフカ』は世界中にもたらしうるのです。それがはたして、言葉を操る生きものとしての人間にとっての心の平穏なのでしょうか。(p. 273)
やっぱり『カフカ少年』を読んでいないせいか、「村上春樹に〈癒し〉を求める読者」像というのが――ごく一般的なイメージ以上には――いまいち良く見えてはこない(が、そうしたイメージからする限りでは、こうした教育的言説の有効性にはかなりの疑問が残るような)。
(しかし、『海辺のカフカ』を『虞美人草』に連なる「処刑小説」=ミソジニーの系譜に位置付けるというのは、ちょっと余りに「ちょっとちょっと」ではなかろうか。村上春樹のミソジニー――と呼べるものがあるとして、それ――は、『虞美人草』での唐突な「処刑」に体現されたそれに比べれば、あまりに病んでいるとしか思えない、という意味で。)

そんなこんなで、続いて井上義夫『村上春樹と日本の「記憶」』に突入するが、これはちょっと凄い。

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2006年7月17日 (月)

◆雨降り止まず
ということで、またしても読書の日々。福田和也『保田與重郎と昭和の御代』、イバン・イリイチ『生きる意味』、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』、アイザィア・バーリン『北方の博士 J・G・ハーマン』、と、なぜか反‐近代系思想史祭り。
バーリンの本は草稿を元にしたせいなのか何だか随分しょぼい(といっても、まだ前半だけだが)。福田和也は相変らずどこを目指しているのかよく分からなかったり、イリイチは相変らず薄気味悪かったり、『ヨーロッパ精神史入門』はものすごく気の利いたメモ書きだったりと、まあ色々。
(歴史の裁断への誘惑を前に、どう踏み止まるのか。)

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2006年7月 1日 (土)

◆読書中
・保田與重郎『萬葉集の精神―その成立と大伴家持』(筑摩書房、1942)

暑苦しい気候には暑苦しい文章で、ということで読み始め。
しかし相変らず何を言っているのかほとんど分からないのだった。自分の無教養が嘆かわしい。

ちなみにウチにあるのは昭和十七年刊行の初版本だが、戦時下で出版されたにしては本の造りなど随分としっかりしている。(ただし嵩張るのが難点。)

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2006年6月28日 (水)

◆今日の読書
・C・ダグラス・ラミス『内なる外国―『菊と刀』再考』(時事通信社、1981)

喫茶店に入って読んでいたら、クーラー効き杉で凍え死にしそうになる。

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2006年6月27日 (火)

◆Web 2.0時代の芸術作品
とはいっても、最近、梅田望夫『ウェブ進化論』と多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を立て続けに読む機会があったというだけで、特に何か言いたいことがあるというわけでもない。『ウェブ進化論』の方は、特に、ここ数年のグーグルの動向について「へぇー」と感じる部分も多くあったが、やはりそれを突き動かしている「ミッション」――"Democracy on the web works."――の方がどうしても気にかかる。でも「ビジネス書」的スタンスでそこを掘り下げるのはやはり難しいのか。というわけで、この本の中では、いかにしてアガリを掠めるか、といった銭金絡みの話の部分の方が格段に精彩があるように見えるが、そうした話になると途端に興味が失せてしまうというのは自分的にはちょっとヤバイ、という気もする。

…現代の大衆は、事物を自分に「近づける」ことをきわめて情熱的な関心事としているとともに、あらゆる事象の複製を手中にすることをつうじて、事象の一回性を克服しようとする傾向をもっている。対象をすぐ身近に、映像のかたちで、むしろ模像・複製のかたちで、捉えようとする欲求は、日ごとに否みがたく強くなっている。この場合、写真入り新聞や週間ニュース映画が用意する複製が、絵画や彫刻とは異なることは、見紛いようがない。一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同時に絡まり合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ。このようにして視覚の領域で起こってきていることは、理論の領域で統計の意義がしだいに顕著になってきていることに、ひとしい。大衆にリアリティーを適合させ、リアリティーに大衆を適合させてゆく過程は、思考にとっても視覚にとっても、限りなく重要な意味をもっている。(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」)

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2006年6月19日 (月)

◆teleology
・藤原保信『自由主義の政治理論』(早稲田大学出版部、1997)

もちろん、力(potentia)と正義(jus)を等置し政治の本質を権力のうちにみる観方は、カリクレスやトラシュマコスをひき合いに出すまでもなく、古代ギリシアにもみられた。とりわけ、ギリシア・ポリス崩壊後の世界――ヘーゲルが法状態 Rechtszustand とよぶローマの世界――はそれと無縁ではなかった。しかしそれが支配的な思惟となったのはやはり近代であり、そのことは何よりも res publica, civitas, regnum, imperium にかわる、statio, état, Staat, state としての国家概念の成立のうちに現れているといえる。すなわち、それが表象するものは内容を捨象された一定の地位 status であり、国家を国家たらしめるものは、それが実現すべき目的 telos であるよりもそれが有する至高の権力であった。W・ヘニス(Wilhelm Hennis)は、このことをつぎのように述べている[Politik und praktischen Philosophie (1977)]。「近代の国家概念は、かかる目的(テロス)とは何のかかわりもなかった。res publica が、政治的結合体に、支配団体はいかなるものであるべきか(共同本質 Gemeinwesen であって、権力保持者の私事 res privata ではないこと)を思い起こさせる名辞を与えていたとするならば、国家、すなわち status は、ひとつの状態、ひとつの位置、存在するところのものを指し示す。国家を国家たらしめるもの、つまりその主権は、その権力的な機構、おのれ自身の内外の権力に対するその関係、すなわち至高の権力の『帰責点』 "Zurechnungspunkt" については何ごとかを表すが、その概念は国家の目的とは何の関係もないのである」。(pp. 45-46)
[近代的な人間観・価値観の――自然との共生を可能にするような――転換は]あえていうならば、理論的生活と活動的生活、活動的生活における活動、仕事、労働の連関の再転換を意味するかもしれないし、アリストテレス的な価値のヒエラルヒーの世界に回帰することを意味するかもしれない。しかしもちろん、ここでももはや自然の階層的秩序を前提とする必要はないのであって、第二の価値観の転換は、第一の自然観の転換と密接不可分な関係をもってくるのである。いわば自然の合目的性の回復は、人間行為における目的論の回復に繋がってくるのであり、そのためにはC・テイラーの仕事が示すように[The Explanation of Behaviour (1964)]、機械論的(そして行動主義的 behaviouristic)人間行動の説明にかえて、「そのために」ある行為がおこなわれる目的と意味による人間行動の説明が必要となってくるのである。(pp. 44-45)
「政治哲学のパラダイム転換」のためには「自然観」も「人間(価値)観」も「政治観」も「学問観」も転換しなくちゃダメ、ということで、ずいぶん物凄いことになっている。(単にベタに逆戻りしてるだけ、という感も…。というか、“ぜんぶ変えれ”という形での「アナーキーの招来」の方が気になってしまう。)
それはともかくとして、テイラーの場合、心の哲学と政治哲学とがどうくっつくのかはよく知らないが(あるいは別にくっつかなくてもよいが)、少なくともそのための鍵となるタームは「目的(論)」ではなくてむしろ「表現・表出 expression」なんじゃないかと推察されるが(あまり根拠なし)、果たしてどうなんだろ。(とりあえず、ヘルダー嫁>自分、と。)

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藤原保信 - Wikipedia

シカゴ大学に留学し、ジョゼフ・クロプシーとレオ・シュトラウスに師事、ホッブズの自然哲学・人間論・国家論を近代機械論に基づいて誕生した政治学として体系的にとらえ、その克服という観点から研究する『近代政治哲学の形成――ホッブズの政治哲学』で、政治学博士号(早稲田大学)取得。その後、ヘーゲルについてオックスフォード大学で、Z.A.ペルチンスキーの下で在外研究を行う。イギリス理想主義の批判的な継承者でもあり、オックスフォード留学後はコミュニタリアニズムの立場から、環境問題や平和学についても思想史家としての立場から発言を行い、問題意識と学問の統合を図る学者として注目されたが、骨ガンのため闘病するさなか敗血症により死去した。
藤原保信年譜
1969年(昭和44年)7月 フルプライト奨学生として、シカゴ大学で学ぶ。J. Cropsey, Leo Strauss らの指導を受ける。(1971年3月帰国)
1978年(昭和53年)4月 早稲田大学在外研究員としてオックスフォード大学で研究。Z. A. Pelczynski, Ch. Taylor, M. Riedel らと交流。(1979年3月帰国)
1987年(昭和62年)4月 築地カトリック教会で受洗。
『藤原保信著作集』刊行の辞(暫定版)

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2006年6月17日 (土)

◆la lotta continua
・チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理―近代とその不安』(産業図書、2004)

長らく放置プレーが続いてしまった。ようやく読み終える。

…また、こうした[アメリカの]政治のスタイルは問題の解決をなおさら難しくするとも言われてきました。司法判断ではふつう、勝者がすべてを手に入れます。勝つか負けるかなのです。とくに諸権利に関する司法判断は、オール・オア・ナッシングの問題と考えられがちです。そもそも権利の概念からして、権利というからには余すところなく満たされねばならず、さもなくば無にひとしいかのようです。ここでもまた人工妊娠中絶〔の問題〕が例として役立つでしょう。この問題を胎児の権利と母親の権利の対立とみなしてしまえば、胎児は無条件の安全性を求め、母親は、特定の利害をめぐって競合する運動によってますます拍車をかけられ、そのために妥協の可能性はみるみる小さくなってゆきます。それはまた、犠牲や困難をもともなうと考えられる施策をめぐってひろく民主的なコンセンサスが必要とされるような場合に、その問題と取り組むのをいっそう困難にするものだとも言えます。(…)しかしここでも、肝心なのは次の点です。つまり、この手の政治が支配的なところでは、ある種の共同の企てを立ち上げるのはますます難しくなるということです。(pp. 158-159)
わたしたちのおかれている状況は複合的な闘争を、つまり知のレベルで、精神のレベルで、そして政治のレベルでというように、いくつもの水準で繰りひろげられる闘争を命じているように思われます。このような闘争では、公的なアリーナにおける論争は病院や学校――そこではテクノロジーに枠組を与えるという問題が、具体的な形で生きられています――といった数々の制度環境のなかで行なわれる論争と連動しています。(pp. 163-164)

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◆今日の立ち読み
・岡ノ谷一夫『小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波書店、2003)

うーん。文法ってなんだろう。

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2006年6月15日 (木)

◆ノーム・チョムスキー『生成文法の企て』

…生成文法の発展史は、大まかに言って三つの期間に区切ることができる。すなわち、個別I言語に関する記述的に妥当な理論(個別文法)を精緻な形で作り上げようとしていた第一期。記述的に妥当な文法を全体的に規定しているようなシステム、すなわち人間の言語機能(の初期状態)に関する一般理論である普遍文法の構築を目指した第二期。そして、普遍文法が「なぜ」そのような特性を示すのかを問おうとする第三期である。(「訳者による序説」pp. 30-31)
どうにか一読。しかし話がテクニカルな領域に入った途端に、「ロクに分からない箇所」と「ほとんど分からない箇所」と「全く分からない箇所」が多過ぎ、という破目になるわけで…。ともかく、原理とパラメータの理論がどういった動向の中から生まれ出て、どのような転換をもたらすものであったかといった点について、かなりおぼろげ(かつ怪しげ)ながら理解できたのが、まあ収穫といえば収穫か。(この点との関連では、ダーシー・トムプソンやチューリングの形態発生論研究からの示唆について繰り返し言及されているのが興味深い。)しかし、原理とパラメータ・モデルの導入から極小主義へ、といった流れがさらに色々と面白い展開に繋がってゆくのだろうなあ、と思う一方で、これは逆に言えば、それ以前の「標準理論」というのは一般に思われている(思われていた)以上につまらない話であったのかなあ、ということにもなりかねないのが諸刃の刀ではある。それにしても改めて感じるのは、言語についてのチョムスキーの見方というのは(色々な意味で)随分「クール」であるなあという点で、そうしたクールさというのはフォーダーやスティッチのようなチョムスキー派(?)にも受け継がれているようにも見えるんだけど、ホントはそこん所どうなのか。
私が英語以外の他の言語を研究しないのは、どれ一つとしてよく知らないからなんです。そういう単純な理由からなんですよ。生成文法に関して私が行なった最初期の研究はヘブライ語についてのものでした。どうしてかと言うと、言語学者ならばそういうことをすべきだとされていたからです。私が受けた訓練というのは、何かある言語を取り上げてそれを研究しろというものでした。ですから、私はインフォーマントを用いた調査で研究を始めさえしたんです。その当時の方法に従って、ずっと全部やってみました。当時におけるごく普通の訓練を受け、音素分析などを行なう普通の言語学者として私は出発したんです。インフォーマントを用いるべきだ、というわけで私はインフォーマントを連れてきて調査を行ないました。たぶんまだ、どこかにその時のノートが全部残っているはずです。で、まあそんなことをしているうちに、ある時点で、こんなことはばかげている、と思ったんです。どうしてかと言うと、私は音声学に関しては何も知らなかったし、そんなこと気にもしていなかったんですからね。それで今度は、少しは自分がわかっていると思われることをやり始めました。つまり、よくわからない時にはインフォーマントを用いながら、統語論と形態音韻論をやり始めたわけです。ところがある時点でまた、こんなこともばかげている、と思ったんです。英語に関しては何でも知っているのに、その英語を研究しないで、どうしてわざわざ、部分的にしか知らないこの言語をやっているんだろう、と思ったんですね。しょっちゅうインフォーマントのところに行って、尋ねなくてはいけないし、それでまた、そのインフォーマントの反応がどういうものに基づいて行なわれているのか、などということも私にはわからないわけですから。というわけで、その時点で、それまでやっていたことを中止したんです。そして英語についての研究を始めました。それ以来今までずっと、英語に関してやってきているわけです。(pp. 190-191)

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2006年6月12日 (月)

◆きのうの暮らし
雨降りなので(ほぼ)外出せず。
   (-_-)
   (∩∩)
三島憲一『現代ドイツ』、アンソニー・ギデンズ『第三の道』、マルティン・ヴァイン『ヴァイツゼッカー家』を読んで過ごす。

…実際の政治的問題に関しては、[デリダとハーバーマスの間に]ほとんど意見の差のないことは、アメリカの哲学者リチャード・ローティが指摘するとおりである。例えば妊娠中絶の是非、同性愛結婚の是非、女性の権利、労働者の福祉のあり方などの、日常生活の政治的問題にはじまり、ユダヤ人虐殺や植民地主義の過去、そしてアメリカの強引でひとり勝手な戦争とその国連無視などに関して、理由は異なろうとも結果として大幅な意見の一致があった。二重国籍に反対する者は、同性愛者の結婚にも反対するのが普通であり、彼らはその正反対であった。(三島憲一『現代ドイツ』p. 246)

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2006年6月 8日 (木)

◆on saying that

その頃[=十九世紀後半]から大陸との文学、美術の交流も盛んになって行ってカフェ・ロオヤルが英国の一流の文士や画家、彫刻家、音楽家などの溜り場になったことからこの店が英国の文学史の上でも見逃すことが出来ないものになる。そういう人々の中で、まずここの常連になったのが画家のウィッスラアで、彼はその名声と機智でこの店に集って来る文士や画家の群に君臨し、その後を継いでワイルドが登場した。ワイルドは初めにウィッスラアを慕ってカフェ・ロオヤルに来て、しばらくはウィッスラアの美学上の弟子という風な具合だったようであるが、ワイルドの才気が長く彼にその位置に甘んじさせず、やがてウィッスラアとワイルドの競り合いが次第に激しいものになっていった。二人のカフェ・ロオヤルでのやり取りの一つが今に伝えられている。ウィッスラアが或る時なにか警句を吐き、ワイルドが自分もそういうことが言ってみたいと羨しがると、ウィッスラアは、「いや言うとも、オスカア、言うとも」と答えた。勿論ワイルドが、どこか他所に行って自分の言葉として言うに決まっている、という意味である。こういう話が他にも幾つも伝えられている。(吉田健一『英国に就て』pp. 28-29)

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2006年6月 7日 (水)

◆昨日の読書
・ロバート・ケイガン『ネオコンの論理―アメリカ新保守主義の世界戦略』

今更ながらに読んでみた。随分薄い本だけど、これでもかなり退屈だった。というか、「つまらなくっていいじゃん(アメリカだもの)」という折込済みの自己防衛の身振りに、「強さの心理」と表裏一体の“怯え”を見て取るべきなのか。

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2006年6月 5日 (月)

◆滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』
読み終えた。(著者は木村敏&中井久夫のお弟子さん筋なのだとか。)

・自閉症の研究史早分かり:
1943年 カナー「情動的交流の自閉的障害」(小児分裂病としての自閉症)
1960年代 環境論的研究(家族研究、精神分析学的アプローチ、反精神医学など)
1970年代 ラター(言語認知障害説、認知障害説)
1980~90年代 ホブソン(感情認知障害説)、バロン=コーエン(心の理論障害説)

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自閉症と精神遅滞とを含めた発達障害の根底に、「『依存』のおくれ」(p. 169)――行き過ぎた自立性の表れ――を見るというのは興味深い。が、自立‐依存という対立軸がそのまま個‐共同性という対立軸にべったりと重ね合わせられてしまうのでは、おそらく出口は見つからないんじゃないか、ということで、その徴候は例えばバロン=コーエンに対する批判(「心の理論」の生得的障害ゆえに対人交流の障害が生ずるのではなく、むしろ対人交流の乏しさゆえに「心の理論」の獲得が遅れる云々)が全く的外れなままに終わっている(としか思えない)点にも見られるのではなかろうか。

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◆きのうの暮らし
つれづれなるままに読書の日。藤原帰一『デモクラシーの帝国』、ユルゲン・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』、丸山高司『ガダマー』、と。
『ガダマー』ではガダマー先生の年譜が1968年(=大学退職)で終わっている。あんまり長生きするのも考えものだ。

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2006年5月24日 (水)

◆今日の読了
・西阪仰『心と行為―エスノメソドロジーの視点』(岩波書店、2001)

雑に一読しただけなので読後感もひどく雑駁になってしまうが、遠景と近景だけで構成された絵画を見せられたような感じ、と言ったらいいか。特にウィトゲンシュタインやライルを引き合いに出しつつ(認知心理学あるいは認知主義の「概念的混乱」を標的として)展開される哲学的論議と、具体的な会話分析の手続きとが、あまりうまく噛み合わないまま放り出されているような印象。本来はこれら二つの水準を繋ぎ合わせる上でキーとなるべき(ではないかと思われる)諸概念――例えば「規範的秩序」――を丹念に練り上げて肉付けしてゆくという作業、言ってみれば中景部分を綿密に描き出してゆくという作業こそが、「社会学的」な考察というものの課題なのではなかろうかと素人考えで思っていただけに、その意味ではちょっと期待外れに終わったような…。というわけで、知覚や想起といった認知活動に伴う「協同的」側面(あるいは「社会的」側面と言ってもよいが)をめぐる考察が重要だという指摘は十分に肯綮にあたるとして、そうした考察がことさらに社会学的な形――「心理学の社会学」――を取るということの意味が今一つよく分からないままなのだった。

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2006年5月 3日 (水)

◆きょうの読書
・竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく―戦略的理性の批判』(ちくま新書、2004)

なんだこりゃ。
この本はたぶん、ゲーム理論の進展にまつわる事件史・人物史として書かれるべきだったんじゃないでしょうか。

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2006年5月 2日 (火)

◆小島寛之『確率的発想法』
いちおう読了。とはいうものの、通読しても内容の理解が十分ではないせいなのか、どこか中途半端な読後感。
やはり一番の山場はロールズのマックスミン原理と「ナイト流不確実性理論」との絡みについて述べられた第7章なのだろうが、pp. 181-182にあるようにコモン・ノレッジ(共有知識)と基本財とをこういう風に単純に重ね合わせる(基本財=コモン・ノレッジを成立させるようなもの)というのはどうなんだろうか。ロールズ的な原初状態での選好と「コモン・ノレッジによる不確実性回避」との間には、たしかに何か「スパーク」(p. 236)するようなものがあるんだろうなあとは思うものの、その二つの間に「なんか似てるよね」という以上にどういう本質的な繋がりがあるかという点になるとかなり心もとない感じも残ってしまう。(この点ではむしろ、「過去の最適化」「過誤に対する支払い」という観点から公正原理を捉え直した終章でのアプローチの方が、よっぽど地に足がついているように見える。)
それはともかく、コモン・ノレッジの問題についてはやっぱりきちんと勉強しておかなきゃいけないんだろうなあ、と改めて痛感する。しかし、この辺の話題に関するルイスの業績というのは、今ではむしろ経済学の世界で受け継がれているとなると、いったい何から手をつけたら良いものか…。

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2006年4月27日 (木)

◆「ポッカのデザインには、なんだかわからないがおじさんの顔が描いてある」
・小島寛之『使える!確率的思考』

読了。すごいなあBOSS。
「使える!」かどうかはよく分からないが、確率シロウトにとっては面白かった。もっと読ませろ、と思わせるような匙加減が上手いと思う。
しかし確率のフィードバック現象の事例としてガン告知の話題を取り上げている(p. 166)のは、やや誤解を招きやすいような気が。

(「無記憶性」というのは英語では"memoryless property"と言うのか。)

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2006年4月14日 (金)

◆読み物
・石川幹人『心と認知の情報学―ロボットをつくる・人間を知る』(勁草書房、2006)
ほぼ読了。ただしはげしく斜め読み。
量子コンピュータとか遺伝的アルゴリズムとかモジュールとか生物屋は計算量に無頓着とか、その他いろいろ。考えてみたら(というか考えてみなくても)知らないことばっかりであるよ。はぁ…。
(でも知りたいか、ということになると、「…」。どっちにしろ、はぁ…。)

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2006年3月28日 (火)

◆Bacon
・長谷部恭男「法をおしえて」(『UP』第35巻第3号(2006))
カントロヴィッチ『祖国のために死ぬこと』の書評なのに――サー・エドワード・クックつながりということで――なぜかベーコンへの悪口満載。

ベーコンが稀にみるヤな野郎であった点については、彼の崇拝者も含めて、識者の見解はおおむね一致している。アレグザンダー・ポープによれば、彼は「人類の中でもっとも賢明、聡明で、もっともさもしい」存在であり、ハロルド・ブルームによれば、「才気煥発、独創的であると同じ程度に不愉快で、およそ人を愛する能力の欠けた」人間であった。

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・Quentin Skinner, "The Advancement of Francis Bacon" (The New York Review of Books)

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2006年3月22日 (水)

◆なんとなく
ショヴォーの『年をとったワニの話』が読みたくなったので、帰り道に本屋の児童書コーナーに寄って立ち読み。同じ棚にはなぜかブルーノ・ラトゥールの本も並んでいるのに気付く。

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2006年3月18日 (土)

◆le monde sans autrui
・Gilles Deleuze, "Michel Tournier et le monde sans autrui," dans Logique du sens, (Minuit, 1969)

なんとなく思い出して景気付けに。
知覚を可能にするアプリオリな構造としての他者、とか。なんだけど、「知覚の構造」の話がすぐさま「欲望の構造」の話に重ね合わされてしまう(というか、『フライデー』論ということではそっちの方が本筋らしい)ので、なんか分かったような分からないような。(要するに分かってないんだけど。)というわけで、いまひとつ景気付けとまではいかず。
ついでにこれもチラッと見てみたり。

・マーティン・B・グリーン『ロビンソン・クルーソー物語』(みすず書房、1993)

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2006年3月10日 (金)

◆今日の立ち読み
エレノア・J・ギブソン『アフォーダンスの発見―ジェームズ・ギブソンとともに』(岩波書店、2006)

後半。
Marjorie Greneとは仲が良かったらしいが、残念ながら具体的なエピソードが述べられているわけではない。E. Spelke(エレノアさんのお弟子さんなのだとか)に対しては、巻末のインタヴューではずいぶん厳しいコメントあり。(お弟子さんということではBowerもそうなのか。)

関係無いけど、本屋でアドルノのヘーゲル論が新しく文庫本で出ているのを見かけた。昔の単行本はもうずうっと前にいっぺん読んで面白いなあと思ったものだが、いつの間にやら手放してしまった。しかし文庫版の新しい後書きを見ると、あれは誤訳だらけだったとも書いてある。

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2006年3月 4日 (土)

◆坪内祐三『『別れる理由』が気になって』
けっきょく話の続きが気になって、数日前に最後まで読み終えてしまったのだった。
古くさい話ではないと精彩に欠けるということでもないだろうが、前半に比べると後半は、作品の進行の弛緩ぶりにすっかり同化してしまったかのようで、あまり面白くはない。この本の前半では、『別れる理由』の初め三分の一ほどの部分(『抱擁家族』の後日談あるいは陰画的な部分)を対象に、その複雑な時制転換を読み解きながらその作者の薄気味悪さを浮び上がらせるのに成功しているが、そうした取っ掛かりを作品が切り捨てて暴走してゆくにつれてだんだんと失速し始めることになる。中ほど三分の一の部分(神話的?部分)に関しては、その背景にある知的意匠というか批評的ターム――道化とかポリフォニーとか――を追いかけるので精一杯という感じだし、最後の三分の一の部分(メタフィクション的?部分)に関しては単なるあらすじ紹介(?)で終わってしまう。(この最後の部分での鍵は「藤枝静男」でも「柄谷行人と呼ばれる若い人」でもなくて「大庭みな子」なんじゃないだろうか)。というわけで、この本の後半はまるで、作品の時間の停滞の中での暴走っぷりにすっかりブッチぎられたような印象なのだった。というか、停滞や弛緩にもかかわらず一貫して――というのは、60年代末から80年代初めにわたって、ということだが――躍動するような文章(実際、この本の中で引用される文章はどれもおもしろい)で記されたこの作品の強靭さの方が異常と言うべきなのか。そもそも、1960年代から70年代への曲がり角を舞台に――また初めの方ではその時間と併走しながら――ある意味これだけノッペリした作品世界が作り上げられているということ自体が驚くべきことだ。

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2006年3月 3日 (金)

◆realia
・千野栄一『外国語上達法』(岩波新書、1986)

「レアリア」という語を辞書でみると、チェコ語ではrealieとあり、この章の冒頭にかかげた「ある時期の生活や文芸作品などに特徴的な細かい事実や具体的なデータ」という定義がついている。そのあと、「現実的な知識や情報」とあって、次に例として、「ギリシャやローマのレアリア、近代的なレアリアの知識」という用例があがっている(…)。この定義の最初の部分に関していえば、ポーランドで出た『文芸術語辞典』でもポーランド語のrealiaの意味は同じで、そもそも生活なり作品の中の細かい具体的な事実のことを指し示している。
英語でレアリアをlife and thoughtと訳すのはそのためである。英語のrealiaという語は「実物教材(日常生活を説明するために用いられる貨幣や道具など)」(『リーダーズ英和辞典』)という風に限られた用い方がされ、この点ではドイツ語でも同じで、Realienは「1、事実、実体。2、専門知識。…」(『独和大辞典』)という風に訳されている。
これで見ると分かるようにチェコ語やポーランド語での意味が、英語やドイツ語ではいささか狭められ、具体化しているように見える。そして注意すべきはチェコ語の例であがっている「ギリシャのレアリア、ローマのレアリア」という組合せで、本来ギリシャやラテンの古典語を読むのに、このレアリアの知識が必要であったことを示している。(pp. 183-184)

(material inference-ruleの総体みたいなもんか。)

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2006年3月 2日 (木)

◆今日の立ち読み
エレノア・J・ギブソン『アフォーダンスの発見―ジェームズ・ギブソンとともに』(岩波書店、2006)

前半。
エレノアさんはハルの下で学位を取ったとのこと。

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2006年2月25日 (土)

◆外出
したはいいが意外に寒いということで、本屋で立ち読みでもするか、という話になる。

・巽孝之『『白鯨』アメリカン・スタディーズ』(みすず書房、2005)
話の落し所が「核時代の想像力」て…。

・坪内祐三『『別れる理由』が気になって』(講談社、2005)
時間切れで四分の一くらいしか読めず。それにしても小島信夫と大江健三郎の対談は恐ろしい。

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2006年2月24日 (金)

◆W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』

ヴェラはその日の早朝から眼の奥に鈍痛がするとこぼし、陽の当たる側の窓のカーテンを下ろしてほしいと私に頼みました。そうして薄闇のなか、紅いビロードの肘掛け椅子に躯を埋め、重い瞼を落としながら、ヴェラはテレジンで眼にしたものを話す私の話に耳を傾けたのです。栗鼠はチェコ語で何というのかとたずねると、しばらく口をつぐみ、美しい顔いっぱいにゆるやかに笑みを広げながら、それはヴェヴェルカよ、と答えるのでした。そしてこう話すのです、とアウステルリッツは語った。秋にはシェーンボン庭園の山側の囲いのところから、栗鼠が宝物を埋めている様子をふたりでいっしょに眺めたものだった、と。そのあとうちへ帰ると、きまって、あなたのお気に入りの本を読まされたものだったわ、四季の移ろいを描いたその本なら、あなたは頭から最後まで一行のこらず頭に入っていたのにね。ヴェラはそう言って、私がとりわけ、新雪に覆われた冬景色に驚きの目を瞠って立ちつくしている兎やのろ鹿や山鶉の描かれた冬の絵を飽きず見やっていた、と続けました。そして私は、雪が木の枝からさらさらと舞い落ちて、やがて森の地面はすっかり雪におおわれてしまいます、というくだりにくると、きまってヴェラの方を仰ぎ見て、こう訊ねたというのです。でも、どこもかも雪におおわれてしまったら、栗鼠たちは食べ物の隠し場所がどうやってわかるの(アレ・グディシュ・フシエフノ・ザクリイエ・スニーフ、ヤク・ヴェヴェルキ・ナイドウ・ト・ミースト、グデ・スイ・スホヴァリ・ザーソビ)、と。私が飽きずくり返した、いつ読んでも私の心を不安にした問いは、一字一句このとおりだった、とヴェラは語りました。そうに違いありません、栗鼠にはどうやってわかるのか、私たちには何がわかるのか、私たちはどうやって思い出すのか、そして何が、ついに見つけられぬまま終わってしまうのか。
・ヨーロッパの版図と動物たち(「一時間に引き延ばされたテープ」における「音の変貌」)

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2006年2月 8日 (水)

◆Cavell
・高田康成「思考のドラマトゥルギー:スタンリー・カベル『センス・オブ・ウォールデン』書評」(『未来』2006年2月号)

『コリオレイナス』論からの引用、の孫引き――

私の直感によれば、デカルトの『省察』によって表明されたとする懐疑主義の誕生は既にシェイクスピアにおいて成熟したかたちで存在していたのだ(…)。私がシェイクスピアの懐疑主義的問題群と考えるところは、デカルトによって哲学的洗練を受けて、神の存在そして魂の不滅といった問題を問うデカルト独特の方法に表現されるところとなる。(…)ここで提起されている問題は、それ以前の懐疑主義に見られるように、不確かな世界にあって如何に最善の生き方をすることができるかというものでは最早ない。むしろここで示唆されている問題は、如何にこの根拠のない世界にあって生きるかということなのである。我々の懐疑主義は、いまや限界が設けられなくなってしまった我々の欲望と相関関係にあるのだ。デカルトの思想においては、その根拠は恐らく依然として神の確認と承認において見出された。しかし、我々の日常的判断と世界との間に(自然科学ではどうあろうと)おおよその整合性が成り立つことを保証するのに、神の確認と承認が必要であることをデカルトが明かしてしまった以上、まさにその事実によって、もし神における確認と承認が揺らぐならば日常生活の根拠も同様に揺らいでしまう、ということが示唆されてしまったのだ。
もしシェイクスピアの劇作品が懐疑主義的問題群――外的世界の存在について、そしてその中にある私自身とその他の人々について、確実に知ることが出来るかどうかという疑問――を繰り返し扱っているとするならば、シェイクスピアの劇作品は懐疑主義に関して確固たる解決を決して提出しないであろうし、特に神に関する我々の認識については何ら結論を与えることがない、ということが帰結せざるを得ない。
(Stanley Cavell, Disowning Knowledge: In Six Plays of Shakespeare, Cambridge U. P., 1987, p. 3)

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2006年2月 6日 (月)

◆ラッセルラッセル
・三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』
読了。色々と教えられる所もあったが、なんだかそれ以上にフラストレーションが溜まった気がする。新書本は難しい。

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2006年1月31日 (火)

◆河原晋也遺稿
・河原晋也『幽霊船長』(文藝春秋、1987)

鮎川信夫邸のゴミ屋敷っぷりも只事ではない。
戦争経験者恐るべし。

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2006年1月19日 (木)

◆本日の読了
・杉山尚子『行動分析学入門』

ダメだこりゃ。

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2006年1月16日 (月)

◆どうか、皆さん、ぼくを見て下さい。こうして一人前になろうと心がけているのです
・小島信夫「残光」(『新潮』2006年2月号)

さしずめ、『私の作家遍歴』「小島信夫」篇という趣き。たしか、『菅野満子の手紙』、『寓話』、『静穏な日々』といった辺りは――単行本が出てすぐに読んだという意味では――同時代的に通過してきているので、これらの作品からこうしたものが作り上げられてしまうというのは、何だか目が眩むような感じがする。こういった過去の作品の中から取り出されてくるエピソード(「奥さまは、まだ庭においでになる?」とか「ざまあ見ろ!」とか)が、自分の頭の中にしっかり刻み付けられているというのにも――これは一体なんなんだ、という意味で――呆れる。これだけ圧倒的にズタボロな文章で、これだけ圧倒的に面白いというのはどうしたことか。

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2006年1月12日 (木)

◆買い物&ウンコ
・J・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』(岩波現代文庫、2000)
・小林信彦『丘の一族―小林信彦自選作品集』(講談社文芸文庫、2005)
・『新潮』2006年2月号
・A. J. Ayer, Hume, (Oxford University Press, 1980)

ついでにフランクファートのウンコ本を立ち読みして帰る。
「反実在論(懐疑主義)はウンコ!」という締め括りは、それ自体がウンコならぬ最後っ屁という感じだろうか。なんだかよく分かりません。やっぱりフランクファートのデカルト研究のモチーフもこんな所にあったんだろうか。

書評(The New York Times)
(G. A. Cohenも論文を書いてるとは。ウンコ恐るべし。)

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2006年1月10日 (火)

◆なんともかんとも
・ウンベルト・エーコ『カントとカモノハシ』
とりあえず上巻。第1章「エッセレessereについて」と第2章「カント、パース、カモノハシ」まで。
恐ろしくつまらない話が、恐ろしく不親切な訳文で延々と続いて鬱。

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2006年1月 9日 (月)

◆Lyotard
・ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダン通信―こどもたちへの10の手紙』(朝日出版社、1986)

読了。リオタールに対してはあまり良い印象を持ったことがないのだが、これを読んでもその印象は変わらず。ふと覗いてみる気になったのは、リオタールがカントをどう読んでいるのかが気になったためだが、この点では特に新たな発見は無し。「崇高の美学」としてのモダニズム芸術とか、「表象されえないものの表象」とか。(それにしても訳文が酷い。リオタールの「カント節」は全滅だし。)こうした面での粗略さというのは、例えばクリプキの取り扱いの無造作さにも通じるものか。(「手紙」形式ということで致し方の無い部分はあるにせよ。)

アルブレヒト・ヴェルマーの指摘にしたがえば、ハーバーマスはこう考えている。文化のこの細分化と、生からの文化の分離にたいする解決策は、〈美的経験がもはや趣味の判定においてもっともよくしめされるのではなく〉〈それが生の歴史的状況を探求するために使われる〉つまり〈それが存在の諸問題と関係づけられる〉ときにおこる、〈美的経験のステイタスの変化〉からもたらされる以外にはない。というのはこの経験は〈そのときにいたって、もはや審美的批評のものではない、言語ゲームのなかへと入ってゆく〉のであり、それは〈認識過程および規範的予想〉に介入し、これは〈これらのことなった諸モーメントがおたがいにおたがいを「参照させあう」、そのやりかたを変える〉からだ。諸芸術とそれらがもたらす経験にたいしてハーバーマスが要求するもの、それはようするに、「認識の言説」「倫理の言説」「政治の言説」を分離する深淵に一個の橋をかけることであり、そうすることで経験の統合性への道をひらくことだ。 ぼくの問いは、いったいどのような統合性をハーバーマスは夢見ているのか、を知りたいということだ。近代の計画がめざした目標とは、その内部にあっては日常生活および思考のすべての要素がちょうどひとつの有機的全体のなかでのように居場所をみいだすことになるような、ある社会文化的統一体の構成なのだろうか? あるいは、認識の、倫理の、政治の、といったそれぞれに異質な言語ゲームをつらぬいてきりひらいてゆかねばならない通路は、それらの言語ゲームとは別の次元にあるのだろうか? もしそうなら、それらの効果的な綜合を実現することとは、どのようにすれば可能になるというのだろうか? (pp. 13-14)
誰にも劣らず、軍事的コノテーションをもつアヴァンギャルドという用語を、ぼくは好まない。それでもぼくはアヴァンギャルドの真のプロセスが、モダニティに内包されていた諸前提の探求へとむけられた、一種の長く、執拗な、きわめて責任重大な仕事であったのだということを、見てとっている。たとえばマネからデュシャンあるいはバーネット・ニューマンといったモダンの画家たちの作品をよく理解するためには、かれらの仕事を精神分析治療でいう意味での「想起(アナムネーシス)」と比べなければならないだろうと、ぼくは言いたいのだ。見かけ上なんのつながりもないような諸要素を過去の状況と自由に連合させることで患者が現在のトラブルをよく考えようとつとめ、それが彼に彼の人生、彼の行動のかくされた意味をみいだすことを許すように――それとおなじようにセザンヌ、ピカソ、ドローネー、カンディンスキー、クレー、モンドリアン、マレーヴィチ、そしてついにはデュシャンの仕事を、モダニティがみずからの意味=方向にたいしておこなった〈徹底操作(ペルラボラシオン)〉(durcharbeiten)だとみなすことができる。 もしこういった責任を放棄するなら、われわれはいかなるずらし(デプラスマン)もないままに、西欧の、〈近代神経症〉・精神分裂病・パラノイアなどの、二世紀のあいだわれわれが知ってきた数々の不幸の源泉を、反復するはめになってしまうことは確実だ。 このように理解されたとき、〈ポストモダン〉の〈ポスト〉は、「カム・バック」や「フラッシュ・バック」や「フィード・バック」といった反復の動きを意味するのではなく、〈アナ〉のつくプロセス、すなわちアナリーズ[分析]、アナムネーズ[想起]、アナゴジー[聖書の神秘的解釈]、アナモルフォーズ[歪像]といった、〈はじまりにおかれた忘却〉をよく考えつめてゆくプロセスを意味するものなのだと、わかってもらえたと思う。(pp. 129-30)
これらの傷のすべてには、名前をつけることができる。それらの名は、われわれの無意識というフィールドに、〈近代の計画〉のしずかな永続化にたいするひそかな妨げとして、点在している。この〈近代の計画〉をまもるという口実のもとに、ぼくの同世代の男や女たちが、ドイツにおいてこの四十年間、自分のこどもたちにたいして〈ナチスという幕間狂言〉についての沈黙を強制してきた。想起(アナムネーシス)と対立させられたこの禁止は、全「西欧」にとってシンボルとしての価値をもつ。いったい想起なくして進歩はありうるだろうか? この想起は、苦痛にみちた洗練化(エラボラシオン)をつうじて、これらの名とむすびついている愛情やあらゆる種類の情動、愛と恐れにたいする喪の感情を、洗練することへとみちびく。アメリカ連邦政府が、ワシントンDCのモールのユートピア的な芝生に、〈ヴェトナムの戦死者たちの碑〉という名をもつ、蝋燭をともされた暗い塹壕をうがったことに、ぼくはおどろかされた。さしあたって、われわれはそうしたことにたいして〈世紀末〉風の、一見しただけでは説明のつかないあいまいなメランコリーをいだいているだけだ。(pp. 134-5)
一世紀以上まえからさまざまな芸術的アヴァンギャルドによってなしとげられてきた仕事が、これと平行した複雑化プロセスのなかに書きこまれているということは、事後的に、あきらかになった。この複雑化は、ノウハウや知にたいしてではなく、感受性(視覚的、聴覚的、運動的、言語的)にかかわっているものだ。しかしこれらアヴァンギャルドの仕事がもつ哲学的射程、あるいはそういったほうがよければ考察の能力は、知識と実践においてのテクノサイエンスの哲学的射程にくらべて、受容感度(レセプティヴィテ)と〈趣味〉という次元についていえば劣ったものではない。 このようにしてきみの世紀の地平としてあらわれてくるものは、〈ライフ・スタイル〉つまり日常生活をふくめたほとんどの領域における、複雑さの増大だ。そのことから、ひとつの決定的なつとめの境界があきらかになる。人類が要求するものをこえてきわめて複雑なものとなってしまった、感じ・理解し・行なうための手段に、人類が適応できるようにすること。このつとめは、単純主義、単純主義的スローガン、明解さと容易さの要求、確実な諸価値を再建しようとする欲望、にたいする抵抗を、最低限ふくんでいる。単純化は野蛮であり、反動的だということは、すでにあきらかだ。(pp. 136-7)
解放の約束は、「啓蒙」からでてきたカテゴリーである大知識人たち、理想と共和制の守護者、によって呼び起こされ、擁護され、説明されていた。今日このつとめを、あらゆる全体主義にたいするミニマルな抵抗というかたち以外によって永続化しようとした人々、そして思想相互や権力相互の葛藤における正しい原因を不注意にも指摘してしまった人々、チョムスキーや、ネグリや、サルトルや、フーコーのような人々は、まったくドラマティックなまでのあやまちを犯してしまったのだ。理想の記号は混乱してしまった。…ぼくが語っている苦しみを、アドルノは彼の後継者たちの大部分よりも、よく理解していた。彼はその苦しみを、形而上学の失墜と、おそらくは政治という概念の失墜に結びつけている。彼はこの、おそらく許しがたいものであるこの苦しみをしずめるためにではなく、それに証言させるために、あえていうならその名誉を救うために、芸術のほうへとむかったのだ。(pp. 153-4)

(野蛮な思想史的パースペクティブに根差した“ミクロロジー”は空しいと思う。)

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2006年1月 7日 (土)

◆時差ボケ
ならぬ体感差ボケという感じで甚だヤル気出ず。(何処も彼処も微妙に寒い。)大室幹雄『志賀重昴『日本風景論』精読』と中島義道『カントの時間論』を順繰りに読みながらダラダラ過ごす。

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2006年1月 2日 (月)

◆読み始め
・岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』
変わった人である。生き生きした精神の動きは感じられるが(とはいっても、ここで言いたいのは「謎解き」に発揮される明敏さのことではない)、自分が探し求めていたようなものはここにはないような。(それにしても、クレーリーの本は恐ろしくつまらなそうだ。)
(ベレンソンとメルロ=ポンティ)

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2005年12月29日 (木)

◆買って読み
・冨田恭彦『対話・心の哲学―京都より愛をこめて』(講談社現代新書、2005)
同じ著者の『観念論ってなに?』を読み返そうと家の中を捜索するも、ついに見つからず。しょうがないのでこっちを買うことに。で、サクッと読了。内容は、(予想に違わず)「対話」でもなければ「心の哲学」でもないのだが(――最後の章は単なる政治的メッセージだし)、(予想には反して)けっこう面白かったりもするのだった。
大筋のストーリーは、デカルト、ロックからバークリ、ヒューム、カントへと連なる「観念」論の歴史を、クワイン=デイヴィドソン=ローティ路線に照らして読み直す、といったような感じ。デカルトやロックにおいて「観念」という観念は、事物の本性についての自然(科)学的仮説に即する形で――つまり自然主義的見地から――導入されたが(新たな「物」概念が導入されることにより、知覚的に捉えられるがままの旧来の「物」はむしろ観念の領域へと押し込められる)、こうした「観念」の観念が一般的に受け入れられ普及するにつれて、その自然主義的背景が忘れ去られ、バークリ、ヒューム、カントにおいて観念が正に、主体と物それ自体とを隔てるような“ヴェール”として捉え返されてゆくことになる。
「観念」をめぐるこうした考古学的‐発生論的ストーリーはそれとして面白いが、しかしこれは考古学的‐発生論的である限りで、「観念」をめぐる認識論的諸問題にとってはどれほどの関わりを持つのだろうか? 問題は恐らく、観念というものを、デイヴィドソン的な「物との直接的接触」というアイディアとどう折り合いをつけていくか、といったような点にあるのだろうが(cf. p. 236)、そうした展開への期待をよそに、「生島シリーズ三部作」はこれをもって「完結」してしまうのだった。

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2005年12月28日 (水)

◆読み物系
・谷川渥『美学の逆説』
「美学は逆説だあ~っ!」ということらしいが、基本的に「お勉強系」の本なので(勉強嫌いの人間にとっては)基本的に退屈だったり。色々とタメにはなるものの、読み続けていると心がカッサカサになってきそうな感じも。

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2005年12月27日 (火)

◆本日の読み物
・柄谷行人『トランスクリティーク―カントとマルクス』(批評空間、2001)
読み始め。思わず「ほんまかいな」とツッコミたくなるような論点が至る所にちりばめられている。資本への対抗運動はやっぱりハイ・カルチャーに依拠しなければならないのだろうか、等々。

目次
イントロダクション―トランスクリティークとは何か
【第一部】カント
第1章 カント的転回
第2章 綜合的判断の問題
第3章 Transcritique
【第二部】マルクス
第1章 移動と批評
第2章 綜合の危機  (←今ここ)
第3章 価値形態と剰余価値
第4章 トランスクリティカルな対抗運動

ドイツのロマン派はカントの後に来るものとして考えられている。しかし、現実には同時代的なのであって、カントはヘルダーやフィヒテをつとに痛烈に批判している。彼がいう「世界市民的社会」は、すでに後者の民族を射程においていた。カントは『純粋理性批判』において前代の形而上学を批判しているように見えるが、むしろそれは同時代に、「民族」というかたちで蘇生した理性の形而上学的欲動を批判しているのである。彼は、感性と悟性が構想力によって綜合されると考えたが、逆にいえば、それは総合が想像的でしかないということを意味する。ルカーチがカントが二元的亀裂を超えられなかったというのとは逆に、カントはすでに成立していたそのような想像的な綜合に亀裂をもちこんだのである。それがカントの超越論的批判である。(p. 148)

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2005年12月26日 (月)

◆読了(その3)
・『グリーンバーグ批評選集』
文化史一般の中でのモダニズム芸術の位置付けを試みた第1部、モダニズム絵画、特に「アメリカ型」「抽象表現主義以後」の情勢を辿った第2部に比べて、やはり圧倒的に面白かったのが作家論・作品論に割かれた第3部。
第1部は異常に平板で素っ気無さ過ぎるし、第2部は図版も無い状態では何とも判断の仕様がない。これに比べると、「良い趣味」に立った見巧者ぶりを遺憾なく発揮した第3部がやっぱり一番面白いというのも当然のことではある。
(こうした分裂が生じてしまうのは、グリーンバーグの批評には〈見ること〉への「自己‐批判」――グリーンバーグによれば正に「モダニズム」という運動を端的に特徴付けるべきもの――が欠落しているためではないのだろうか? 彼の最良の批評は、自らの「眼」に対する圧倒的な信頼感に支えられているのではなかろうか?)

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◆読了(その2)
・本江邦夫『中・高校生のための現代美術入門』
これはこれで悪い本ではないとは思うが、「中・高校生のための」という"pretexte"のもとに、作品を(言わば)見なれたものへの既視感へと――またデュシャンやウォーホルをその「美しさ」へと――回収していくのはいかがなものなのか。

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◆読了(その1)
・鷲田清一『メルロ=ポンティ』
なんだかもっと「安定」したスタンスから書かれた本かと予想していたのだが、(特に後期の)メルロ=ポンティとの距離感をけっこう掴みかねているような不安(定)感が漂っていて中々面白い。中期のメルロ=ポンティについて「スティル」(スタイル)という観点から一章を充てているのも興味深い。が、これを読んでみてもやはり、後期のメルロ=ポンティは結局のところ『眼と精神』で示された水準を越え出ることができなかったのではないか、という懸念が高まるわけなのだった。
というか、身体を「世界経験の媒体(メディウム)」(p. 98)として捉えるという初期以来の視点と、「ミリュー」=「培養地」に着目した後期のスタンスとの間にあって、彼の芸術論というのは果たしてどのような位置を占めるものなのか?

…ここでは、身体を構成する諸契機の「含みあい」が何重にも考えられている。視覚的契機と触覚的契機との、あるいは別の感覚契機との、「相互感覚的統一」がそうであるし、また感受性と運動性との絡みあいがそうである。こうした諸契機の交叉関係が、われわれの所作のスティル、運動のスティルといわれるものである。それは音楽における転調に、絵画におけるデフォルマシオンの過程に、相似的だともいえる。「してみると、身体が比較されうるのは、物理的対象にたいしてではなく、むしろ芸術作品にたいしてだ」というのが、メルロ=ポンティの身体論の独創性をあらわす視点である。(p. 122)
芸術と身体、さらには芸術の制作と世界の生成とのアナロジカルな関係、それが晩年にいたるまでとぎれなく彫琢され、くりかえし反芻される。絵の具の集塊がなぜ絵画として現出するのか、そして物質の集塊(肉の塊まり?)がなぜ「自己の身体」として現象するのか、この二つはおなじ一つの秘密からくる、そうメルロ=ポンティは考える。質料的なものの配置の変換(「実存の転調」)という考え方である。これについては次章のスティル論において、「一貫した変形」という概念で一挙にメルロ=ポンティの思考の全面に出てくるのをみることになるだろう。(pp. 122-123)
…この過程は、もうすこし別の言葉でいいかえると、前期において、主体と世界との関係の媒体、つまり知覚や行動や表現のメディウムとして主題化された〈身体〉のその媒介性が、しだいに〈ミリュー〉――主観と客観とがそこに浸されてあるところの母液、あるいは経験がそこにおいて生成するところの境域とでもいうべき「培養地」――にとって代わられてゆく過程としてもとらえることができる。「わたしの身体は世界とおなじ肉でできている」(VI 364)とか、「言語がわれわれを所有しているのであって、われわれが言語を所有しているのではない、存在がわれわれのうちで語るのであって、われわれが存在について語るのではない」(VI 276)と、語りだされるときがそうだ。(p. 266)
それにしても(失笑されるのを覚悟の上で言えば)、こうした本を読むと、自分が(特に『行動の構造』と『知覚の現象学』での)メルロ=ポンティの仕事からどれほど大きな影響を受けているかを再確認させられるのだった。

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2005年12月22日 (木)

◆Greenberg
・『グリーンバーグ批評選集』
第1部「文化」を読む。なんとも平板な歴史的展望としか思えない。とりわけ、ここに収められた三篇(「アヴァンギャルドとキッチュ」、「さらに新たなラオコオンに向かって」、「モダニズムの起源」)の書かれた時期が、1939年から1983年までと、かなり長い期間にわたっていることを考えると、その思いをいっそう強くする。

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◆Merleau-Ponty
・『メルロ=ポンティ・コレクション4:間接的言語と沈黙の声』
ほぼ読了。(というのは、「アインシュタインと理性の危機」はとばしたので。)それにしても、考えてみたらメルロ=ポンティとか読むのは随分久しぶりだ。(「セザンヌの疑惑」や「間接的言語と沈黙の声」あたりは、訳文でちょっと気になる箇所があるけどどうなのか。)
それはともかく、やはり白眉は「眼と精神」か。にしても、メルロ=ポンティがこれほど「…」の多い文章を書いたことがかつてあったんだろうか。(よく知らないけど。)問題の提示の鮮やかさ、眼の付け所の確かさには驚嘆しつつも、やはり――美術史に踏み込むことへの躊躇にも見られるように――仕上げの粗さや踏み込みの甘さ(例えばパノフスキーの読みの浅薄さ)には多くの不満を感じる。その意味で、この論文を手放しで賞賛するような論調(そうした部分は、例えば『絵画の準備を!』にも散見される)には、かなり疑問を感じる。しかしともかく、これを乗り越えるような仕事ができれば(あるいは、せめて、メルロ=ポンティの残した「…」部分を丹念に埋めていくような仕事ができれば)、と思わせるような研究であることには変わりはない。
それにしても、メルロ=ポンティを読んでいて終始感じる(というか、感じざるを得ない)のは、彼の哲学の「スタイル」ということだが、この点では「間接的言語と沈黙の声」で画家の「スタイル」について語られているのが興味深い。メルロ=ポンティの教えに従って「世界を新たに見ることを学び直す」ためには、おそらく、彼とは大きく異なる“スタイル”によって世界を読み解く必要があるはずだから。

ところで、これから探究されなければならないこうした哲学こそ、画家に生気を与えているものなのだ。もっとも、画家が世界についての意見を述べているときではなく、彼の視覚が行為となる瞬間、つまり、やがてセザンヌが言うであろうように、画家が「絵のなかで考える」ときにである。(「眼と精神」p. 203)

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2005年12月20日 (火)

◆読み物
・大岡信『抽象絵画への招待』
読了。抽象絵画も律儀に読んでみました――という感じだが、正直退屈。むしろこうした「読み」をはねつけるようなものの方に興味を引かれてしまう。(ポロックとダーシー・トンプソン――というかトムソンか――、など)

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2005年12月19日 (月)

◆本日の読書
・松浦寿夫、岡崎乾二郎『絵画の準備を!』
読了。とはいうものの消化しきれない。セザンヌについての話は面白かったが、こんなのは美術史的には常識に属することなのか?

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2005年12月18日 (日)

◆寒い一日
なので外出しない。

・佐々木健一『美学への招待』
読了。期待していたより面白かった。しかし最終章はさすがに何とも。
とりあえずヘルダーの「彫塑」を読んでおくこと。

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2005年12月17日 (土)

◆読書日記
・橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』
読了。ひたすら退屈。しかし、こうした退屈さに付き合うことがリアリティを持ち得た時代があったということは記しておくべきだろう。なんちて。

・船木亨『〈見ること〉の哲学―鏡像と奥行』
読み始め。なかなかはかどらない。

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2005年12月16日 (金)

◆本日の読了(2)
・E・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』
とりあえず一読。たいへん面白い。が、本文と注(やたらに多い&細かい)、図版の間を行ったり来たりで、肝心の理解が行き届かず、残念。どうもやっぱり良く分からないのが、空間的表象あるいは空間的認識それ自体と、そうした表象・認識の表現(表象の表象)としての絵画表現との関係、ということ。「象徴形式」という概念を持ち込むことで、そこの部分の区別が曖昧にされしまっているようにも見えるんだけど、この辺の問題に関してはやっぱりカッシーラーを読まなきゃダメなのか?
とりあえずパノフスキーはもう少し読んでみるか。

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◆本日の読了(1)
・神崎繁『プラトンと反遠近法』
博引傍証に恐れをなしつつ、読み終わってみればなかなか楽しい読書。ライプニッツとニーチェを重ね合わせて読もうとするハイデガーを敷衍しつつ、さらにそこにミリカン(!)を重ね合わせるといった具体に、哲学史的パースペクティヴの意図的な攪乱あるいは脱臼には、なかなか手が込んでいる。が、肝心の遠近法それ自体に関する取り扱いが何だか終始ユルユルなせいで、山口昌男的連想ゲームに堕してる部分も多いような。それはともかく、取り上げられる話題のカレイドスコープ的な賑やかさにもかかわらず、視覚的表象のことで自分の気になっていたような問題に関しては、あんまり引っかかってくる所が無いのが残念。

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2005年12月15日 (木)

◆本日の読書
・大塚英志『「おたく」の精神史―1980年代論』
読みかけのままほっぽりだしてあったのを思い出して読了。なんとも陰鬱な80年代精神史。本の厚さも何だか悪意の塊のように見えてくる。考えてみれば、これだけの長さを割いて書かれている内容はと言えば、大塚英志本人の「身の丈」=「自分語り」に見合った、なんとも貧困なものなんだよ。(それ自体が悪いとは思わないが。)

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2005年12月14日 (水)

◆本日の読了
・中島義道『カントの自我論』
なんとか読み終える。カントの自我論を――単なる純粋統覚の理論としてではなく、そこから はみ出すふくらみを備えた――身体論として、また時間論として読むという目論見は興味深い。(またこうした観点から、A版よりもB版の方が高く評価されている。)が、どこまでがカントの注釈で、どこからが著者独自の解釈であるのか、あるいはどこでどういった論証がなされているのか、という点では非常に分かりにくい。そもそも何らかの論証を意図しているのかも良く分からない。というわけで、読後はなんだか謎ばかりが残ってしまったような感じも。

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2005年12月12日 (月)

◆昨日の読書
・石川文康『カント入門』
読了。『宗教論』=第四批判まで続く仮象批判の体系がコンパクトに整理されているのだが、こうした体系化によって零れ落ちてしまうものに目が向いてしまう人間にとっては、あんまり得るものがなかったような。(と言うか、こうした「体系」指向にとっては、むしろカントの倫理学の位置というのが鍵を握ってるような感じがするけど、ほんとはどうなんだかよく分からない。)

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2005年12月10日 (土)

◆朝から雪
なので、家にこもって読書の日。

・吉本隆明、大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』
大塚英志はいつもの大塚英志だが、久しぶりに見た(と言うか読んだ)吉本隆明の衰えっぷりに呆れる。「衰え」を繰り込む形で批評の言葉が成立しているどころか、これでは単なる叡智の言葉だろう。歳を取って色々あって叡智を身につける、というのは、吉本自身の言葉を借りれば単なる「自然過程」の一環にすぎないし、そうしたものとして読み継がれていくとしたら、なんだか痛ましいものがある。「ビジネス書として読まれたい」という言葉に織り込まれていた批評性が今やすっかり賞味期限切れ、というところか。

・黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』
カント力を強化すべく読了。玄人筋の評価は知らないが、「単なるシロウトの限界内の読者」にとってはなかなか興味深い内容。
A版演繹論からヘーゲル、ハイデガーへと連なる「超越論的構想力一元論」と、B版演繹論から『オプス・ポストゥムム』への「悟性一元論」。
理性(ratio)に対して下落した知性(intellectus)としての悟性(Verstand)。
それによって生じた空位(=直観的知性)を奪還するものとしての超越論的構想力(ヘーゲル)。などなど。

・西垣通『基礎情報学』
第2章まで。構えはでかく、ネタは少なめ、という辺りが、世に言う大先生の大先生たる所以か。と言うかわけわからん。(持ちネタが少ないのなら、その分きっちり議論してくれ。)それにしても、「情報」という言葉が今やこれほどまでのDQN用語として通用してたとは露知らず。どうするオレ?

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2005年12月 8日 (木)

◆本日の読み物
・荻野アンナ『アイ・ラブ安吾』
面白いのは「石川淳をめぐる神々の対話―ルキアノス風に」くらいか。と言うか、この人の場合、こういった具合にペダントリーをまぶした文章以外は、読むに値しないんではないのか。

・アンドレ・コント=スポンヴィル『幸福は絶望のうえに』
思ったよりは面白かったが、まあいいや。それにしてもリセ教育は磐石だ。恐るべし。(アルチュセールへのこだわりが今一つ分からず。)

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2005年12月 6日 (火)

◆本日の読了
・大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』
けっきょく第1章(サブカルチャー文学論・江藤淳編)が、江藤淳の「暗さ」をよく捉えていて一番面白かったような。その後はどんどん時評的な方向に話が進んでいくんだけど、何と言うか、ここにはあんまり「軋み」が見えないので…。

・粥川準二『クローン人間』
とりあえずざっと見。

・デネット『自由は進化する』
「訳者解説」を読んだだけ。デネットの受容はどんどん不幸な方向に進みつつあるような無いような。

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2005年11月10日 (木)

◆買い物
・岡谷公二『南の精神史』(新潮社、2000)
・ラッセル・バンクス『この世を離れて』(早川書房、1996)
・宮台真司『自由な新世紀・不自由なあなた』(メディアファクトリー、2000)

各100えん。
そう言えばこれも買った。

・『現代思想』2005年11月号 特集:マルチチュード

とりあえずA・ネグリ+M・ハート「マルチチュードとは何か」と、市田良彦+小倉利丸「マルチチュードとは誰か」を読んでみるものの、あまりに漠然とした内容でなんとも。

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2005年11月 8日 (火)

◆イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』

…かれらの生活条件を改善しようとするどんな政治も、おそらくかれらが自分でははっきりと表明しえないであろうニーズを代弁しなければならない。まさにこれこそが、なぜ政治はかくも危険な仕事(ビジネス)なのかという理由なのだ。変革に向けて多数を動員するには、期待水準を引き上げ、今そこにある現実の限界を跳び越えるようなニーズを創りださなければならない。ニーズを創出することはすなわち不満を創出すること、さらには幻滅をよび寄せることにほかならない。それは人生と希望をもてあそぶことに等しい。このゲームにおける危険を避けるただひとつの防御手段は、納得ずくでの同意(インフォームド・コンセント)という民主的な要件である。およそ人は、自分が代表するその当人たちが自分自身のものとしてはっきりと承認できないようなニーズを代弁する権利など有してはいないのだ。(p. 19)

人間的ニーズの理論とは、人間的善についてのある特殊な種類の言語のことなのだ。ニーズという点から人間の本性を定義することは、わたしたちが何を欠いているかという点からわたしたちは何であるかを定義すること、種としての人間に特有な空虚さと不完全さを強調することなのだ。自然の生き物として、わたしたち人間はもっぱら潜勢的(ポテンシャル)であるにすぎない。わたしたち人間の本性に内在するなにかがあって、それがあるものに対する権原をわたしたちに付与するなどということはけっしてないのだ。だが、わたしたち人間だけが自分のニーズを創りだし変容させる能力をそなえた唯一の種、そのニーズが歴史を有する唯一の種である。わたしたちがひとつの種として、そしてまた個々人として尊敬と尊厳をもとめる主張をするのもすべて、わたしたちが自分たちで創りだしてきたニーズと、そのニーズから導きだしてきた権原の言語のおかげなのである。だからこそ、ニーズ言語とは、人間的善についてのすぐれて歴史的かつ相対的な言語のことなのだ。(pp. 22-23)

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2005年11月 4日 (金)

◆買い物&読み物
・大澤真幸、町澤静夫、香山リカ『心はどこへ行こうとしているか―クロス・トーク! 社会学vs.精神医学』(マガジンハウス、1998)
・小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む―新しい女と古い男』(中公新書、1995)
・浅羽通明『ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門』(ちくま新書、2004)

ついでに小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書、2001)を立ち読みして帰る。この人に「論証」というものを期待していたのが根本的に間違いであったのだと気付く。

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2005年11月 3日 (木)

◆読み物
・小熊英二、上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究』

こんなの読んでる場合ではないんだけど、時間に迫られてヤバイ状況になってくるとついつい関係の無いものが読みたくなってしまう。これも現実逃避という形の〈癒し〉か。 それにしても小熊英二の文体はよく考えると不思議だ。

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2005年11月 2日 (水)

◆読み物@車中
・小谷野敦『もてない男』

電車の中で読むものではないと思う。

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2005年10月31日 (月)

◆買い物&読み物
・黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ、2000)

帰りにコーヒー屋で最相葉月『いのち―生命科学に言葉はあるか』を読む。
あとは某業務。

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2005年10月26日 (水)

◆読み物
・小谷野敦『評論家入門』

「自分の話」になると突然文章がメロメロで読解不可能の箇所が出現するのは、芸なのか、体質なのか。ディシプリンに裏打ちされたバランス感覚を備えているように見えながら、梅原猛へののめり方とか、何か不可解な部分が多すぎるような。

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2005年10月25日 (火)

◆読み物
・中島義道『カントの自我論』

前半(第2章まで)。
これってカントなの?、と言うか、よく分かりません。

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◆読了
・熊野純彦『メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか?』

なんかもうおなかいっぱい。

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2005年10月19日 (水)

◆買い物&立ち読み
・最相葉月『いのち―生命科学に言葉はあるか』(文春新書、2005)
とりあえず買ってみる。
中身は対談集というかインタビュー集みたいな感じ。パラパラ見てると、「白上謙一」なんていう名前も出てくる。

・中島義道『カントの自我論』(日本評論社、2004)
「まえがき」と「あとがき」を見てると買うだけで鬱になりそうなので、とりあえず立ち読みで。
超越論的統覚の話からいきなり想起の話につなげていくのはどう見ても強引すぎやしないのか。(よく知らないけど。)

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2005年10月17日 (月)

◆Jeannerod
・マーク・ジャンヌロー『大脳機械論―意志の生理学』

とりあえず第3章まで。意志や運動をめぐる解剖学・生理学史。
幾つかメモ:

①「機能」概念の刷新

反射は、中枢神経活動が最も単純に現れたものであると同時に、おそらく一見したほどは単純ではない現象である。(…)この反射の仕組の複雑さは徐々に実験者たちに認められていったが、実際このおかげで、刺激に対する単純な反射を越える機能の研究が促進された。別な見方をすれば、生理学的説明として二元論が捨てられたことが、新たな目的論を生みだす原因になったかもしれない。とにかくこの後では、個体、あるいは種に固有の因果法則に従い、いずれにせよある欲求の実現やある機能の完成を述べた法則に従って、行動自体の説明が考えられるようになる。わたしたちは日常的な意味で機能という言葉をしばしば使ってきたが、それが強い意味をもつようになったのは、確かに1870年頃である。個体は適応し生きのびるために、それが遭遇する状況に対して機能を行使するという方法で、適切な反応ができなければならない。個体は自然の仕組を知らないであろうから、このとき意志や選択は無関係である。プリューガーは1877年、生物のすべての欲求の原因は、同時にその欲求実現の原因でもあるというふうに自然は組織されているのだと主張した。
クロード・ベルナールが同じ頃(1878年)、「内環境が一定であることは、生命が自由で独立であるための条件である」と述べたときの内環境という概念もまた目的論的である。(…)このようにしてクロード・ベルナールとプリューガーはホメオスタシスを発見した。ホメオスタシスとは、生体が環境の変化を検出し、それを補償することによって、その機能を一定に保つことである。生体は自ら定める目標、それが盲目的に従うべき命令に応じて動く。反射は、「意図的に一定の目標を達成するために役だっているように見える反応」を生じさせるから、反射もまたホメオスタシスの機能ではないだろうか。その目標はといえば、それはプロチャスカが言ったように「個体の維持」である。…(pp. 63-64)

②スペンサーからジャクソンへ:行動の「進化論」

スペンサーは1855年の著作で、反射にもとづいて心理現象が構築されるとする考えを支持し、またダーウィンよりも数年前に進化論を発案する。彼の主張は二点からなる。第一に、反射はそれ自体が精神的な行為であり、心理現象は反射が集まってできたものである。第二に、頻繁に繰り返される反射から形成される本能行動は、固定されて次の世代に遺伝的に伝えられる。ダーウィンはこれらの考え方を、1871年の著作[『人間の由来』]のなかに含みのある形で採用し、行動とそれを生じさせる大脳の諸条件が、形態的性質と同じく進化圧の法則に支配される性質だとした。(…)このように、完全で複雑なように見える人間の行動は、動物の行動と本質的にではなく程度の差によって隔てられているだけであり、動物種は単純なものから複雑なものへ、下等なものから行動なものへとまさに進化してきたのだ、と考えられた。(p. 74)

ダーウィンは、反射には依存しない随意運動という特別な性質が現れる可能性を残すことによって、スペンサーとは必ずしも同じではないことを表明した。「スペンサーは、最初に現れたわずかな知能が反射行為の組み合わせと協調によって進化する、と主張する(…)。しかし私は、本能行為が固定的で自然な性質を失い、自由な意志によって成し遂げられる他の行為がそれに置き換わるのだ、ということを否定する気にはならない。」(p. 255)

スペンサーの考えをほとんど直接的に適用したものとして、ヒューリングス・ジャクソンによる運動の神経機構に関する理論がある。ジャクソンは、はじめその師である神経科医レイコックの影響を強く受けた。そのレイコック自身も、スペンサーの思想を受け継いだ人である。(p. 74)

ジャクソンは、運動をその自動性の程度に応じて分類した。たとえば、胸郭の呼吸筋という同一の筋肉でも、全く自動的な運動(呼吸)に、少し自動性の少ない運動(姿勢の維持)に、あるいはほとんど自動的ではない運動(発語)に関与する。これら、より自動的なものからより随意的なものにまでいたるいろいろなカテゴリーは、単純な中枢神経から複雑な中枢神経へ、すなわち純粋に自動的な運動をもたらす下等な中枢から自動性のほとんどない運動をもたらす高等な中枢へという、神経中枢の進化を反映している。ジャクソンが用いたスペンサー流のこの進化の表現は、個体発生的な意味にも系統発生的な意味にもとられることに注意すべきである。(p. 75)

③機械論的モデルとヒエラルキー構造モデル
・ジャクソン――神経機構の解体(進化の後退)としての神経症(=局所的な解体)と精神病(=全体的解体)。

アンリ・エーによると、神経のレベルや機能のジャクソン流のヒエラレルキーは、ある目的論的な見解を示唆している。つまり、ヒエラルキーは「計画」、「論理」であり、下位のあるいは道具的な機能は上位の機能に対して、「意味に対しての単語、目的に対しての手段のように」従属する。別の言いかたをすれば、スペンサーから、そして反射から構成されるという彼の機械論的モデルから出発したジャクソンは、徐々にそこから離れて、各部分の相互依存およびそれらの全体への依存を前提とした、より柔軟なモデルに近づいていく。ジャクソンのこの変化は、たまたま彼が機能的ヒエラルキーの頂点における精神とその神経器官の関係について述べたときに、明らかとなる。それによると、その器官は精神の道具であるがそれを成り立たせるものではなく、精神と大脳は並存する、あるいは並列である。この新二元論の態度は、シェリントンによっても同様に採用されたが、十九世紀末のイギリスで流行したものである。(p.77)

④スペンサーからパヴロフへ;シェリントンの二元論

反射の役割が心理作用の要素的単位、あるいは「心理現象のアトム」だとスペンサー流に解釈すると、客観的であるべきだという理由から、内部状態や心的内容をまともに研究できないというパヴロフのような泥沼に陥ってしまう。条件反射とは相いれないチャールズ・シェリントンの概念には、少なくともそういうものを研究できる可能性が残されている。(…)彼もまた「単純な反射」が神経機能の基本的単位だと考えたので、その出発点はセチェノフやパヴロフのものと近い。彼の見解がロシア学派と根本的に異なるのは、その神経機能の定義である。神経系の役割は生体を外環境に適応させることだ、とするスペンサーに顕著な考えとは逆に、シェリントンは神経系の役割は生体の「内部」にあって、それは行動を秩序立て組織化する作用だとしたのである。シェリントンの考えが実際のところ言外に意味するものは、環境に秩序を与えるのは神経系であって、その逆ではないということである。(p. 86)

シェリントンにとって、反射弓は確かに神経系の基本的要素ではあるが、それはこの神経系を統合作用のもとでとらえるときだけである。つまり、反射は確かに要素的反応ではあるが、それは神経統合作用のなかの要素的反応である。(…)脊髄の運動ニューロン(筋収縮を直接的に指令するニューロン)は、「運動のメロディ」とでもいうべきものが演奏されるピアノの鍵盤のようなものである。
(…)しかし、誰がこの動作を支配するのだろうか。誰が目的を選ぶのか。誰が起こりうべき結果を了解しているのか。言い換えれば、ピアノを弾くピアニストはどこにいるのだろうか。(pp. 88-89)

シェリントンの二元論は、彼にとって個人的な信念の問題となったのだが、他方では、運動のメカニズムを合理的に説明しようともした。その説明は、協調とか統合という言葉で要約される。すなわち、単純な反射は、ある目的実現のために協力する行為に統合される。また、目的は、その目的の実現に寄与するさまざまな運動要素を協調させる。さらに、大脳は下位のレベル、とくに脊髄のレベルを従属させるとした。しかし、この目的を大脳の「なかに」位置づければ、理論は完結するのだろうか。問題はすべてここにある。構造的にいえば、ジャクソンの場合と似通った型の問題だが、ここではより一層複雑である。実際、ジャクソンは行動の解剖学的なヒエラルキーや統合を考えたが、それが大脳によって決定される生物学的秩序に従うという問題は提起しなかった。(pp. 90-91)

⑤ポール・ヴァイスの「共鳴理論」とゴルトシュタイン

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2005年10月14日 (金)

◆本日の爆睡
・高橋哲哉『靖国問題』

私は歴史家ではなく、哲学者の端くれである。靖国神社がどのようなものであるかを知るためには、その歴史を知らなければならないが、本書の中心的テーマはそこにはない。靖国神社の歴史を踏まえながらも、本書では、靖国問題とはどのような問題であるのか、どのような筋道で考えていけはよいのかを論理的に明らかにすることに重点をおきたい。(p. 8)

読んでいる内に異常なほどの睡魔に襲われ、そのまま爆睡で午後のほとんどを潰してしまう。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20050604
宮崎哲弥のように口汚く罵るつもりはないが、「高橋はきわめてまっとうに、問題を根本から正しく立てている」とまで言うのもどんなもんか。
と言うか、こうした提言のあまりに臆面もない「まっとうさ」にむしろ違和感を感じるんだけどなあ。(例えば、なんとも平板な江藤淳批判)

http://book.asahi.com/review/TKY200505170251.html (野口武彦の書評)

明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析 するしかない。本書には不思議に土俗の匂いがしない。招魂社の夜店・見世物は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪し げで猥雑な活気が溢れ、アセチレン燈の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者 と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。

「土俗的な匂い」とかいった話とも根本的に違うんだよなあ。。。

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2005年10月10日 (月)

◆読書
寒い。あいにく天気も悪いし本でも読んで過ごす一日。

・サラ・ウォーターズ『荊の城』(創元推理文庫、2004)

とりあえず上巻を読了。
エロさ多めのウィルキー・コリンズという感じか。第二部になるとラクロも多めに入ってるのだった。(→下巻は吉屋信子でした。)

読書の合間に買い出し、洗濯、豚汁作り。(河原の曼珠沙華は大分まばらになっている。)

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2005年10月 7日 (金)

◆某書店にて
ちょっと立ち読みのつもりが、けっきょく最後まで読み終えてしまう。

・カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(春秋社、2005)

下らなさにあきれる。

で、罪滅ぼしにこっちを買って帰る。

・E・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』(哲学書房、2003)

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2005年10月 1日 (土)

◆本日の読み物
・マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
(だんだん話がつまらない方向に向かっていくような。。。)

・河本英夫『システムの思想』
 ・ⅳ「アフォーダンスとオートポイエーシス」(対話:佐々木正人)
 ・ⅵ「認知科学とオートポイエーシス」(対話:信原幸弘)
(よく分かりましぇん。)

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2005年9月30日 (金)

◆本日の読書
加藤周一『読書術』、読了。

「はやさ」への渇望みたいなものを不思議に思いつつ「あとがき、または三十年後」を見ると、これってもともと高校生向けの企画だったのか。
加藤周一というのは一日一冊本を読み終える超人的な人なんだと勝手に思い込んでいたが、そうでないことが分かって(94頁)ホッとしている自分がいたり。

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2005年9月29日 (木)

◆立ち読み
・山田宏一『フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社、2003)

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2005年9月28日 (水)

◆本日の読了
・武田徹『「隔離」という病い』

この人に対する違和感の根っこにあるのは、「マルチメソッド的手法」なるものなのだった。
なんか、「はー、カックン」という読後感だ。

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2005年9月26日 (月)

◆modularity
・佐々木正人『からだ:認識の原点』(東京大学出版会、1987)

いうまでもなく、感覚について現代の我々がもっとも親しんでいるのは、「縦割り」理論とでも名づけることのできる、感覚間相互の非関連性を強調する枠組みである。…

おそらくは、感覚系の解剖学、つまり生物学的なからだについての知識に由来するこの「縦割り」メタファーは、工学から認知心理学の感覚研究まできわめて広い領域をおおい、最近では認識のモジュール理論(Fodor, 1983)としてその姿を現している。「縦割り」理論は、「形態は機能を指示する」という古典的なモルフォロジー(形態学)に起源を持つ我々の暗黙の常識に依拠しており、それだけに強く感覚研究を縛っている。 (pp. 34-35)

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2005年9月23日 (金)

◆ゆとり教育
・斎藤貴男『空疎な小皇帝―「石原慎太郎」という問題』(岩波書店、2003)

教育改革の中核としての“ゆとり教育”を目指して〇二年度から導入された新学習指導要領は、小中学校の授業時間と内容をおよそ三割方削減したものである。円周率が3・14でなく“およそ3”と教えられるようになったことなどがよく知られているが、新指導要領の下書きとなる答申をめとめた文相の諮問機関・教育課程審議会で会長職にあった作家の三浦朱門氏に、筆者が直接取材して引き出した発言を紹介する。“ゆとり”で学力低下に拍車がかかるのではとの問いかけに、彼はこう語ったのだった。
「逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもいてもらえばいいんです。
平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」 (pp. 218-219)

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2005年9月19日 (月)

◆本日の読み物
・渡辺茂『認知の起源をさぐる』(岩波科学ライブラリー、1995)

(赤ずきんちゃんが「相貌失認」て。。。)

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2005年9月17日 (土)

◆読み物(1)
池上俊一『動物裁判―西欧中世・正義のコスモス』、前半。

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2005年9月16日 (金)

◆Never you MIND!
酒井邦嘉『心にいどむ認知脳科学―記憶と意識の統一論』、読了。
話短か過ぎ…。

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2005年9月15日 (木)

◆本日の立ち読み
ここしばらくチャリンコの調子が悪かったもので、近所の自転車屋のおじさんにみてもらう。チェーンが弛んでいたことが発覚(修理代500円也)。それから某書店へ。

・森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005)

第3章「近代的自己の誕生―テイラー『自己の諸源泉』を読む」を読む。
第4章「言語論的転回と人権の根拠―テイラーの言語哲学」も読む。

使えねえ…。
買わなくて良かったとです。

カッシーラー『啓蒙主義の哲学』は時間切れで見られず。

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2005年9月14日 (水)

◆読書
大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』、第Ⅰ部&補。

そしてこのような「女性」である自己を受容できない永田が、「女性性」を嫌悪する森と奇妙な共闘を結んだのが、連合赤軍事件の不可思議な構図であった。いささか自虐めいた表現にもなるのだが、それは、少女まんが的な「少女」と、いわゆる「おたく」の奇妙な共闘であり、それは永田や森たちより一世代下の私たちの男女関係の雛形のようにさえ思える。(p. 86)

ところで本書が「彼女たち」の戦後史であって「ぼくたち」の戦後史として書かれていないのは、それが「ぼくたち」の〈矮小さ〉を描き出す今のところ最善の方法だからである。「彼女たち」の文化の下位文化として「ぼくたち」の文化が存在することは避け難い事実なのであり、そこで仮構の男性原理による歴史を紡ぐ愚だけはとりあえず拒みたいと思う。(p. 319)

確かにここには、一つの精神史が破綻も無く描き出されてる。でも歴史って何だ? と言うか、大塚英志にとっては結局、歴史ってのはこういう風にしか描き出されないものなのか? (村上春樹)

だから常にぼくの関心は〈矮小〉なるものの歴史化に向けられる。取るに足らないものや事柄を切り捨てることなくその〈矮小さ〉を正しく戦後史に接木することはできないのか。なるほど、これらの取るに足らないものを正しく切り捨てた方が、崇高な、そして破綻のない歴史が描けるのかもしれない。
だが、M青年の、オウムの救い難い不毛に抗すには、彼らの〈矮小さ〉を正しく回収する歴史が必要であるとぼくは考える。それは近頃台頭しつつある日本版の歴史修正主義とでもいうべき人々による「教科書が教えない歴史」とはまた別の意味あいにおいて、未だ、教科書に書かれていない戦後史なのである。それをぼくは書いてみたいのだ。(pp. 318-319)

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2005年9月13日 (火)

◆本日の読み物
仲正昌樹『自己再想像の〈法〉』、前半。

では、「公権力」との対抗関係で主張される「自己決定権」(以下、便宜的に自己決定権Aと呼ぶことにする)と、「医師―患者」の契約関係で主張される「自己決定権」(以下、便宜的に自己決定権Bと呼ぶことにする)とはどのように繋がっているのだろうか。「インフォームド・コンセント」が充実しない主要原因を医師の側の「パターナリズム(父権的干渉主義)」に求め、それを公権力による個人の生に対するパターナリスティックな介入とのアナロジーで理解すれば、“二つの自己決定権”の繋がりは比較的簡単に“説明”できる。[…]筆者としては、そうした分かりやすい括り方によって全体像が見えやすくなる点は一応評価したいが、「パターナリスティックな権力」との対抗関係という面での同質性を強調しすぎると、自己決定権Bが直面している問題の輪郭がぼやけてしまうのではないかと考えている。(pp. 39-40)

…まとめると、自己決定権Aを拡大するためには、公権力の「法」――主に公法――を通しての介入を縮小する必要がある一方で、自己決定権Bの拡大のためにはその逆に、当事者の交渉能力に大きな差がある「医師―患者」の私的な契約関係に、公権力が「法」の整備を通して――市民的公共圏に対して可能な限り開かれた形で――むしろ積極的に介入すべき、ということになりそうである。このように定式化すると、医師のパターナリズムを国家のパターナリズムに置き換えようとしているだけではないかとの批判を受けそうだが、筆者の基本的見解では、我々が知っている近代的な医療制度の基本構造が存続する限り、国家の――パターナリスティックに見えてしまう介入は不可避である。(pp. 41-42)

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2005年9月12日 (月)

◆昨日の海馬
・池谷祐二、糸井重里『海馬―脳は疲れない』(朝日出版社、2002)

読了。もっと海馬の話が読みたかったんだけど、これはビジネス書なのだった。(売れる本にはワケがある。)糸井重里の話は基本的に疲れると思う。

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2005年9月10日 (土)

◆本日の読了
・山口祐一『人はなぜ道に迷うか』

ふつうに目が見える人であれば、自分の見たいところはなに不自由なく見えているので、視野全体がはっきり見えていると思いがちです。しかし、見えているということと、見ているということは、けっして同じではありません。見たいと思うところに視線が動き、その先には明視野があるのですから、どこでもはっきり見えているかのように思いがちなのです。目を動かしているからあらゆるところがはっきりと見えるのであって、もし目の動きを意識的に止めて、まわりの見え方に注意してみると、逆に、明視野というものの存在が分かってきます。その明視野の視軸の反対側にあるのが、網膜の中心窩で、目はその中心窩でしかはっきりと見ることができないのです。
そして、この二つ、つまり透視図と明視野とは、基本的に深くかかわりあっています。注視点を動かすと、その透視図的な構図は崩れ去ってしまうのです。(pp.136-137)

遠近法的できちんとした構図の絵を描こうと思うときは、あっちこっちに目を動かしてはならないのです。目を動かさなければまわりがよく見えません。それでは絵が描けないじゃないかと思われるかもしれませんが、まったくその通りなのです。すなわち、透視図的な構図というものは、感じることはできても、見ることはできないものなのです。ですから、ルネッサンス以前の人たちや、小学生の低学年までの児童には、遠近法の整った絵が描けなかったのです。(pp.137-138)

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2005年9月 9日 (金)

◆「プラトンは、病気だったと思います。」
『哲学者の誕生―ソクラテスをめぐる人々』前半。
人の名前がいっぱい出てくるので大変だ。

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2005年9月 5日 (月)

◆本日の思想
『思想』第8号(No. 976)「医療における意思決定」特集を今更ながらに読んでいる。

・加藤尚武「先進医療における意思決定」
・清水哲郎「医療現場における意思決定のプロセス―生死に関わる方針選択をめぐって―」
・立岩真也「他者を思う自然で私の一存の死」

ベイズ物は明日に持ち越し。

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2005年9月 2日 (金)

◆本日の読み物
・金子勝+テリー伊藤『入門バクロ経済学』
・名取春彦『インフォームド・コンセントは患者を救わない』(洋泉社、1998)

暑いので某公園へ。近くの骨董屋は取り壊されたらしい。
『インフォームド・コンセント~』の方は、腹に据えかねるあれこれの思いをぶちまけたという感じで、異常に雑然として読みにくいのだった。

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