2007年8月12日 (日)

◆そういえば
黒沢清の『LOFT』をDVDで見た。自分にとっては、黒沢清の映画(特に最近の作品)はずっと、スクリーン(あるいはテレビ画面)との間に薄い膜でも挟まっているような異物感(?)が常につきまとっていたので、それに比べるとこの作品は冒頭の見事な鏡像のシーンからスーっと引き込まれて楽しめた。これは久々の傑作なんではないかという気がするけど、何かを語らなければならないような気にさせるような仕掛けの豊富さ(その点ではむしろコミカルとも言えるほどだ)の為せる技なのかという感じもする。(しかしミイラというのはあんなに簡単に燃えるものなのか。)

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2007年5月30日 (水)

◆目が覚めると
電灯も点けっぱなしで、いつの間にかテーブルの上に寝ていたらしい。口の中にゴロゴロと異物感があるので吐き出してみると折れた歯が何本も出てくる。鏡で見ると、上の右側の前歯二本がちょうど中程から、下の前歯三本が根元からぽっきりと折れている。原因が分かろうはずもなく、このまま出かけるのも困ったものだが、まあ仕方がないか…
――という夢を(先日)見た。

そういえば、その前日の夕方、いつもとは違った路地を通っての帰り道で、小さな火事の現場にばったりと遭遇して、燃えさかる炎(とは言っても、消防車が駆けつけてもう下火になりつつある)を眺めている大人や子どもたちの輪に混じっていると、何か動物的で濃密な空気感に呑み込まれるようで段々居た堪れなくなりつつも、なかなかその場を離れることができない。

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2006年12月14日 (木)

◆PK
いつかそのうち、と思っているうちにあえなく期間は終了。まあいつものパターンというか。
とりあえず、この度は御縁がなかったということで。

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2006年9月23日 (土)

◆昨日じゃなくて一昨日の映画
・『めぐりあう時間たち』(スティーブン・ダルドリー監督、2002年)

三つの時代にわたる三人の女たちそれぞれの三つの一日(三つの「家庭」、三つのキッチン、三つの死、…)をせっかく丁寧に描き分けておきながら、終盤では、コノ話とアノ話はこんな風に繋がってました、ということから月並みな自分語りに流れていってしまうのは、とても勿体無いという感じが。これではヴァージニア・ウルフが死を選んでしまうのも当然(映画的必然?)ではないかと思えてくる。女優陣の熱演振りも、こうなると何かかえって痛々しく感じられてくるような。
(作中ではクエンティン・ベルがほとんどDQN扱いなのにはちょっと笑った。)

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2006年9月11日 (月)

◆一昨日の映画
ヴェンダースの『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)。9・11つながりということで。
映画としてはちょっと困っちゃったなという感じだが、体調が悪いせいか、微妙にヌルい(ポリティカリーにコレクトな)メッセージ性にそれなりに心地よさを覚えていたり。
こちらは比較的好意的な論評で、なるほど目の肥えた人はこうした見方をするものかと思いを新たにするものの、作中に登場する監視カメラや双眼鏡といったどこかチープなガジェットや、それらを介しての様々な映像は――「見える」ことの重層化という効果をもたらすというよりはむしろ――(最後のグラウンド・ゼロでの和解へと至る道行での車窓風景がそうであるように)「まるで映画みたいな」ものとして、この作品のメッセージ性に過不足なく収まってしまうようにも見える。

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2006年9月 1日 (金)

◆昨日の映画
『ハスミ男』、じゃなくって『ハサミ男』(池田敏春監督、2005年)。
芸達者な原作に比べると随分普通のサイコ・サスペンス風の仕上りだけど、最後のクライマックス(となるべき所)の作り方のユルさを見ると、始めからサスペンスとして作ろうという意図自体も希薄だったのかも。
で、作品の出来はともかくとして、麻生久美子&豊川悦司のコンビ(?)が――どことなく『どですかでん』の浮浪者親子のやり取りをも想わせて――妙にはまっているのがちょっと意外。(まあ豊川悦司の方は「いつも通りにトヨエツやってます」というだけとも言えるが。)やはり麻生久美子の顔というのはどうもよく分からないというか、この人の顔はひょっとしたらどんな顔にでもなってしまうんじゃないだろうかと感じること頻り。

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2006年5月17日 (水)

◆silly old fool
・『マイセン幻影』(ジョルジュ・シュルイツァー監督、1992)

気の利いた佳品ではあるけど、ネタ自体の方はこれで済ませるにはもったいないものなんじゃないかという感じもする。原作の方は読んでないのでよく分からないが。
そういえば、映画の中でも出てくるゴーレムというのは確かルドルフ二世治下の話だったよなあとか考えると、舞台のプラハというのはなんだか古のオタクの聖地のようにも――そしてこの主人公の陰影はこの都市自体の陰影のようにも――思えてくるではないか。
それにしても邦題のタイトルはもう少しどうにかならなかったのか。

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2006年3月29日 (水)

◆昨日の映画
・『キャスト・アウェイ』(ロバート・ゼメキス監督、2000)

電波中年…。

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2006年3月10日 (金)

◆昨日の映画
・『スリ』(ロベール・ブレッソン監督、1960年)

これも観るのは10年ぶりくらいか。少し前に観直した『田舎司祭の日記』はやっぱり好きにはなれなかったのに反して、こちらはやっぱり面白い。が、流麗なスリの犯行シーンを除けば、ひどくショボショボの『罪と罰』になってしまうことも否めないなあ、と。

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2006年2月18日 (土)

◆昨日の映画
・『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド監督、2004)

モーガン・フリーマンのナレーションに一方では過剰で差し出がましいものを感じつつも、その一方ではその滑らかな語りにノセられてすっかり浸っている自分もいるわけで、こんな逡巡をよそに、クリント・イーストウッドはやっぱり消え去ってゆくのだった。

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2006年1月21日 (土)

◆strangerからpreacherへ
・『ペイルライダー』(クリント・イーストウッド監督、1985年)

『荒野のストレンジャー』と重ね合わせつつ見ると、ある意味この二つの作品の方向性が真逆であることもあって、複雑な思いを禁じえない。(『荒野~』では、主演のイーストウッドの姿はしばしば青空を背景にしてやや仰角でくっきりと描き出されていたが、こちらでは衣装の褐色系の色合いのせいで周囲に溶け込みがちな中で牧師としてのカラーの白さが際立たせられる。町全体を俯瞰する光景に代わって、山並みを仰ぎ見るような構図が一貫して用いられる。新たな出発は、一方では夫婦生活の破綻によって、他方では新たな婚姻に向けての決断によって記される、等々。おそらく『ペイルライダー』に描き出されているのは『荒野のストレンジャー』のありうべき前史とでも言うべきではなかろうか。)

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2006年1月18日 (水)

◆昨日の映画鑑賞
・『アンドレイ・ルブリョフ』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1966年)
全編で三時間余り。酔眼でうつらうつら見たせいで、最後にはもう、登場人物の誰が誰やらワケワカメ状態に陥って、ぐわぁ~という俯瞰のカメラしか印象に残っていない。この長さは、タルコフスキーと映画との出会いの不幸さを物語っているんじゃなかろうか。

アンドレイ・タルコフスキー in collaboration with Nostalghia.com

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2006年1月16日 (月)

◆昨日の映画鑑賞
・『荒野のストレンジャー』(クリント・イーストウッド監督、1972年)

確か高校生くらいの時に深夜のテレビで一度見たのを覚えているから、見るのはたぶんその時以来。今更こんなことを書くのもマヌケだが、映像の水際立った鮮やかさ以上に(以前に見たときは情けないことに白黒のテレビだった気がする)、サウンドトラックの生々しさに心を動かされる。監督第二作目というから、力が入ってるのも当然か。それにしても素晴らしい。

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2005年12月23日 (金)

◆昨日の映画
・『ポロック 2人だけのアトリエ』(エド・ハリス監督、2000年)
一体誰が、エド・ハリスのお絵描きを見たいと思うだろうか。ボルヘスの教えを守らないからこういうことになる。グリーンバーグ(→この映画の中ではまるでマンガ扱い)的な純粋主義にとって、映画と絵画との混交とは云々。

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2005年10月12日 (水)

◆昼下がりの映画鑑賞
・『真珠の耳飾りの少女』(ピーター・ウェーバー監督、2002年)

泰西名画ならぬ泰西動画という感じか。ずっと見てると、だんだん画面がアニメの質感に見えてくる。
主演のスカーレット・ヨハンソンは『ロスト・イン・トランスレーション』に出てた人。そういえば、あんまりセリフを喋るのを聞いたことがない。

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◆明け方の映画鑑賞
・『緑色の部屋』(フランソワ・トリュフォー監督、1978年)

見るのは二度目のはずだけどやっぱ怖すぎ。ゾンビの映画だ。
それにしても、礼拝堂に飾られていた写真が気になるんだけど、同定できたのはプルーストとオスカー・ワイルドとヘンリー・ジェイムズくらい。

朝方からこんなもの観たせいか、はたまた単純に徹夜明けで頭ボケボケのせいか、某業務は完全に失敗。なんとかせねば。

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2005年9月28日 (水)

◆本日の映画鑑賞
・『野性の少年』(フランソワ・トリュフォー監督、1969)

アルメンドロス偉い。
それにしても、知覚の訓練から始めなければならないというのも、考えてみれば物凄い。(「レー」)

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2005年9月27日 (火)

◆昨日の映画鑑賞
・『トゥルーマン・ショー』(ピーター・ウィアー監督、1998)
おそろしくつまらない。

辻大介:『広告都市・東京』を読む

『トゥルーマン・ショー』という映画は、映画の(外部の)観客と、映画内部のテレビ番組『トゥルーマン・ショー』の視聴者を重ね合わせることで、外部と内 部をショートさせるものであった。そうした映画の外部‐内部のショートサーキットと、(映画内部の)広告によるテレビ番組の外部‐内部のショートサーキッ ト。これらを重ね合わせた二重の入れ子構造(二重にねじれたクラインの壺)こそが、近代社会の広告の見取り図にふさわしいと私は思う。しかし、本書の記述 は、あくまで映画の観客としての視点から、つまり映画の外部から淡々となされる。そして、観察者と観察対象の距離が保たれたまま本書は閉じられてしまう。 筆者は(そして読者も)あくまで外部の観客席に座りつづけたまま、最後のページをむかえるのである。そこに、広告の香具師的本能を対象化することで抑圧・ 隠蔽された学問的欲望の痕跡がありはしないか。

(見取り図にうってつけの映画なんてクズだ。)

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2005年9月15日 (木)

◆本日の映画観賞
・『右側に気をつけろ』(J.-L.ゴダール監督、1987年)

昼間からゴダールを見るのは一体いつ以来なんだろ。
でもあんまり面白くない。やっぱり音楽が弱いせいか。。。(ビョークの後にこれを続けて見たのは最悪のタイミングと言えるのかも。)

中原昌也+阿部和重+青山真治:爆裂鼎談

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◆昨日の映画鑑賞
・『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(ラース・フォン・トリアー監督、2000年)

ビョークはまりすぎ。
(目が見えねえ&タップダンス、とくれば『座頭市』だが、これだけの圧倒的な力技にはビートたけしの才気も霞んでしまう。)
(カトリーヌ・ドヌーヴの髪型は浮きすぎ。)

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2005年9月 3日 (土)

◆昨日の映画鑑賞
・『台風クラブ』(相米慎二監督、1985年)
これまた久しぶりだ。圧倒的な低気圧感でどよーんとなる。

・蓮實重彦:台風の夜の通過儀礼――追悼 相米慎二

日本映画の1980年代には、どこかしら不吉な影が落ちている。70年間にわたって日本映画を支えてきた撮影所システムが崩壊し、黒澤清のようなインディ ペンデント作家の活動を支援する若いプロデューサーもまだ出現していなかった困難な過渡期を、この時期にデビューした作家たちは、孤独に、息苦しい思いで 通過しなければならなかったのである。

だが、『翔んだカップル』から『ションベン・ライダー』へといたる相米慎二は、やがて炸裂することになる時限爆弾を仕掛けていたように思う。そこでは、あ たかも両親がこの地上からすっかり姿を消してしまったかのような世界を、少年少女があてどもなく彷徨するばかりである。そこに家庭は存在せず、いたって影 の薄い大人たちも、彼らに確かな方向を与えることはできない。『お引越し』の少女の行動も、優柔不断な両親より遙かに行動力にあふれているが、そこには、 反抗というプロセスさえ奪われた子供たちの鈍いいらだちが、抑制のきいたサスペンスとなってはりつめていたのである。それは、ある意味で、鮮血のとびちる 暴力映画より遙かに暴力的な作品だといえるかもしれない。

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2005年9月 2日 (金)

◆昨日の映画鑑賞
・『女と男のいる舗道』(1962年)

なんせ大学に入った頃に見て以来ということで、覚えていたのは、アンナ・カリーナが自分の指を差し渡して身長を測るシーンくらいなんだから呆れる。
淀川長治先生に言わせると「ゴダールのものした鏡花物」ということだが、今の人にとってはむしろ、映像の質感は「荒木経惟」に見えるんじゃなかろか。ということで、"Vivre sa vie"という実もフタもない原題とこの邦題とのギャップに暫し思いを馳せたり。
それにしても、ブリス・パランがライプニッツについて語るシーンで、セリフがよく聴き取れなかったのが残念。

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